15話 琥珀色の月

 紫薇の意識はじっと暗闇の中に浮かんでいた。時折、誰かに体を持ち上げられる感覚がしたと思えばつーんとした臭いが鼻を突いたりした。そして柔らかい寝床に横たわらされると紫薇の意識はより一層深い場所に落とされ、傍にいた権兵衛の気配もなくなるほど深い深い眠りに着いた。そうしてその眠っていた意識が徐々に浮かび上がって来るとふと誰かの視線がじっと紫薇に向けられているのがわかった。

 貸切の病室の中、クレシェントはベッドに寝そべった紫薇の顔をじっと見詰めていた。その目は切なげで、まるで償いの日を待ちかねている囚人のようだった。そんなクレシェントの視線に気付くと紫薇は徐に声を上げた。

 「…じっと見るなよ、眠れるものも眠れない」

 紫薇が薄っすらと目を空けて睨むと、クレシェントは普段 笑って返したものだが、今は申し訳なさそうに目を細めるしか出来なかった。

 「…ご免なさい」乾いた声だった。

 「死に損なったのがそんなにも不服か?」

 今度は目をはっきりと開けてクレシェントの顔を見た。図星だったのかクレシェントは目を反らして答えた。

 「死にたいのなら自分で喉元を引っ掻きでもすれば良い。俺に擦り付けるな」

 「そんな事じゃ死ねないから、貴方に殺して欲しかったのよ…もうこれ以上、私のせいで誰かを傷付けるのなら、それが良かれと思ったのに…それを貴方は…」

 「お前如きじゃ誰も死にやしない。見ろ、お前に三度も殺されかけたのにこうして生きている。尤も体はぼろぼろだがな。見てみろよ、包帯で隠れているが肩の半分がなくなってるんだ。お前が食い千切ったからな」

 「…ご免なさい」また乾いた声だった。

 「体なんてとうの昔から傷だらけだ。肩の一部がなくなったって構いやしない。ただな、はっきり言ってやるよ。…俺はお前が嫌いだ」

 その言葉を耳にするとクレシェントはまじまじと紫薇の顔を見た。

 「感傷的で浅ましい、その癖に人のプライベートにずいずいと侵入して身勝手な言葉を残していく。はた迷惑だ、お前なんて」

 そして紫薇はクレシェントの胸倉を掴んだ。

 「そのお前が、死にたいだと?こっちは死ぬことよりも、ずっと苦しいことをやらかされて来たんだ!お前が良かれと思って出て行った為にな!」

 「だってあの時は…あの時はああするしか貴方を守れなかったじゃない!」

 初めてそこで乾いた声は精気の篭った声に変わった。

 「そもそもそれが間違いだ!誰がお前に守って欲しいだなんて頼んだんだ!お前の勝手な考えだろうが!」

 「それは…」

 「自意識過剰もいい加減にしろ…お前のお守りなんざいらないんだよ…!」

 「力もないただの子供に言われたくない!何も出来ない癖に!だから貴方は外に走って逃げているんでしょう!?現実を直視したくないから!」

 クレシェントはその言葉をいい終えた後にはぼろぼろと泣いていた。まるで自分にいい聞かせるようにじっと唇を噛んでいる。

 「私だって出来ることなら外の世界に出てみたい。めいっぱい生きてみたい。でも無理なの…私には箱庭がお似合いだわ…貴方を守ろうとしたのも、きっとそんな自分が嫌だったから。貴方に触れてみれば外の空気を感じれると思ったから…」

 紫薇はその言葉に仕切りに耳を傾けていた。ただ直向に。しかしそのことをクレシェントが知る訳もなく、皮肉めいた溜め息を吐いた。

 「でももう良いわ…貴方の言った通り、私は迷惑をかけ過ぎた。この世界に来れたのも偶然だったのね、きっとそう。…帰るわ、私のあるべき場所に」

 クレシェントは掴まれた紫薇の腕を振り払うと座っていた椅子から立ち上がり、紫薇に向かって背中を向けた。

 「礼は言わないわ。嫌いな女にありがとうって言われても良い気持ちじゃないでしょうから」

 そうしてドアノブに手を伸ばすと徐に紫薇はいった。

 「…それでも俺は、お前に感謝してる」

 その瞬間、ぴたりとクレシェントの体が止まった。

 「感謝って…何だってそんな…」

 「お前が俺を殺そうとした時から。はた迷惑でも、この体を食い千切ったとしてもお前には頭が上がらない。何故かわかるか?身勝手なお前に、身勝手な人間の心を植え付けられたからだ。我ながらどうかしてる。泣いたり笑ったり、今みたいに怒鳴ったりなんて昔じゃ考えられなかった。お前のお陰だ、クレシェント。醜い姿の、か弱い女のお前がそうさせたんだよ」

 クレシェントは頬から大粒の涙がこぼれた。ぎゅっと手を握っている。

 「そんな奴が誰を殺す?ありたい様であれば良い、お前が望むことをすれば良い。言えよ、お前は何がしたいんだ」

 「私は…」

 躊躇いがちにクレシェントは紫薇に向けて顔を向けた。その顔は既に泣きじゃくってぼろぼろの、醜くか弱い姿の化け物そのものだった。

 「…ここにいたい。皆と一緒にいたい。外の世界で、めいっぱい生きてみたい」

 「ならそれで良いだろう。やりたいことをして何が悪い。お前はもう自由の身なんだろ」

 いつの間にかクレシェントはその場から駆け出して紫薇の足元にしがみ付いて泣き出していた。まるで何か救いに縋るかの様に凭れかかるとわんわんと声を上げ、腹の底から泣き声を曝け出した。紫薇はそんなクレシェントを黙って見守ってやり、そしてやっと自分に課した約束を守れたとほっと溜め息を吐いた。


 薄暗い部屋の中、赤い椅子に二人の男が肩を並べて座っていた。一人は煙草をふかし、もう一人はただじっと目の前に置かれた琥珀色に浮かぶグラスの氷を見詰めている。不意にグラスに入っていた氷が音を立てるとその内の一人が口火を切った。

 「…気分はどうだよ?大将」

 「最悪だ」

 吐き捨てる様にデラが口ずさむとウェルディはそうかと笑った。再び氷がからんと転がるとデラは初めてそのグラスに口を付けた。ごくりと喉を鳴らす。

 「不味い」

 「それが向こうの酒の味だよ、バーボンってんだ」

 「ナーガの酒の方が繊細な味だ」

 「あんなもん酒じゃねえよ。ただ甘ったるいだけだ、特にお前のはな。腐った花の蜜なんざ今のお前にゃ必要ねえよ。よく苦味を味わっとけ」

 「お前に言われずともな。だが今は…この糞不味い味に酔い痴れよう」

 そういって残ったウィスキーを一気に飲み干した。

 「上物だってのに浮かばれねえな…」


 それから紫薇が目を覚ましたのは三日後のことだった。殆どの体の部位は悲鳴を上げてとても立ち上がれる様な状態ではなかった。それはジブラルもプランジェも同じで三人とも病室のベッドから抜け出せず、三日の間は天井を見続けて染みの数を暗記してしまう程だった。ジブラルが運ばれた際に前回の事情を知っていた人間が彼女を紐で縛り付けたのはいうまでもなかった。窓もジブラルの部屋だけ鉄格子に変わらされていた。

 「…よっと」

 紫薇はやっとのこと松葉杖を使ってベッドから這い上がり、ドアを開けて廊下に出た。新鮮な空気を少しでも肺に入れようとしたが、体中の傷が喚いて堪らず傍にあったベンチに腰かけてしまった。

 「未だ動き回るには早いと思うぞ、紫薇。もっと療養をせねばな」

 包帯だらけのプランジェが困った顔をして前に立った。

 「入院着を着てるお前に言われてもな。それに原因はお前の後ろに立っている女のせいだ。献身的な看病をお願いしたいね」

 「…だからこうして身の回りのものを届けに来ているんでしょ」

 プランジェの隣にはクレシェントがいた。悔しそうに紫薇を睨みながらも手にはしっかりと生活用品が入った袋を握っていた。

 「ご苦労」ふっと嫌な笑みを浮かべた。

 「くっ…(人の気も知らないで…)」

 「おい紫薇、余り図に乗るとジブラルに頼んでまたあの場所で扱いてやるぞ」

 「そのジブラルは隣の部屋で化け物みたいないびきをかいて寝てる。いつになったら目を覚ますんだ?」

 「医者の話だと一番の重症らしいからな。その分、覚醒も遅いのだろう」

 その話をするとクレシェントはばつが悪そうに視線を反らした。

 「まあ、あれだけデカい声を出してれば死ぬことはないだろう。目が覚めたらさっさと退院するぞ。入院費も馬鹿にならないんだ。お前の豆粒みたいなアルバイト代だけじゃ賄えないからな」

 「豆粒って…眠いのに頑張って仕事してるのにぃ…」

 クレシェントはこの三日の間だけ朝から晩までアルバイトのかけもちをして紫薇たちの入院費を稼いでいた。朝はコンビニ、昼は定食屋での看板娘、夜は居酒屋で声を仕切りに上げていた。

 「申し訳ございませんクレシェント様…この様な無様な格好でなければ私がせっせと働いたものを…クレシェント様になんというお姿を…」

 「良いのよプランジェ、私だって居候の身なんだから少しは働かないと」

 「その年で働けるか」

 「貴様はどうなのだ!?学生の癖に授業をサボりおって、少しは教壇に立つ先生方に申し訳ないと思わないのか!?」

 「また小言が始まった…姑かお前は」

 「やかましい!」

 「何だかこの光景も久し振りね…」

 クレシェントは苦笑いしながらもどこか嬉しそうにしていた。

 「病院ではお静かにって言葉もお前らには意味がなさそうだな。馬耳東風だなあ…ええ?おい。お前も旦那がいないのに子持ちになっちまって…」

 その二人の姿を見て呆れた顔をしながらウェルディがやって来ていた。

 「あんたは…」

 「いつぞや…って時間も大して経ってねえが、あん時は世話になったな」

 「炎獄の魔皇帝…貴様、何をしにきた?」

 咄嗟にプランジェはクレシェントの前に立ちはだかった。

 「お前、俺を知ってんのか?」

 「知らぬ者などいないだろう。第ゼルア級犯罪者の面なのだからな。何の用だ?まさかクレシェント様を未だ付け狙っているのではあるまいな?」

 「んな訳ねえだろ。俺はただちょいと様子を見に来ただけだよ。あの馬鹿の、デラの代わりにな。そういう訳だからそういきり立つなよ、ちっこいの」

 「ち…ちっこい…」

 ウェルディはふっと笑うと廊下の窓を開けてポケットの中から煙草を取り出すと火を点けた。しかしその光景を一人の看護師に睨まれると、渋々火を消してポケットの中に戻した。

 「はーっ…この国は喫煙者に厳しいねえ…」

 「常識でものを言ってくれ。病人の前で煙草の煙をふかす奴はいないだろう」

 「手厳しいお言葉だな。確か紫薇って言ったか?」

 「ああ」

 「…悪かったな」

 紫薇の顔をじっと見ると徐に口にした。

 「何がだ?」

 「お前がそんな姿になるまで表に出て来なかった事だよ。はっきり言うとな、お前が俺の店に来た時からこうなるって事はわかってたんだ。お前さん、クレシェントの顔を見た時からな」

 今度はクレシェントの顔に目を向けた。

 「…私を?」

 「あんたはどこまで知っているんだ?いや、そもそも何故デラはクレシェントを付け狙った?その理由を知っているのか?」

 「ああ、知ってるぜ。だが全てを知っている訳じゃねえ。それに俺にだって口にしたくないこともある」

 「貴様…ここまで来て出し惜しみを…」

 「待ってプランジェ…あの、ウェルディ」

 「何だ?」

 「私は…私は一体何なんですか?あの人は私が女王だったと言っていた…なら私の本性はヴィシェネアルクだったと言うんですか?あの人は私に何をさせようとしていたの!?」

 「…済まねえがそれは俺の口からは話せねえんだ。あいつにも、気が狂っちまうほどの出来事ってのがあったんだよ。勿論、奴を正当化するつもりはねえ。ただ一つだけ知って置いて貰いたいのは、デラはお前をもう二度と付け狙ったりはしないってことだ。事実、奴はこの世界には来れない」

 その言葉を口にするとクレシェントは黙って俯いてしまった。

 「妖精のかけらを使わないからか?」

 「オイ、その言葉をどこで知ったんだ?滅多な事を口にするもんじゃねえぞ。ってまあ…ここはナーガじゃないから特に気にしても仕方がねえのか」

 「それほどナーガじゃ妖精は重い意味を示しているらしいな」

 「この世界にとっては神に匹敵するものだからな。それに関連するものだ、余り口に出さない方が良い」

 「クレシェントの件は兎も角、その妖精のかけら…その事なら喋っても問題はないんだろう?」

 「俺のは受け入りだがな、聞きたいのなら話してやるよ。妖精のかけらとはその名前の通り、かつて石と化してしまった妖精の体の破片のことだ。妖精の存在自体、ナーガでは伝説として語り継がれ、今ではそれを本気で信じている奴は稀だ。妖精教を除いてはだが」

 「妖精教?」

 「ナーガにも宗教というものはあるのだ。この世界にとって神というものが全知万能の存在であるならば、ナーガの住人にとって妖精こそが正にそれだ。ティルシェンシス地方と呼ばれる場所ではその地を聖地に仕立て上げ、妖精の名を奉っている。ただ妖精自体、超越力のイコンと言われ、ただの伝説だと唱える者もいる」

 「そういうこった。しかし、その仮説を裏付けるものがナーガには蔓延っているのさ。それが…」

 「妖精のかけらか…」

 「ああ、だがその存在は口伝だけに収まり、実在するかどうかわからないせいで禁忌の力として恐れられる様になった。それはやがて実態のない恐怖へと変わり、妖精のかけらを手にした者は不幸になるとまで呼ばれる様になった。妖精狩り、なんて事があった時代もあったそうだぜ?」

 「そんな…」クレシェントは自分の脇腹を咄嗟に抑えた。

 「実態のない恐怖は理性を歪ませる。強ち否定は出来ないさ」

 「言ってくれるじゃないの。だがその通りだ。妖精のかけらを持った者はその殆どが周りの人間によって幼い内に命を落としている。俺やデラみたいなのは稀なのさ。ま、一人とんでもない奴もいるが。そして不思議な事に妖精のかけらは宿主が死ぬとその体から消えてしまうらしい。まるでその体が妖精のかけらに拒絶されたかの様にな」

 「適合していなかったと?」

 「実際はわからねえけどな。妖精のかけらに選ばれた者はそのかけらに秘められた力と、同時に異世界へと渡る鍵を齎される。しかしその先に待っている世界は天国か、はたまた地獄か…」

 「やはり白銀世界の先にある場所は指定できないのか?」

 「ああ、聞いた話じゃその世界に通ずるもの、記憶やものがなけりゃ扉を潜れねえんだと。俺もデラと喧嘩した後にナーガに嫌気がさしてな、どこか別の世界で生きようと扉を開けた訳だ。着いた先がここだったのには後になって驚いたがな」

 「…デラがこの世界に来れなかったのはそれが原因だったのか。だがソフィの合い鍵はこの世界に繋がっていた。ならどうして奴は…」

 「さあなあ、そればっかりは奴さんに聞いてくれや。後のこたあ、飯でも食いに来てくれりゃ話してやるよ。じゃあな」

 そういって背中を向けると帰り際に手を振っていった。

 「…末恐ろしい隣人が出来たもんだな」

 「炎獄の魔皇帝…噂には聞いていたがあんな男だったとは…」

 「でも…とても強い奏力だった。私よりもずっと…」

 今頃になってウェルディの実力を肌で感じたのかいつの間にかクレシェントの手は震え出していた。

 「さて…突拍子もない話を聞いていたら頭が痛くなってきた。俺はまた休む」

 「そうね。プランジェ、貴方も横になりなさい。未だ本調子じゃないんだから」

 「はい、そうさせて頂きます」

 そうしてそれぞれは自分の病室に帰っていった。クレシェントはプランジェの体を拭いてやる為に残り、紫薇はそのままベッドに潜ると夜まで眠りに着いた。


 満月の光が窓から照らされる中、ジブラルはひっそりと目を覚ますと静かに入院着を脱いで傍の戸棚に仕舞ってあった自分の洋服に手を伸ばした。

 「…もう出かけるのね」

 急なクレシェントの声にも驚かずにジブラルは背中を向けたまま服を着替えた。

 「貴女に、一言だけ言って置きたくて…その、助けてくれてありがとう。貴女がいなかったら、きっと私はここにはいれなかったと思う。だから…」

 「勘違いも程ほどにしてくれる?」

 ジブラルはクレシェントに顔を向けた。クレシェントの顔は月光に照らされていたが、ジブラルの素顔は闇に包まれた様に暗んでいた。その闇の中に青い瞳が妖しく光る。

 「別にあなたの為に戦った訳じゃないわ。私はあなたと違って本当の意味でゼルア級の称号を手にしているのよ。壊乱の魔姫にならなければ、アレイド級にも及ばない未完成な女の様に生きていける筈がないじゃない」

 クレシェントはその言葉を聴いて戸惑ってしまった。未完成という言葉に何らかしらのコンプレックスを抱いてしまっていた。

 「ゼルア級は比類のない無欠の称号。私はそこに誇りを感じているわ。生きている意味をね。だから私はあなたの様にゼルア級でありながら、その矜持を忘れてしまっているあなたを許さない。その中身のない頭に入れて置きなさい。あなたを殺すのはこの私、徹底的に嫐ってあげるわ。その時が来るまで、精々その力を磨いて置くことね。壊乱の魔姫になった所で、私は殺せないわよ?」

 その言葉に殺気が込められるとクレシェントはその銀色の目に狂気を映し、ジブラルを睨み付けた。二人の女王がその力をちらつかせる。

 「わかったわ。貴女に礼は必要ないってことね」

 「その通りよ。おつむはまともそうで安心したわ。…紫薇とおちびさんには適当に言って置いて頂戴。それじゃクレシェント、また会う時を楽しみにしているわ」

 そういって青い鍵を取り出すと扉を出現させ、白銀世界の中へと入っていった。

 クレシェントは彼女の姿が見えなくなるとどこか寂しげな顔をして俯いた。

 「それでも…貴女にありがとうって言いたかったのよ…ジブラル…」


 観客のいない劇場に真っ白いピアノがひっそりと佇んでいる。その傍にはそのピアノと同じ色をした髪の男が、女のような細い指を流してバロック調の音色を奏でていた。一心不乱に盤を叩いているその姿は神々しくもどこか危険な香りを孕んでいた。徐に劇場の扉が開かれると、そこにヒールの音が響いた。その音はゆっくりと最前列から五段目の列、通路から八番目の椅子に腰かけた。そこに観客はいない。しかしその場所には既に一人の男がピアノの演奏者の音にうっとりと耳を傾けていた。長い銀色の髪の毛。彼の瞳は同じ様に銀色に輝いていた。

 ヒールを履いた人間が彼の隣に腰を下ろす。その人物は赤い目に、赤い唇をしていた。中性的な顔立ちでたわわに実った乳房としなやかな体、しかし声質は低い男性的なものだった。

 「素晴らしい音色ね、脳みそが溶けそう」

 「チケットは、買ったのかね?」

 ぶっきら棒にそういうと男はくまの出来た顔を向けた。

 「特別なお客様にはいらないのさ。それにこの世界にそんなものないよ」

 「なら静かに聴いてい給え」

 その男は顔を戻すと肘を着いて音色に耳を傾けた。

 「随分とご機嫌が斜めだね。未だ六人のお姫様は眠りから覚めないのかい?」

 「…顔と体を整形してやった時に脳髄も弄ってやれば良かったかね?」

 「おお、恐い…」

 くつくつと笑うと銀髪の男は短い溜め息を吐いた。男の隣にはそれぞれ違った色のドレスを着た西洋人形が六体座っていた。生きた質感のない人形の目はじっとピアノに向いている。しかし人形の持つ銀色の髪の毛は驚くほど艶に満ちていた。

 「テテノワールから受け継いだ情報は膨大だ。解析には時間がかかる」

 「しかしそうのんびりとやっている訳にもいかないね。彼、時間を跳び越えてしまったから…それがどういう結果を齎すのかわからないまま」

 そういうと男はキジュベドを一瞥した。

 「残りの猶予は四年…いや、三年といった所かな?人類の絶対的な外敵は時間である。それが貴方の言い分でしたね、セレスティン」

 「私にとって今の外敵は君だ」

 じっとキジュベドの目を見ながらセレスティンは出て行けと顎で入り口を指すと、キジュベドは肩を竦めて席から立ち上がった。

 「…何があっても間に合わせるさ。その為に私はここにいる」

 「それでこそ僕も八番目の月を探しに行けるというものです」

 キジュベドはそう口にするセレスティンの背中を見ると口許を緩ませながら入り口に向かっていった。

 セレスティンは半身の人物の演奏を聞きながらぽつりと呟いた。

 「もうすぐだ…もうすぐお前に会えるよ…私だけのフランシーヌ…」

 その言葉の後にピアノの演奏が最後を締め括った。最大の感情を込めて体を揺らす。そして男の両目が開かれると、黄金の光が飛び散った汗の雫を通して輝いた。男の腹部から下半身はなく、椅子に上半身だけが乗っている。黄金の瞳はまるでこの世の全てを覗いているかのような妖しい光を持っていた。そして男は不適な笑みを浮かべた。

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