19話 二匹の鬼

 灰色の目がぎらぎらと輝いて獲物を定めた。その様子を伺っていた鬼である鹿之介はいつの間にか後ずさりしていた。手負いの獣はときに鬼よりも恐ろしい。今の鹿之介はさながら獅子を目の前にした兎だった。しかしその恐怖を体に感じる度に鹿之介は思った。自分もつくづく鬼の血を引いているのだと。恐怖が徐々に体を駆り立て始めている。やがてそれは益荒男と相まみえることを自然と欲させた。

 鹿之介は懐から一枚の和紙を取り出し、もう片方の手を添えると印を結んだ。人差し指と中指を合わせ、宙を何度も切る。

 「鹿之介の奴、呪符を使うつもりか…!」

 その紙を見るや否や理之介は声を上げた。

 「呪符?」

 聞きなれない言葉に紫薇は理之介を見た。

 「…人の念とはげに恐ろしいもの。仮に一枚の紙に有りっ丈の意思を込めれば、まして鬼の念ならばその紙には強い意志の力が宿される。言わば神通力を増幅させるものだ。巫の技は肉体の技にあらず、技の冥利なり」

 目を閉じていた死之介はその気迫に当てられて薄っすらと目を開けた。

 「二人は自分の潜在能力を限界まで引き出している…。赤縞の若君は体の構造を、鹿之介は精神の構造を無理やりに変えて…。この勝負、一瞬で終わるかもしれない…。それほどまでに二人の力は膨れ上がっている、僕らは鬼だからね…」

 紫薇はその言葉を聞いてただ固唾を呑むことしか出来なかった。

 『巫流 須佐之男』

 鹿之介が和紙に向かって念を込めると、紙は宙に浮かんで鹿之介の顔を覆った。そして両手を合わせると、紙の表面に赤い文字で天津罪という言葉が浮かび上がった。途端、和紙は紫色の火に包まれて覆っていた鹿之介の素顔を露わにする。そこには意を決した鹿之介の素顔があった。自信と闘気を漲らせながら、鹿之介は懐に閉まっていた小太刀を手に取り、そこで初めて刀を構えた。

 舞台の側には滝が轟々と音を立てており、その滝を挟むようにして赤縞と鹿之介はお互いに武器の切っ先を向けていた。滝から弾けた水滴が宙に舞う。一瞬、時が止まったまま二人の体だけがその水滴を飛ばした。

 横一線。赤縞は斧を前以上の力で振り回した。左手だけでなぎ払われた斧は咄嗟に頭を下げた鹿之介の髪の毛を僅かに切る。宙に四散した髪を他所に鹿之介は再びがら空きになった横腹に小太刀を向けた。だが赤縞は逆にその隙を狙っていたようで、空いた右手の拳を鹿之介の顔面に向けた。

 先に当たったのは赤縞の拳だった。鹿之介の横顔を歪ませ、向けられた小太刀はその軌道をずらされて致命傷にはならなかった。赤縞の薄皮一枚だけを切ると、鹿之介は十メートルほど吹き飛ばされた。

 「鹿之介!」

 十傑集のそれぞれが声を上げる。それは鹿之介が食らった損傷の大きさを表していた。しかし鹿之介は飛ばされながらも途中で膝を着いて立ち止まり、時間稼ぎに懐から手裏剣を振り投げた。

 飛んできた三枚の手裏剣を赤縞は斧で二度弾き、軌道を読んで最後の一枚を掴むと、その奪った手裏剣を投げ返した。

 赤縞が投げた手裏剣は鹿之介が投げた速度よりも遥かに速かったが、手裏剣が眼前に飛び込んできたところで鹿之介は手裏剣の中心にある穴に指を入れて軌道を止めた。人差し指を起点に手裏剣が回転している。鹿之介が指を曲げると回転は止まり、手裏剣を懐に仕舞うと、膝を立てた。

 その直前だった。鹿之介の目先に鈍色の光が煌めく。咄嗟に鹿之介は立てた膝を再び曲げて上半身を屈めた。鹿之介の後頭部からうなじを冷たい塊が横切る。赤縞が握っていた斧が振り投げられ、鹿之介の後ろにあった岩に斧の刃がめり込んだ。

 赤縞は手に持っていた斧を槍のようにして放り投げていた。その狙いが外れると、赤縞は悪態を吐いて鹿之介に走って近付いた。赤縞は無手のまま鹿之介に組み合おうと手を伸ばしたが、鹿之介に手で弾かれ胸元を切り裂かれる。切っ先の半分ほどが肉に食い込んで赤縞の右胸を流血させたが、赤縞は気にも留めずに拳を繰り出した。鹿之介は直ちに小太刀を鞘に仕舞うと赤縞の拳を受け流し、腕を掴むとその流れのまま外側から足を引っ掛けて赤縞の体のバランスを崩した。

 『巫流 砂子投げ』

 赤縞の体が宙に浮く。それから鹿之介は繰り出されていた赤縞の拳の流れに沿って体を半回転させると、そのまま赤縞を脳天から地面に叩き付けた。鈍い音と同時に赤縞が咽る。その隙に鹿之介は小太刀を引き抜いて切っ先を赤縞のへその辺りに向けて突き刺した。

 『巫流 雷神抜き』

 小太刀をぐるりと回して肉を抉り取ったが、赤縞が暴れたせいで手取りが狂い、へその隣、脇腹の辺りに風穴を開けただけになった。本来はへそを刳り貫いて中の臓器を取り出す技だった。

 「くそがっ!」

 赤縞は両足をぐるりと回して鹿之介を飛び退かせた。捻れた穴からどくどくと血が流れている。後少しでも反応が遅れていたらと思うと赤縞はぞっとした。

 鹿之介は距離を取ると小太刀の刀身を確認した。へその柔らかい部分ではなく、硬い腹部を削ってしまった為に刃が曲がってしまっていた。鞘から少しだけ刀身を出すとぐっと力を入れて補修した。

 「えげつない技だな…」

 紫薇は鹿之介の傍に落ちた肉片を見ていった。

 「暗殺とは本来、血みどろでおぞましいものだ。それ故に派生した技も必殺のものが多く、まともに受ければ命に関わる。忍は殺人に長けなければ生きてはいけぬ。巫の者ならば誰もが承知していることだ。赤縞の家とてそれは同じ。我等の祖は人殺しの真髄を極めた侍だったのだからな」

 「鬼武者…それが三家の祖の正体…」

 「胸糞悪い話だ…」

 紫薇はそういいながらも身震いしていた。殺人を極められた集団の中にいる。その事実は紫薇の背中を舌なめずりしていた。

 「どうして赤縞の技を使ってこうへんのです?」

 「…何?」

 その言葉に赤縞は虚を突かれたように動揺した。

 「一度だけ赤縞家の頭領に手解きをして頂いた時がありました。その際に体に受けた技の数々たるやそれはもう…何度も舌を巻きました。体を地面に寝そべっても相手の急所を確実に仕留める技、刀剣の柄を一瞬にして分解してしまう技もあった。もしも貴方が本当に赤縞家の後継者だとしたら…貴方を傷付けた技を完全に封じてしまうこと位できた筈でしょう。それをしないのは…否、できないのは貴方が後継者に選ばれなかったという事に他なりまへんか?」

 赤縞はじっと鹿之介の話を聞いていた。唇を噛み締めながら。

 「うちの若様が仰ってましたわ。赤縞家は十二代目でその役目を終えると…そしてこうも仰っていた。赤縞家の若君は鬼の血を持っていないと。捨て子…やそうですね、若君は」

 鹿之介がその話を言い終わったと同時に赤縞は手を出していた。今迄にない爆発的な速さで鹿之介を殴ろうとしたが、赤縞の拳が鹿之介の体に触れる直前、鹿之介の体は写真がぶれたように揺れ動いて拳は空を切った。

 『巫流 般若踊り』

 鹿之介はその場から一歩も歩かずに足捌きだけで自分の陣地に赤縞を招き入れ、更に体勢を崩したところを腕を掴んで弧を描きながら投げた。そうして倒れた所で赤縞の両腕を手で縛った。

 「誤解せんといて下さい。別に若君を馬鹿にしている訳じゃありません。寧ろ赤縞の血を持たない貴方が、ここまでの力を付けたことに関心してるんですわ」

 そういって鹿之介は赤縞のうなじを嗅いだ。

 「汗に混じってほんのりと血のにおいがしますわ。しかもこの血は巫家のもの。やはり若様は貴方に血を与えたんですね。うちは知ってるんですわ。貴方と若様の間で指を切ったことを。婿養子として巫家に嫁ぐのが条件だったほうですね」

 赤縞は倒れながらきっ、と鹿之介を睨み付けた。

 「一体何が不満なんやろか?表の舞台には出られないものの、貴方は若様の婿となって巫家の筆頭となる。地位も名誉も授かる事が出来るのに、どうして…滅びに向かっている赤縞家などよりも、今を生きる巫家を選ばないんですか?巫家のどこかいけ好かないってんです?」

 「それが気に入らねえって言ってんだ…何も知らねえ癖に赤縞を寄ってたかって蔑ろにしやがって…そういうところが嫌えなんだよ!時代遅れの残党が!」

 その言葉の後に、鈍い悲鳴が赤縞の左腕から叫び上がった。肘と肩の関節を外され、腕があらぬ方向に曲がってしまっている。赤縞はその痛みに必死に耐えようと歯を噛み締め、目を見開いた。

 「その言葉、そっくりそのままお返ししますわ」

 冷たい視線が鹿之介から放たれる。

 「赤縞は巫に劣る。仮に事実を隠蔽した史実があるとしたら、それを書き換えるのが我ら十傑集の役目や」

 そういいながらも鹿之介は縛り上げる力を更に上げ、赤縞の顔を地面に押し付けた。赤縞はいまだもがいてはいるが一行に捕縛が解けそうになかった。

 「首の代わりに腕の一本でも貰っていきましょ。鼠之介の仕返しです、恨みっこなしですよ。今ここで、事実を史実に塗り替える」

 その光景に見かねた紫薇が権兵衛に手を出そうととした最中だった。鹿之介の最後の言葉。その言葉が赤縞の耳に入ったその時だった。突如として鹿之介の口から喘ぎ声が零れた。

 全員が何事かと目を凝らすと組まれていた右腕の先、指の四本が鹿之介の腕にめり込んでいた。ずっぽりと嵌った指で赤縞は鹿之介をがっちりと掴み、寝っ転がりながら鹿之介を放り投げた。全員の視線を再び浴びながら赤縞がゆらりと立ち上がった。その背中には闘志とは違う、鬼のそれとも違う、何か深い原罪めいたどす黒い力が湧き上がっていた。

 「赤縞が…巫に劣るだと?べらべらと下らねえことばかり言いやがって…。そんなにも格の違いが見せられてえのか…てめえは…!」

 赤縞の目が鹿之介に向けられると衝撃波のような気迫が辺りを撒き散らした。

 「何だよ?この鬼迫は…これじゃまるで…」

 「かの鬼武者ではないか…」

 どす黒い剣幕に思わず十傑集は足を引いてしまっていた。

 『巫家流 乱れ影坊主』

 体勢を立て直すと鹿之介は小太刀に手を添えたまま赤縞に向かって走り出した。その体は途中、三つに分かれた影法師となって赤縞に襲い掛かり、赤縞の目前で三度の光が閃くと鹿之介の体は赤縞を通り過ぎた。そして赤縞の背中に回ると影法師は一つに纏まった。

 一瞬の間があった。木の葉がざわめいて風の音が流れると地面が赤く染まった。吐血したのは鹿之介だった。腹をぎゅっと掴んで膝を折って蹲る。

 「今、何が起こった…?」

 「お腹を殴ったんだ…それも一度に三回も…」

 困惑する理之介の隣で死之介は落ち着いていった。しかしその顔は焦燥に満ちて頬から汗を流しながらじっと赤縞を見詰めていた。

 「あの一瞬で同じ場所に三度の拳を入れおるとは…」

 その現象に驚いていたのは赤縞自身だった。狼狽する十傑集を他所に自分の右手を眺めている。そしてその余韻を感じ取るように薄ら笑いを浮かべた。その姿は邪悪そのもので、紫薇はまるで魔姫の再来のようだと慄いていた。

 赤縞の進撃はそれで終わらなかった。赤縞は受けたダメージをやっとのこと受け切り、体を反転させて自分の手を鹿之介の顔面に繰り出した。ぴんと張られた指先は宛ら刀の切っ先のように鋭く、鹿之介は背筋を震わせながらもその猛攻を避け、更に突き出される赤縞の手をかわした。だがその途中、腹部に再び痛みが戻り一間だけ気を削いでしまうと、赤縞の指先は開かれ鹿之介の顔を掴むとそのまま地面に叩き付けた。その際に赤縞は鹿之介の左腕を引き、足の片方を払っていた。

 足も腕も封じられて受身もまともに取れない鹿之介に受けた痛みは尋常ではなかった。後頭部、首、背中、腰に強い衝撃が加わり、鹿之介は余りの痛烈さに白目を向いて痛がった。

 鹿之介の悲鳴を耳にすると赤縞は笑いながら彼の体を持ち上げた。右手だけで鹿之介の顔一つで体全部を宙に浮かせ、手に思い切り力を込めて鹿之介の頭を握り潰そうとするも、咄嗟に鹿之介が小太刀を抜いて赤縞の胸部を切り裂いた為に手を離してしまった。しかし赤縞の顔は変わらず不気味な笑みを浮かべている。

 「どうした?赤縞は巫に劣るんじゃなかったのか?十傑集の長ともあろう者が無様な格好じゃねえか、ああ?」

 鹿之介と赤縞の立場はいつの間にか逆転してしまっていた。どちらも満身創痍に変わりないが、明らかに息を上げているのは鹿之介の方だった。終いには鹿之介は膝を着いて腰を落としてしまった。

 「鹿之介っ!」不意に女の子の声が響く。

 集まった視線の先には振袖に身を包んだあどけない少女が立っていた。年は十四、五歳といった所だろうか。背丈が伸びきっていない。だがその右目にはしっかりと赤い色彩を点していた。

 「倉之介…何もこんな時に来なくても…」

 鹿之介はその女の子を見ると血を吐きながら笑った。

 「あいつも十傑集か…」

 「そうだ、十傑集最後の一人にして鹿之介の女房だ」

 「最後だと?」

 紫薇は辺りを見回した。中心で倒れている鹿之介、その周りには泥之介に鮎之介、離れた所でキセルをふかしている庵之介、自分の隣に座っている理之介に死之介。そして赤縞の屋敷で眠っている鼠之介と今やって来たばかりの倉之介を足しても九人しかいなかった。

 「一人足りないように見えるが…」

 「稲之介は今…」

 「理之介…それは言っちゃ駄目…」

 「おっと!先代の悪い癖が…」

 「言い訳…無用…」

 紫薇は二人のやり取りに呆れた顔をすると、つっかえたものを残したまま視線を赤縞たちに戻した。

 「女が出て来ちゃお終いだな」

 赤縞は嘲るようにいった。

 「その通り、だからここで貴方を討ちます。うちの最後っ屁、特とご覧あれ」

 「…何?」

 鹿之介は小太刀を懐に仕舞うと両手を結んで印を組んだ。人差し指と中指だけを立たせ、拳を作ると手の平から紫色の光が溢れ、組んだ手を解いて宙で刀を抜き放つように両拳を左右に引いた。するとその光と同じ色をした帯刀が現れ、刀の柄からは千切れた布のような形の光が零れ出した。

 「何だあの刀は?」

 「あれは降魔の利剣…巫が磨き上げた技の冥利の一つ。かつて妖怪や魑魅魍魎を討ち払ったとされる霊刀だ。形を持たず、持ち手の神通力がそのまま刃に映される。本来は武器がない有事の際に練られた技だけど、今では僕らの奥の手だ」

 「いわば儂らの命を削って出来た刀、その切れ味は妖刀を凌ぐ」

 その話を聞いて紫薇は刀に込められた鬼気迫る意思の力を感じ取ると、生唾を飲んで鹿之介から目を離さないようにすることしか出来なかった。

 『巫流奥義 降魔の利剣 菖蒲』

 「代々鹿之介に伝わる利剣は菖蒲の花を司る。その香りはあらゆる性魔と瘴気を打ち払い、悪しきものを浄化する。赤縞の若君、貴方が巫に仇名すというのなら、うちらは貴方を切り捨てなきゃいけません…。それが若様の婿となる者であっても。ご覚悟召されよ」

 鹿之介は両手で柄を持ち、右足を弧を描きながら後ろに回して両腕を右肩に押し付けるように構えた。少しだけ切っ先を落とし、刀身と体が平行になるよう持つ。その姿を見ると赤縞は同じように弧を描きながら右足を後ろに回し、左手で鹿之介の姿を隠すように前に出し、右手を左手のすぐ下に寄せた。

 二人の間の空気が歪む。余りにも尖った闘気がその空間を捻じ曲げたようだった。辺りにいる者が息を飲み、次の一手に目を見張った。真上にあった木の枝が闘気に当てられると、一枚の木の葉がひらりと落ちた。そして木の葉が二人の視界に紛れたその時だった。鹿之介は呼吸を止めて足に力を入れた。赤縞との距離を一気に縮め、刀の範囲に届くその前に鹿之介は柄を振り上げた。対して赤縞はまだ微動だにせず、じっと手の甲を見詰めたまま呼吸を整えていた。

 掲げられた紫色の刀が振りかざされる。刃はしっかりと赤縞の体を捕らえていた。だが鹿之介は見てしまった。刀身が赤縞の体に触れるその直前、赤縞の後ろには同じ構えを取った老人の幻影が浮かんでいたのを。

 「(これは…天機構え…!)」

 赤縞は迫り来る刃にあろうことか自らその体を前にのめり出し、刃が体に触れる前に鹿之介が握っていた柄を右手で掴み、残った左手で鹿之介の頬に握り拳を入れた。鹿之介の頭部はぐんと後ろに曲がり、続いて体が後方に吹き飛ばされた。

 時間の止まったように全員の顔はその一瞬に釘付けになった。やがて鹿之介が地面に倒れると、金縛りが解けたように意識を戻すと倉之介は鹿之介に駆け寄った。同時にそれは勝敗を決した瞬間でもあった。

 「…どうしてその構えを知っているんです?正当後継者でもない貴方が…」

 倉之介に体を起されながらいった。刀は既に消滅した後だった。

 「確かに俺は赤縞の家紋を背負うことを許されなかった。無理を言ってジジィに教わったのも益荒男だけ。後は自分で見様見真似にやってみただけだ」

 赤縞はかつて仁衛門からきっぱりと断られたときの瞬間を思い返していた。もう決めたことなのだと、赤縞の家系はこれっきりで断つのだと物寂しげな表情をしていた仁衛門が脳裏をよぎった。

 「お前の言った通り、赤縞はジジィの代でおしめえだ」

 半ば投げやりな物言いに反して赤縞はいつの間にか拳を握っていた。その意味を知ってか知らずか、倉之介は鹿之介を胸の中に抱き寄せた。

 「…興が冷めた、止めは刺さないでやらぁ」

 そういって赤縞は二人に背中を向けてそろりと離れていった。

 「…鹿之介、大丈夫?」

 心配そうに手を差し伸べる倉之介を一瞥すると、赤縞は鼻で笑ってみせた。

 「…まるで悪役だな」

 紫薇はその一部始終を見てそう思った。

 「なんじゃ、もうお終いか?」

 一旦の静寂の後、ため息混じりに口もとから声が零れる。いつの間にか紫薇の隣には一人の大和撫子が立っていた。真っ白い生地に青や黄金の刺繍で描かれた鶴や海の衣を身に纏い、ほんのりと白粉を塗った可憐な女だった。しかしその姿に似合わない拳一つほどの大きさを持った牛のような角が頭から生え、目は山吹色に輝いてまるで妖が人に化けたかのようだった。

 「若様!」

 理之介の言葉の後に十傑集は一斉に頭を下げた。その光景はまるで四肢を支配されたかのように微動だにしなかった。傷だらけの鹿之介ですら流血しながらも体を固めてしまっている。

 「鹿之介、赤縞の天機構えに利剣はいかん。あれは刀を滅する為のものだ。神通力で対応するしかないじゃろうに。まだまだ修行が足りんのう」

 「申し訳ありません…。うちの失態です…」

 「ところで…何故にお前たちは赤縞の者と闘っておるのじゃ?」

 「それにつきましては若様…」

 「ああ…よいよい、理之介。仏国から帰って来たばかりで時差ボケが酷いのだ、お前の長ったるい話は気が揉める。…どれ」

 説明をしようとした理之介を手で制したあとに目を閉じた。すると十傑集の面々は息を飲み始める。紫薇は訳がわからず辺りに目を配った。

 「…この愚か者どもめ」

 そういうとその女は目を開いた。

 「こんな下らん理由でいざこざを起こしおって…。鹿之介、うぬはうつけか?父上にばれぬとでも思っていたのか」

 「僭越ながらこれは十傑集の失態。御身に心配をかけまいと我々だけで手を打とうと考えておりました」

 「当たり前じゃ、お前たちで何とかせいや。やはり今の十傑集は先代と比べるとどうも腑抜けているのう。死の恐怖が遠退いたせいか、それとも鬼の血を女王に奪われたせいなのか…」

 「!」

 紫薇はその言葉に耳を傾けた。

 「それにしても…久し振りだ、勇璃。最後に会ったのはお前がこんな小さくてめんこい頃だったな。砂利の頃から生意気だったが、今はそれ以上か」

 赤縞を妖艶な目で見ながら呵呵大笑する。

 「鵺のババァ…。もう帰って来やがったのか…」

 その反面、赤縞の頬には汗が伝っていた。

 「仏国の連中と小難しい駆け引きが終わったからな。今回の交渉はちと骨が折れたが、まあ落としどころを決めて置いたお陰で早く済んだのじゃ。だからこうして早々と戻ってきたという訳じゃが…留守の間に勝手の限りを尽くしてくれたな」

 「うるせえ。てめえには関係ねえんだ、引っ込んでろ」

 「ああ!変わらずうぬは子憎たらしいよのう。まあ、それが我が好いているところでもあるのじゃが…。その分だと我の婿になる気はないと見える」

 「ねえよ、てめえの女はてめえで決めんだからな。あんときの口約束はなかったことにしてくれや」

 「端から期待はしていなかったが、やはりいざ振られてみると辛いものがあるよのう…。幼少の際にはあんなにも可愛がってやったというのに…我は悲しいぞ、勇璃」

 「ほざいてろ、ババァ」

 「やれやれ、仁衛門殿もさぞ苦労していることじゃろう…」

 大げさに着物の袖で泣く振りをした。

 「して…鬼の里に見慣れぬ童がいるのう。うぬは何奴じゃ?」

 そういって紫薇に視線を向けた。

 「人間…の童が何ゆえにここにおる?勇璃の友にしては物好きもいたものじゃが、ただ好き好んで鬼の里に足を踏み入れた訳ではあるまい。何が望みじゃ?申してみよ」

 「この下々がその体に宿している赤い目について聞きたいことがある。その目をどうやって手に入れた?」

 「ほう、あの目について何か知っているようだが…。あれは我等と同じ人外のもの、下手につつけば蛇が出るやもしれんぞ?」

 「蛇ならまだ可愛いものだ。あの目はもっと恐ろしいものが潜んでいるからな」

 そういうとその女性は驚いた顔をしてにんまりと笑った。

 「…面白い、我の知らぬことを知っているようだ。ならば童よ、ここに居る十傑集を見事倒してみせよ。さすれば我が知っていることを話してやろう」

 「出来ればそんなことを抜きに教えて貰いたいもんだが」

 「それはこちらとしても面白みに欠ける。何より、鬼の里に紛れ込んだ人間の童をただで連れ出せという方が難題というもの。本来、人間は鬼の餌なのだ。それにここまで育った勇璃の実力も拝んで置きたい。さてどうする?人間の童よ。食うか食われるか、どちらかを選ぶがよい。我は寛大だぞ、二つも選択肢を用意してやっているのだからのう」

 けらけらと笑ってみせたがその笑みはどこか狂気を孕んでいた。

 紫薇はその邪悪な笑顔を見ながらここまで来たことを後悔した。やはり赤縞の好々爺を待っていた方が良かったと今さらながら後悔した。



 暗闇の中で意識がぼんやりと目覚めていくのを鼠之介は感じていた。横たわった胸には柔らかい布団が負ぶさっている。半分ほど意識が戻ると畳みのにおいがぷうんと漂った。慣れ親しんだ畳と木片のにおいを嗅ぎながら静かに深呼吸をする。そしてそのにおいの中に嗅いだことのないにおいが混じっているのを悟ると、意識は完全に目覚めて鼠之介は目をくっきりと開いて起き上がった。

 「痛ッ!」

 上半身を起こすと猛烈な痛みが鼠之介を襲った。

 「まだ安静にしていないと駄目だよ、巫の」

 鼠之介が眠っていた部屋の襖を開けて仁衛門がやって来た。

 「貴方は…十二代目ご当主…!するとここは…」

 「赤縞の屋敷だ。巫の者を目にするのは何十年ぶりだよ」

 仁衛門は鼠之介の隣に座ると手に持っていた盆を隣に置いて、湯飲みと紙に包まれた薬を差し出した。

 「これを飲みなさい。痛みが収まる」

 鼠之介は会釈すると薬を手に取って飲んだ。薬は抹茶の数倍苦かったが、訓練を施された鼠之介にとっては苦ではなかった。

 「この薬を飲んでも顔色一つ変えない所を見ると、巫の修行はさぞ大変なのものなのだろうね…。龍の奴はまだ巫を大きくしようと考えているのか?」

 「親方様のお考えは我々にはわかりません。僕はただ巫の教えを守るだけです」

 「君のような若い子が武器を取って世界で殺し合いをしているなんて…。世の中はまだ火薬の臭いから抜け出せていないらしい。いや、巫が戦に捕らわれてしまっていると言った方が正しいのか…」

 そういうと深い溜め息を吐いてしわを寄せた。

 「あの…恐縮なのですが、一つお願いがありまして…」

 「何かな?」

 「貴方のお孫様が我々から盗んだ刀を返して頂きたいのです。あれは決して世に放ってはいけないもの。巫の秘宝、『景冥琥源刀ようめいくげんとう』を」

 「やはりあの馬鹿は巫に手を出していたのか…。しかし巫の、私の馬鹿孫が盗んだのはそれではないよ。ただの段平だった」

 「そんな筈はありません!宝物庫に封印していたものを確かにそちらのお孫様が盗んだのです!」

 「鬼の秘宝を当主が手放す事は有り得ない。寧ろそれが龍義ならば尚更だ。あれは寝るときも刀を手放さなかったからね」

 「では我々も知らされていなかったと?宝物庫にあったのは偽物だった…?」

 「恐らくは」

 「…いけない!このことを知らせないと!」

 鼠之介は痛みをぐっと我慢して体を起き上がらせた。

 「きっと今ごろお孫様が巫の総本山に赴いているに違いありません。このままでは赤縞と巫の戦に発展しかねない…!それに、もうそろそろ若様が帰って来る筈…。ご当主、済みませんがこれにて僕は失礼仕ります」

 「その怪我ではまだ歩かない方が良い。無理をしてはいかんよ」

 「しかし…!」

 「安心しなさい。両者の戦などには私がさせないよ」

 「ですが、今からとなるとかなりの時間が…」

 「時間がないというなら急げば良いだけの話だ。本性を表すのは四十年ぶりのことだが…まあ、何とかなるだろう。人目が少なくなったら私の背中に掴まってくれ」

 「まさか…あのお姿に…?」

 「そろそろ孫に拳骨を食らわせてやらんとな」

 そういって仁衛門は立ち上がり、その両目を山吹色に輝かせて空を見上げた。

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