20話 螳螂之斧

 いつの間にか空は灰色の雲に覆われて、辺りは薄暗くなっていた。加えて滝から流れる水しぶきが冷えて霧のように漂い始めていた。

 「結局お前のせいでお家騒動に巻き込まれた訳だ」

 眉間にしわを寄せながらいった。

 「俺のせいじゃねえだろ。付いて来たてめえを怨め」

 紫薇は益々しわを寄せながら持ってきたバッグから剣を取り出した。その剣に興味があるのか、赤縞は鞘の先端から持ち手までを眺めた。

 「変わった刀だな」

 「刀じゃない、西洋刀に近いがそれとは別のものだ」

 ポシェットを開けると中から権兵衛が出てきて紫薇の肩に乗った。

 「…おい、まさかその小っこいのも戦わせる気か?」

 「意外だな、動物には気をかけられるのか」

 その言葉に赤縞は怒りを露にしたが、紫薇は無視した。

 「その獣っ子、どうやら魔性を帯びておるの」

 「化け物を相手にするんだ、こっちも化け物にならないと勝ち目がない。まさか嫌とは言わないで貰いたいが」

 「構わん構わん。端から人間の童が鬼に勝てるなど毛頭も思っておらぬよ。他に隠し玉を持っているのなら使っても良いぞ」

 「随分とお優しい化け物もいたもんだな」

 「今の十傑集がどうなろうと我の知ったことではないわ。我は少しばかり血が滾るものが見たい。ただそれだけよ」

 そういうと口許を隠してくつくつと笑った。

 「さてお前の相手じゃが…。荊之介、お前が良かろう」

 「仰せのままに」

 そういうと荊之介は体を起して中心に向かった。

 紫薇と荊之介が向かい合い、お互いの目を見張る。荊之介の体は紫薇の背丈と余り変わらなかった。濡羽色の髪の毛は昔ながらの形ですらりと伸びている。赤地の袴に白い衣、一見すると巫女のような格好だが、その手に持った武器はとても神聖なものではなかった。

 『巫流 降魔の利剣 椿』

 真っ赤な光を持った刀。それは鹿之介が決死の覚悟で抜き放ったものと同じ形をしていた。

 「(いきなり全力か…)」

 その刀を見ると紫薇はじりりと足を後ろに下げた。

 「さあ、始めよ」

 巫の若君の言葉が発せられる。

 紫薇はじっと相手を見詰めた。言葉の後に荊之介が刀を持って迫った。その顔は紫薇を殺すことに微塵の躊躇いもない。だが逆に紫薇はそれに喜んだ。女を切り捨てるなど気持ちの良いものではないが、相手が化け物で、それも自分を殺めることに躊躇がなければ紫薇はこれ以上やり易い相手はいないと心の中で笑った。

 荊之介の刀が紫薇の懐に迫る直前、紫薇は肩に乗せていた権兵衛と心体を通わせた。同化しながら紫薇は鞘から剣を抜き放ち、振りかざされた刃を受け止めた。

 「ほう、これは面白い…」

 眩い光の後に周りを驚かせたのは変貌した紫薇の姿だった。

 「絵導…おめえ一体…」

 「奴は物の怪の類か?しかし邪気を感じぬ…寧ろ…」

 「我等と敵対したと言われる御仏のような気よの…。真に面白い…だが…」

 「ぐっ!」

 紫薇の腕に急激な圧力が加わった。咄嗟に両腕に力を込めるもその力は尚も強まり、今にも柄から手を離してしまいそうだった。荊之介の腕力は同化した紫薇のそれより遥かに勝っていた。

 膝を着かされると紫薇は片方の手を刀身に回して両腕の力を最大限に込めたが,

とても弾き返すなど出来なかった。たった一瞬の出来事で紫薇の額には大粒の汗が溜まってしまっていた。

 その最中だった。不意に圧し掛かっていた力がすっとなくなった。一瞬の緩急の間を縫って荊之介の肘が紫薇の頬を殴り、顔を体ごと吹き飛ばした。

 脳が揺られ、頭がぐわぐわとする中でも紫薇は宙で体を回転させて地面に降り立った。これまでの戦闘で伊達に打たれていなかったが、それでも重い痛みが頬に響いていた。紫薇は再び柄に力を込めて前を見る。すると荊之介が懐から何かを取り出しているのが紫薇の目に映った。

 刀を地面に突き刺し、追い討ちをかけるように荊之介は手裏剣を取り出して流れる手さばきで放つ。手裏剣は弧を描きながら紫薇を回り込むようにして左右から襲いかかり、一枚二枚三枚と始めの手裏剣を追尾するよう投げられていた。そして投げた手裏剣に続いて荊之介も刀を地面から抜くと、紫薇に向かって走り出した。

 紫薇は尾を伸ばして体に巻き付けるように毛を展開させ、手裏剣から身を守った。鋼で出来た手裏剣でも尾の盾には敵わず、盾となった尾に傷の一つも付けられずに弾かれていった。紫薇はほっとしながら尾の盾を解くとぎょっとした。


 紫薇の視界に赤い光が閃く。


 荊之介の右目だった。荊之介はこの一瞬で間合いを詰め、今度は刀ではなく自分の手を紫薇の首元に伸ばした。そして紫薇の両足を踵で絡め、重心を崩した所を首を掴んだまま地面に叩き付けた。紫薇の口許から唾液が飛び散った。

 荊之介の猛攻は終わらなかった。即座に片方の手で持っていた刀を両手で掴むと、刀を逆さにして切っ先を紫薇の心臓に向けた。荊之介の両足は紫薇の両腕それぞれを踏み締め、抵抗が出来ないようにしている。

 紫薇は両腕が使えないことを知ると、尾っぽに力を込めた。すると尾はその体毛を急激に伸ばし、荊之介の体を次々に突き刺していった。これには流石の荊之介も堪らずに体をうち震わせ、悲鳴を上げた。荊之介から血が伝って尾が赤く染まる。紫薇は尾を押し出して荊之介を腕から退かせた。

 安心したのも束の間、荊之介は痛みに慣れたといわんばかりに突き刺さった体を更に前進させ、体の損傷などお構いなしに刀を振り上げた。紫薇は今度は伸びた尾をもとに戻し、自由になった腕を使って刀身に光を点した。

 『ノヴェント・キグタリアス(その手は魔女のように)』

 白い光が紫薇と荊之介の間で点滅する。剣から放たれた光は遥か空まで滑空し、灰色の雲の中に消えていった。

 赤い光が紫薇から数メートル離れた場所で閃いた。荊之介は間一髪の所で直撃を免れ、後方に飛び退いていた。しかし荊之介の右腕は焼け爛れたように傷ついていて、衣は脇の辺りまで破れてしまっていた。

 「あれを避けたのか…」

 紫薇は体を起しながら目の前の事実に驚愕していた。

 「その身のこなし、敵ながら天晴れだ…」

 荊之介は痛みを我慢するかのように傷付いた手を握り締めると、指の隙間から血が流れた。

 「しかし人を食ろうて来た巫に敗北は許されない。鬼の血が垢抜けてしまったわしらなら尚更だ。…この忌々しい右目のせいで、わしの中の鬼の血は弱まってしまった。今のわしの力は先代の荊之介に及ばない」

 そういって更に手に力を込めた。

 「なればこそ、この命をかけてでも貴様の息の根を止めるのがわしの役目。怨んでくれるなよ?この里に来ることを選んだのは他でもない貴様なのだから」

 『巫流 降魔の利剣 白椿』

 血で滴っていた手を広げると掌に白い光が宿り、握り締めた頃には雪のような小太刀が現れていた。荊之介は赤い胴狸と白い小太刀を交互に構え、右足を左足の後ろに隠した。それは単純に武器が二つに増えただけではなかった。先ほどまでの相手を食ってかかるような猛々しい気迫から、まるでせせらぎのような凛とした佇まいに変わり、洗練された気配が立った。ただ静かに二本の切っ先だけが紫薇に牙を剥けている。

 当然ながら紫薇は足を動かせなかった。それほど異様な刀の構え方であり、荊之介から流れる気配は異色だった。長い刀をぴんと突き出し、短い刀を紫薇の目尻の辺りにぴたりと寄せて切っ先を自分の腕に近付けている。しかし十分な距離はあった。紫薇は迂闊に近付けまいと、距離を取ったまま再び刀身に光を点した。

 引き裂いた形を持った衝撃が荊之介に向けて放たれる。だがあろうことか荊之介は自ら前に進んで紫薇の概念に向けて歩み寄った。紫薇は何をする気だと目を凝らす。荊之介の赤い胴狸が掲げられ、切っ先が紫薇の放った概念に触れると、刀身が赤く光ってその概念が小さくなっていった。

 「なに…!?」

 紫薇は目の前で起こった光景に唖然とした。自分の放った概念が荊之介が持つ赤い刀に吸い込まれていったのだ。紫薇の概念を刀身に吸い込むと刀の赤い光は消え、代わりに小太刀は白く輝いた。そして荊之介が小太刀を振って空を切ると、

 「!?」その直前、紫薇は何かを感じ取って後方に飛びのいた。

 振れらた刃に合わせて白い光が床を切った。その光は刃と同じ姿を持ちながらもとの小太刀の刃よりもずっと肥大だった。まるで紫薇の概念を餌として膨れ上がったかのように。

 床の切れ目は紫薇の寸でのところで止まったが、いつの間にか紫薇の右胸に刃創が浅く刻まれていた。

 「斬撃を飛ばしたのか…」

 紫薇は今の攻撃のからくりを理解すると、すぐに次の一手に溜めていた奏力を止めた。

 「(考えなしに突っ込む訳にはいかないか…)」

 紫薇は悩んでいた。仮に概念を使わずに自分から近付いて切りかかったとしても、胴狸に防がれて小太刀で切られるか、或いは小太刀で払われて胴狸で切られてしまう。かといって概念を放つものなら途端に力を吸収され、相手に足をすくわれてしまう。

 「さあ、どうする?小童」

 鬼の若君がしたり顔をしながら紫薇を眺める中、意を決したように紫薇は膝に力を入れた。切っ先を下に向けつつ全速力で走り抜け、荊之介に勝負をしかけた。

 荊之介は伸ばしていた刀剣を紫薇に定め、紫薇が剣を振るうと腰に力を入れて胴狸で受け止めた。そして荊之介は紫薇の剣を受け止めながら、小太刀を紫薇に向けて振りかざす。だが紫薇は体の半分の力を緩め、重ねていた刃を滑らせながら片方の手を柄から離した。荊之介の胴狸が真横に逸れ、紫薇の剣が宙に浮く。無防備な紫薇の体に振られた小太刀が触れる直前、紫薇の尾がその刃を受け止めた。

 「!」

 研ぎ澄まされたしっぽと小太刀の刀身が触れると火花が飛んだ。人ならざる者の動きは荊之介も予想外だったのか、動揺の表情を浮かべた。その一瞬で紫薇は宙に浮いていた柄を握り、刃を荊之介の首もとに近付ける。しかしすぐさま荊之介も胴狸を紫薇に振った。

 その場にいた者は息を飲んで食い入ったように見つめていた。紫薇も荊之介もどちらも動かない。お互いの刃が体のすぐ側で止まったまま、二人は微動だにしなかった。二人の目には闘気がほとばしっていたが、荊之介だけは唇を噛んでいた。

 「天晴れじゃ…いや、誠に天晴れ!」

 かっかっかと機嫌の良さそうな鬼の若君の笑い声だけがその場に木霊し、手を叩いて余韻に浸っていた。

 「このひと時でまさか人間の童に魅せられるとは思わなんだ!確かに人間のみ相手にしていては手出し出来んよの!のう?荊之介や」

 「申し訳ございません…」

 荊之介は苦虫を嚙み潰したような顔をしながら紫薇に近付けていた刃を引っ込めた。

 「お前も武人じゃな、悪い癖ではあるがのう。今の挙動で己の負けを認めたか」

 「…何が言いたい?このまま首を切ってやっても良いんだぞ」

 武器を仕舞った荊之介に反して紫薇はまだ剣を引かなかった。

 「首を貫かれた所で我らは死にはせん。あの状況からお前を殺めることなど造作もない。じゃがその手を止められては、武人として負けを認めざるを得なかったということじゃ。まあ、気にはせんことだ。お前の勝ちは勝ち、誇って良いぞ」

 「負け惜しみを…」

 紫薇は面白くなさそうに剣を柄に仕舞ったが、まだ何か荊之介から底知れぬ力を感じ取っていたのは確かだった。その証拠に権兵衛の警戒は戦いが終わったというのに一行に緩める気配がなかった。

 「そんなことよりも次の組み合わせは誰だ?さっさと終わらせたいんだが」

 少しでも体力を節約しようと紫薇は同化を解いた。

 「次の相手は決まっておるわ。この我と…相まみえようぞ!」

 その言葉に赤縞と十傑集は驚愕した。全員が目を見開いて鬼の若君を見ながら慌てふためている。

 「お前たちの戦い振りを見て指を咥えているなど無理な話じゃ。それにこの所どうも体を動かす機会がなかった。畏まって我の相手をせよ」

 鬼の若君から溢れ出る闘気を感じ取り、紫薇が再び権兵衛と同化しようとした矢先、十傑集の一人がいつの間にか鬼の若君の隣に近付いた。それは庵之介と呼ばれた男だった。

 「若、お控えなすって下さい。巫の次期当主ともあろう者が外界の者と手合わせなど持っての他で御座います。どうかご辛抱を」

 「ふん、目付け役だけは先代と何も変わらんな。何かと辛抱、辛抱と。庵之介、貴様益々嫌みったらしい性格になって来たのう」

 「それが石楠花の役目で御座います。どうか平に…」

 「…わかった、わかった!仕方がない。どれ勇璃、体も程よく休まったであろう。次はお前の番じゃ。そうよの…理之介!お主が相手をしてやれ」

 「御意に」

 そういって理之介は体を起こし、からんからんと下駄の音を立てて歩き出した。

 紫薇は理之介を一瞥すると赤縞と擦れ違って外に出た。その際、赤縞の顔が妙に神妙な面持ちをしていたのを紫薇は不思議に思った。

 「見ものじゃな。勇璃、果たしてお前は十傑集の狂気と呼ばれる理之介に太刀打ち出来るか?鹿之介と同じやり方をしてはおっ死ぬぞ」

 赤縞と理之介が対峙する。理之介は赤縞の背丈の半分ほど高く、全身ががっちりとした肉の鎧に覆われていた。首から下げた数珠も拳ほどの大きさで、坊主というより巨人のようだった。

 「十傑集の一人、理之介と申す。司る花は水仙、無手を主とする」

 両の手を重ね合わせ、理之介は深々と頭を下げた。

 「赤縞の者よ、お主の御霊は御仏によって救われるであろう。安心して浄土に送って進ぜよう」

 「浄土だ?破戒僧がなに言ってやがる。胡散臭え演技は止めろよ」

 「ハッハッ!確かにな!」

 禿げた頭を引っぱたきながら笑ったが、どこかその瞳には慈悲に満ちた輝きがあった。

 「赤縞の、わしは一度暴れ出したら倒れるまで止まらんが良いんだな?わしは武人でもなければ僧侶でもない。ただの人殺し、鬼よ」

 「んなこと言われなくても知ってらあ…。無駄口は良いからさっさと始めろ」

 「…わかった。もう皆まで言うまい」

 そういって理之介は懐から巾着を取り出すと、その中から黒い和紙を摘み、舌を出して貼り付けた。一センチにも満たないその小さな紙を口の中に入れると、穏やかだった理之介の目は見る見る内に鋭くなっていき、腹を押さえて呻き声を上げながらうずくまった。

 相手が無防備な状態にも関わらず、赤縞は攻めに行こうとしなかった。ただ斧を握りしめながら、じっと理之介を見張っている。

 突如として熊のような叫び声が全員の鼓膜を引っ叩いた。うずくまっていた理之介が起きると、赤縞は理之介の影に隠れてしまった。いつの間にか理之介の体はもとの倍以上に膨れ上がり、袈裟ははち切れんばかりに悲鳴を上げていた。

 「はっ、笑えねえ…」

 理之介の体が再びうずくまる。途端、下駄の紐が弾け飛び、盛り上がった筋肉の塊が赤縞に跳びかかった。丸太のような両腕を左右から伸ばして逃げ場を塞ぎ、口もとから涎を垂らしながら牙を見せる。

 猛獣の強襲、赤縞はそんな事態を前にしながらも努めて気を落ち着かせ、ずしりと重い斧を握った。腰を沈めると体を横に曲げ、斧の先端を地面に置く。そして眼前から迫っている鬼に向けて咆哮しながら斧を振り上げた。

 斧が本来の目的を果たすかのように丸太を引き裂く。胴体から理之介の右腕が骨ごと切り離された。痛みが一気に全身を駆け巡り、咆哮とは違う裏返った声が理之介から漏れた。切られた箇所では骨と肉の断面が血で濡れ、てらてらと光っていた。

 赤縞と理之介の体がすれ違う。その時に赤縞は自分の切った箇所を一瞥していた。赤い円が今にも崩れそうに映っている。だが赤縞はぞっとした。急にその円が中心に向けて引き締まったのだ。そのとき、赤縞は無意識に横に跳んでいた。

 理之介の左腕が失った右腕の代わりに赤縞の体を叩いた。まるで車にはねられたように赤縞の体は宙を飛ぶ。切り離された理之介の右腕は筋肉を凝縮させて出血されていた。人体の一部が欠損しても理性のない理之介は止まらなかった。

 飛ばされた赤縞は床に叩きつけられる前に体勢を整え、辛うじて着地したものの、頭からどろりと流れた血は多かった。十傑衆の視線が赤縞に向けられる頃、理之介の追撃は始まっていた。赤縞が斧を支え棒 代わりに使おうと立ち上がろうとする。それが終わる前には理之介は赤縞の背後に移動していた。

 「がっ…!」

 理之介の隻腕が鞭のようにしなって赤縞の背中を押し叩く。始めは悲鳴を上げていた赤縞だったが、三度目の叩きで声が止んで体を痙攣させるだけになった。そうして六度目の衝撃が赤縞の体を襲い、理之介が猩々のような声を上げて握っていた拳に更に力を込めた。そして自身の筋が切れるほどの力が加わると、その拳を真下に放った。

 窮地に追い込まれようとしていた赤縞だったが、その最後の一撃が打ち付けられる直前、上半身を起こして両指を理之介の懐に目がけて突き出した。赤縞の指が理之介のろっ骨の間を突き抜けて内臓を傷つける。さしもの理性を失った理之介もこれには苦渋の声を上げ、後ろに下がって痛みにのたうち回った。

 赤縞はぼたぼたと頭や口から血を流しながらも起き上がり、理之介に近付いていった。指に無理な力がかかったのか、爪がひしゃげて真っ赤に染まっている。理之介との距離を詰める間、赤縞は曲がった爪を引きちぎって床に投げ捨てた。

 理之介がやっと痛みに耐えて立ち上がったときには赤縞との距離はもう目の前だった。理之介の拳と赤縞の拳が繰り出され、二人の手がぶつかると、手の甲から血が円を描いて飛び散った。拳で相撲を取るようにお互いの肉と骨がせめぎ合う。骨に亀裂が走る音は周りの人間が耳で聞こえるほどだった。

 「まともな戦いじゃない…。少なくとも人がやるものとは違う…」

 紫薇は拳相撲を取り合っている二人の姿を見て息を呑んだ。

 「くっくっ、これこそもののふ共の生き様よ。良い…実に良いぞ…」

 鬼の若君の腕に鳥肌が立った。と同時に頬を赤らめて舌なめずりしている。その姿を庵之介は額に大粒の汗を垂らしながら眺めていた。

 ずるずると二人の位置が後ろに下がる。押されているのは赤縞の体だった。赤縞は必死に拳や腕、腰からつま先までに力を込めたが、無情にも足裏が滑り始めていった。途中、赤縞は押し付けていた腕をもう片方の手で押さえて抵抗するも、依然として押され続ける。

 「この…腐れ坊主が…!」

 次第に赤縞の握り拳から指が離れる。理之介の拳に込められている力は赤縞の拳を壊そうとしていた。四本の指が手のひらから離れてしまうと理之介の拳は赤縞の指を越えて喉に打ち付けられてしまう。そうなれば必殺は免れられない。

 「赤縞…!」

 窮地に追い込まれている赤縞を見て紫薇は今にも飛び出しそうだった。戦闘経験を積んできた紫薇にとって今の状況はとても打破できそうになかったからだ。

 遂に赤縞の中指が手のひらから離れ、いよいよ他の指も危険が迫ったときだった。赤縞は歯を食い縛りながら腹を膨らませ、肺活量の限界まで息を吸い込むと、一瞬だけ息を止めた。そして息を吐くと同時に全身の力を抜いて脱力した。

 途端、理之介の拳が赤縞の拳を越える。巨大な拳骨が赤縞の眼前に迫った最中、赤縞の姿がぶれて理之介の拳は空を素通りした。即座に赤縞の両手が伸びた理之介の腕を掴み、拳に乗った勢いを利用して理之介の体をぐるりと一回りさせた。

 理之介の体が天地逆になった瞬間、赤縞のつま先が理之介の顔面に突き刺さる。顔面で最も神経が敏感な鼻が鈍い音と一緒に折れ曲がった。そしてその後に理之介の巨体が背中から床に打ち付けられた。

 獣の悲鳴が辺りいっぱいに木霊する。やがてその声が人の声色に戻ると、理之介の体が縮まっていった。

 「(まさか痛みで薬の効果が切れるなんて…)」

 冷静沈着な庵之介が動揺するほど目の前の光景は巫家にとって信じられないものだった。

 理之介が口にしたのは一種の麻薬だった。舌から受けた刺激は脳に作用しやすい。幻覚に近い興奮で己の体を限界まで引き上げる。それが先祖代々から続いた理之介の戦い方だった。しかしその状態が戦いの最中に解けてしまうのは滅多にないことだった。

 「まさか…儂が人間に引き戻されるとは…。赤縞の、お主は本当に人か?」

 「マジモンの鬼がいう台詞かよ…。ここまで強えとは思わなかったぜ…」

 「鬼は鬼でも儂らはまがい物だ、それこそ先代の理之介には敵わんよ」

 「…ああ、だろうな。鬼ってのは怖えよ、今日 戦ったのがお前で良かった」

 「ふふ…酷いことをいってくれる」

 「…悪ぃな、腕ぶった切っちまった」

 「構わん、切られた腕があるなら後でくっつけられるからのう」

 「やっぱおめえら化け物だぜ…」

 勝利を手に入れたものの、赤縞は今さらになって身震いした。しかしその恐怖は更に突き落とされる。巫の若君に顔を向けると赤縞はぎょっとした。巫の若君を取り巻いている闘気が余りにも醜悪なものだったからだ。目は異常に光り、半笑いを浮かべながらじっと赤縞を見ている。

 「勇璃、強うなった。強うなったの…!」

 履いていた下駄を足で放り投げ、裸足になってひたひたと歩き始めた。

 「若…」

 「五月蝿い」

 止めに入った庵之介に巫の若君は手刀を繰り出した。庵之介の首筋が僅かに切れる。血が流れると庵之介は心底狼狽した。

 「お前に血をくれてやったのは…今日という日を待ち侘びていたからじゃ。本当はお前に巫の冥利を仕込んでからと思っておったが、美味いものほど手が近うなるもの。ちと早いが味わってみるとしようかのう!」

 巫の若君が手を宙に掲げると、部屋の奥から物を倒す音が響いてそれから一本の刀が襖を破って飛び出した。その刀は巫の若君の手のひらに吸い込まれるようにして受け止められた。

 「あの刀、朝義か…!」

 露草色を帯びた鞘に、柄にはぼろぼろの布が何十にも巻かれ、その刀からは何ともいえない妖しい雰囲気が漂っていた。

 「武器を取れ、勇璃。素手ではこの暴れん坊、抑え切れぬぞ」

 鞘から刀を抜き放つと現れたのは五尺ほどの青銅の刃だった。青ざめた刀身が嫌に光を放っている。権兵衛はその刀を見ると唸り声を上げ、赤縞はその刃を見ると大急ぎで地面に落ちていた斧を拾い、狼狽しながらも巫の若君と対峙した。しかし目をどんなに尖らせても赤縞の顔は焦燥感でいっぱいだった。

 紫薇は二人から目が離せなかった。まるで魔姫やデラと対峙したかのような強い圧迫感が辺りに漂っている。その証拠に先ほどから権兵衛は最大級の警戒をして唸り声を上げていた。とても赤縞一人で敵う相手ではないと紫薇は感じていた。

 矢庭に冷たい風が赤縞と巫の若君の間を流れた。最初に動き出したのはあろうことか赤縞の方だった。巫の若君の威圧に負けじと目を強張らせ、鹿之介の時に見せた体の動作をしてみせた。

 『赤縞流 紡ぎ断ち』

 腕を撓らせて必殺の一撃を生み出す。巫の若君はじっと赤縞の姿を見たまま動かず、斧の刃が目前に迫っても微動だにせなかった。その代わりに構えていた刀を斧に向け、刃と刃が触れ合った瞬間に切っ先を明後日の方向に向けて斧の軌道をずらした。そしてもたれてしまった赤縞の背中に柄の先を叩き込み、赤縞が呻いたところを足を払って転ばせ、持っていた刀を宙に放り投げると重心の崩れた赤縞に手を伸ばす。

 「これが真の砂子投げじゃ」

 右手で頭を、左手で太股を掴んで体を回したかと思えば、その流れのまま赤縞の顎を指で引っかけて宙で何度も体を揺り動かした。まるで赤縞の体重が砂粒ほどになってしまったかのように軽々と投げられる。そして若君が舞踊をするかのようにくるりと回ると掴んでいた手を離し、戻ってきた刀を受け止めた。

 「人間を放り投げるのに力などいらぬ。技の冥利を思い知ったか?勇璃」

 地面に倒れる赤縞を見て紫薇は身震いした。余りの戦力差にまるで大人が赤子を弄んでいるように感じてしまった。

 「なんじゃ勇璃、もう終いかえ?」

 受け身も取れずに倒れ込んだ赤縞は何度も堰をして苦しんでいた。必死に体を起しても筋肉が受けた痛みで立ち上がれずにいた。そんな赤縞に容赦なく巫の若君は近付いて刀を振り上げた。

 「腕の一本でも削ぎ落とせば死ぬ気でかかって来ようか?」

 赤縞は斧を手に取ろうとしたがその前に痛みで顔をしかめ、手が止まってしまった。青銅の刃が暗闇の中で襲ってくるのが赤縞はわかっていたが、どうしようもなかった。だが赤縞は自分の目の前で金属音が響いたのがわかった。目を開けてみると、そこには白い獣の形を纏った紫薇の姿が立っていた。

 「ほう、我の太刀を受け止めるとはその剣、中々の業物よの」

 「赤縞!へばってないでさっさと立て!」

 剣に受けた力はさほどのものではなかったが、紫薇は刃を伝って受ける巫の若君の気迫に飲まれそうになっていた。

 「無粋な男じゃ、我の立会いに断りもなく入って来ようとは…。だがそれも一興、共々まとめて相手にしてくれようぞ」

 そういって巫の若君は片方の手を刀の背中に付けて紫薇を圧倒しようとするが、その前に赤縞の斧が振るわれその場から飛び退いた。

 「絵導、どういうつもりだ?」

 「お前が足掻いたところで敵う相手じゃない。なんだその体たらくは」

 「うるせえ、だったらてめえが相手しろ」

 二人はいがみ合いながらも隣同士に並び、巫の若君に顔を向けて武器を構えた。

 「不本意だが協力してやる」

 「安心しろ、てめえごとぶった切ってやんよ」

 「やっぱりお前は嫌いだ」

 紫薇は舌打ちしていった。

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