12話 小さな火

 プランジェはとある記憶の中にいた。それはプランジェがクレシェントの従者となって間もない頃だった。まだ姉妹とクレシェントが袂を分かっていない時だった。ナイフを手に何度も目の前の木の表面を切り付けている。森の中に歯切れの良い音が響き渡った。そのうちに疲れて一休みしていると、いつの間にかプランジェの後ろには姉であるミューティが腰を下ろしてプランジェを見詰めていた。

 「うん、プランジェもナイフの扱いが様になってきたわね!」

 物静かな性格のプランジェと代わって、姉のミューティは溌剌とした声でお喋りな性格だった。しかもプランジェの小豆色の髪の毛と違って、ミューティの髪の毛は黄色だった。それは二人の間に同じ血が通っていないということの表れだった。

 「姉さん…。でもまだ私は実戦を経験してない。いざ人を傷付けることになったら、怖くて逃げ出してしまうかも…。クレシェント様をお守りすると決めたのに…」

 不安そうにプランジェは目線を落とした。するとミューティはにこっと笑ってプランジェの頭を撫でた。

 「誰だって戦うことは怖いのよ。クレシェント様だって剣を手にする時は未だに手が震えるって言っていたわ」

 「クレシェント様も?」

 「ええ。でも恐れていては前に進めない。戦闘では恐怖を飼い慣らすことが求められるけど、その前に自分に立ち向かうことが必要なの」

 「でも、そんなのどうやって…」

 「目を瞑って、心を落ち着かせるの。そうしたら闇の中にもう一人の自分を投影して、応援して貰うのよ。頑張れ、負けるなって。そうするとね、やるぞって気持ちになれるのよ」

 そういうとプランジェは不服そうな顔をした。まるでそんな風にはならないと言った顔をしている。その顔を見るとミューティは苦笑いした。

 「命の取り合いをしていると、必ずどこかが狂ってしまう。だからそうやって少しでも自我を確立させて置かないと、自分が自分でなくなってしまうのよ。お父様は言っていたわ。私も…誰かを傷付けるのは怖いわ。でも、私はクレシェント様を守りたい。二人でそう決めたでしょ?」

 ミューティはプランジェが傷付けていた木に向かって手を掲げると、手の平から無数の鏡の破片が飛び出し、樹木をずたずたに切り裂いて根こそぎ倒した。

 「プランジェ、いつかきっと貴女も強くなれる。そのときになったら一緒にクレシェント様を驚かせてあげようね。大丈夫、貴女には不思議な力が眠っているんだから。自分を信じて、プランジェ」

 そういって笑顔を見せた。プランジェはミューティの笑顔が大好きだった。その笑みを見ていると、自分もつい頬を緩ませてしまう。プランジェにとってミューティは姉であり、信頼と尊敬に値する先生のようでもあった。


 刀の先端が赤く汚れている。刀身の三分の二ほどがトルジェンの体を貫いていた。流れ出る血が唾に伝い、両手が血まみれになってもプランジェは怯まなかった。むしろ更にその刀を押し込もうと力を入れ続けている。

 トルジェンは体を痙攣させながらも刀身を握ってそれ以上の侵入を止めた。そしてその細い腕を振るってプランジェの顔を殴りつける。鈍い音が二人の間ですると、プランジェの小さな体は後ろに吹き飛ばされた。刀を抑えていた指には刃が深く食い込んでいたが、そのお陰でプランジェは身動きが取れなかったのだ。

 「くっ…!(踏ん張り過ぎたか…!)」

 幸いトルジェンの体は見た目通り筋力が少なかったため、打撃の威力はさほど高くはなかった。それでもプランジェのような未熟な体にとっては痛みは鋭く、体勢を立て直すのにやや時間がかかっていた。

 その間、トルジェンは刀を引き抜くと、その刀の柄を握りしめた。肩の傷からは多くの血が流れていたが、そんなことはお構いなしにプランジェに駆け寄ると、奪った刀を振るった。血で汚れた刀が宙で光る。プランジェは体を起こしていたが、まだ立ち上がれずにいた。

 刀の刃がプランジェの頭に触れる直前、トルジェンの手から刀が一瞬で消滅した。プランジェが具現化を解いて刀は処女の庭園に戻ったのだ。トルジェンは単に腕を振るっただけで、宙を空振りすると体勢を崩した。それこそがプランジェが狙っていた瞬間であり、ナイフを具現化させてトルジェンの体を薙ぎ払った。

 トルジェンの胸部に横一線の裂け目ができると、そこから鮮血が噴き出した。トルジェンは目を大きく見開いて痛みに苦しんだが、怒りにかまけて再び腕を振るってプランジェの顔に拳を向けた。

 今度ばかりはプランジェも同じ轍は踏まぬようすぐに距離を取った。トルジェンの拳は空を切り、その間にプランジェは軽快に飛び跳ねて距離を取った。

 『マオレスカ・キュオレネス(貴婦人は腹黒い)』

 怒りを吐き出すかのようにトルジェンの目の前には金色の扉が現れた。分厚い扉が開かれると、表面の色と打って変わってその中身は闇一色だった。その闇からは何十本もの人の腕がプランジェに向かって伸びていく。腕はトルジェンのように細長いが、女性特有の華奢な作りだったが、黒く半透明だった。

 『ジュブネ・パラール・エドナス(無骨な指先が開いて)』

 プランジェはその腕の動きを見ると、回避することは無理だと悟ったのか、ナイフに奏力を溜めていった。プランジェが刀を構えるようにしてナイフの切っ先を後ろに向けると、青や緑、赤に染まった半透明の刀身がナイフの周りに浮遊する。やがて巨大な刀身となったナイフをプランジェは振るった。

 黒く半透明な腕の群れが次々と切り裂かれていく。プランジェはトルジェンとの距離を詰めながら残りの腕も断ち切っていった。ときにプランジェは飛び上がって腕を避け、宙で体を前転させてその勢いのまま下から待ち構えていた腕を真っ二つに切ったり、半透明の腕がしならせて襲いかかってくればその動きに合わせて叩き切った。

 半透明の腕をひとしきり切った後、プランジェはトルジェンの眼前まで到達すると、巨大な刀身を振りかざした。近接武器を持っていないトルジェンにはその一閃を直接払いのける術はなかったが、その代わりにトルジェンの概念がその断ちを止めた。

 『アージュラ・キュオレネス(貴婦人なほど叫びたがる)』

 プランジェの一刀を受け止めたのはらせん状に伸びた槍だった。金と銀のらせんが絡み合った槍がトルジェンの前に現れると、甲高い音を立ててプランジェの刀身を止めた。それかららせん状の槍はもう三本現れて、宙に浮きながらプランジェに襲いかかっていった。

 「ちっ…!」

 トルジェンはその場から一歩も動かなかったが、四本の槍はそれぞれ独自に意思を持ったようにその身を振り回していく。プランジェは両目を何度も左右に動かしながら、その攻撃を巨大な刀身を使って受け止め、弾いていったがトルジェンとの距離はあっという間に離されてしまった。四本の槍は弾かれる度、甲高い音を立てていた。

 トルジェンとの距離が離された最中、一本の槍が大きくその身を振りかざした。プランジェの目と体はその動きに追い付いていたが、受け止めて押し出される力は劣っていた。甲高い音の後、プランジェの体は大きく後ろに突き飛ばされた。

 プランジェは足の裏に力を入れて擦れる床の速度を殺し、その場に踏みとどまることが出来たが、ちょうどそのときに概念の具現化の限界時間を迎え、巨大な刀身は光の塵となって消滅していった。

 「概念の具現化は時間制限があるんだったな…。拙いぞ…」

 プランジェの概念が消滅したと同時にらせん状の槍はその場から散り散りに移動し、プランジェの四方を取り囲んだ。

 『コルウェン・アーギア・キュオレネス(老いた貴婦人の今際は)』

 金と銀で彩られた槍は瞬く間に精気のない灰色に染まり、塵となってその形を崩していった。そして無数の塵がプランジェの周りを取り囲むようにして流れ、少しずつプランジェとの距離を詰めていく。次第に塵が流れる速度は勢いを増し、プランジェの逃げ場をなくしていった。

 「…っ!」

 その光景を見るや否やジブラルは右腕を構えた。逃げ場のないプランジェは窮地に陥ったも当然だったからだ。

 「手を出すな!」

 ジブラルが飛び込もうとした最中、プランジェは叫んだ。それは虚勢を張ったからではなく、死地を生き抜いて自分の成長に変えたいというプランジェの切実な願いでもあった。

 ナイフを具現化すると、プランジェは塵に向かって投げた。ナイフは高速で移動する塵に触れると、まるで金属に弾かれたかのように火花を立てて跳ね返された。

 「まさに前門の虎、後門の狼という訳か…」

 頬から汗を流すもプランジェは冷静だった。プランジェはこういった窮地に立たされても、何故か落ち着ける性分だった。どんな状況に陥っても、もっと困難な目にあってきた幻のような経験が体に染みついている。それはプランジェの無意識の底にあり、自分では気づいていなかった。

 ナイフを消滅させて代わりに刀を具現化させる。手足の伸びきっていない体にはやや大き過ぎる武器だったが、紫薇との訓練で少しだけ伸びた体は以前よりも持ちやすくなっていた。刀の切っ先をトルジェンに向ける。塵のせいで姿は見えなかったが、プランジェにはどこにいるかわかっていた。

 『ジュブネ・パラール(薬指から垂れた血)』

 プランジェが両腕を上げ、刀身を真上に向けると、一本の赤い光が刀の先鋒から伸びていった。光は塵を貫いて天井すれすれまで伸びている。さながら一本の赤い糸のようだったが、その色は血のように赤く、黒かった。

 「その目に焼き付けろ、主従の縁がどれほど強いかをな」

 刀身が振り下ろされると、赤い糸が刃を追って天井から落ちる。すると糸は光を照らして筋を作り、塵を真っ二つに裂いていった。まるでその糸が持つ力に撥ね退けられたように塵は分断され、その先にいるトルジェンの体に細い太刀を浴びせた。傷自体は浅かったが、傷ついたトルジェンの体を倒すのには十分だった。

 トルジェンが床に倒れると、その場にあった塵は徐々に薄くなり、終いには消滅していった。それはトルジェンの意識が完全に落ちたことの現れだった。

 「はあ…はあ…」

 プランジェの赤い糸が消えると同時に両手に握られていた刀も消滅していった。

 「やるじゃない、ちょっと危ないかなって思ったけど」

 「実戦経験は長くはないが、この程度で根は上げられん。お前の手を借りるまでもないということだ」

 そう強がったみせても額からは大粒の汗を流して体力は低下していた。

 「可愛げないわね」

 「まったくだ」

 

 生温かい水の中に気泡が一つ弾けた。また一つ、また一つ。一定のリズムで呼吸をしながらクレシェントは緑色の溶液の中に浮かんでいた。手足は殆ど育っていない。髪の毛も産毛程度で水に揺られて小さく靡いている。背中を丸めて液体の中に浮かびながら彼女は外の音を探っていた。

 ぽこぽこと音を立てて何かが沸騰している。かりかりと何かが決められた形を描いている。すたすたと誰かが歩く音がする。その足音は仕切りにクレシェントの目の前に立ち止まっては離れを繰り返していた。

 クレシェントはその足音に向けて笑みを浮かべてみた。するとその足音は彼女に近付いて、静かにこんこんとその溶液を包んでいた容器を叩いた。クレシェントは喜んで呼吸をしてみるとそれに反応するかのようにまたこんこんと叩かれた。

 「聞こえるかな?テテノワール」

 クレシェントはその足音の主の声を聞いた。男だった。低い声で優しい口調だった。彼女は目が開けられない事を悔やんだ。そしてこの目が開かれれば良いのにと願ってみると、自然と彼女の目は開いていった。男は驚いた声を上げた。クレシェントの初めての視界には、銀色の髪の毛を靡かせた男が目に入った。

 「これはすごいぞ。意思に応じて成長速度が変わるのか」

 目は髪の毛と同じで銀色。目元にはくまが染み付いていて、不健康そうだった。汚れた白衣の中に着ているワイシャツは長いこと洗っていないのか、黄色いシミが目立った。男はクレシェントと視線を合わせるとこの上なく嬉しそうな顔をした。だがその途中で男の顔は歪み、クレシェントに向けていた視線を外した。クレシェントは、そのことに深い悲しみを感じると、再び開いたばかりの目を閉じてしまい、また眠りに付いていった。


 不意に目が開いた。クレシェントは知らず知らずの内に眠ってしまっていた。目元が塗れている。クレシェントは夢に見た光景を不思議に思いながら目を擦り、上半身を起こした。自分の周りに広がっていたあの光景、紫薇の世界で読んだ本の中に科学の実験で使用する器具が幾つもあった。何故それがあったのか。そして自分と同じ色の髪の毛と目をしていたあの男は誰だったのだろう。夢から覚めてしまった彼女にはその答えはわからなかった。

 と、その疑問を打ち消すように辺りが揺れた。天井から砂粒が落ちてくる。

 「何かしら…」

 何事かと思いながら体を起すとまた城が揺れた。クレシェントはこんな場所なら何が起きても不思議ではないと思い、気に留めないことにした。ましてや紫薇やプランジェが自分を助けに来るなどと思ってもみなかった。

 溜め息を混じらせながら首に繋がれた鎖を見た。これがある限り、二人の安全は保障される。今はそのことだけが彼女の心を繋ぎ止めていた。

 喉元に手を触れてみると、傷はすっかり治っていた。その時、クレシェントはある違和感を覚えた。こんなにも早い時間に傷の修復が出来ただろうか。彼女はもう一度その傷があった場所を触れてみると傷口はおろかその痕すら残っていなかった。

 「まさか…魔姫になったから?」

 クレシェントは体内に感じた奏力の底が跳ね上がっていることにも気が付いた。自然と体が身震いする。これ以上、魔姫になって自分の力が更に増幅すれば、自分の体はどうなってしまうのだろうと恐怖した。

 「その通りだ」

 いつの間にか目の前には男が立っていた。クレシェントにとって憎悪の対象であるデラ・カルバンス。しかし今のデラの顔はどこか気の抜けた表情だった。

 「やっとその肉体が普通ではないことを認めたようだな。女王の力は恐ろしい。仮にそれが失敗作であっても…」

 その言葉にクレシェントは耳を疑った。自分が失敗作だと、確かにデラの口から聞いた言葉だった。

 「私が…失敗作?」

 クレシェントはその言葉の意味を受け止めると、酷い劣等感を覚えた。

 「お前をあの男に引き渡そうと思っていたが、どうやらそれも未遂で終わってしまった。これでは何の為に彼等がこの城にやって来たかわからないな」

 「彼等?…まさか、紫薇の事なの!?」

 自分の未来のことよりも、この場所に来てしまった紫薇とプランジェの安否を即座に案じた。どうして来てしまったのか。勝てる筈がない相手なのにどうしてと。クレシェントは何度も頭の中で叫んだ。

 「彼らは懸命に戦っているよ、この城の住人とね。君は信じないかもしれないが、ジブラルも一緒になっている。どういった経緯で彼女が彼等に手を貸しているか知らないがね。だが牙を剥ける以上、これに対処するのは自然なことだ」

 「待って!この鎖を壊さない限り、紫薇には手を出さない約束でしょう!?」

 鎖を引き千切りたい一身を懸命に我慢してクレシェントは叫んだ。

 「勿論だとも。その鎖が引き千切られない限り、私は…何もしやしないよ。私以外の、この城の住人やランドリアに関しては知らないがね」

 「お願い、何もしないで…。貴方が望むことは全て背負うから…お願い!」

 「それは無理だよ。たった今、君の存在価値は私にとってとても小さなものになってしまった。私は一体、何の為にあれだけの時間を費やしてきたのか…」

 呆けながらデラは天井を見詰めた。

 隙だらけだった。クレシェントはその機会を見逃さなかった。何より魔姫と化したことで自分の力は飛躍的に上昇している。今ならこの男を相手に手傷を負わせ、紫薇の元に駆け付けることが出来ると確信していた。クレシェントは気付かれないように手を鎖に向けると一気に引き千切り、その手に力を込めてデラの心臓に目がけて突き出した。

 しかし突如としてクレシェントの視界は床を向いてしまった。気付けば自分の体が床に叩き付けられ、身動きの一切が取れない。その力はジブラルよりも邪悪で、魔姫となった彼女の力よりもずっと凶悪だった。掲げられたデラの右手には途方もない力が込められている。クレシェントは吐血しながら息が出来なかった。

 「鎖…千切ってしまったようだな。約束を破ったのはお前だ」

 クレシェントはその言葉に心の底から悔やんだ。同時にその言葉に込められた殺気の重みを感じ取ると背中を奮わせた。クレシェントは初めて自分がどう足掻いても敵わない相手というのを感じた。深い絶望と死に対する恐怖心が頭の天辺からつま先までを駆け巡った。

 「だがその前に…お前はもう用済みだな。さてどうしてくれよう?その細い首を捻じ切ってみようか?」

 クレシェントの体に圧し掛かっていた力は去っていた。代わりにその力よりもずっと冷酷で、ずっと醜悪な力が彼女の首元に伸びていた。近付いてくるデラの指先を見てクレシェントは歯をがちがちと震わせながら恐怖し、涙していた。その一瞬はクレシェントにとって何よりも長い時間に感じた。


 紫薇たち一行は広い一本道を走っていた。広間を抜けてからは襲いかかってくる敵はいなかった。その代わり一本道は真っ暗で、何か背筋をぞっとさせるような空気が暗闇から湧き出ていた。その嫌な気配に耐えながら足を動かすと、やっと目の前に次の部屋に進むための扉が見えてきた。

 「止まって!」

 不意にジブラルが声を上げると、紫薇とプランジェは足を止めた。と同時に辺りに気を配る。先ほどから感じていた気配がより鋭くなっているのをわかっていたからだ。しかし紫薇だけはまだ完全にその気配を掴めずにいた。しきりに両目を左右に動かして何とか気配のもとを辿ろうとしている。

 そんな中、暗闇から空気を切る音が響くと、ジブラルは手を紫薇の眼前に向けて何かを握った。紫薇とが驚いた顔をしてその正体を見ると、一本の槍がジブラルの手に握られていた。何の造形もない太い針のような黒い槍。一瞬、紫薇はランドリアのものかと息を飲んだが、その槍の主はランドリアとまた違った重い空気を持っていた。

 「不意打ちだなんて随分とまた狡賢い手を使うのね」

 掴んだ槍をぐにゃりと曲げると傍に放り投げた。

 暗闇の中から一人の男が現れた。黒緑色のスーツに身を包み、赤いストールを首から下げていた。髪の毛はウェーブがかかっていて、首の辺りまで伸びていた。目付きの悪さは紫薇以上で、その体から発せられる空気の悪さはランドリア以上だった。

 「紫薇、私を置いて先に行きなさい」

 紫薇はジブラルに視線を向けた。

 「私のことを心配するよりも、自分のことを心配なさい。この先に、ランドリアが待っているわ。教えてあげたアレ、ちゃんと覚えてるんでしょうね?」

 「…ああ」

 紫薇は全身に力が入っていた。自然と鞘を握り締める。やっと自分のなすべきことが出向いて来たと改めて実感していた。

 「行くぞ、プランジェ」

 「うむ。…気を付けろと言って置こう、ジブラル」

 「ありがとうと言って置いてあげるわ、プランジェ」

 紫薇とプランジェは先に進んでいった。途中、その男が何かしかけて来るかと紫薇は思ったが、男は何もせず、ただ視線を流すだけで何もして来なかった。二人は安堵しながらその先に進んでいった。

 「…その顔、知った顔ね。エバーラル・ノヴァイセン」

 ゆっくりと中央に向かって歩き出した。

 「まさか壊乱の魔姫に続いて蒼昊の悪女のお出ましとは…。グリアデス地方とはゼルア級の巣窟だったようだな。嬉しい限りだ」

 同じように広間の中央に足を向けた。

 「元『第一械節』、だったかしらね?『虹拱結社ゲルトシュペンネル』での位置付けは。その実力は『アレイド級』、『マクシミオ級』を凌駕するものだと。準ゼルア級だなんて呼ばれていたそうじゃない?大層なご身分ね」

 「噂に聞いていた蒼昊の悪女とは随分とイメージが違う…。壊乱の魔姫といい、こんな小娘がゼルア級だと?『協会』の弱腰にも困ったものだな」

 二人の距離は間近まで迫っていた。ジブラルはそれに伴い右腕に力を込め、エバーラルは投擲した槍と同じものを手に握っていた。

 「いけ好かない男ね…。最近はロクな男がいないわ」

 「小娘とじゃれ合うのは趣味じゃないんだがな」

 二人の位置が交錯する。どちらの顔も口許を緩ませて、頭の中は相手を否定することしか考えていなかった。二人の姿が離れるとその間に強烈な衝撃波が生じた。その回数は一瞬にして何十にも及び、行き場を失った力は左右に広がっていった。その光景を背中で確認すると、二人はくるりと回ってお互いに睨み合った。

 「嫐ってあげるわ。二度とその減らず口が利けない位にね」

 「口の悪い女は嫌いでね。それが小娘となると更にだ。とっとと終わらせよう」


 ジブラルを置いて紫薇とプランジェは一本道の先にあった扉に近づいた。紫薇はその扉の向こうにランドリアが待ち受けていると直感していて、体に刻まれた傷跡が疼くのを感じた。それは紫薇の体から発せられた最後の警告だった。この先に待っているものは自分にとって生命の危機に陥るものだと。しかし紫薇はその悲鳴に耳を傾けなかった。むしろその傷跡の疼きこそが自分の体を突き動かすものなのだと。

 紫薇が扉を開けると、そこは不思議な場所が広がっていた。床は白一色で、壁はそれに反するように朱色をしていた。その場所だけ光に満ち溢れ、余りの光度に目がちかちかとしてしまうほどだった。その光の中に、一点だけ黒く荒んだ場所があった。いや、実際には汚れの様な黒い鎧を着込んだ男の姿だった。

 「ランドリア・プラファンドール…」

 その姿を目にすると紫薇は自ずと眉間に力を入れた。

 ランドリアは扉を開けて入ってきた紫薇を見ると微動だにせず、じっと紫薇を見詰めた。さながら門番のようにこれより先には進ませまいと仁王立ちしながら、ゆっくりと近付いてくる紫薇を待ち受けている。

 プランジェは紫薇と一緒にランドリアに近づくが、二人の間でぶつかる気の張り合いを感じると思わず喉を鳴らしていた。

 ランドリアと紫薇の距離が十歩ほどまで縮まると、やっとランドリアが口を開いた。

 「落伍者の足掻きほど醜いものはない。あれだけ痛め付けてやったにも関わらず、まだ自身の力量がわからんとはな。…ほう、少しは研鑽を積んだか」

 膨れ上がった紫薇の体を見ると、ランドリアは少しだけ口もとを緩めた。しかしそれは失笑の意味を含んでいた。

 「見違えたな、だが程度が知れる。見てくれが変わったところで本質は変わらんぞ、小僧」

 ランドリアはただ言葉を発している。ただそれだけでも紫薇の体には重圧が圧し掛かった。無意識の内に紫薇の頬を汗が伝わる。しかしそこに恐怖はなかった。

 「そんな貴様がこの場所に何の用だ?」

 ランドリアはまたも紫薇に苛立ちを感じていた。普通ならば恐怖に慄いてその顔は恐怖に歪み、背中を見せるものだがこの少年に限っては違った。恐怖するどころかその目に重みを乗せて自分を睨んで来る。理解し難い光景にランドリアは怒りとは別に何故か一握の興味を抱いていた。

 「俺の用件はこれだ…」

 紫薇は鞘から刃を引き抜いて、空になった鞘を目の前に放り投げた。それを目にするとランドリアは目を見開いて紫薇を見た。

 「再戦を申し込む。俺と一騎打をしろ、ランドリア・プラファンドール」

 切っ先を向け、己の命を駆けた果し合いを紫薇は申し込んだ。その目には最早、一人の戦士としての矜持が映し出されていた。

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