11話 脱ぎ捨てた白面

 紫薇はプランジェと一緒に家の庭に立っていた。二人の前の前には桜色に光る大きな立方体が宙に浮かんでいる。紫薇の手には直角三角形を引き延ばしたような剣が握られていて、目はまっすぐにここにはいない誰かに向けられていた。


 「俺を…響詩者に?」

 紫薇は医者の言葉を無視して退院し、家に戻っていた。体は本調子でないものの、火照った体の疼きは病室でじっとはしていられなかったからだ。

 「ジブラルとも話したが、やはり敵の居城に乗り込むにしろ現状の戦力では少しばかり足りん」

 「ちょっちキツいのよね。あのデラを抑え込むのは出来るんだけど、そこに余計な茶々を入れられると流石に余裕ないわ。特にランドリアみたいなのが来られると面倒なのよ。リネウィーンだって参戦するかもしれないし」

 「デラの配下は他にもいるのか?」

 「うん、会ってはないけど何人かの気配はあったわね。中にはゼルア級に近いのもちらほら…。多分リネウィーンだと思うけど、もしかしたら厄介なのがいるかも」

 「権兵衛と私だけは手が回らない可能性もある。お前が響詩者になるのが手っ取り早いだろう。付け焼刃かもしれんが、概念を具現化できるようになれば陽動くらいには使える。それにランドリアから譲り受けた剣もあるしな」

 「押し売られたの間違いだがな。それより響詩者にはどうやってなるんだ?」

 「『シンボルの共産』と呼ばれる儀式を行う。ゾラメスの心臓については知っているな?その名の通り概念の具現化とはゾラメスが生み出した超越力だ。その鍵となる投影の目、具現化のシンボルを相手の処女の庭園に複製し、同じ超越力を付与させる。こうして響詩者はナーガの住人に同じシンボルを共産することによって、この力を繁栄させてきたのだ」

 「長い歴史の中で派生した亜種みたいなのもいるんだけどね。今はそれは置いときましょ、歴史が絡むとその辺り説明するの長くなるから」

 「わかった。だが一つだけ気になることがある。俺はナーガの住人じゃないが、響詩者になれるのか?そのシンボルの共産とやらで」

 「そこのなのよね、問題は…。そもそも別の世界の人間にゾラメスの心臓を植えられるかわかんないのよ。試しにやってみても良いんだけど、ちょっと何が起こるかわかんないからサ…。正直、私は反対。理由はそれだけじゃないけど」

 「今さら失敗を恐れても仕方ないだろう。それに危ない橋なら何度も渡ってきた。さっさとやってくれ」

 「…ねえ、マジでやるの?」

 ジブラルは何故か照れくさそうな仕草を取った。

 「なんだよ?何を躊躇ってる、さっさとやってくれ」

 「いや…シンボルの共産って、お互いの心をさらけ出した上でするからサ…。その…大体は兄弟とか姉妹とか、何でも話せるような仲でやるのが一般的なのよ。恋人とか夫婦かね。なまじ裸を見せ合うより恥ずかしいのよ…」

 「あー、そういうことか…」

 紫薇は意味を理解すると手で顔を押さえた。

 「ちなみにプランジェはまだ成人してないから無理よ、これは大人になったら出来るよう仕組み化されてんの」

 「済まん、私はまだ子供なのだ…」

 「いや、良い…」

 気まずそうな空気が流れ、三人は思い思いの仕草を取ってその場を誤魔化した。

 「あとはランドリアの剣を使ってお前を鍛えることになるが、一日や一か月そこらで戦闘の基礎を叩き込めるほど簡単ではない。特にお前の体は常人よりもひ弱に見える。筋肉も着けないといかんしな」

 「実戦で役に立てるまでどの程度の期間が必要だ?」

 「短く見積もっても一年だ。しかもこれは一日の大半を訓練に回したことを想定して立てている。クレシェント様を案じれば一刻も早くナーガに向かいたいが…」

 「デラの目的がわからない以上、あいつを放っていられないか…」

 「時間が足りないな…」

 「うむ…」

 「……………」

 紫薇とプランジェがうんうん唸っている中、同じようにジブラルも眉間にしわを寄せて悶々としていたが、一人だけ別のことを考えているように見えた。

 「待って、今腹を括ってるから」

 「どういう意味だ?」

 意を決したのか、ジブラルはソファーから立ち上がっると叫んだ。

 「良し!ちょっと行ってくるわ」

 「どこにだ」

 「ババァんとこ」

 そういうとジブラルは翠緑色の鍵を取り出すと、リビングに扉を作った。

 「多分、明日になったら戻って来るから、それまでゆっくりしてて」

 中に入って扉を閉める直前、

 「綾ー!紫薇とプランジェに何か精の付くもんでも作ってやってー」

 台所で紅茶を飲んでいた羽月に向けてそういうと、ジブラルは扉と一緒に消えていった。訳のわからないまま、その場に取り残された紫薇とプランジェはお互いを一瞥すると、一緒に首を傾げた。


 次の日、朝八時ごろにリビングに扉が現れた。紫薇は朝食の最中だったので、その光景を見て思わず味噌汁を吹き出しそうになった。扉が開かれると、中から体中傷だらけの姿になったジブラルが出て来て、

 「ん」

 紫薇に白く光る立方体を渡した。手のひらに収まるくらいの大きさのそれは、ガラスで出来ているような質感だった。その立方体を渡すとジブラルはソファーに倒れ込み、ぐうぐうと眠り始めた。

 「紫薇、なんだそれは…?」

 「…わからん」

 それからジブラルは五時間ほど寝ると急に覚醒し、羽月に向かって飯と叫んだ。

 「で?これは何なんだ?」

 テーブルに並べられた料理を貪るように食べるジブラルを紫薇は呆れた顔で見ながらいった。

 「綾、ご飯お代わり」

 「はいはい」

 ジブラルは器用に箸を使って煮物や焼き魚を食べている。

 「あ、これも美味しい。ああ、それ?白銀世界のもとになった代物らしいわよ」

 「なんだと…?」

 驚愕する紫薇を他所にジブラルは口直しに白菜の漬物をつまんだ。

 「どこからそんな物を手に入れたのだ…」

 「『千年女王』って言えばわかる?あ、これは不味いわね」

 蒟蒻の触感が嫌いだったのか、苦い顔をして飲み込んだ。

 「『東の魔女』か!」

 「誰だ?」

 「第ゼルア級犯罪者の一人で、遥か昔から生きていることから千年女王の異名を持っている。噂ではナーガにおける最初の人間とも言われているらしいが、事実かどうかはわからん。名をメディストア・ニュベンジャーと言い、ナーガの最果てに住んでいることから東の魔女とも呼ばれている。まさかそんな者と交流があったとは…」

 「前に言っていた奴のことか」

 紫薇はメディストアという名前を聞いたことを思い出した。

 「だがその傷を見るに仲睦まじいって訳じゃなさそうだな」

 「まあね、それ掻っ払おうしたらバレて喧嘩になったから。っとに少しは手加減しなさいよね、あのババァ…」

 「というか良く生きて帰って来れたな…」

 「それでこれを使って何をするつもりなんだ?」

 「あのババァから色々と聞いてきたわ。まず紫薇、残念だけどあなたは響詩者にはなれないわ。別の世界の存在にはゾラメスの心臓を投影することは出来ないみたい。処女の庭園っていう概念がそもそもないからだって」

 「そういうことか…」

 「それでね、響詩者にならずにあなたを手っ取り早く強くする方法はあったのよ。その鍵が、その白銀世界のもとになった箱よ」

 そういって箸の先を立方体に向けた。

 「箸を使って差すのではない、この国では行儀が悪いことなのだぞ」

 「こないだ見たドラマの小姑みたいなこと言わないでよ」

 「お前ら意外とこっちの世界に馴染むの早いよな…」

 「そんなこと言ってる場合じゃないんだけど。紫薇、あなたにはランドリアに決闘を申し込んで欲しいのよ。あのとき…ランドリアがあなたにしたようにね」

 紫薇は治ったばかりの傷がずきりと痛んだような気がした。

 「だが一端に戦えるようになるには時間がかかるぞ。そうか、それでこれを使うということなのだな?だが一体これがどう役に立つのだ?」

 「それは実際に見せた方が早いから、庭に出ましょ。紫薇、ランドリアの剣を持って来なさい、すぐに訓練を始めるから。あ、でもお代わり食べてからね」

 それからもう二杯茶碗を平らげて、コーヒーで一服までした。


 傷の痛みの幻覚に苛まれながらも紫薇は剣を持って庭に出た。

「これはさっきも言った通り、白銀世界の礎となったもの。言ってみれば白銀世界の試作品って所らしいわ。今から二人には、この中に入って貰う」

 手に持っていた立方体を地面に投げると、立方体は地面にぶつかる前に宙に漂った。そしてジブラルが手をかざすと立方体は独りでに回り出し、やがてその大きさを人の背丈の二人分ほどに変えた。

 「良い?この小さな箱は凝縮された小宇宙だと思いなさい。この世界では思い描いた想像や概念を響詩者でなくても具現化することが出来るの。それを可能にさせるのは私がこの小宇宙を持続させている間だけ。その時間はちょうど一分よ」

 「一分でどう稽古をつけろというのだ」

 「こっちの世界では一分でも、箱の中じゃ一年に相当するのよ。ほんとはもっと時間かけたい所なんだけど、色々と制限があってね。私の力じゃ一分が限界なんだってさ、それに一回使ったらこの世界は崩壊しちゃうらしいわ」

 「なんと…」

 「それよりも一年の月日をかけるのは良いんだが、食事や排泄はどうすれば良い?その時だけ外に出れば良いのか?」

 「言ったでしょ。想像が具現化できるって。この中にいる限り、空腹もその体の怪我もあなたの思いのまま。確立された小宇宙。あなたは文字通り、この世界の創造主となれるのよ」

 「創造主ね…。便利なもんもあったもんだな。だがこいつがあるお陰で今は助かった。あの男に目にもの見せてやるよ…」

 紫薇はランドリアの顔を思い浮かべると剣を握りしめた。

 「さあ、そろそろ始めるわよ。二人とも中に入って」

 「みっちりしごいてやるからな、覚悟しておけ」

 「ああ、嬉しくて涙が出そうだよ」

 紫薇とプランジェが立方体に近づくと、二人の体が水面に沈むように立方体の中に吸い込まれた。

 ジブラルは二人を見送ると、立方体の前で座禅を組むように胡坐をかいて座った。そして両手を前に差し出してメディストアに教わった言葉を思い出していった。

 

 「これを使えばあんたの寿命は確実に減るわよ。白銀世界は多大な犠牲をもとに創られた。試作品とはいえ、どれだけの命を吸い取るかわかったもんじゃない。良いこと?良く考えなさいね、あんたまだ若いんだから」


 「うるせえっつの」

 言葉とは裏腹にジブラルの口もとは緩んでいた。

 ジブラルが立方体に向けて念じると、それに呼応するかのように立方体は桜色に光り始めた。ジブラルの体からは青い靄が浮かび、立方体はその靄を吸い取るようにして更に光を強めていった。


 一分間の沈黙


 びっしょりと体中に汗を滲ませながらも、ジブラルは微動だにしなかった。辺りの世界だけが独りでに動いている。そよ風がジブラルの頬を撫でて大粒の汗が顎からしたたり落ちた。

 立方体にひびが入る。小さな亀裂はあっという間に広がり、立方体の表面を埋め尽くすと音を立てて破裂した。その衝撃の中心から生まれ変わったかのような紫薇の姿が現れた。細長い手足は盛り上がり、全身が筋肉質な作りに成長していた。着ていた洋服は殆ど破けていて、血と汗で真っ黒だった。髪の毛はだいぶ伸びて一見すると別人のようにも見えてしまうほどだった。プランジェは紫薇ほどの変化はなかったが、髪の毛が伸びたのと身長が少し高くなっていた。

 「そ、想像はしてたけどだいぶ変わったわね」

 「そうでもないさ、だが剣が軽くなった」

 「成長期なだけあって変わるわねえ」

 「早くこの鬱陶しい髪を切りたいものだ。邪魔でしょうがない」

 「悪いこた言わないから髪は大事になさい、顔と同じくらい大事なものよ」

 そういうとプランジェは卑屈そうに肩をすくめた。

 「で、ランドリアには勝てそう?」

 ジブラルがそういうと紫薇は間髪入れずにわからんと言った。

 「出来るだけのことはしてやった。後はぶっつけ本番でやってみるしかない」

 「それで良いの?紫薇」

 「ああ、別に構いやしないさ。その話は半年前にプランジェと話を付けてる。博打のようなものだが、張らない事には始まらないからな」

 紫薇はそう言いながら庭の窓を開けた。

 「…し、紫薇くん?」

 羽月は変貌した紫薇の姿を見て口をあんぐりと開けた。身長は羽月と同じくらいになっていた。

 「すいません、新しい服を買ってきて貰えますか?今あるものじゃ背丈が合わないと思うから」

 「わ、わかりました。ちょっと待ってて下さい」

 そういって羽月は目の前で起こっている状況に困惑しながらも慌てて玄関から飛び出していった。

 「…そんなに変わったか?」

 顔を後ろに向けるとジブラルとプランジェは何度も頷いた。

 紫薇は窓ガラスに映った自分の体を見て二の腕に力を入れてみた。めきめきと筋肉は音を立てて膨張する。権兵衛はその姿を見て口をあんぐりと開けていた。


 羽月が帰って来ると紫薇は買ってきた新しい洋服に着替えた。灰色のハーフパンツに黒いレギンスを履いて、黄緑色の蛍光色のビニール質で出来たウィンドブレーカー、白い七部袖のティーシャツを着た。腰には権兵衛用のウェストポーチを巻いた。

 「動きやすい服装が良いかなと思って選んでみました。サイズはどうですか?」

 「ぴったりです。ありがとうございます」

 「なかなか似合ってるじゃない、脱根暗って感じね」

 「放っとけ」

 洋服を着るとやっと紫薇だとわかったのか、権兵衛は尻尾を振って紫薇に擦り寄った。

 「権兵衛、お前の力も借りる事になる。その時は頼むぞ」

 そういうと権兵衛は意気揚々に叫んだ。

 「さて、準備は良いかしら?出発の時間よ」

 ジブラルは庭先でレミアの鍵を使い、扉を作り上げた。

 「いつでも」

 「私もだ」

 「城の正門から堂々と乗り込んでやりましょう。どうせ中にいる奴らとは戦うことになるんだし。着いたらど派手な花火を打ち込んであげるわ」

 「作戦ってもんはないのか…」

 「私そういうの苦手だし、出たとこ勝負でも良いでしょ」

 「本来なら呆れ返るところだが、実は私もその手は嫌いではない」

 ジブラルとプランジェはお互いを一瞥すると笑い合った。

 「(脳筋どもめ…)」

 ジブラルが手を扉の前に差し出して中に入るように促すと、扉は独りでに開いた。白い海原がその姿を覗かせると、紫薇は久しく忘れていた白銀世界の空気を実感した。モノクロの世界が醸し出す異様な雰囲気。紫薇は改めてその奇怪さを目の当たりにすると、自然と喉を鳴らした。

 「いってらっしゃい」

 羽月の言葉を背中に受け、三人の姿はその場から消えていった。


 「さて、先ずはあの橋を渡るわよ」

 ジブラルの指差した方向にはミルク色の海岸の真ん中、砂浜から伸びた木製の架け橋が水平線まで続いていた。水平線は霧に包まれていたので奥行きがわからなかったが、三人は臆することなく進んでいった。

 「落ちないでよ?落っこちたらどうなるかわかんないから」

 「波は…あるのだな…」

 プランジェは恐る恐る下を見ながらいった。海面は静かに音を立てて揺れている。しかしその水の中は白一色で、中に何が潜んでいるかわからなかった。

 「そういえばあの鯨のような…亀のような生き物はいったい何だったんだろうな」

 「ああ、あれね。白銀世界の中心でクレシェントと戦ってたら、いきなり飲み込まれたんだっけ…。まさかこの白い海の中にいるんじゃないでしょうね」

 「そいつに飲み込まれてこっちの世界にやって来たのが発端だったな。そういやプランジェもそうだったか?」

 「いや、私はどうもそのときの記憶が曖昧なのだ…。一人でクレシェント様の居城にいたのだが、誰かに声をかけられたような…。気が付いたらここでお前とクレシェント様に出会っていたのだ」

 プランジェが最後に聞いたのはしわがれた老人の声だったが、姿をまったく思い出せずににいた。

 「とういうかあいつ、城なんて持ってたのか…」

 「城とは呼んでいるものの、実際には巨大な樹木をくり抜いて作った住処だ。クレシェント様が道中で偶然見つけたと仰っていた」

 「勝手に自分の住処にする辺りがあいつらしいな…」

 「あれ城なんて呼べたモンじゃないわよ…。確かにデカいし、頑丈だったけどさ。まるで建築を知らない人間が一人で作ったみたいに酷かったわね」

 「…確かに見てくれは宜しくないが、それでも中は私と姉さんで快適にお過ごしいただけるよう改築した。クレシェント様をお助けした後にでも改めて中を見てみるのも良いだろう」

 「ご招待にあずかり光栄だわ」

 三人は談笑しながら橋を歩いていく。紫薇がちょうどもと来た道を振り返ってみると、いつの間にか白い霧が背後に回っていて視界を遮ってしまっていた。

 「大丈夫よ、このまま進んでいけば、あとは勝手に向こう側にぶつかるから」

 「仕組みが今一つわからないな。どうやってナーガへの道に繋がるんだ?」

 「頭の中でナーガの景色を思い浮かべながら歩いてんのよ。あとは勝手に、というか強制的に向こう側に辿り着いているわね。何も考えてないと永遠にこの橋を渡らされて、どこかに行きたいって考えていれば適当な世界に飛ばされるわ」

 そういって手の甲に埋め込まれている妖精のかけらを見せた。石は淡い光を点していて、まるで持ち主の意思を読み取っているかのようだった。

 「渡りたい世界の認識がなければ、そもそも道が開かれないのか」

 そうしている間に一瞬、体が引っ張られるような感覚がすると、霧が晴れて向こう岸が目の前に広がった。まるで橋を渡ってそのまま引き返してきたような感覚だった。同じように橋の先にはジブラルが建てたであろう緑色の扉があった。

 「この扉の先がデラの居城か…」

 「お前はランドリアとの決闘だけを考えていろ。背中の敵は、私が引き受ける」

 「相変わらず威勢がいいですこと。じゃあ紫薇、どうぞ」

 ジブラルの手に招かれて紫薇はドアノブを握った。

 扉を開けると、そこには光沢のある黒い壁が聳えていた。首が痛くなるまで見上げても、まだ壁の端が見えないほど遠大だった。その壁は左右にずっと先まで伸びていたが、所々が砕けて崩れ落ちていた。

 「ここがナーガ…」

 紫薇はその城に圧倒されたあと、自分が異なる世界にいることを改めて認識した。城の周りにある木々は自分の住む世界に似ているものの、夜空に浮かぶ巨大な丸い光、それは月に似ていて緑色に光っていた。目を凝らしてみると、その月は窪みの代わりに真ん中にうっすらと線が入っていた。

 「こっちの世界に似ちゃいるが、こんな夜空は拝めないな…。それにこんな建物の様式は見たことがない」

 「ナーガにおける最大の王朝、グリアデス地方を治めていた王族の城の成れの果てだ。かつての威厳は失われ、今や廃墟と化している。デラのような悪しきものどもにとっては格好の根城という訳だ」

 紫薇はそれを聞いて腰にぶら下げた剣の柄を握りしめた。緊張が眉間に寄ったしわの数だけ現れている。

 「んじゃひとつ、開戦の狼煙でも上げましょうか」

 紫薇の緊張を見ると、ジブラルは余裕を見せるように口角を上げて左手を壁に差し出した。

 『グラノイド・シュベール(囁いた情婦の吐息)』

 ジブラルの左手から繰り出されたピンク色の光が一直線に壁に向かう。光は揺蕩う尾びれを引きながら壁にぶつかると、甲高い音を立てて弾けていった。光は壁を蕩かすように広がり、目の前に広がっていた壁の殆どを崩壊させた。

 「さあ、行くわよ!」

 三人は蕩けた壁の穴に向かって走り出した。


 暗闇の中に手が伸びていた。その手は痩せ細ったように細長く、一本の棒切れのようだった。その傍には今度は足が伸びていた。同じように細長く、干物のような色をして干からびていた。その手が、足が、至るところに散らばっている。

 何百というミイラたちが累々と重なるその光景を、デラはひっそりと眺めていた。その赤い目は憂いを帯びて、視線の先にある対象から哀愁と後悔と、そして耐えがたい悲痛さを受けていた。

 「この場所には近付くなと、あれほど念を押した筈だが?」

 デラの声が自然と荒くなる。明確な敵意を持ってデラがその赤い目を向けると、赤く光る唇と目が暗闇の中で浮き上がった。

 「人目を盗んで何をしているかと思ったら…。怪人と呼ばれたあなたでもそんな顔をするのね」

 「二度は言わんぞ」

 デラの目に殺気が込められると、その表れのように右腕から小さな翼が生えた。薄く尖ったその翼は蝙蝠の翼に似ていたが、翼の淵は更に薄く切れ味があった。

 「セレスティンはここには来ないわ」

 その言葉を耳にすると、あれだけ込められていたデラの目の殺気が一瞬消えた。

 「…なに?」

 「と言うよりも、始めからここに来るつもりはなかったようだけど」

 「それは構わないが、彼女の手綱は私が握ったままだぞ?黒い月なしでどうやって女王を君臨させるというのだ」

 「七つの月のお話は知っているかしら?おとぎ話の一つで、かの女王がこの世界を監視する為に設けた月に纏わるお話を」

 「まさか…」

 「セレスティンは初めから月を七つ作るもりだった。そのうちの、出来損ないだった試験体であるテテノワール(黒い月)をあなたに寄越し、さもそれが協力的に、独占的にその手の中にあるかのように謀った。彼が欲していた情報は、出来損ないが生まれた時点で既に終わっていたのよ。あなたはその紛い物に没頭し、偽りの夢に興奮していた。まるで自慰するみたいにね」

 くつくつと笑いながらキジュベドは歩き出した。

 「七つの月とはその数だけの可能性でしかない。ましてや不要になった試験体など、その存在価値すらないのよ。可哀そうに…テテノワールは何の為に産まれて、何の為にその手を汚してしまったのでしょう?」

 その話をデラはただ黙って歯を食い縛って聞いていることしか出来なかった。

 「でも私はあなたに同情するわ。だって私とあなたが抱いている悩みは同じなんだもの。お互いこの体に流れる血の力には苦労してきたわよね。知っていて?別の世界にはね、同じ穴の狢という言葉があるのよ」

 「…お前の狙いは何だ?何を企んでいる?」

 デラがその言葉を発した途端、城内が揺れた。震源地をデラは肌で感じ取ると、そこには以前、手にかけた筈の自分と同じ原罪人の称号を持った力があった。

 キジュベドの口元が緩む。その笑みが全てを物語っていた。その瞬間、デラの体がキジュベドの眼前に現れ、刃となった翼が振るわれるとキジュベドの体を上下二つに切り裂いた。しかしデラの腕に切り裂いた感覚があったものの、キジュベドの体は赤い砂となって崩れていった。

 「あの扉は確かにある。でもそれを開けるのはあなたじゃない」

 姿は見えないが、キジュベドの声はどこからか発せられていた。

 「そこでいつまでも自分の罪と睨めっこしているのね。同じ『亜人』でありながら、罪から逃げることしか出来ないあなにお似合いだわ。さようなら、最後の『呑魂族エヴァルク』よ」

 闇の中に赤い唇が浮かぶ。キジュベドは部屋にある柱の裏にいた。デラに顔を見せず、柱の裏から嘲笑してそこから離れようとしたときだった。キジュベドの目の前の闇には赤い光が二つ浮かび、それがデラの双眸だとわかったときにはデラの手がキジュベドの首元を掴んだあとだった。

 その挙動はキジュベドも予想外だったのか、大きく見開いた目がその動揺を表していた。キジュベドの体が壁に叩き付けられると、その衝撃で壁は煙を立てながら粉砕され、外の光が部屋を照らした。

 間髪入れずにデラの右手がキジュベドの胸を貫く。小さな嗚咽がキジュベドの口から洩れると、デラは貫いた腕を引き抜いた。自分の腕に着いた鮮血を見ると、デラは確かな手ごたえを感じた。しかしキジュベドが半歩後退すると、それまで苦痛に歪んでいた顔が止まり、異様なまでに口角が上がった。その表情に思わずデラは目を細め、次の行動を取ることが出来なかった。

 頬が裂けんばかりの笑みを見せたまま、キジュベドは空いた穴から地面に向かって背中から落ちていった。デラはただ黙ってその様子を見ていることしか出来ず、その笑みがやがて小さくなって消えると、胸を撫でおろした気分になった。

 「逃がしたか…」

 空いた穴から風が吹き込むと、部屋の中で重ねられていたミイラが風で動いて乾いた音を立てた。ミイラの山は長い年月が経っているせいで半壊していた。外の光にミイラたちが照らされると、大人の体つきのミイラや手足の伸びきっていないミイラが露わになった。

 「ご免よ…。肌寒いだろうに…」

 デラはそのミイラたちに自分の羽織っていたマントをかけると、またその目に憂いを見せた。


 一行は入り口を抜けて道なりに進んでいた。先頭をジブラル、真ん中を紫薇、殿にプランジェの一列になって並び、ジブラルの直感を頼りに道筋を決めていた。薄暗い廊下を一直線に走り、進行方向に壁があるとジブラルは右腕を使ってその壁を破壊しながら進んだ。そうして三つ目の壁を壊してみると、そこで初めて広間に出た。広間の上には丸いステンドグラスのような薄い板が張られ、そこから月明かりが差し込んで、さながら円を描いたコロッセオになっていた。

 「!」

 不意にジブラルは真上に気配を感じ取ると、動かしていた足をぴたりと止めた。それに続いて紫薇とプランジェも動きを止める。

 と同時に天井のステンドグラスが音を立てて割れ、その中心から一人の男が飛び散った破片と一緒に床に降り立った。

 「ランドリアから様子を見て来いって言われたが…またお前かよ」

 その男はジブラルの顔を見ると、そこから視線を下に向けてジブラルの胸や足をじっとりと見た。

 男は長い髪をヘアバンドでまとめ、耳や唇に金属の飾りを着けていた。毛皮のついた厚手のコートに黒いタンクトップを着て、灰色の傷だらけのズボンに白いブーツを履いたその姿は素行の悪さを表していた。

 「殺すには勿体ねえなあと思ってたよ、生きてて何よりだ」

 「そこを退きな、死にたくなかったらね」

 「つれないこと言うなよ。こんな辺鄙な所までやって来てな。こんな野暮なことは止めて、どっか行こうぜ。美味い店知ってんだよ、俺」

 「お生憎様、そういう男は卒業したのよ」

 「他の男と比べるなよ、お前を満足させる自信はあるんだ」

 「しつけーんだよ」

 ジブラルは口調を荒げていった。

 「ああ、そうかよ。じゃあ止めだ。力ずくで言うこと利かせるしかねえわな」

 ジブラルの感情が移ったようにその男の口調も悪くなっていった。

 「紫薇、よく見てて。これがゼルア級だってわからせてあげる」

 そういってジブラルは右腕の中指だけを立ててその男に向けた。

 「嫐ってあげるわ」

 「そりゃあ俺の台詞だよ。その体にわからせてやらなきゃあな」

 男の指にはめられていた骸骨の輪が紫色の光を点すと、手を裏返して中指と薬指をジブラルに向けて弾いた。

 『エデュ・サグウェントル・モーリス(濡れた英知は無を司る)』

 男の指先から頭蓋骨の形をした概念が現れると、その口を開きながら飛び出した。頭蓋骨はジブラルに近づいていく中で紫色の炎を点しながら徐々に大きくなり、大人一人を口の中に飲み込んでしまうほど巨大化していった。

 「!」

 ジブラルがその具現化された頭蓋骨に向けて身構えたときだった。目の前から飛来する頭蓋骨とは別に、ジブラルの周りから同じ大きさの頭蓋骨が八方から迫っていた。それら八つの頭蓋骨は火に包まれ、口を開けて食いつこうとしている。

 ジブラルは右手をぐっと握り締め、その中に力を溜めていた。単純な握力。強大な力が圧縮され、頭蓋骨がジブラルの体を噛み付こうとした矢先、右手が開かれ、ジブラルが右腕を振るった。

 太い、棘のようなジブラルの指先が頭蓋骨を切り裂いていく。切り裂かれた頭蓋骨は衝撃でその火を吹き飛ばされ、身を砕かれ、消滅していった。その光景に紫薇とプランジェはただ圧倒されていた。

 男は自分が具現化した頭蓋骨が破壊されるや否やその場から飛び出た。左腕に蜘蛛の足のような形をした骨を携えながら。それは巨大な爪のようにも見えて、ジブラルの目の前まで駆けつけると、ジブラルの顔を殴るようにして爪を振るった。

 しかし爪は空を切っただけで、ジブラルは体を横に逸らしてその攻撃を避けていた。右腕にも同じ爪を具現化させると、続けてもう一度、ジブラルを狙うが、またも爪は空を切った。それから二度、三度、男が腕を振るってもジブラルの素顔が汚れることはなかった。

 何度目かの空振りの際にジブラルはその男の足を引っかけ、重心を崩して体を転ばせた。そして男の体が宙に浮いたのを狙って拳を作り、右腕を突き出した。一瞬、男の骨が軋む音がすると、そこから吹き飛ばされて奥にあった柱に激突していった。

 「圧倒的だな…」

 紫薇はその動きを目で追うので精一杯だった。

 柱は衝撃で崩れ、土煙が晴れるとぐったりと腰を落としている男の姿が現れた。ジブラルはゆっくりと男に近づいていき、止めを刺そうと再び右腕に力を込め始めた。紫薇とプランジェがその行く末に息をのんだ最中、突如としてジブラルの足もとが緑色の光に包まれた。

 『カープス・アリギュレスト(着飾った無秩序は)』

 その概念はジブラルの目の前で項垂れている男が放ったものではなかった。その代わりこうなることを予め目論んでいたのか、男の口もとは緩んでいた。

 「悪いな…。お前の顔、傷モノになっちまうわ。俺の好みだったんだが」

 緑色の光の中から同じ色をした結晶が現れると、まるで植物の蔦のように宙に向けて伸びだした。そしてその尖った先をジブラルに向けると、光が反射して闇に隠れていた者が照らされた。

 背丈の低い子供が床に手を着けて奏力を緑色の結晶に流し込んでいる。まだプランジェとそう変わらない年頃で、黒いハーフパンツに白いブラウスを着て、どこか品位のある顔をしていた。

 「…さっさとやれ!メルト!」

 男が怒号を上げると、その少年は慌てて結晶の蔦を操った。蔦はジブラルの周りに幾つも伸びていて、少年が念じると一斉にその鋭利な先端をジブラルに向けた。

 「えっ…!?」

 しかし結晶の先はプランジェの体のすぐ傍で止まっていた。実際にはジブラルの体の周りに目に見えない力が働いていて、結晶はその力に押し返されていた。やがてその力に青い色が滲み始めると、ジブラルの体から青い靄が浮かぶように見えた。青い靄は徐々に結晶の色を奪っていき、結晶の先端から崩壊していった。

 アデュナミスの危機。その少年が繰り出した奏力よりも、ジブラルの体から吹き出す奏力が圧倒的に上回っていたため、結晶の概念を侵食して崩壊させた。その間、ジブラルの瞳はその力を象徴するかのように青く光っていた。

 「並の響詩者では文字通り手が出せない。これがゼルア級か…」

 紫薇は改めてジブラルの実力を垣間見た。その手をどんなに伸ばしても決して辿り着かない呪われた頂。青いオーラを纏ったジブラルの姿は邪悪な女神のようだった。蒼昊の悪女。紫薇はその忌み名通りの力を見せつけられた気がした。

 『ヴァナデラ・サグウェントル・モーリス(涅槃の沼に沈められて)』

 倒れていた男の手の平の上には、辺りを埋め尽くすほどの大きさの銀色の液体がぶよぶよと浮かんでいた。その表面には細かい棘が付いていて、生きているかのように蠢いている。

 「よしんば手傷の一つでもついてくれりゃマシだったんだが、時間は稼げたな。たまには役に立つじゃねえか」

 「ま、待ってよ…。僕も巻き込むつもり!?」

 男の行動は予想していなかったのか、少年は狼狽していた。

 「うるせえな、端からそのつもりだよ。俺は野郎にゃ甘くねえんだ」

 銀色の液体は更にその面積を広げ、辺り一帯を陰で覆ってしまっていた。しかしジブラルはその光景を目の当たりにしても動揺することはなかった。

 『グラノイド・シュベール(囁いた情婦の吐息)』

 男が完全にその概念を具現化させるより前にジブラルはピンク色の光を放り投げた。光が銀色の沼の中に沈むと、爆ぜて銀色の沼を膨らませ、内部から破裂させた。

 「嘘だろ…」

 男がその光景に圧巻された直後、眼前にジブラルの姿が飛び込んだ。そしてジブラルが右腕を振るうと、男の視界は真っ暗になっていった。

 ジブラルが右手についた血を払うと、そこにいたはずの男の姿は消えていた。強烈な力で体を引き裂かれ、肉体はその場から消滅したのだ。床に擦れた血の痕だけが残されていた。

 「そんな目で見ないで頂戴、口で言ってわかるような男じゃなかったんだから」

 ジブラルの強さ、そして残忍さに紫薇とプランジェは思わず固唾をのんでしまっていた。初めて人が殺された瞬間を目の当たりにしたのだから、気が気ではなかったのだ。だがジブラルが小さく笑ってみせると、二人はやっと正気を取り戻した。

 「あ、ああ…」

 「お前のバケモノ染みた強さを見たら、漏らしても誰も笑いやしないだろうよ」

 「そうね、それが原罪人の称号を持つ者の力だから。これから戦う連中の一人が、この力を持っていることを心してね」

 そういうと紫薇は改めて気を張り詰めさせた。

 「そこのガキんちょ、こっちに来なさい」

 ジブラルが声を上げると、少年は暗闇の中で体を強張らせ、躊躇いがちにその姿を見せた。薄い金髪が綺麗に靡いている。

 「ぼ、僕も殺すのか…?」

 「そうされたくなかったら、クレシェントがどこにいるのか教えなさい。このまま闇雲に城の中を駆け回っていても埒が明かないのよ」

 「知らないよ、そんな人」

 「ふうん」

 そういうとジブラルは少年を頬を抓った。

 「いたい!いたい!」

 「生意気にデラを庇おうって訳ね。いつまで我慢できる?」

 「ほんとに知らないんだよ!」

 「ほー」

 その光景は年の離れた姉が弟をいじめているようにしか見えなかった。

 「なんであんたみたいなガキんちょがデラの従者をやってるかわかんないわね」

 「僕はそんなんじゃない。ただこの城の部屋を借りてるだけだ」

 「あら、家出?もうちょっと年食ってからにしなさいよ」

 「あんな家に戻れるかよ…」

 ばつが悪そうに顔を背けた。紫薇は何故かその少年が顔を背けたのがわかった気がして、自然と共感していた。同じにおいを感じたといった方が良いのかもしれない。

 「お前がデラの配下でないなら話せる筈だ。銀色の髪をした女を探してる。どこにいるか教えてくれないか?頼む」

 それは少年も同じだったのか、紫薇の顔を見るとぽつりと呟いた。

 「…この奥にある階段は地下室に繋がってる。実際に見た訳じゃないけど、たぶんクレシェントって人はそこにいると思う。デラに入るなって言われてた場所の一つだから」

 「なによ、やけにあっさり吐いちゃって」

 「別に…」

 「待て、罠だったらどうするつもりだ?」

 「そのときはジブラルに罠ごと壊して貰うさ。この城をふっ飛ばしたって誰も咎めやしないからな」

 「まあ、それはそうね」

 「別に嘘は吐いてないよ。信じる信じないは好きにすれば良いさ。僕には関係のない話だから」

 「ほんと生意気ね」

 ジブラルがもう一度頬を抓ると少年は悲鳴を上げた。

 「良いわ、今のところ他にあてもないし地下に降りてみましょう。それで良いわね?プランジェ」

 プランジェは渋々了解したように溜め息を吐いた。

 「ありがとな…ええと、メルトだったか?」

 「うん」

 「こいつらが暴れるだろうから、さっさと城から離れた方が良い。じゃあな」

 「うん」

 紫薇はその場から離れる直前、メルトの顔を見た。エメラルドグリーンの瞳は綺麗な色をしていたが、どこか虚ろだった。紫薇がそれを感じ取ると、背中に鈍い痛みが走るのだった。

 一行は広間を抜けて、薄暗い廊下を突っ走るとなだらかな階段に出た。階段は螺旋状になっていて、三人が横に並んでもまだ奥行きがあった。ぐるぐると階段を駆け下り、百段を超えてもまだ先が続いていた。

 「ねえ、なんだかあのガキんちょに優しくなかった?」

 「…そうか?」

 「普段、私に接するよりも丁寧に感じたがな」

 「それはそうだな」

 そういうとプランジェは眉間にしわを寄せた。

 「(家出…そっか、家族に疎まれてるってとこが同じだったからってことね)」

 走りながらジブラルは紫薇の顔をそっと覗いていた。紫薇の顔はどこか悲し気だったが、すぐにまた闘気を出して顔に力を入れた。

 階段を下り切ると、再び広間に出た。広間の床は光沢のついた黒い大理石のようで自分の顔が映るほどだった。広間の奥には床から天井まで伸びた細長い扉があった。

 「この先にデラとランドリアの奏力を感じるわ。あのガキんちょが言ってたことは本当だったみたいね」

 「だがその前にあの門番をどうにかしなければな」

 いつの間にか扉の前には一人の男が立っていた。体が細く、二百センチはあるその背丈の様は背後にある扉のようだった。

 「今度は私が戦おう」

 一人先にプランジェは前に出た。

 「我が名はプランジェ・フィーリアス!我が主を連れ去った賊を成敗せんとこの地に来た。命が惜しくばその道を譲るがいい。拒めばその命、アシェラルのもとに寄越してみせよう!」

 時代劇のワンシーンのように名を上げると、手にナイフを握りしめてその先端を男に向けた。するとその男は扉の前から一歩踏み出し、その姿を見せた。床まで伸びた長い髪、暗い灰色に染まった髪の毛は不気味な印象を与えていた。顔に布を巻いて素顔がわからないのがより恐怖心を駆り立てる。

 「ブロスタス・ビラルデン…」

 自分の名前を口にすると、髪の毛をかき分けて細い両手を出した。

 『ネグリフタル・アシェード(紳士は嘘を吐かない)』

 ブロスタスの目の前に大小ばらばらの黄金の球体が五つ現れた。球体はこぶし大のものから、目玉くらいの大きさまであって、それらが淡い光を点すとプランジェに向けて光を撃ち出していった。

 プランジェはその光を見るや否やその場から駆け出し、まっすぐ光に向かっていった。途中、紫薇はプランジェの手癖であるナイフを回して持ち手を入れ替える挙動を見た。それはプランジェが落ち着いている証拠でもあった。

 走りながら光線を右に左に避け、プランジェは一気に相手との距離を詰める。ときには俊敏に跳んでみせたり、体を屈めたりして光線を寸でのところで避けた。そしてブロスタスの目と鼻の先にまで走り切ると、手に持っていたナイフを振るった。

 光の線がブロスタスの胸を切る。ナイフの刀身が光を反射して鈍色に光った。だがその直後、プランジェは妙な違和感を覚えた。人を切った感触でない。まるで重い靄を切ったような感触だった。

 「なに!?」

 ブロスタスの体が淡く光り、その光が三つの方向に伸びるとブロスタスの体が三つに複製されてそれぞれ離れていった。どれも淡い光を点したままで、どれも虚像のように見える。切ったはずの実像はいつの間にかプランジェの目の前から消えていた。

 すぐさまプランジェは体の向きを変えてナイフを三本取り出すと、その三つの虚像に対してナイフを投げた。

 「ねえ、あのナイフって具現化した割には随分と本物そっくりだけど…。手持ちのナイフじゃないのよね?」

 ジブラルはプランジェの繰り出したナイフを見て驚きを隠せなかった。

 「ああ、あれはプランジェが具現化したものだ。あいつと訓練していた中でも話題に上がったよ。この一年、肉体の鍛錬だけじゃなく響詩者に関する知識も着けておいた。響詩者は概念を具現化するが、それは完全に物質となる訳じゃない」

 振り投げられたナイフが二つの虚像を貫いたあと、三体目の虚像が腕を振り払ってナイフを弾いた。甲高い音を立てたあと、ナイフは床に落ちて転がった。

 「あいつの具現化は普通とは違う、処女の庭園にあるものをそのままこの世界に持って来れるんだ。そもそもあいつは響詩者ではないのかもしれない」

 プランジェが次に具現化させたものは刃渡り九十五センチ、刀身の反りの低い日本刀と呼ばれる武器に酷似した刃物だった。

 「それって…」

 「考えられる可能性は一つだけだ。あいつも俺と同じく、ナーガの人間じゃないってことだ」

 刃物がブロスタスの肩を貫く。血潮が生じて刀の刀身がべっとりと汚れた。体の中に異物が入っているその妙な感覚は、ブロスタスが動揺するには十分だった。加えて刀には実物と同じ重さがあることもブロスタスを驚愕させていた。

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