10話 青い笑顔を追いかけて
雨が降っている。冷たい雨。その雨は紫薇の頬を濡らしていた。雨は紫薇の体から熱を奪っていく。命を垂れ流しながらその色を辺りにこぼしてまるで紫薇の心を投影したかのように淀んだ模様を地面に描いていた。
ぼやけた紫薇の視界の中で銀色の髪の毛をした女が立ちずさんでいる。その女の表情を紫薇は目にすることは出来なかったが、紫薇はその女がどんな顔色だったのか知っていた。紫薇がその女を呼ぶ。しかしその女が振り向くことはなかった。
ジブラルがやって来た次の日、紫薇は普段通りに学校に通った。その日は天気予報どおり雨が降っていた。灰色の雲の下、しとしと雨が流れている。紫薇はビニール傘を持っていたので濡れることはなかったが、なぜか雨雲が無性に紫薇の胸を不安にさせた。雨が嫌いな性分でも今日の天気は特に気持ちが落ち着かなかった。
授業が終わり、いつもより足早に下校する。傘の膜から見える雨雲が忌まわしい。少しでも近道をしようと紫薇はいつもと違う帰り道、街路樹を通っていた。ふと視線の先に黒い影が浮かび上がる。俯きがちだった視線を上げると、そこには黒い鎧を着こんだ男が立っていた。
「お前は…」
雨の中、傘も差さずにそこに立っていたのはランドリアだった。鳶色の髪の毛が濡れて素顔を隠していても、それが誰なのか紫薇にはすぐにわかった。そして目先の殺気が今回は自分に向けられていることを知ると、紫薇は自然と喉を鳴らした。
「懲りずにまたやって来たのか…。しかも今度は俺に用があるらしい。丸腰の相手に随分だな、ランドリア」
紫薇は強がってみせると、動揺しそうになるのを必死に隠した。言葉を並べて時間を稼ぐ。その間に誰かが駆けつけてくれるかもしれないと期待しながら。
「受け取れ、小僧」
しかしランドリアが取った挙動は紫薇の予想とは食い違っていた。一本の剣が紫薇に向けて放り投げられる。鞘に納められた剣は地面を滑って紫薇の足もとで止まった。
「なんだと…?」
紫薇が視線を落とすと、そこには凡そ自分の国では見たこともない剣があった。直角三角形を引き延ばしたような形の鞘で、漆のような光沢を持っていた。鞘の大きさは約三十センチ、刃渡りは九十五センチあった。
「まさかあの女を賭けて決闘でもしようってのか?」
紫薇は文字通りまさかと思いながらいった。
「そこまでわかっているのなら、これ以上の問答はいらんだろう。抜け」
「古風な男だな、それがそっちのお国じゃ当たり前なのか?生憎とこんな野蛮な物を扱ったこともないんでね、その申し出は断るよ」
「もし私に一太刀でも浴びせられれば、二度と壊乱の魔姫に手は出さないと約束しよう」
「…そんな口約束を信じろと?」
「自身の最も高価な剣を使わせ決闘を行う。その決闘に掲げられた言動は決して覆されることはない。それは母の形見だ、私にとってそれ以上に価値ある物はない」
「お前以外の奴が襲って来たらどうするつもりだ…」
「そのときは私の命を以って食い止めよう、仮にそれが我が主であってもだ」
予想外の返答に紫薇はますます焦り始め、だんだんと切り返す言葉が思いつかなくなっていた。
「ただの人間と響詩者が戦っても勝敗は見えてる。公平な決闘に見えるか」
「貴様相手に概念は使わん」
そういって自分の制約を見せつけるように一本の大鎌を取り出した。細長い持ち手の先に刃渡り百三十センチほどの刃が弧を描いている。
「ちっ、どこまで面倒な奴だ…」
紫薇は決闘の申し込みを受けるかどうか迷いながら足もとにある剣を手にした。
「(想像よりずっと重い…!)」
始め紫薇は剣が地面に張り付いているのかと錯覚するほどその剣の重さを感じた。片手ではとても持ち切れず、紫薇は肩にかけていた傘を捨てた。そして両手を使ってようやっと持ち上げ、柄を握って少しだけ刃を見た。
クリーム色の刃が雨粒を両断する。持ち手の部分の刃は分厚く、切っ先に向けて徐々に薄くなっているようだった。初めて見る人殺しの道具に紫薇は自然と躊躇いを感じてしまった。普段目にしている包丁とは違う、人を切るために作られた武器に圧倒される。
「本当に一太刀でも浴びせたら…かすり傷でも良いんだな?」
決闘を受ける意思を持たせずとも、その言葉は申し出を肯定してしまっていた。
「良いだろう」
「(とはいえここで決闘を断れば、どのみち奴は俺を切り伏せるか…)」
努めて冷静に紫薇は今の状況を考えた。紫薇は剣を目を向けていたが、視線をランドリアに向ける。ランドリアの目には一切の迷いも、驕りの色もなかった。それが返って紫薇の考えをかき乱した。
「…わかったよ」
剣を持ち上げる際、紫薇はこっそりと地面を握って泥を掬った。どんなに達人でも隙はある。そこを狙おうと、紫薇は卑怯と自分でわかっていながらも策を練った。
「(わかっちゃいたが、やはり重いな…)」
刀身を鞘から完全に抜き放つ。予想通り、刃先は薄くなっていた。だが重さは二キロぐらいだろうか、紫薇は両手で持つのがやっとだった。切っ先が地面に向いてしまい、自然と体を曲げる体勢になってしまった。
と同時にランドリアが右足を前に出す。そして体の重心を平行移動させる動きをしながら紫薇に急激に近付いていった。意外にも紫薇の目はその動きを追いかけることが出来た。それは今までに更に速い動きを、クレシェントやジブラルのような挙動に見慣れてしまっていたからかもしれない。
紫薇は片手を柄から離し、指先に隠していた泥をランドリアに向けて放り投げた。泥はこげ茶色の霧のようになってランドリアの顔に向けて飛び、大鎌を振りかざすよりも前にランドリアの顔を汚していった。紫薇とランドリアの距離が手で届きそうになった頃、紫薇は手をもとに戻し、両腕を思い切り引いて剣を振り払った。
泥がランドリアの目や口、鼻先に付着する。その間隙を縫って剣の刃がランドリアの体にゆるりと触れる直前、紫薇の視界に鈍色の光が閃いた。甲高い金属音が鳴るのと同時に紫薇の両腕は外側に大きくのけぞられた。
「ぐっ…!?」
柄が紫薇の手のひらを削りながら離れていく。吹き飛ばされた剣は明後日の方角で音を立てて落ちた。紫薇が手を見ると、手のひらは真っ赤に染まっていた。痺れとともに鋭い痛みが手のひらを焼く。いつの間にか大鎌の刃が紫薇の首筋に添えられていた。
「初手としては悪くない挙動だった。力のない者が振り絞って得た考えとしてはむしろ称賛に値する。卑怯とは言うまい、だがその程度の抵抗でこの私が止められと思うな」
目に泥が入っていてもランドリアは怯むどころか瞬きすらしなかった。だがそんなことよりも紫薇は傍に添えられた大鎌の刃に目と意識が向いてしまっていた。あと数センチでも動かされれば、自分の命はあっという間に消えてしまう。そんな恐怖が紫薇の四肢を痺れさせた。しかしランドリアの次の言葉は意外なものだった。
「拾え」
「なに…?」
ランドリアはそういうと紫薇の首もとに近付けていた刃を引っ込めると、今度は切っ先を落ちている剣に向けた。
「これでは前座にもならん、剣戟を続けろ」
「くっ…!」
紫薇は手の痛みに耐えながらその場から走って剣を取りに行った。その間、ランドリアは顔に着いた泥を拭った。
「くそっ…!」
悪態を吐きながら紫薇は剣を持ち上げる。しかし刃の重さに負けて剣先を宙に浮かせることは出来なかった。それでも構わず紫薇は地面を削らせながら走り、再びランドリアに目がけて剣を振るう。
その振りは余りにも遅すぎた。ランドリアは足さばきだけで避けてみせると、紫薇の体は刃の重さに負けて上半身を崩した。膝を笑わせながらも紫薇は体勢を立て直し、もう一度剣を振るう。しかし剣の速度は前よりも遅く、今度は明後日の方に向けて刃が宙を切った。
ランドリアが鎌を振りかざす。紫薇は偶然にも刃を振り上げようと柄を引いていた。途轍もない衝撃が刃を伝って紫薇の両腕をしびらせ、刃ごと後ろに吹き飛ばされた。その場から飛び退いたように紫薇の体が地面の上を滑空し、何度も地面を転がされるとやっと体は止まった。剣は紫薇の両手からすっぽ抜け、肘や膝は擦り剥けて血で滲んでいた。
「ちく…しょう…」
紫薇は上半身を起して視線を前に向けるが、そこには既にランドリアはいなかった。代わりに背中に嫌な気配を感じると、もうその時には左腕と背中の表面を裂かれていた。低い悲鳴を上げて紫薇は濡れた地面に転がった。
ランドリアは痛みに体を支配される紫薇の背中を躊躇うことなく蹴飛ばした。紫薇の呼吸が一瞬止まり、思わず柄から手を放してしまう。だが地面の上で悶えながらも紫薇は必死に手を使って柄を取り戻した。それは死の恐怖から逃れるための藁をも掴む思いだったのかもしれない。
紫薇は全身を痙攣させながら切っ先を杖のようにして体を起した。ランドリアは黙ってその紫薇の姿を見詰めている。絶望的な状況を前にしても紫薇は諦めなかった。ふらふらと見るも弱々しい振り方で剣を滅茶苦茶に振りながら、ランドリアに近付いていった。腰に力が入っていないせいで、紫薇の体は刃に振り回されている。そんな攻撃をランドリアは受け止めずに右に左と体を横にして避け、鎌を下から上に切り上げた。
「がっ…!」
紫薇の右の太ももから左胸までから血が噴き出した。致命的な一撃を受けた紫薇は再び悲鳴を上げたが、最後に一度だけ剣を振るってみせるとそのまま地面に倒れ込んだ。全身の力が痛みで抜けていく。地面を真っ赤に染めながら、紫薇はもう剣のことなど忘れてしまっていた。
その様子をランドリアは眺めていたが、初めてその表情に変化が起きた。
「貴様…」
不規則な呼吸を続けながら、体を恐怖と痛みで震わせながらも紫薇の顎は地面に着いていなかった。それどころか反抗の意思を瞳に映してまっすぐにランドリアを見せつけている。ランドリアはその紫薇の姿に無性に憤りを感じてしまっていた。
それはかつての自分の姿だった。紫薇の姿に過去の虚像が重なる。しかし決定的に違うのは、そのときの自分の表情は抵抗の意思がなかったことだった。むしろ恨めしさが残って後悔の意思が瞳に映し出されている。
ランドリアの口もとから歯の軋む音が漏れた。途端、大鎌の持ち手に力が籠められ、鎌の刃が振り下ろされる。その間にも紫薇の表情は変わらなかった。
「止めて!」
その最中、紫薇の耳に飛び込んだのはそこにいてはいけない女の声だった。鎌の刃が再び紫薇の首もと間近で止まる。
「デラのもとに帰ります…。だからその子には手を出さないで…」
全身を雨に打たれながらクレシェントはゆっくりと歩きだした。
「止せ…!今度こそ本当に戻って来れなくなるぞ!」
紫薇は必死に叫び声を上げたが、クレシェントは見向きもしなかった。
「…止めろ!」
それは懇願だった。空の声を上げたあと、紫薇は顎を震わせながら叫んだ。それでもクレシェントは応えなかった。次第に紫薇の顔が苦悩に歪み、反抗の火はいつしか音もなく消えていた。
「糞ったれ…。お前が…諦めてどうする…」
「レミアの鍵を出せ。向かう場所はわかっているな」
言われるままにクレシェントは赤い鍵を取り出すと、白銀世界への扉を開けた。
ぼやけた視界の中、紫薇は手を伸ばす。クレシェントの名前を呟きながら。それでも当の本人は濡れた後ろ髪を見せるだけで、振り向かなかった。
クレシェントが扉の中に入り、徐々にその姿が見えなくなる。ちょうど顔だけが見える隙間になると、
「…さよなら」
口角を上げた寂しげな笑みを最後に見せ、紫薇の目の前から姿を消した。その言葉は紫薇にとって止めだった。伸ばした指先が崩れ落ちる。クレシェントの笑顔の意味がわかってしまったからだった。
「その剣はくれてやる。決闘は果たしたぞ、小僧」
そういってランドリアは大鎌を仕舞うと、先端の折れた白い鍵を手にして扉を作り、紫薇の前から消えていった。
雨の音が止まない。いつしか紫薇は顎を地面に着けてどこともわからない方を見ていた。脳裏にはいつまでも寂しげな笑顔がこびりついている。紫薇は一度だけ土を握りしめたが、さよならの声を思い出すと意識に反して力が抜けた。そしてそのまま目を閉じて流れに身を任せていった。
雨は容赦なく紫薇の体を溺れさせ、辺りを血の海に変えていく。ふと小さな明かりが雨の中心に向かって近付いていった。傘の下で煌々と光る煙草の火。褐色の肌をした男が紫薇の傍に寄った。
「悪いな、今の俺にはこうしてやることだけで精一杯だ」
男は紫薇の背中に傘を立てると、背中を向けた。そして紫薇の顔を一瞥すると、一瞬だけ目を細めた。後悔と憐みの表情が浮かび上がる。それでもその男はそれ以上何かする訳でもなく、ただその場から立ち去っていった。そのあとに駆け付けたのはジブラルとプランジェだったが、二人がその男の姿を見ることはなかった。
首元にがっちりと首輪が嵌められている。人差し指ほどの太さのある首輪は鋼で出来ていて、喉を締め付けていた。しかも首輪の真ん中から伸びた鎖は天井に繋がっていて、自由に動き回れないようになっている。クレシェントは昔からこの首輪に辟易していた。クレシェントは床に腰を下ろし、息苦しさに苛立ちながら目の前に立っている男をひらすら睨んでいた。
「君の姿をこの目で見たのは随分と遠い昔だったような気がするよ。これだけの長い間、人目を避けて生活するのはさぞ大変だったろう。最後に見た君の姿はそう…何のおめかしもなかったね、綺麗になったものだ」
デラはクレシェントの前で無防備に話しかけていた。護衛も付けず、だだっ広い空間に二人だけが点在している。
「下手なお世辞は止めて」
「そんな言葉も覚えたのか。いや、あの頃とは別人だね。あのときの君はまるで魂の抜けた空っぽの器、まるで人形のようだった。抗うことを知らず、考えることも出来ない鎖に繋がれた存在だ」
「こんな物で私を縛れるとでも?」
「その鎖を引き千切りたいのなら好きにすれば良い。代わりに君の見知った者たちもその鎖のように引き裂かれるがね。それでも良ければやりなさい、君にはその自由があるよ」
「…最低ね、反吐が出るわ」
「勘違いをして貰っては困る。私は君に人を引き千切る自由があると言っているんだよテテノワール、いや…壊乱の魔姫よ。話を聞いたが、魔姫になったそうじゃないか。おめでとう、これでまた君は女王への階段を上ったんだ」
「…止めて…!」
咄嗟にクレシェントは顔を背けた。その瞬間、残虐性を帯びた手を、一人の少年に伸ばしてしまったことをクレシェントは思い出した。
「おや、何を恐れる事がある?この赤い目を持ったものは原初の段階からそうなることを定められている種だ。君はその声に耳を傾ければ良い」
デラは自分の目、真っ赤に染まった瞳を指さした。
「そんなこと…私は望んでない…!」
「魔力とはこの世界の生命とは異なった種類のいわば情報の塊だ。長い時を経てそれらは人や動植物と交わり、その血を薄めてしまったが我々の本懐は強い残虐性にある。言い方を変えれば種の保存の意識が強いとも呼べるのさ。女王は、その言葉を最も具体的に具現化している存在なのだよ」
そういってデラはクレシェントの周りをぐるぐると歩き始めた。
「やっぱり…私は、私の本性はヴィシェネアルクだと言うの?」
「正確にはだった、と言った方が正しい」
デラは指先をクレシェントの額に近付けた。
「君のその体に潜んでいる記憶を呼び覚まし、自分自身に問いかけてみれば良い。君の血は誰よりも濃いのだから」
「私は…私は誰なの?貴方は…何を望んでいるの?」
「それを君に説明する為の知識を私は持たない。ただ、私が君に望んでいることはただ一つ。君という存在が、かの女王と同格になる日を私は待ち望んでいるのだよ」
「私が…真紅の女王と?」
そういうとデラははにかんだ。
「その為に、君は再び創造主のもとに帰るのだ。私は彼の成果を心待ちに待っていることしか出来ない。君をこの場所に連れて来た理由も、その男に君の身柄を渡す為だ。実験の為に世に放ってみれば、どれだけ私が君の身を案じたか…」
「そのお陰で…私は自分の意思に反して大勢の命を殺めてしまった…。貴方たちのせいよ…。私は、プランジェの両親を…」
クレシェントは自分の手が真っ赤に染まっていく様な感覚がした。それに伴って過去の記憶が呼び覚ませれていった。残虐な光景。その中に彼女の姿があった。
「それは必要な犠牲だよ。それに君が望む望まないにしろ、君はその手を汚すことを避けられないように出来ているのだから」
「何を言って…」
その言葉を口にする前に、クレシェントの目の前には小さな鐘がぶら下げられた。真っ白いどこか狂気を孕んだ鐘だった。
「それは…」
「この鐘の音色は君の中に眠っている残虐性を呼び起こす。君が望まなくてもだ。未だわからないかい?君がその手を鮮血で汚し、壊乱の魔姫と呼ばれるようになった原因は、私がこの鐘を鳴らしたからなんだよ」
クレシェントの頭の中に記憶が過ぎった。どこからか鐘の音が聞こえて耳元に囁いた。視界が真っ赤に染まり、生きているものが自分の獲物になった瞬間だった。我に返った時には辺りは血の海で、あらゆる生きものがその命を消していた。
「お前が…私を…!」
クレシェントの目は真っ赤に染まっていた。両手を震わせながらデラの首元を握り締める。デラはされるがままに黙ってその殺意を受け止めていた。指先に力を込めたその時、クレシェントを咎めるように鎖の音がクレシェントの耳を打った。
脳裏に一人の少年の姿と小さな体をした少女を顔が過ぎった。クレシェントはゆっくりと手をデラの首元から離した。ふといつの間にかクレシェントの傍には欠けたガラスが落ちていた。クレシェントはそれを見付けると間髪入れずに握り締め、その尖った先を自分の喉元に突き刺した。
「あーっ…!あーっ…!」
喉を貫いてガラスの先端はうなじを突き破る。息が出来ないのかクレシェントは何度も嗚咽を上げながら吐血した。デラはにこやかな顔をしながら彼女を手を握り締めると、躊躇なしにガラスを引き抜いた。喉の風穴から血が噴き出し、デラの頬に飛び散った。
「その行為には驚いたが…君はこの程度では死なないよ。苦しいかもしれないが、肉が戻るまでの辛抱だ。それまでそこでのた打ち回っていると良い」
倒れ込んだクレシェントに笑みをこぼし、デラはその場から離れていった。手にはべっとりと血が着いたガラスを持っている。切迫した悲鳴を耳にしてもデラは顔色一つ変えなかった。その狂気はある意味では正常で、またある意味では最も異常だった。
「ご婦人を痛め付けるなんて良い趣味をお持ちね。女性にとって理想を体現したような殿方だわ、あなたは」
デラと同じ色の目を持ち、その口許は口紅を塗った様に赤い色をした女がデラに語りかけた。その顔はとても中性的で、男とも女とも見て取れた。
「皮肉として受け取って置くよ、キジュベド。それよりも彼はいつになったらこの場所に来てくれるのかな?科学者という人間はそれほど忙しいものなのかい?」
「手帳には予定がびっしりだそうよ」
「それはそれは…。だが生憎と私はそれほど我慢強い人間ではなくてね。何の知らせもないとなれば心配で夜も眠れない。旨い酒か上等な茶を用意して待っていると伝えてくれるかな?」
「科学者にはどちらも必要のないものだと思うけれど?不味いコーヒーと湿気ったパンがお似合いだわ」
「君からはソフィの合鍵を貰ったり、あの科学者をご紹介いただいたりと感謝が絶えないが、私の見えないところで好き勝手をやられるのは不服だな。私がそちらの世界に行けないということは重々承知している。だがここ最近の動向については不明瞭なことが多い。明確な予定が欲しいのだよ、キジュベド」
じっとキジュベドの顔を見詰めるデラの目には静かな殺気が込められていた。
「あと少しの辛抱よ。そうすればことはあなたの目の前できちんと運ぶわ」
「その言葉に何度も騙されているが、あと少しだけ我慢してみるとしよう」
血で汚れた手をキジュベドに見せた。滴り落ちる血液はキジュベドに対しての警告でもあった。その意味を汲み取るとキジュベドは小さく笑った。
「手を汚してしまってね、これでお暇させて貰うよ」
そういってデラは暗闇の中に去っていった。しかしその目にはどこか煮え切らないものを潜めていた。
「ご免なさい…ご免なさい…ご免なさい…」
その場に取り残されたクレシェントは床を血で汚しながら、何度も呟いて頬を塗らしていた。喉に空いた穴からその言葉が漏れて消えていった。
息が間近に感じた。何かに遮られているかのように呼吸がし辛い。紫薇は暗闇の中で左手に温かい光を見た。徐に両目を開いてみると、そこは見知らぬ天井だった。真っ白い、清潔感を研ぎ澄まされたような純白の天井。視線を手触りの方向に向けると、そこにはくしゃくしゃになった顔をした羽月が紫薇の手を握っていた。
「羽月…さん、俺は…」
言葉よりも先に羽月はその体を紫薇に向けて密着させた。柔らかい、女性特有の肉質が紫薇の体を包んだ。そうして紫薇は病院のベッドに横になっていることに気付き、その温もりに身を寄せた。
「良かった…!私、目を覚まさなかったらどうしようって…」
「あの…苦しいですよ…」
思ったより羽月の力が強くて紫薇は咽そうになったが、そんなことよりも羽月の体に触れていることが恥ずかしくて仕方がなかった。
「ご、ごめんなさい…」
羽月は慌てて身を離すと、焦った顔をして謝った。
「済いません、迷惑をかけてばかりで…」
そういうと羽月は本当に軽い力でそっと紫薇の頬を叩いた。
「バカ、どうして君はそんなことばかり言うのよ…」
羽月がそういうと紫薇は小さくごめんなさいといった。
暫くするとプランジェとジブラルが部屋の中に入ってきた。
「随分と手酷くやられたわね。マジで死ぬ直前だったみたいよ」
紫薇はプランジェの顔に精気がないのを感じ取ると、自分に何があったのかを鮮烈に思い出した。それに伴い、収まっていた痛みが全身を走った。
「俺は…!」
思わず紫薇は布団を握りしめる。だがすぐに自分への失望が手の力を緩めた。
「思い出した?地面が血まみれだったらしいわよ。私とプランジェが気付く前に…クレシェントは異変を感じ取ってたみたい。綾の話だと、ずっと寝たきりだったのにいきなり起きて飛び出してったみたい。ごめん、私らちょっと出かけててさ。離れ過ぎててわかんなかったのよ…。帰って来たら綾が血相変えて説明してくれたから、すぐに後を追ったんだけど、そのときにはもう…」
途中で言葉を詰まらせるジブラルの顔を見て、紫薇は俯いた。
「ランドリアとの決闘に負けたんだ…。一太刀でも浴びせれば、これ以上手を出さないと唆されてな…。俺が浅はかだったよ、甘く見過ぎていた…」
布団を握りしめようにも痛みと、後悔と、あのときクレシェントに向けた言葉が胸に突き刺さって力が入らなかった。
「あいつは…俺を見逃すために自分から行ったんだ…。最後に…馬鹿みたいに笑ってやがったよ…。全部を受け入れたような顔しやがって…」
あの寂しそうに笑った顔が離れない。紫薇が瞼に力を入れるたび、その顔が浮かび上がった。
「…これからどうするつもりだ?」
今まで声を押し殺していたプランジェが口を開いた。一同の視線が集まると、そこには必死に息を堪えるプランジェの素顔があった。
「どうするも何も…俺が出来ることなんてない。あいつは自分の意思で行ったんだ、ああ…わかってるよ、どうするべきかなんて」
「ならば行動しろ、さっさとその怪我を治してな」
「言ってくれる…。治ったところで何もしやしないがな」
「なんだと?」
「あいつを助け出すとでも言うと思ったか?お断りだ、俺にはそんな力なんてない。少しでも手を出してみたらこのザマだ。もう何もかも終わりなんだよ…」
そういった途端、プランジェの怒号が病室に響いた。
「ふざけるな!」
プランジェが紫薇の胸倉を掴む。
「お前は…まさかこのままむざむざと引き下がっている訳ではあるまいな?たった一度の敗北で、全てを投げ出すというのか…!」
「うるさい…!」
その言葉に誰よりも意表を突かれたのはプランジェだった。
「俺に何が出来るって言うんだよ…。駄目だったんだ、俺じゃ…。俺のせいであいつは…行っちまった…」
それはプランジェが期待していた言葉ではなかった。憎まれ口を叩いても、最後には手を貸してくれる紫薇の言葉をプランジェは無意識に期待してしまっていたのだ。それが間違いだとわかると、プランジェは声を震わせた。
「お前がそんなことを口にするな…。いつものお前なら…」
胸倉を掴んでいる手までもが震えだす。プランジェは言葉を途中で詰まらせると、手を放してその場から離れていった。横顔からこぼれた涙を布団の上に残して。
嵐が過ぎ去ったように病室はしんと静まり返っていた。紫薇は自分の顔を隠すように窓をむいて、それっきり何も喋ろうとはしなかった。そんな紫薇を見ると、羽月とジブラルは静かに病室から出ていった。
病院の外に設けられたベンチに羽月とジブラルは紙コップを手に座っていた。何故かその日の夜はとても冷たくて、自動販売機のあたたかいコーヒーでもなければ凍えてしまいそうなほどだった。
「まさか紫薇があんな声を上げるなんてね」
「私も驚きました…。プランジェちゃんはどこに?」
コーヒーで手を温めながら羽月は言った。
「屋上で泣きべそかいてたわ。よっぽどショックだったんでしょうね」
ジブラルはそういって組んでいた足を解くと中腰になった。
「こんなとき、なんて声をかけたら良いのか…。ジブラルさん、私はどうすれば良いですか?紫薇くんに何をしてあげれば良いんでしょうか?あの子の辛い顔を見ていたら、とても気が気じゃなくて…」
「綾、あなた紫薇のことをどう思ってるの?」
「力になってあげたいと思っています。前任の担当からはとても不安定な子だと聞いていたので、きっと愛情に飢えてる子なんじゃないかと思って…。でも初めて会ったときにはそんなことはなかったので驚きました」
「不安定って…家庭の事情ってやつ?」
「ええ、本来ならお話してはいけないことなんですが…お婆様からの虐待があったみたいで…。それにお母様を早くに亡くされて、お父様もお仕事で殆どいない代わりに家政婦を雇っていらっしゃるんです」
「そっか、それであんな憎たらしい性格になっちゃったのね。でもクレシェントがいたからそれが抑えられてたんだ。なんだか母親代わりみたいね、年も離れてるし」
「紫薇くんもいつの間にかクレシェントさんに甘えていたのかもしれませんね」
「本人は絶対否定しそうだけどね。でも納得だわ、どうして紫薇がクレシェントを守ろうとしたのか。本当は誰よりも手放したくなかったんでしょうね」
「ええ…」
そういって羽月は目を閉じて紫薇の辛い感情に同情した。
「ねえ、綾は紫薇を一人の男として見るときはある?」
「今のところはそう見れないですね、私も年が離れてますから。それに立場上、許されないことですし。でもどうして?」
「ううん、ただ聞いてみたかっただけ。まだ紫薇はガキだから、そんな風には見れないわよね。今は傍にいてあげればそれで充分だと思うわ。余計な慰めよりも、ずっと良いと思う。多分そういうのは、私の役目かなあ」
そういってジブラルはコーヒーを一飲みすると、傍に置いてあったごみ箱に投げ捨てベンチから立ち上がった。
「素直に慰めてあげるほど、私は優しくないけどね。綾、今は私に任せて頂戴。もしそれでも駄目なら、あなたに任せるわ」
ジブラルは少し意地悪そうな顔をすると、羽月は不安げながらもお願いしますといった。
気晴らしに窓を塞いでいたカーテンを開けると、惨めな顔をした自分の姿が硝子に映った。紫薇は自分でも酷い顔だなと思いつつ、その顔色を自ずと受け入れてしまっていた。ふとジブラルの姿が窓にあることに気付くと、紫薇は窓から視線を逸らしてベッドに腰かけた。
「随分と酷い面ね、よっぽど悔しかったってのがわかるわ」
「なんの用だよ?止めでも刺しに来たのか」
怪訝な顔をしてジブラルを一瞥した。
「まあね、そんなとこ。しかし子供に八つ当たりしたのは大人気なかったわね」
「すこぶる機嫌が悪いんだ、からかいに来たのなら外に放り出すぞ」
「やってみせたら?そんなことが出来ればの話だけど」
「お前を助けてやったのは間違いだったな。野垂れ死んでれば良かったものを」
「あら、今度は私に八つ当たり?やあねえ、不満があるからって。本当ならその向かい先は私らじゃなくて別にいるんじゃないの?」
紫薇は痛いところを突かれるとジブラルから目を逸らした。
「たった一度負けたからって、諦めるような情けない男。そんなんじゃ年上の女だって男として見ないわよねえ。自分で惨めだって思わないの?」
「いい加減にしろ…」
「ガキが凄んでみせても何にも怖くないわよ」
そういうと紫薇は観念したように黙ってしまった。その姿を見てジブラルは口もとを緩めると、紫薇に近づいていった。
「ねえ紫薇、本当にこれで終わりで良いの?これがあなたの望んだ結果なの?」
ヒールの床を蹴る音が紫薇の心中を追い込む。
「何のためにランドリアに挑んだの?本当は負けるとわかっていながら、逃げなかったのは何故?」
紫薇の顔が強張っていく。それは同時に紫薇の心をさらけ出している証拠でもあった。
「クレシェントを必要としていたのは、他ならぬ俺じゃないの?」
ジブラルは紫薇の胸倉を掴んだ。そして紫薇の心の奥底に沈む渇仰をも掴んだ。
「本当は…負けて悔しいんじゃないの?クレシェントを助け出したいんじゃないの?紫薇、それがあなたのやりたいことでしょう?」
紫薇の目じりは濡れていた。必死に歯を噛み締め、突き付けられた現実に抗おうとしている。それがわかるとジブラルはもう一度小さく笑った。
「紫薇、あなたが望むなら私はあなたの災いとなる。その災いはどんな火の粉も振り払い、あなたが否定したいものを引き裂くわ。あなたはそんなものを欲するかしら?必要としてくれるかしら?あなたの一声で世界は火の海になる」
その意味に紫薇は戸惑ったが、理解すると目に光を灯し始めた。
「一度だけよ、私が誰かのために力を振るうのは。さあ、どうするの?」
「恐ろしい女だな、お前は。発破をかけると思ったら、世界を滅ぼす力をくれてやると来たもんだ。ああ、わかったよ。お前の力を貸してくれ」
「それで良いわ、いつまでも泣きべそかかれちゃ堪んないもの」
そういうと紫薇は失笑した。
「それとね、あなたと同じように泣きべそかいてる子もよろしく。屋上にいるから、精々慰めてあげなさい」
「わかったよ」
やっとジブラルが手を離すと、紫薇はため息を吐いてみせた。しかし紫薇の顔にはもう迷いはなかった。
傷の痛みを我慢しながら病室を抜け出し、休み休み階段を上って屋上のドアに辿り着く。じんわりと胸に巻かれた包帯が血で滲んでいたが、紫薇は構わずドアノブを回した。吹き付ける冷たい風が頬を打つ。火照った体を冷ますには丁度よかったが、そうでない体には寒すぎる気温だった。
紫薇はフェンス越しに遠くを見詰めるプランジェを見付けると、足を引きながら近付いていった。
「今から尻を蹴飛ばしてやるから歯を食い縛れ」
そういうとプランジェは驚いた顔をして後ろを向いた。
「…その体で良くここまで来れたな」
プランジェの目は腫れあがっていたが、涙は止んでいた。
「なんだ、もう泣き止んでたのか。まだべそをかいていたら蹴とばしてやろうと思ってたんだが。今からでも泣いて良いんだぞ?」
「…どうやら、悪態を吐けるまで戻ったらしいな」
「負け犬でもああまで煽られればそうなるさ」
そういうとプランジェはくつくつと笑ったが、すぐにもとの表情に戻った。
「紫薇、お前はここに残っていろ…。思い返してみれば、私はお前に頼り過ぎていたのかもしれん。それは…クレシェント様も同じだったのかもしれない」
「それで?今までお前らに落とした金はどうするんだ?あれはくれてやったんじゃない、働いて返して貰わなきゃな。炊事、洗濯、掃除とやることは幾らでもある。勝手に消えられると困るんだよ」
「酷い奴だな、お前は…」
そう言いながらプランジェは困ったように小さく笑った。
「…悪かったな、お前に八つ当たりするんじゃなかった。許せよ」
まるで妹にした意地悪を謝るかのように紫薇はいった。それは照れくさそうにも見えた。
「良いのか?また…お前に頼ってしまっても…」
「ああ、良いよ。ませ餓鬼」
プランジェは紫薇に寄ると、わんわん声を上げて泣いた。紫薇は少し困ったような顔をしたが、背中に手を回してやった。そんな二人の姿は本当の兄妹のようにも見えた。いつの間にか紫薇は傷の痛みなど忘れ、決意を新たにした。
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