第二章

16話 猫と犬の縄張り争い

 爪先を蹴って革靴を履いた。靴が真新しい。背丈に合わせたて新調したワイシャツはぱりぱりしていて、紫薇は肩を動かして体に馴染ませた。

 「それじゃ、いってきます」

 玄関のドアを開けるとふっと温かい、以前より熱い空気が頬を打った。季節は夏を迎えようとしていた。

 鞄を羽月から受け取ると、紫薇は外に顔を向けた。いってらっしゃいという羽月の言葉に背中を押されて紫薇は通学路へと向かった。心なしか羽月の声が依然と違って少しだけ艶っぽいなと思ったが、紫薇は気にしないようにした。

 アスファルトを蹴って足を動かす。その速度は以前と段違いで、四十分はかかる時間がその半分の時間で学校に着いてしまった。ゆっくり歩いているつもりでも、強靭な足腰は否応にも紫薇の体を滑るように歩かせた。そのことに自分でも驚きながら、紫薇は何故か物足りなさを胸の中に感じていた。

 

 「…足りない」

 空になった弁当箱を見て参ったなと呟いた。

 腹の音が止まず、思い切って授業を抜け出して早弁をしてみるも、空腹はまるで収まらなかった。それ所か更にその音を上げて今では料理系統の本を読み漁ってじっと眺めてしまうほどだった。

 「これじゃマネキン女の二の舞だ…」

 意を決して本をぱたんと閉じると、不意に嗅ぎ覚えのある匂いが紫薇の鼻を突いた。濃厚なソースの匂い。机の隣には艶がかかった焼きそばパンが置かれていた。紫薇はいつの間にかそれをまじまじと見詰めてしまっていた。

 「どったの?そんなに凝視しちゃって」

 不思議そうな顔をしながら氷見村が座っていた。

 「いや、別に…何でもない」

 咄嗟に視線を反らしたが紫薇はちらちらとパンを見ていた。

 「何だい?お腹を空かせた野良猫みたいな目をしちゃって…仕方がないなあ、ほら、食べて良いからそんな目をしないでよ」

 そういって氷見村は紫薇の目の前にパンを差し出した。しかし紫薇はまるで誘惑には負けない、といったつもりで顔を背けた。

 「僕のことなら気にしないで良いよ。購買で買ったは良いんだけど、何だかお腹が痛くて食欲が湧かないんだ」

 「なんだ?腹でも下したのか?」

 「そんなところ…イテテ、何だか体の半分を吹き飛ばされたみたいに痛くてさ。勿体ないし、食べてくれるありがたいんだけど」

 「そういうことなら…」

 そういいながらも紫薇は内心、喜びながらパンにがっついた。

 「そういえば髪、伸びたよね?何だか体も一回り大きくなってない?」

 「成長期だからだろ。珍しいことじゃない」

 「成長期、ねえ…」

 「美味かった、ご馳走様」

 「お味は?」

 「まあまあだ」

 そういうと氷見村はやれやれと肩を竦めた。


 こびり付いた皿の汚れをスポンジの裏を使ってそぎ落とし、さっと円を描いてスポンジを滑らせながら磨いた。蛇口を捻って水を流しながら泡と汚れを落としていく。初めは覚束なかったのも、今では慣れた手付きでクレシェントは皿を洗っていた。

 髪の毛を一つに纏め、いっちょ前に自分の仕事に頷いている。

 「よし、終わった」

 最後のお皿の水気を切るとタオルで手を拭いた。

 「羽月さん、終わりました」

 「ありがとうございます」

 羽月は窓を磨きながら顔だけをクレシェントに向けていった。

 「後は窓拭きですよね?私も手伝います」

 羽月の傍にあったバケツから雑巾を取り出すと、窓の片方を磨き始めた。

 「すみません、何から何まで…」

 「良いんです。いつも羽月さんには色んなことをやって貰ってるし、紫薇の言った通り少しは自分で家事を出来るようにしないと」

 そういいながらごしごしと窓を磨くと光の反射で自分の顔が映った。その瞬間、クレシェントは自分の身に起きたことを思い返してしまっていた。自然と顔が曇り、手が止まってしまう。そんなクレシェントを見て羽月は心配そうに声をかけた。

 「…何かあったんですか?」

 「え?」

 「いつも元気いっぱいなクレシェントさんなのに、最近は何だか元気がないみたいで…良かったら話してくれませんか?」

 「あ…でも…」

 自分を心配してくれる羽月にこれ以上、気を使わせたくないと思ったクレシェントだったが、言葉とは裏腹に口が勝手に喋ってしまっていた。

 「実は…自分の生まれのことで少し…」

 「クレシェントさんの生まれ…ですか?」

 「私が思っていたこととだいぶ違っていたみたいで…そのことを知っている人がいるんですけど、会いにいけないんです。怖いから…これ以上、自分のことを知ってしまったら、私が私でなくなってしまうような気がして…踏ん切りが付かないんです」

 「そうだったんですか…」

 「自分のことだから、知らなきゃいけないって思うんですけど…変ですよね?ご免なさい、こんな話をしてしまって」

 「ちっとも変な話なんかじゃありません。とても大事なことです」

 そういって手に持っていた雑巾をバケツに入れた。

 「人も動物も、みんな赤ちゃんだった頃の思い出が手放せないんです。例えそれが嫌な記憶だったとしても。どうしてかわかりますか?それはその思い出が、自分の生きてきた証だからなんです」

 「生きてきた…証…」

 「それが自分を傷付けてしまうようなことであっても、その思い出があるから自分は生きている、生かされている。動物は特にそれが濃いんです。思い出が自分の生きる為の知識になって、またその思い出が次の生を作る。人間だって同じなんです」

 「でもそれが余りにも自分にとって嫌なことだったら…」

 「それでも自分を生んでくれた人たちがいなかったら私はここにはいません。私も余り良い思い出はありませんけど、それでも生きていて良かったと思っています。クレシェントさんだってそうじゃないんですか?」

 「私は…未だわからないです。でも、頑張ってみようと思います。羽月さんみたいに、生きていて良かったって思いたいから。…ありがとう」

 「私も貴女にありがとうって言いたいです。貴女が来てくれたから、紫薇くんが変わったんです。それに、貴女と知り合えて良かった」

 「私もです」

 そういうと二人は笑い合った。

 曇りがかかった窓は二人の手でぴかぴかに磨かれ、透き通る様な色合いに戻っていった。


 授業が終わって紫薇は悠々と帰り道を歩いていた。風紀委員の仕事もなければクレシェントを襲ってくる輩もいない、雨の中で決闘を申し込んでくる輩もいない。そのことに喜びを噛み締め、気分が良いので手土産でも買って帰ろうかと思っていたその矢先だった。ぞくりとした気配が紫薇の背中を舐めた。

 「…なんだ?」

 後ろの方から妙な音がした。堅い木を何度も打ったような音。その音が真後ろに来ると紫薇は咄嗟に身構えようとしたが、それよりも先にその音は紫薇の視界を通り過ぎていった。

 無造作に跳ねた焦げ茶色の髪の毛に、野良犬みたいな灰色の目。そして朱色の下駄。その人物は紫薇が着ていた制服と同じものを身に着けていた。しかしその人物からは殺気を感じなかった。

 殺気の正体は更に後ろより迫るもう一つの気配だった。その人物の足音は注意して耳を傾けなければ一行に気付かず、体を丸めるようにして走り抜けるその様は宛ら忍者のようだった。だがそれよりも紫薇の度肝を抜いたのは、その人物の黒子のような格好でもなければ抜き足でもない。その人物の右目が真っ赤に光っていたことだった。

 途端、紫薇は気が付けば走り出していた。その赤い光はかつてクレシェントがその目を変わらせたものと同じ空気を発していたからだった。平穏を崩されたことなど微塵も気にせず二人の後を追いかける。以前ならばちょっと走っただけで息が切れるものだが、今の紫薇は全速力で走っても平気だった。にも関わらず二人のスピードは気を抜けば置いてけぼりにされそうで、紫薇は動き回る二人から目を離さずに仕切りに足を動かした。

 そうして普段の通学路を抜け、自宅と反対方向の道を進み、道なりに走っていくと段々と周りの景色が古びていった。西洋風な住宅街から古風な和式の家々が並び、全体的に朱色を重んじた色合いに変わっていった。その場所に来たことはなかったが、紫薇はこの場所を知っていた。

 鬼坂町。都会的なビルが林立する夜香街と反対の場所にある町で、神社や仏教関連の家々が数多く並んでいる。元は山だったのを鬼が開拓したという伝説からその名前が付けられた。何故かその地域だけもみじが年中赤い色をしている。

 まるでタイムスリップしたような感覚に惑わされながらも紫薇は走り続けた。まだその二人に振り切られていない。ふと視界に一枚のもみじが舞い降りた。一瞬、視界が赤一色になり、元の視界に戻ると二人は煙のようにその場から消えていた。驚いた紫薇だったが、どこからか水が流れる音を耳にした。そのまま走ってみると小さな丘があってそこから滝が流れ、川が出来ていた。そこには朱色の橋がかけられ、川には三つ四つの岩が盛り上がっていた。そこにあの二人がいた。

 「あそこか…」

 紫薇は橋の真ん中に辿り着くと二人の様子を伺った。

 一人は同じ学校の男子生徒でどこかで見たような顔だった。無造作に伸びた茶色の髪に珍しい灰色の目。もう一人は時代錯誤の格好で、黒子のような衣装に身を包み、顔はその目を除いてわからなかった。ただやはり目を引いたのは片方の真っ赤な目だった。紫薇は目を凝らした。赤い瞳孔の中に太い猫のような線がくっきりと現れている。その目はクレシェントのものと同じだった。

 「しつけえな、そんなにあれを返して欲しいのかよ?」

 「当然です、あれは我が家の秘宝。命を賭してでも返して頂きます」

 岩の上に立ちながらお互いを睨み付ける。黒子の方はじりじりと滲み寄り、腰の辺りから小さな刃物を取り出した。鉄色のくないだった。鋭い切っ先が危険な光を点している。しかしその光を見ても柄の悪い学生は怯むどころか余裕の笑みを見せた。

 先に仕掛けたのは黒子の方だった。くないを握り締め、学生に食って掛かるかと思いきや、素早く懐から手裏剣を三枚放り投げた。学生は飛び掛ってくると踏んでいたのか若干動揺してしまったが、体を揺り動かす様にして手裏剣を避けた。動揺のせいか頬に掠り傷を負った。黒子はその隙に今度こそくないを持って学生の懐に飛び込んだ。一瞬にして数メートルを岩から岩に飛び移り、くないの表面を学生の足に押し付ける。しかし学生は構わず狙われた右足の膝を黒子に向けて押した。刃は学生の足を切り裂いたがその切り口は異常に浅く、まるで大木に切り込みを入れただけのようだった。それに代わって学生の膝は黒子の顔面を強打した。

 「…惜しい」

 いつの間にか紫薇は二人の戦いを傍観してしまっていた。

 黒子は寸での所で体を揺らして膝の一撃を擦れ擦れで避けていた。

 「(何て硬い筋肉…!まるで空木の様…)」

 しかしその一瞬の分析が黒子にとって命取りだった。学生は獅子のような雄叫びを上げながら拳を金槌のように振り回し、黒子の目尻に打ち当てた。凄まじい怪力だった。黒子はその場所から宙を滑空して吹き飛ばされた。だが滑空しながらも体を反転させ、川底に叩き付けられる前に体勢を戻すと、更に懐から手裏剣を取り出した。くないを仕舞い、両手に五枚ずつ並べると一斉に解き放った。様々な軌道を描きながら十枚の手裏剣が学生に向かって襲い掛かる。

 学生はその手裏剣を見ると鼻で笑った。そして次の瞬間、学生が身を屈めたかと思いきや学生の体は宙に飛び上がった。立っていた岩の表面には無数の亀裂があって、その中心は足の形に凹んでいた。十枚の手裏剣が空を切る。学生はその遥か上にいた。常人では考えられないほどの跳躍力だった。そして宙で一回転すると上空から踵を一気に振り落とした。一瞬にして学生の体は地面に下向し、振りかざされた踵は岩を爆発させたかのように吹き飛ばした。

 「…くっ!」

 飛沫は丘の上まで舞い上がり、紫薇は思わず身を屈めてしまった。

 その飛沫を突き破って黒子が這い出た。余りの衝撃に体の内部に受けた損傷が辛いのか動きがかなり落ちていた。目の片方が閉じられそこから血を流している。

 「赤縞の若君がこれ程だなんて…!一旦引いて体勢を立て直すしか…」

 そういいかけた途端だった。黒子の傍にぴったりと学生が張り付いて嫌な笑みを浮かべた。

 「獲物を逃がす訳ねえだろ」

 黒子は驚きながらもくないを取り出して振り払ったが、学生はその腕を両手で絡め取る様に打つと、くないは黒子の手からすっぽりと飛んでいった。その瞬間、学生は更に邪悪な光を目に点した。その際、紫薇は学生の体からこの世界とは異なるものを感じ取ったような気がした。

 引っ叩いた手でそのまま黒子の腕を握り締め、間接と逆の方向に捻りまわした。その手を読んでいたのか黒子はそれに反対の力を入れた。だがその動作を待っていたかのように学生は元の間接の方向に手早く回すと、がっちりと腕を締め上げた。そして黒子がそれに反発している間に足を引っ掛けて一瞬だけ黒子の体を宙に浮かび上がらせると、ぐるりと腕を中心に黒子の体を空中で投げ回して川底に叩き付けた。その際に握っていた腕は嫌な音を立ててあらぬ方向に折れ曲がった。

 「なんて奴だ…」

 余りの痛みに黒子は悲鳴を上げたが、その学生は嬉しそうに小さな笑い声を上げながら折れた腕を更に曲げた。その光景に紫薇は息を飲んでしまった。黒子は痛みに負け、目をぐるりと上に向けると顔を水の中に沈めた。学生はそれを見るとつまらなそうに鼻で笑い、握っていた腕を投げた。ふとその学生は黒子の懐に紙切れが挟まっているのを見付け、取り出して中を開いてみた。手紙だったのかその内容を目で流した途端、学生の顔はみるみる内に険悪なものに変わり、その手紙を握り潰すと黒子に視線を向け、右腕に力を入れて拳を作って止めを刺しにかかった。

 「…ちっ!」

 紫薇は学生がその拳を振り下ろす前に橋から飛び降りた。そこで初めて学生は紫薇の存在に気付いたのか、手を止めて紫薇に顔を向けた。

 「見せモンじゃねえんだ、すっこんでろ絵導」

 「お前に用はないんだよ。俺はその時代遅れの忍者に用がある」

 紫薇は自分の名前を知られていることに驚いた。

 「何でてめえが巫家の奴に用があんだよ?」

 「巫家?ナーガとは違うのか?だがあれは…」

 「なにぶつぶつ呟いてんだ?」

 「お前には関係のないことだ、引っ込んでろ」

 「あ?」

 そういいながら二人は睨み合った。何故か紫薇は先程からこの学生とは馬が合わなかった。言動の一つ一つが気にいらない。それは相手も同じようだった。

 「兎に角そいつを引き上げろ。このままだと本当に死ぬぞ」

 「その必要はねえよ。こいつ等は殺したって死なねえような連中だ」

 「仮に死なれでもしたら俺が困るんだ。お前がやらないなら俺がやる。退け」

 赤縞を押し退けて黒子を起き上がらせようとすると学生は足を黒子の頭に押し付けた。沸点の低い紫薇もこれには苛立った。何より踏み付けた衝撃で川の泥が顔と新品の制服に着いて汚れてしまった。

 「前々から思ってたんだがよ…気に入らねえんだよなあ、てめえ…」

 「はっきり言って俺もそうだ。何故かは知らないが、お前が気に入らないね」

 紫薇は腕で学生の脚を払い除け、自分の足で黒子の顔を川から出すと立ち上がってその学生の面を睨んだ。野良猫と野良犬の喧嘩が今正に始まろうとしていた。お互いの胸倉を掴み合い、牙を剥き出しにしてこめかみに力を入れる。動物界でもお馴染みの威嚇が始まった。唸り声を上げて自分の強さを見せ付ける。

 先に出鼻をくじかれたのはその学生だった。目線を下げて悔しそうに舌打ちすると掴んでいた手を離した。それに釣られて紫薇も手を緩めた。しかし紫薇は腑に落ちなかった。学生の様子が可笑しい。睨み合いに負けたというよりかはまるで何かを失敗して悔やんでいるような顔をしている。その理由はいつの間にか橋の上に立っていた人物だった。

 紫薇は背中に誰かの気配を感じ取ったと思いきや、その気配はすぐ傍に降り立った。茶色い和服に身を包んだはげた頭の老人が黒子の傍に身を屈めている。顔はしわくちゃで光った頭と頬に大きな染みがあった。老体は黒子を岩の表面に寝かせると、学生を睨み付けた。

 「何故に巫家の者が倒れている?勇璃」

 学生は顔を向けずに鼻で笑って川の下流へと走っていってしまった。その背中を見ると老人は深い溜め息を吐いた。

 「あの馬鹿め…今度は何をしでかしおった…」

 「あの…」

 やっと話が通じる相手が見付かったと紫薇は喜び声をかけた。紫薇はあれから少しずつ知らない人に声をかけることが出来るようになっていた。

 「ん?おお、これは私の孫がとんだ失礼を…申し訳ない」

 「いや…失礼だなんて…それより、この人を手当てしないと…」

 「その通りですな。お手数ですが、手を貸して貰えますか?」

 紫薇はこくりと頷いてその老体と一緒に黒子を運んだ。

 やっとの思いで川から黒子を引きずり出し、紫薇は黒子を背負うとその老体に導かれて鬼坂町を歩いていった。地面はアスファルトから敷き詰められた小石に変わり、じゃりじゃりと音を立てて歩いた。その内に老人の足が止まり、目の前に朱色の門が現れた。その門は古びていたが、厳かでとても立派なものだった。

 「さて、ここまでで結構です。重かったでしょう」

 「それなんですが、出来れば最後まで看取りたいんですが」

 「はて?その理由とは?」

 「この忍者と少し話をしたいんです。実は訳があって…」

 「わかりました。では手当てが終わりましたら、私が知っていることをお話しましょう。私共の家はこの人物の家系と深い関わりを持っているので」

 紫薇はそのことに驚かされながらもやっと核心を掴めたのではないかと緊張した。

 門を抜けた先には真っ赤な朱色に染まった風車が所狭しと並んでいた。からからと音を立てて、大小様々な風車がその屋敷を彩っている。だが何故か紫薇はそこに一握の虚しさを感じた。屋敷は古い形式のもので、博物館に来たような錯覚がした。

 中へと進み縁側で靴を脱いで屋敷の中に入った。中は古い旅館の様で、歩く度にぎしぎしと音が立った。紫薇は屋敷の一室に黒子を寝かせると接間のような場所で待たされた。文化遺産のような場所で老人を待っている間に紫薇はふと思ったことがあった。これ程までに広い屋敷なのに人の気配がしない。もしかしたらあの学生と老人だけが暮らしているのかと思っていると、部屋の障子が静かに開かれた。

 湯飲みが乗った盆を手にして老人が入ってきた。

 「いやはや、お待たせして申し訳ない。粗茶ですがどうぞ」

 「ありがとうございます」

 紫薇は一礼して湯飲みを受け取った。紫薇は緑茶を飲むのが初めてだったがその香ばしい匂いに誘われて一口啜った。苦味の後に仄かな甘みがあった。

 「美味しい」

 「かたじけない」

 老人は嬉しそうに笑った。

 「さて…先ずは自己紹介から。私は赤縞家十二代目当主赤縞 仁衛門と申します。この度は孫の勇璃がとんだご迷惑をおかけしました。勇璃に代わり、謝らせて頂きます。とんだご無礼を致しました」

 そういって深々と頭を下げた。

 「いえ、こちらにも非がありますから。それより失礼を承知で伺いますが、先ほどの巫家と深い関わりを持っていた、というのは?」

 「私共はもとは一つの家系でした。しかし家元の意見の違いから一家は三つに分散し、同じ血を持ちながらそれぞれ独立していきました。今この現在に至るまで三つの家は袂を分かっているのです」

 「その対立が具現化してきたと?」

 「いや、それは有り得ません。袂を分かち、争いを続けたのはもう何十年も前のことでして、今はお互いに不可侵の条約を取り決めた筈なのですが…私の孫が何か良からぬことをしでかしたのかもしれません」

 「それを理由に巫家の人間が手を回したかもしれないんですね?」

 「その通りです。もう彼等の顔を何年も見ていませんでしたから…今回の件に彼方を巻き込む訳にはいきません。どうぞ早い内に家にお帰りなって下さい」

 「それが…そうしたいのは山々なんですが…どうもこの一件に見過ごせないものを見付けてしまって…」

 「何か訳がおありなので?」

 「少し失礼な物言いなのですが…巫家の方は、本当に人間ですか?」

 その一言を口にすると赤縞の好々爺は目を見張った。

 「…どういう、意味でしょう?」

 「右目に、人ならざるものの気配を感じました。いや、もっと深く突き詰めるのなら、巫家も赤縞家もどちらも人知を越えたもののように感じたんです」

 「…どうやら彼方もそれに近いものをお持ちのようですな」

 深い溜め息を吐いた後にいった。

 「これも何かの縁、この年寄りの話を聞いて頂きたい。お察しの通り、私共は人ではありません。この体に脈々と流れているのは鬼の血なのです」

 「鬼?」

 「事の起源は戦国時代。表の歴史には登場しない鬼の祖、幻史郎と呼ばれた一人の侍が私共の家元を立ち上げたと言われています。一族はその人外の力を戦に用いて後に傭兵集団として暗躍しましたが、戦が終われば兵など無用の存在。役目のなくなった一族の未来には三つの意見が出ました。更なる戦を求めて遠い国に依存するか、または刀から鍬に持ち替えて自然に身を委ねるか、或いはこの国と密接な関係を築いて生き長らえるか、そのどれかになったのです。しかし未来を一つに絞ることは出来ず、結局一族は三つに分かれてしまいました」

 老人は湯飲みを一口啜った。

 「武士から農民へとその道を変えたのが、我々赤縞の一族なのです。人と交わっていった赤縞の鬼の血は徐々に薄まっていきました。しかしやはりこの体の奥底には鬼の力が眠り、ふとした拍子にその本能に飲み込まれてしまう。そこで赤縞の一族はその血の流れを止めることを決めたのです。私も当主を名乗っていますが、私の代で赤縞は滅びるでしょう。しかし巫家は私共とは違った生き方を選んだ家元です。どうやら我々の知らない所で、巫家の人間は何かことを始めていたに違いありません。彼方の見た赤い目も、きっとその産物でしょう。手当てをする際に、私もその目を拝見しました」

 「…その目は、とても危険な力を点しています。俺はその正体を突きとめる為にあの黒子と話がしたいんです」

 「わかりました。こちらとしても巫家のことを調べてみましょう。目が覚めた時にはいの一番で連絡をしますので」

 「ありがとうございます」

 紫薇は鞄の中からメモを取り出すと電話番号を書いて老人に渡した。

 「珍しいお名前ですな。紫薇…百日紅の別名とは」

 「余り良い名前とは思いませんが…兎に角、宜しくお願いします」

 紫薇は一人で屋敷の外に出た。見送りをするといった赤縞の好々爺の申し出を丁寧に断り、紫薇は足早に門に向かった。空はオレンジ色から紺色に近付いてすっかり普段の帰宅時間から遅れてしまった。丁度その門を潜り抜けようとした時だった。機嫌の悪そうな顔をした赤縞と鉢合わせた。

 「邪魔をした」

 紫薇はそれだけ呟いて赤縞の横を通り過ぎたが、当の赤縞は何もいわなかった。

 「ふん、気に入らねえ」

 赤縞は紫薇の姿が見えなくなるとけっと呟いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る