13話 溶けた蛹

 「再戦の申し込みは立会人を一人だけ置いて、自分の鞘を相手に放り投げる。そうして抜き身になった切っ先を相手の心臓に向けて突き付けて。もし相手が了承したら、鞘を拾って突き付けた抜き身の中に鞘を入れてくれるわ」

 ジブラルは実際に紫薇の剣を使ってやってみせながら言った。

 「もし相手が了承しなかったらどうなる?」

 「その時は鞘を蹴っ飛ばされるわね」

 「随分と手酷い断り方だな」

 「仕方ないのよ。ナーガでの決闘って言うのはそれほど重い儀式の一つで、自らの誇りと命を賭けた正式な殺し合いだから。鞘を蹴っ飛ばされるってことは今はその気はないって意味だから、別に失礼なことじゃないのよ。でも決闘を申し込まれた人間はいつか必ずその果し合いを受け止めなきゃいけない。子供の頃に冗談で決闘を申し込んでしまって、よぼよぼになってからやり合ったって話もあるぐらいだから。まあ、今じゃ誰もやらないけど」

 「しかし何故お前がそんなことを知っている。正式な作法を知っているのは上流貴族か王族だけの筈だが。まさかそういった関連の血筋でも…ないだろう?」

 プランジェのその一言にジブラルは一瞬だけ目を細めるとまさか、と言って笑って見せた。

 「メディストアから教わったのよ。あのババア、昔は地位の高い剣士だったんですって。今じゃただの呑んだくれのババァの癖にね」

 「…話だけなら卒倒しそうな内容だな」

 「兎に角、あのランドリアなら先ず鞘を蹴飛ばすことはないわ。一騎打に持ち込んで、その鍛えた力を見せ付けてやりなさい」

 「…勝率は泣きたいほど低いがな」

 紫薇はそう言って肩を竦めた。


 白い床に真っ黒な鞘が転がっている。その傍には黒い甲冑を着たランドリアの姿があって、目をその鞘に向けていた。そしてその鞘に向けて体を伸ばす。紫薇とプランジェは決闘を申し受けたと息を飲んだが、ランドリアが取った行動はその鞘を踏ん付け、向こうに蹴飛ばした。

 「去れ、今の貴様が私と対等だと思うな」

 そういって背中を向けて紫薇の前から離れた。

 プランジェは焦った。このまま指を咥えているのなら決闘など無視して切り付けてやろうと。しかし今のプランジェの体ではランドリアに対抗するなど無理な話だった。それでもプランジェはナイフを手にすると、膝に力を入れてその場から駆け出そうとした。

 その矢先、プランジェよりも先に動いたのは紫薇だった。ランドリアの背中に向けて切りかかる。その挙動にランドリアは視線を向け、体を反転させると黒い鎌を具現化して紫薇の一撃を受け止めた。同時に紫薇の刃に込められた力が以前とは比べ物にならないほど重くなっていることにランドリアは驚いていた。

 「武器を出したって事は、決闘を受ける気になったのか?」

 鍔迫り合いに力を込めながら口許を緩ませた。

 「それ程までにあの女を助けたいか?」

 「そこまで乗り気じゃないさ。帰れるものなら帰りたいね」

 しかし剣に込められた力は余りにも必死で、この短期間でこれ程までの筋力を付けるには並大抵の努力ではないとランドリアは知っていた。しかしそれを否定するかのようにランドリアは紫薇の体を押し返した。

 「…くっ!」

 何度も足を後ろに動かされ、やっと体を止められたのはランドリアとの距離が数メートルほど離された時だった。紫薇は改めて二人の実力差を思い知らされた。

 「良いだろう」

 そういってランドリアは転がっていた鞘の元に赴いて拾い上げ、ゆっくりと紫薇に近付いていった。そして困惑しながらも切っ先を向ける紫薇の剣に鞘を収めた。決闘は両者の承諾を得たのだ。

 「その申し出、受けてやろう」

 初めてそこでランドリアの殺気が紫薇を襲った。全身から噴き出す汗。喉は鳴り、視線を紫薇はランドリアから離せなかった。しかし紫薇はやっとここまでこじつけたと内心笑っていたが、突き付けられた力量の差に焦りを感じていた。


 火花が交錯する。また一つその光が生まれては消えて、至る場所でその生死を繰り返していた。鈍い音を立てて、時には金属音を弾かせて更にその光は連続で生まれると床や壁を陥没させた。光の中には醜い腕と黒い槍が交わり、その持ち主である二人は牙を剥き出しにして相手をこれでもかと力を込めていた。

 『グラノイド・シュベール(囁いた情婦の吐息)』

 床に降り立つと瞬時にその手から妖艶な光を繰り出した。光は今正に床に降り立ったエバーラルの背中に向けて走り出し、彼がその光に目を向けた時には既に光は爆発する直前だった。

 エバーラルは鼻で笑いながらその光を持っていた槍で薙ぎ払った。半回転する体に槍が呼応して光を弾いた。振り払われた光は壁にまで到達すると淡い色を出して爆発した。その間にジブラルは既に次の一手、二手を繰り出していた。

 『グラノイド・シュベール・デルフォーゼン(口に痣が残るまで)』

 エバーラルの真上と真下には紫色の靄が現れた。その靄は中に白い光や赤や青、まるで銀河を描いた様な色彩を持っていて、中心に向かって渦を描いていた。その広さは天井の半分、床の半分を飲み込んだ。そしてそれらが徐々にその間を近付いて空間を押し潰していった。逃げ場を追い詰められたエバーラルにジブラルは更に追い討ちをかけた。

 『ディアレイズ・グラノイド・シュベール(七度目の接吻は濃密に)』

 靄と靄の隙間に七つの球体が浮かび上がった。炎を封じ込めた球体は隙間に所狭しと並べられ、その球体たちを支配するかの様にジブラルの左手が掲げられている。そして左手に力を込めてぎゅっと拳を作ろうとした最中、急にジブラルは胸に鈍い痛みを感じた。その一瞬、二つの概念が呼応するかの様にぶれた。

 「(こんな時に…クレシェントの馬鹿が…!)」

 デラに刻み付けられた傷は治っても、心臓を掠めてしまった傷跡は未だ再生していなかった。ジブラルは思い切りクレシェントを殴りたい気持ちに駆られた。

 その隙をエバーラルは見逃さなかった。先ず始めに宙を漂っていた七つの球体に向けてそれと同じ数の槍を彼の前に縦に浮かばせた。

 『ジェファーリス・パリアーダ(澄んだ悲鳴は残響がない)』

 槍は雷に包まれた様に青い光を点すと一斉に球体に向けて飛んでいった。回転しながらその速度を上げて球体を巻き込みながら貫いていった。そして七つの球体を消滅させると今度は上下の靄に向けて上に四本、下に三本が突き刺さると靄の進行は急激に弱まった。

 ジブラルははっと我に返ると靄に向けて手を掲げ、その力を強めたがエバーラルは既に持っていた槍に過剰なまでの奏力を注ぎ込んでいた。そして槍を床に突き刺すと床は丸い光を帯びてジブラルの目を晦ませた。

 『スベニオン・マルグ・パリアーダ(淑女の悲鳴は時に天を泣かせ)』

 青碧の光が床一面に広がり、靄を天井ごと押し上げて遥か空まで上昇していった。圧巻の光景をジブラルは目の当たりにした。幾ら心臓が傷付いて弱っていてもここまで自分の概念を打ち消されたとなれば彼女の自尊心はぼろぼろだった。光が収まるとその中には中腰になって槍を床に突き刺しているエバーラルの姿があった。

 「ゼルア級と言ってもその胸に傷を負っていては本来の力が出せないか?それとも…これがお前の限界だというなら興醒めだが」

 槍を引き抜いて立ち上がった。

 「第一械節の実力が伊達ではないことはわかったわ。でもね、ここまで虚仮にされては私の名が汚れるのよ。それだけは絶対に許せない!」

 ジブラルは自分に付けられた忌み名に対して強い依存性を持っていた。それは自分にとってその名前だけが自己を存在せしめるものだったからだった。同時に避けがたいものでもあったが、今のジブラルにはそれを否定するだけの存在意義を持っていなかった。だからこそ今も尚、心臓が悲鳴を上げていてもジブラルは戦おうとするのだった。その身が朽ちる時、その時がやっと自分にとって自由になれる日であり、同時に自分の存在が消えてしまう日だった。それと似た思いを抱いていたのは、紛れもないクレシェントであり、ジブラルがクレシェントに近付いた理由だった。

 「お前の首をぶら下げれば協会は尻尾を振って褒美を寄越すだろう。その為にも今ここでお前の心臓を貫いてやらねばな」

 「手癖の悪い男が!私に触れるな!」

 ジブラルは右腕を唸らせるとエバーラルに向けて駆け出した。再び空中に火花が散る。やがてその火花は天井を失った空へと駆け上り、更に上昇を続けた。

 空中で槍は横に払われた。二人の足元は既に光を点して空に浮かんでいる。ジブラルはその槍を右手で受け止め、自分の方に引っ張ると一緒に付いて来たエバーラルに向けて左手を掲げる。手の平から青い小さな光が炸裂し、彼の右肩に拳大の穴を空けた。ジブラルはにやりと笑みをこぼしたが、エバーラルは穴など気にも留めず彼女の腹部に目がけて拳を突き出した。

 ジブラルは寸での所で後方にずれて勢いを弱めたがその痛みに吐き気を催し、嗚咽を漏らしている間にエバーラルは槍から手を離して彼女の右腕を両手で抱え込むと、そのまま下に向けて振り投げた。

 空を切りながら落下するジブラルの体。咽ながらもやっと気を落ち着かせ、床との距離を目で追った。距離は数十メートルで、若干の余裕があった。しかしジブラルが目線を前に戻すと、エバーラルは彼女に向けて概念を撃ち出そうとしていた。

 『エナヴァージュ・パリアーダ(その囀りは黙らない)』

 エバーラルの掲げられた手の平には幾つもの槍の切っ先が集まった塊がぴったりと張り付いていた。そしてその塊から一本、槍が射出されると続々とそれに続いて後の槍がジブラルに向けて飛び出していった。

 槍の雨がジブラルに向かって降り注ぐ。空を覆い尽くしてしまうかの様な黒い雨がジブラルの視界に広がった。床に激突する直前、ジブラルは左手から奏力を放出して勢いを殺すと床に降り立ち、すぐに辺りを走り回った。顔は上に向けず、肌を敏感にさせて落ちて来る槍をすれすれでかわす事に努めた。避け切れない槍は床に突き刺さった槍を引き抜いて投擲し、軌道をずらしたり刺さった槍の表面を滑る様にして手を伝って体を捻らせて次々と槍の雨を回避していった。

 エバーラルはいつまでも当たらない槍に苛立ちを覚えていた。床に突き刺さった槍は床いっぱいにまで溢れ、ジブラルの姿を目視できない程だった。エバーラルは最後に有りっ丈の槍を射出させ、槍の塊を消滅させると一本の槍を取り出して、その槍に奏力を込めた。

 『ロプスキヌ・イドル・パリアーダ(愛人の断末魔は蕩ける様に)』

 凝縮された奏力は槍の表面を真っ赤に滾らせ、まるで火を点した様に光っていった。その槍を右手で握り締め、投擲する体勢を取った。標的は床の中心。狙いなどは必要なかった。槍に埋もれたジブラルを根こそぎ葬る力を持った槍は、その切っ先を床に向けていた。そして右肩に力を入れ、勝利の確信を夢見たその時、密集していた槍を跳ね除けて青い軌跡が空に向かって飛び出した。その軌跡はエバーラルが注意を向けるより早く、また槍が投擲される遥か前に空に現れ、醜い右腕を振り払ったジブラルが彼の視界に映った。

 ジブラルは体中に切り傷を負っていたが致命傷となるものはなかった。その目に強い輝きを持って落下するエバーラルを見下している。しかし彼の手にはまだ槍が握られたままで、口から血を流し床に激突する前に彼は最後の力を振り絞って槍を空に向かって投擲した。

 「最後っ屁にしてはお粗末ね、エバーラル。最後に…その身を散らせながら目にしなさい。蒼昊の悪女、この忌み名の由来を」

 ジブラルの左手には強い奏力が握られていた。青い、まるで青空の支配権を奪ったかの様な光だった。左手を下に掲げ、飛来する矮小な槍に向けてジブラルは処女の庭園から自らの心のかけら、概念を呼び起こした。

 『バレオン・メターディア・シュベール(楽園の誰もが跪いて)』

 夜空に蒼昊が広がった。深い純真な青空の光が彼女の手の平から撃ち放たれた。闇夜に煌いた邪悪な青空。その空の支配権を持ったただ一人の悪女。ジブラル・リーン・マコット。それが蒼昊の悪女の由来だった。

 真下に向かって光は降下し、それに対して赤い色をした槍は空の力を感じ取るとその体を肥大化させ、捻れを持って青空とぶつかり合った。槍の持ち主の体が床から突き出ていた槍に貫かれてもその力は収まらず、更に強い奏力を持って青空を否定しようとしていた。

 天と地との狭間で赤と青の光が拮抗する。眩い光はやがて触れるものを消滅させる醜悪な光となってその力を押し出し、押され合っていた。それに伴ってジブラルの心臓が暴れ出す。痛みと共に青い光は徐々に空に戻され、彼女の顔は悲痛な叫びを上げた。地に落ちていたエバーラルの顔に笑みが浮かぶ。

 ジブラルはその痛みに必死に歯を食い縛って右手を元に戻すと、今度は両手を使って青い光を押し出した。悲鳴に近い叫び声を荒げる。そしてエバーラルの笑みがそれを堺に消えると一気に青空は赤い断末魔を消滅させ、地に向けて進行するとそのまま辺りを飲み込んでいった。辺りは何もかも青空に吸収され、その忌み名の通り青空を支配した彼女を除いて塵と化した。

 「小娘だってね、時に魔性と化すのよ」

 床に降り立ったジブラルは灰燼と帰したその広間を背にした。胸は未だ痛むのか左手で胸を抑えたまま紫薇たちの後を追った。


 クリーム色の切っ先には濡羽色の鎧に身を包んだ赤い髪の毛の男が立っている。その男は手に長さが人の丈ほどの大鎌を持っていた。二人の距離は歩数でいって三十六歩。その間には目に見えない闘志がぶつかり合い、極めて濃厚な空気を醸し出していた。自然とプランジェが喉を鳴らす。立会人として紫薇とランドリアの行く末を見守るだけの彼女だったが、まるでこれから自分が剣を交えるかのような錯覚を抱いていた。

 黒い目と鳶色の目が互いを見詰め合う。緊張の一瞬は随分と長い時間のようにも感じられ、二人の闘志が頂点に達するまで立会人はじっと待っていた。紫薇はその立会人に教わった通りに腰を落とし、腕と背中の力で柄を握った。踏み込む際には倒れる様に前に出て、跳ぶイメージをしながら走り出す。そして初めの一手、自分から駆け出す際の構えは切っ先を落として下から切り上げる風にする。紫薇は何度もその言葉を頭の中で反芻した。


 二人の目に光が瞬く。


 イメージ通りに紫薇は膝を曲げ、相手に向かって一直線に駆け出した。その速度は自分でも驚く位に好調で、ランドリアを中心に辺りの景色が線一色に変わった。足を何度も動かして即座に距離を詰めると紫薇は握っていた柄を、剣を斜め右から左上に切り上げた。

 初めの一手は上出来だった。が、その単純な軌道を読み取られ、ランドリアは右足を半歩ずらして紫薇の初手をかわした。二人の目が交錯する。ランドリアは下ろしていた鎌を引き上げた。紫薇の腹部が鎌の内側に引き込まれる。咄嗟に紫薇は振り上げた両手を胸に戻して刃から身を守った。鎌の刃は鍔の真下に食い込み、紫薇の人差し指の表面を抉った。

 妙な格好の鍔迫り合いが始まったがすぐに紫薇の体は飛ばされた。ランドリアは気にせず鎌を引き上げ、紫薇の体ごと剣を投げ飛ばした。柄から紫薇の指は離れていない。鎌の刃が食い込んでいた柄の表面から離れると紫薇の体も鎌から離れていった。

 紫薇は腰を落として勢いを殺し、自分の足に向けていた視線を前に戻す。すると目の前には距離を詰めに来たランドリアが映し出された。鎌の外側の刃を当てる様に腕を背中に回して一気に振り回す。鎌は剣の刀身にぶつかって甲高い音を立てたが紫薇の手元からは決して離れなかった。ぐっと力を込めたままで抉れた指から大量の血が流れている。そのまま二度、三度と鎌を振り回した。その時々に鎌の持ち手を回して常に刃を外側に向けた。

 一度目は単に鎌の一撃を受け止めただけだったが、二度目からは刃の表面を滑らせる様にして受け流し、三度目には受け流しながらランドリアの懐まで詰め寄り、胴に一閃を叩き込んだ。しかし剣の刃は鎧の表面を削るだけで致命傷には至らなかった。それを考慮していたのかランドリアは目線で追っていながらも対処しなかった。二人の体が再び離れる。そこを紫薇は狙っていた。

 体を即座に回転させてランドリアの背中を切り下ろす。その挙動は予想が付いていたのかランドリアは足を前に出して擦れ擦れの所で避けた。紫薇はこのチャンスを逃してはなるまいと、右腕に力を込めて肩を張ると切っ先をランドリアの背中に向けて突き付けた。

 またしてもランドリアは寸での所で体を回転させ、その勢いに乗せて鎌の刃で切っ先を払った。しかし彼の背中には小さな穴が空いていて、ほんの少しずつだが紫薇の挙動がランドリアに追い付いて来ている証拠になっていた。

 勢いに乗ったまま紫薇は剣を何度も振り回した。今度はしっかりと基礎を積んで、正確に剣の勢いに振り回されない様に腰を落としながら。映画の様な剣戟が何度も繰り広げられる。刃と刃が弾けあい、時に体の付近を通り過ぎる。

 急激な速度でランドリアが体を横にして鎌を上から振り下ろすと、紫薇は咄嗟に刃で防御した。刃を片手で押して、必死に圧し掛かる力を押さえ込んでいる。鎌の刃は剣の刀身を擦っていた。

 「私に再戦を申し込んでおきながら、所詮はこの程度か」

 持ち手に両方の手の力を加えると、言葉と一緒に紫薇の闘志を押し潰すかのように言い放った。

 「やはり貴様には牙も鬣もない。語る舌など以ての他だ。その体を幾ら鍛え上げようとも、これが貴様の限界だ。己の無力を噛み締めながら朽ち果てるがいい」

 「…ぐっ!」

 更に力を加えられ紫薇は膝を着いてしまった。筋肉は痙攣した様に震え出し、受け止められる制限時間は刻一刻と迫っていた。

 「!」

 不意に紫薇は膝から鋭い痛みを感じた。硬いものがポケットの中に入っていて、曲げた膝のせいで肉がその硬いものに触れたのだ。それはクレシェントに自分の世界の衝撃と感動を与えた代物だった。ナーガに渡る直前に、紫薇は何故かそれをポケットに入れていた。そしてその代物に耳を傾けて、涙を零しながら頬を赤らめた女性の顔を思い出していた。


 「さよなら」


 そして最後に見せた、口角を上げた寂しげな笑みを紫薇は思い返した。知らずの内に紫薇は口許を緩ませて呟いていた。

 「あのマネキン女が…こんな時に出て来やがって…」

 ランドリアは妙な感覚に襲われていた。刃を押し返す力が一行に弱まらない。それ所か徐々にその力を上げて来ている。ふと紫薇の視線を目にすると、ランドリアは驚いた顔をした。紫薇の目は、あの時と同じ牙も鬣もないのに、ただひたすらに食ってかかったような目をしている。ランドリアは以前と同じように苛立ちを感じたが、同時に妙な感覚は更に強くなっていた。

 ランドリアはその感覚を受け入れたかのように一瞬だけ押さえ込む鎌の力を弱めると、紫薇の顔面を蹴り飛ばして否定した。紫薇の体は放り出され、床に何度も叩き付けられながら倒れた。

 「(何だあの目は…どうしてあんな目が出来る?奴は牙も鬣も持たない只の矮小な、一人の小僧に過ぎない筈…。それが何故あんな目になる?何故、こうも敵わないとわかっているのに向かって来る?)」

 顔の半分を歪ませながら紫薇はふらふらと走り出した。顔を蹴られた衝撃で意識が朦朧としているのか、剣を引き摺る様にして握っている。ランドリアはその姿をじっと見詰め、目の前に来ると鎌の代わりに左手の甲で紫薇の体を打ち払った。

 再び床に体を叩き付けられると紫薇は血反吐を吐いた。

 「紫薇、お前は…」

 プランジェは涙をぼろぼろと零して紫薇を見詰めていた。

 じっとりと脇の下と背中が汗ばんでいる。紫薇は何とか意識を戻すと体を起し、剣を杖の代わりに床に突き刺して立ち上がった。片方の目でランドリアを見付けると、今度はしっかりと柄を握ってランドリアに向けて走り出し、切っ先を振り上げた。その瞬間、紫薇の胸元から脇腹にかけて血が噴き出した。ランドリアの体は既に紫薇の傍から離れている。紫薇は切られたことに気付かないまま、その場に倒れた。プランジェの悲鳴が辺りに響く。紫薇は視線を前に向けている。やっと紫薇は自分が切られたことに気付いたが、既にその時には痛みもなくなり、ただ目先をじっと見ている事しか出来なかった。


 「(俺は…負けたのか…)」

 不思議と意識ははっきりとしていた。ただ感覚がなくて、感じる時の流れが異様にゆっくりとしていた。プランジェの声が遅れて響く。

 「(悪いな、プランジェ…。折角お前に扱いて貰ったのに、この有様だ。初めからわかっていたんだ。俺には無理だったってことくらい。でも、あいつが来てから何かが変わり始めて…初めて、自分に立ち向かってみようって思ったんだ)」

 紫薇の独白が終わると、腰に巻いていたウェストポーチから権兵衛が抜け出し、紫薇の目の前に座った。

 「それが…君の本当に望んだことだったんだね、紫薇…」

 いつの間にか紫薇の視界の先には白い髪を靡かせた裸の少女が立っていた。白いベールに身を包み、煌々と光っている。その姿は確かに紫薇の目の間にいたが、紫薇を除いて誰も気づいていなかった。まるで極小さな、二人だけの世界がそこにあるかのようだった。

 その少女は小さな目を閉じたまま静かに微笑んでいた。

 「後悔は、していない?君がそれを望んでしまったせいで、君はたくさん傷付いた。昔の傷なんて比べものにならないくらい、たくさんね」

 「…後悔?後悔だらけだ。傷は増えるし、訳のわからないことは起こるし、何度も死にかけた。今だって死にそうになってる。いっそのこと、みんな放って置いてどこかに逃げたいね」

 そういって紫薇は悪態を吐いた。

 「…でも、ああ言った以上、やるべきことはやってやろうと躍起になったんだが、結局は駄目だった。駄目…だったんだな」

 紫薇は心の中で畜生と何度も嘆いた。

 「…助けたい?あの人を?」

 「…助けられるのなら」

 「でも、また君は傷付くよ?そして誰かを傷付ける。それでも良いの?」

 「…構わない。今だけなら、そう言える気がする」

 少女は目を閉じたまま、少し困ったような笑みを見せた。

 「…紫薇、君に僕の力を貸してあげる。その力で、あの人を助けてあげて」

 そういって少女は紫薇に近付いてその手を握り締めた。そしてもう一度紫薇に向かって微笑み、閉じていた目を開いて赤い光を宿した瞳を見せた。

 「そして君自身を」

 少女の体が白い光に包まれる。すると少女はその体を小さな動物に変えていった。そして権兵衛は紫薇の体の中に光となって入り込んでいった。


 ランドリアは次の標的をプランジェへと変えた。ゆっくりとその足をプランジェに向けて近付ける。プランジェは嗚咽を漏らしながらもその手にナイフを握り締めたが、紫薇が倒れてしまった動揺を隠せずに思わずナイフを床に落としてしまった。それでもランドリアは無慈悲に距離を詰めていった。

 その時だった。ランドリアは背中にあってはならない力を感じ取った。背中に視線を向けると、そこには命を絶った筈の紫薇の体が立ち上がっていて、その目には強い光を点していた。

 「馬鹿な…」

 ランドリアは紫薇の体から自分の力と似たものが沸き上がるのを感じていた。そしてその感覚を具現化するように紫薇の体は光り始め、肉体は徐々にその姿を変貌させていった。

 まず最初に髪の毛が揺れ、次第にその色を真っ白に染め上げていった。口許からは鋭い犬歯が伸び、指をばきばきと唸らせながら爪が伸びていった。腰の辺りから太くて長い尾が現れ、人間の耳がなくなった代わりに頭の天辺から細長い耳が飛び出した。

 その変化をランドリアはじっと見詰めていたが、鎌の持ち手は音を立てて軋んでいた。恐れていた事態が今正に現実のものとなったのだ。ランドリアは紫薇の目から覗いた心の闇に一握の不安を感じていた。強い意志の感情は時に遠大な力を呼び寄せることをランドリアは身に染みてわかっていた。かつてランドリアも自分の心を闇に染めた時からその両腕に呪いとそれに見合った力を手にしたからだった。

 ランドリアはまるでかつての自分を見ているような気持ちに駆られ、気付けばその場から駆け出して鎌を紫薇に向けて振るっていた。しかしその刃は紫薇によって否定され、その表れとして剣が鎌を受け止めた。

 「(なんだこの力は…)」

 刃と刃が触れ合った瞬間、ランドリアは剣に込められた途方もない力に驚愕した。片手で受け止めた単純な腕力だけではない、紫薇の目には溢れんばかりの活力の光が宿り、瞳の奥には強い意志があった。そしてその意志を具現化するように紫薇は吠えた。

 金属音が鳴ると、ランドリアの体が大きく後ろに突き飛ばされていった。当のランドリアは咄嗟のことで何が起こったのか反応できずにいたが、それが紫薇の力によって引き起こされたことを認識すると、眉間にしわを寄せて紫薇を睨みつけた。更に次の紫薇の言葉にランドリアは言葉を詰まらせた。

 「使えよ」

 「なに…?」

 「使えよ、概念の具現化を。剣戟だけでこの決闘を終らせられるか。全力のお前に勝って、負け越しから挽回してやるよ」

 紫薇の顔は揺らがなかった。まっすぐな目でランドリアを見詰めている。ランドリアにはその表情が、その言葉が、その意志が、何よりも絶望の顔を見せない紫薇が認められなかった。

 「よかろう…。そうまでして私の限界を見たいのであれば、目にもの見せてくれよう。そして貴様を完膚なきまで叩き伏せてくれる!」

 有りっ丈の殺気を込めて紫薇を睨み付けたあと、手に握っていた武器に奏力を込めた。黒い鎌の表面は布が風に当てられたように揺らぐと、刃の端が細かく千切れていった。

 『アーガスト・ロデンシュール(引き千切られた衣装)』

 散り散りになった闇の衣が鎌の刃に密集してその形を変化させた。刃は宛ら演出家の苦悩を掘り出したように折れ曲がれ、半ば螺旋を描いて肥大化した。ランドリアはその刃を紫薇の目前で薙ぎ払う。刃の後に引きずり込まれるように黒い渦が紫薇に飛び出していった。

 紫薇はランドリアの概念を目にすると、権兵衛の処女の庭園を覗いた。紫薇にゾラメスの心臓はなかったが、同化したことで権兵衛が持っていたゾラメスの心臓を介して認識することが出来た。

 『ノヴェント・キグタリアス(その手は魔女のように)』

 祖母の爪はいつ引っ掻いてもいいようにいつも長細かった。手を洗ってもこびり付いた肉の臭いは取れず、それを隠す為に皮の手袋を着けていた。

 それは紫薇の心の中にあったトラウマの一面だった。紫薇が気に入らないことをすると、祖母は決まって紫薇の背中を引っ掻いた。爪を立ててずりずりと肉を削りながら上から下に、上からに下に。紫薇は叫び声を上げないようにすることで背一杯だった。額に汗をじっとりと浮かばせながら見る祖母の顔。それは皮肉にも祖母の笑顔を唯一見れる時間だった。

 概念そのものは紫薇の記憶から浮き出たもので、庭園としての色付けは権兵衛が行った。純白の厳かな光を持ちながらもその刃に込められた力は残虐で酷く歪んだものだった。刀身から現れた光は爪で引っかいた痕のような形をしていた。

 黒い苦悩と白い暴虐が衝突した。ランドリアの体は初めてそこで立ち止まらされ、爪の力に押された。しかし鎌に込められた概念に更なる奏力が補充がされると、白い爪は打ち払わされ、粉々になって消滅させられた。一方で鎌に纏っていた光もその勢いを失い、再び紫薇と剣を交える時には消えてしまっていた。

 剣と鎌がその身を削るようにひしめき合う。そこに会話はいらなかった。目でも語り合わない。ただ己の筋肉と武器に通わせた力で発し合う。それだけだった。牙を剥き出しにして荒々しい男たちの鍔迫り合いは気迫に満ちていた。

 不意に紫薇の体が揺れ動いた。やはり力比べはランドリアに分があって、紫薇の腕を上に弾き飛ばすと、ランドリアは紫薇の腹部を横一直線に切り払った。だが妙な手応えがランドリアの手に響いた。人の肉を断った感覚よりも硬い、鉄のようなものに弾かれた感覚。ランドリアはその違和感に惑わされていたが、初めての紫薇の一太刀を受けたことで正気に戻った。

 ランドリアに一太刀を浴びせる前、紫薇の腰の辺りから伸びていた尾が紫薇の体を守るようにして腹部に巻き付いていて、その体毛を広げながら盾のようになっていた。次いで権兵衛に貰った隙を紫薇は見逃さなかった。ランドリアの肩から下に一直線に切り下げ、鎧の繋ぎ目から一気に腹の辺りまで切り裂いた。ランドリアは咄嗟にその場から飛び退いて距離を取ったが、それは紫薇の一撃が脅威だったことの表れだった。

 床に血潮が流れる。ランドリアの表情に焦燥はなかったが、明らかに紫薇を見詰める目付きが変わっていた。その目の色はやっと紫薇を獲物として認めた、そんな色をしていた。しかしそれはランドリアの中に潜めていた力を引き出してしまったことに繋がっていた。

 『アーガスト・ロメニアン(詩姫の悩み種を)』

 ランドリアの体から奏力が迸り、その手に闇夜を写し取ったような色をした花が握られた。花は六枚の花弁があって、百合のように途中で折れ曲がっていた。大きさは手の平にすっぽりと収まるサイズだった。

 紫薇はその奏力を感じ取ると、即座にランドリアに向けて再び白い爪を撃ち飛ばした。刀身から呼び起こされた爪は床を削りながら滑空し、ランドリアの体を四つに引き裂いた。

 しかしその崩れていった体は黒い光に包まれ、肉体は黒い花びらとなって辺りに散り乱れた。ランドリアが手に握っていた花弁は消えて、その代わりに紫薇の周りにはその花と同じ形をした花びらが六枚、その姿を人の顔ほどの大きさに変えて舞うと、その花びらは等身大のランドリアとなった。

 「…分身か?」

 六人のランドリアは一斉に鎌を振るって紫薇を刃の中に閉じ込めた。急激な変化に驚かされ、紫薇の反応は追い付かなかった。反射とは別に尾で出来た盾が紫薇の体を巻き込んで鎌の刃を遠ざける。その盾を繰り出したのは体の中に入っている権兵衛だった。手の回らない部分は紫薇に代わって権兵衛が支援した。

 「(…済まん、権兵衛)」

 心の中で呟くとそれに鳴き声で権兵衛は答えた。

 尾の盾を構成していた白い毛皮はその表面を尖らせ、か細い槍のようにしてランドリアの体を次々と突き刺していった。黒い花びらが等身大のランドリアから発せられ、その姿を消滅させていく。その中に本体であるランドリアの姿はなかった。本体は分身の遠い場所にいて、その身に纏わせた闇の煙を繰り出そうとしていた。

 『アーガスト・デルシュオーソ(花形の忘れ草よ)』

 闇の煙が一斉に紫薇の元に襲い掛かった。紫薇の盾は未だ掲げられたままで、最初の閃光を受け止めるとその光は盾の表面で火の粉の様に纏わり付いた。次いで続々と吹き荒れる光を紫薇は膝に力を入れて食い止め、その力を前方に集中させた。

 波のように押し寄せる光の中にふと何か人の意思の様なものが通り過ぎていったのを紫薇は感じ取った。紫薇は頭より先に反射的に背中に視線を向けた。光が収まるといつの間にかランドリアの体は紫薇の後方に辿り着いて鎌を振り下ろしていた。ランドリアは繰り出した閃光に乗って紫薇の足元の影から這い出ていた。

 戦いの中で紫薇の経験値はめきめきと上がっていた。才能、というよりも勝利への執念が紫薇の力量を底上げしていた。この瞬間の紫薇はランドリアを凌駕し、背中からの奇襲を見事に避けるとランドリアの体を横一線に切り付けた。指先がうっ血してしまう程の力を込めた一撃はランドリアの鎧を引っぺがし、両腕と腹部に相当な損傷を与えた。出血した血の塊は紫薇の頬を汚す。

 だがランドリアもただ黙って切られただけではなかった。鎌の持ち手を払って紫薇の体を横に吹き飛ばすと、右手を掲げて極めて近い距離で闇の光を放った。その光は紫薇の上半身を焦がし、勢いに乗せて数メートルも吹き飛ばした。黒い煙が巻き上がり、右肩のすぐ下を抉らされた紫薇の体が浮き上がった。吐血をしながら必死に立ち上がっているが、息を荒げる紫薇の体には限界がやって来ていた。

 「…ごほっ!」

 胃の中から血の塊を吐き出した。体に受けた損傷は権兵衛から引き継いだ再生力を持ってしても治癒が追い付かなかった。しかし紫薇の目は初めの頃と何も変わらなかった。儚げながらも必死な目。それは道に迷った子供のようだったが、決して弱音を吐かずに出口を探していた姿だった。

 「その目だ…」

 紫薇は倒れそうになる体に鞭を入れながら耳を傾ける。

 「その目が鬱陶しい。貴様はそんな不確かな目付きをしながら、何故そうやって立っていられるのだ?死人のような貴様が、響詩者としての権利を得ただと?茶番にしては出来過ぎている」

 紫薇は手で口許を拭きながらそのことを考えてみたが、自分でもどうしてそんな目になっているのかわからなかった。

 「端からこんな目だった訳じゃないさ…。情けない話だが、今までの俺は反抗すらしようとしなかった…」

 紫薇は目線を下げながらいった。

 「ならば何だと言うのだ?何故、今になってその力を手に入れた?」

 ランドリアの言葉には渇望のような思いが込められていた。

 「やっと覚悟が着いたのさ…。ほんの少しだがお前に、そして俺に顔を向けようとする覚悟がな。お粗末な理由で悪いが、今の俺には十分だ」

 「それがあの女という訳か…」

 「さあな…答えたくない」

 そういうとランドリアは乾いた声で笑った。

 「認めよう。貴様はたった今、私にとって外敵に成り得たのだ。それが偽りであったとしても演目はなくならない。この決闘、改めて引き受ける」

 ランドリアはしっかりと紫薇の目を定めた。今やっとランドリアにとって紫薇は己の矜持を賭けた決闘の相手となったのだ。

 その時だった。ランドリアの心臓から強大な奏力が迸り、やがてそれが形となって現れ始めると、紫薇の体の中に入っていた権兵衛は最大級の警戒を紫薇に促した。

 「(なんて威圧感だ…)」

 「貴様の覚悟とやらはしかと受け取った。なれば今こそそれに相応しい概念を見せてやろう。形骸など一切なしに、貴様のキーツを打ち砕いてくれる。見るがいい、これが我が三奏歌ベルテナーだ!」

 ランドリアの体に纏っていた黒い光が一斉に紫薇の目の前に現れる。その光は天井を覆い尽くす支柱の形となって押し寄せた。

 『アーガスト・ラグエル・ゼファイド(硝子絵は悪夢に染められて)』

 紫薇の目はまるで黒い柱が辺り一帯を覆いつくし、視界が黒一色に塗りつぶされるような錯覚に陥らせた。その支柱の一本一本が極太で、避けようにも計三本の黒い柱は壁の隙間を埋めながら紫薇に向かっていて、逃げられる場所などなかった。

 「何てものを出しやがる…」

 悪態を吐きながら紫薇は目一杯の奏力を込めて再び暴虐的な爪を撃ち出した。しかし刃は支柱の前で数秒だけ押し留まると、その姿を柱に飲まれていった。背中にはプランジェがいるのを確認するかの様に紫薇は一瞥した。

 「(もっと…権兵衛に概念を差し出してやらないと…だがそれは…)」

 紫薇の心は過去の記憶を呼び起こすだけで精一杯だった。処女の庭園がない紫薇が権兵衛に心を具現化して貰うことは過去のトラウマを思い出すことと同じで、権兵衛の手助けがあっても心に深いダメージを与えていた。相応の覚悟を持って自分の心と向き合うことが必要だった。

 柱の影が紫薇に着実に近付いていった。もう柱との距離は間近にまで迫り、紫薇は余裕のないまま逃げ場はないかと辺りをきょろきょろと見回した。するとその途中、不安な顔をしたプランジェの顔が目に止まった。

 じっと紫薇の目を見詰める涙ぐんだ顔。それはクレシェントを助けることよりも紫薇の安否を気遣った顔だった。諦めか後悔か、色んな感情がプランジェの目に浮かんでいる。紫薇はその崩れた顔を見るとふっと笑って顔を前に戻した。

 「わかってるよ、お前に約束したからな…」

 紫薇は恐れながらも目を閉じて自らの心を抽象的に構成している世界に手を差し伸べた。同時に過去の癒えぬ傷痕が浮かび上がり、耳の中をきんと喧しい金切り声が駆け巡った。祖母は機嫌が悪いとき、決まって耳元で紫薇の気に入らないところを叫ぶのだった。

 『ヴィスタージア・キグタリアス(その声は断罪ように)』

血にも似た猩々色の光が紫薇の目の前に現れる。まるでその色は紫薇の鼓膜が破れ、耳から流れ出た血のようだった。ぼこぼこと音を立てて赤い光が一つに集中していき、それに続いて白い光がまるでその赤い光を覆うように膜となって集まると、二色の光は一斉に弾けて黒い柱に向けて撃ち出された。その際、金切り声のような音が辺りにまき散らされた。

 黒い光と赤白い光はお互いの存在を主張し合い、一向にその匙を曲げなかった。 重い。紫薇は支柱の概念を肌で感じ取った。支柱が持っていた概念の重みは鉄のようで、その中にふと重みの正体を知った。具現化された概念を触れた以上、その概念が持った意思を紫薇は無意識に読み取っていた。


 そこは静かな雨の中、遠い昔に紫薇が打たれたような雨の中に手足の短いランドリアの姿があった。そしてランドリアの目の前にはあの男、デラ・カルバンスの姿があった。デラもまた、ランドリアと同じように雨に打たれ、空しさと悲しみに満ちていた。いつの間にかデラがランドリアの手を引っ張っている。いや、その姿はまるで二人が手を取り合って、支え合っているようにも見て取れた。紫薇はそこに、ランドリアの忠誠心と、崇高な矜持の一角を見た気がした。


 「これが奴の概念か…」

 紫薇はじっくりとその感動を受けながら、やがて自分の背中に圧し掛かったものを思い出すと、腹の底から叫び声を上げて光に奏力を注ぎ込んだ。二色の光は黒い柱を押し戻し、ランドリアの手前まで進むと黒い柱を消滅させた。ランドリアの体が二色に光に飲み込まれ、黒い鎧が粉々になって剥がれていく。二色の光はそのまま奥の壁に穴を開け、紫薇の立っていた場所から見えなくなるまで小さくなると、その力を失ったかのように消えていった。

 「はあ…はあ…はあ…」

 紫薇は消え入りそうな呼吸をしながら剣の切っ先を床に落とした。自然と紫薇の体が崩れ落ちるが、手を床につけて何とか顔を上げると、そこには紫薇と同じように満身創痍のランドリアがまだ立っていた。鎧はすっかり剥がれ落ちて、筋肉質なランドリアの体が露になっている。

 紫薇はふとランドリアの両腕に目がいった。指先から二の腕に至るまでびっしりと刺青が描かれている。何かの文字か絵のようなものが規則的にあって、それを見ていると紫薇は得体の知れない力に襲われそうで思わず目を逸らした。

 「随分と汚れていたな、貴様の奥底にあるものは…」

 ランドリアは紫薇と違って二本の足で立っていたが、虚ろな目をしていた。

 「見たのか…」

 紫薇はぞくりと背中を震わせた。

 「言い様のない光景だった…。あれ程までに廃れてしまった心を私は知らん。貴様はまるで…」

 そういいかけたランドリアを咎めるように紫薇は目を細めた。

 「そうまでして抗うようになったのは…あの女の為か?」

 一瞬、紫薇は否定しようと口を開けたが、

 「…そうだ」

 何故かランドリアに対しては誤魔化すことが出来なかった。それは紫薇にとってランドリアがどこか自分に似ていると感じたからかもしれない。

 「気に食わんな…。だがそれが貴様と私の…違いだったと…いうことか…」

 そう呟きながらランドリアは目を閉じて床に倒れた。

 紫薇はランドリアが完全に床に倒れるまでじっと見つめていた。そうしてやっと床に伏したランドリアを見て、紫薇は静かに溜め息を吐くと、ほんの少しの達成感を味わった。それは勝ったことではなく、やっと自分の中で何かが変われたことへの実感だった。

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