9話 真夜中の独白

 まるで血液を意識した様な色合いの看板が光っている。厳かな雰囲気を醸し出したその扉の前に、紫薇はベンチに腰かけていた。足と腕を組んで、時間が過ぎるのをじっと待っている。その間に紫薇はここまで起きた事を思い返していた。


 「お前…!」

 血まみれになったジブラルを見て紫薇は駆け出した。

 「何があった?」

 そう問いかけるとジブラルは口許を緩ませて何も言わずに意識を失ってしまった。

 「糞っ、気絶しやがった。この出血は…だがどうする…」

 慌てる紫薇の助け舟の様に近くには公衆電話があった。紫薇はそれを見付けると急ぎながらも慌てずにポケットから百円を出して、電話の硬貨入り口に入れた。しかしそこで紫薇の指先が止まった。救急車を呼べば人が集まり、自然と自分に注目を浴びてしまう。紫薇は躊躇いがちに1の番号に続いて残りの番号を押した。

 「はい、こちら芽吹病院です。どうなされました?」

 オペレーターの声がすると紫薇の背中は一気に汗ばんだ。まだ知らない人間と急に話をするのは慣れていなかったが、出来るだけ冷静に言葉を発した。

 「じ、事故が起きて…人が…倒れてる。場所は…翠川公園の傍…急いで救急車を呼んでくれ!」

 限界だった。紫薇は受話器を思い切り置いてしまった。その後から強い胸の圧迫が紫薇を襲った。ネクタイを緩めながら外に出て空気を吸い込みながら何度も悪態を吐いた。公衆電話の扉を蹴っ飛ばしたりもして、何とか気持ちを落ち着かせるとジブラルのもとに戻り、首に指を当てて脈を確かめてみた。脈は弱く、その律動も今にも消えそうだった。

 「いつになったら来るんだ…」

 未だ五分と経っていないにも関わらず紫薇は苛立ちを感じていた。しかし後ろの方から車の気配がして通行車かと顔を向けてみると赤いランプが目立った救急車がやって来ていた。幸いにもサイレンは鳴らしていない。紫薇は喜びながら救急車を出迎えた。それから救急隊員が降りてきて、ジブラルを救急車の中に入れると身元確認の為に紫薇も車に搭乗した。


 「…ふーっ!」

 手術着を着た中年の男が手術室の扉を足で蹴っ飛ばして出て来た。額には汗をべっとりと付けて、紫薇を見付けるとマスクを取りながら近付いた。

 「手術は?」

 「彼女は熊にでも襲われたのかい?骨が折れてたり肉が裂けたり、もう無茶苦茶だったよ。よう生きてられたわ…。まあでも安心して、一命は取り留めたから!まあ、三ヶ月は安静にしてないといけないけどね」

 その言葉を聴いて紫薇は胸を撫で下ろした。しかしどうも医者の顔が忙しない。仕切りに紫薇を一瞥しては首を傾げたりしている。その動作に紫薇は成程とその医者が思っている事を悟った。

 「金は俺が払って置きますよ。親しい訳じゃないが、知らない仲じゃないんで」

 「あ、いやあ…そうして貰えると助かるわ。何しろ、身元を確認するものを持ってないからね。うちとしても困ったもんで、ハハ…」

 紫薇はだろうなと思った。

 病院の受付で支払いを済ませ病院を後にする。ジブラルの様子見はまた後で良いだろうと紫薇は病院から離れ、タクシーでも拾おうと道路に向かった瞬間、上の方から窓ガラスをぶち破った音がした。

 「な…!」

 紫薇はまさかと思いながら後ろを見ると血まみれの洋服を手に持ったジブラルの姿があった。物凄い形相で紫薇を見付けると目にも留まらぬ速さで紫薇を掻っ攫い、その場から跳び上がって探し回る看護師から逃げていった。

 ジブラルが降り立ったのは病院からだいぶ離れた場所だった。人気のないビルの裏路地で、室外機が所狭しと並んで熱風が音を立てていた。

 「お、お前な…!跳ぶなら跳ぶって断ってから…うぷっ…!」

 急激な下降と上昇を繰り返して紫薇は腹の奥から戻しそうになった。

 「ごめん、だって目が覚めたら知らない部屋にいたんだもの。窓から見たら紫薇が見えたから、思わず窓ぶち破っちゃった」

 吐きそうになっている紫薇を他所にジブラルはけらけら笑っていた。

 「怪我は…平気なのか?うっ…」

 「薬が効いてるみたい、痛みは少ないわね。でもあの医者の言った通り、ちゃんと安静にしてないと死ぬわね。…おっとと」

 ジブラルは平気そうな顔をしながらも体をふら付かせてその場に座り込んでしまった。痛みがないのも麻酔のお陰だろう。紫薇はやっと嘔吐感を克服するとジブラルの洋服を拾った。

 「なら家に来るか?行く当てもないだろ」

 「良いの?クレシェントを見たら彼女の首をねじ切ってみるかもよ?」

 「お生憎、そのクレシェントはあれから目が覚めていない。何の抵抗もない獲物を狩ろうとするほど野暮じゃないだろ。それでもねじ切りたいなら好きにしろ。プランジェが包丁を投げて来るだろうが」

 「ふふっ、それも面白いかもね。まあ、今は放って置いてあげるわ」

 二人はなるべく人の目に入らない様に裏口や路地裏を中心に人気のない場所を選んで家に帰った。その途中で麻酔が少しずつ切れてきたのか、ジブラルは紫薇に見付からないように怪我を痛んだ。


 「ただいま」

 紫薇が玄関を開けると出迎えたのは羽月だった。

 「お帰りなさい。あら、お友達ですか?」

 羽月はジブラルを見ると小さく会釈をした。

 「ジブラルよ。ちょっとお邪魔させて貰うわ」

 「どうぞ。…どうして入院着なんですか?」

 「ああ、これ?ちょっと病院から抜け出してきたのよ。悪いんだけど、着るもの貸してくれない?私の血まみれで、とてもじゃないけど着れないのよね」

 「じゃあ私ので良ければどうぞ。お洋服は貸して頂ければ洗濯して置きます」

 「お願いするわ」

 「図々しい奴だな…」

 「命を助けてあげたんだから、このくらい安いものでしょう?さっ、立ち話もなんだし、さっさと上がらせて頂戴」

 そういってジブラルはずかずかと家の中に入っていった。その後ろ姿を見ると紫薇と羽月は顔を見合わせて笑った。

 「き、貴様!どうしてここにいる!?」

 リビングからプランジェの怒号がすると紫薇はやっぱりなと思った。

 「あら、おちびさん、また会えて嬉しいわ。そっちにねっ転がってるのはクレシェントね。ふうん、確かに意識はなさそうね。魔姫になったことと何か関係しているのかしら?おちびさんはどう思って?」

 クレシェントの寝顔を覗くと、軽く頬を叩いてみせた。心なしかクレシェントの顔が歪んだ様にも見えた。

 「クレシェント様から離れろ!」

 終にプランジェはナイフを取り出してその切っ先をジブラルに向けた。プランジェを嗜めるように紫薇は彼女の頭に手を乗せた。

 「落ち着け、お前のうるさい声なら病人だって飛び起きるぞ」

 「し、紫薇!どうしてこいつがこの家に上がり込んでいる!?この女は我々にとって敵だぞ!」

 「本当に喧しいおちびさんね。いっそのこと黙らせてあげましょうか?」

 「やってみるが良い。その傷だらけの体でどこまで出来るか見届けてやる」

 二人は睨み合いながら殺気を飛ばし始めた。

 「お二人は仲が良いんですね」

 その様子を見て羽月はにこやかに言った。

 「な、何を言っている?」

 「…そうなのよ、私にとって出来の悪い妹みたいなものね」

 「良かったですね、プランジェちゃん。お姉さんが出来て」

 「こ、こんな奴が私の姉だと…?み、認めんぞ私は!」

 必死に抵抗するがジブラルの方が一枚上手で、いつの間にか笑いながらプランジェの頬を抓っていた。

 「お姉様に向かってこいつはないでしょう?プランジェ」

 「むむむー!しひ!何ほかひろ!」

 紫薇は肩をすくめるだけで何も言わなかった。

 「紫薇、色々とあなたに教えてあげたいこともあるんだけど、ごめん…もうそろそろ、限界…だわ…」

 そういってジブラルは力が抜けた様にその場に倒れそうになり、紫薇は慌てて体を抑えた。体重はクレシェントよりも軽かった。

 「まったく、ゼルア級の連中ってのは無理ばかりする。馬鹿ばっかりだ。これだけの怪我をして平気な筈がないだろうに。プランジェ、手を貸せ。二階に上がらせる」

 「う、うむ」

 紫薇はジブラルをおぶり、プランジェは階段でジブラルの尻を押して二階に上がらせた。部屋は紫薇のものにした。扉を開けてゆっくりとベッドに寝かせる。布団を被せてやり二人は部屋を後にした。

 「確かに今迄は敵だっただろうが、今は味方と考えて良い」

 「しかし私にはどうも馴染めん。いきなり味方になったと言われても、そう簡単に背中を預けられんぞ。お前とてそうではないのか?」

 「当然だ。未だ完全に信用した訳じゃない。だがあの女ほど頼れる奴はいないだろう。守りは少しでも磐石に近付けないとな」

 「その為に奴を助けたのか?」

 「いや、実際は成り行きだよ。お前らと同じでな。そこまで頭が回るほど天才質でもないんでね。それでも並以上だとは思ってるが」

 「引っかかるもの言いだな…」

 プランジェは呆れた顔をしていった。

 「さて問題は俺の寝床だが…プランジェ、お前は羽月さんと一緒に寝ろ」

 「まあ、それが無難だな。わかった」


 そうして二人は夕食まで適当に時間を潰した。紫薇は書室に行って本を眺め、プランジェは羽月に料理の手解きを教え、教えられた。夕食はお手製のハンバーグだったが、羽月はジブラルの為にわざわざお粥を作っていた。

 「はい、じゃあ紫薇くん。ジブラルさんに持っていってあげて下さい。食べれなそうだったら、ちゃんと食べさせてあげなきゃ駄目ですよ」

 「何もそこまでしてやらなくたって…」

 「駄目です。怪我人なんですよ、優しくしてあげなきゃ。ね?」

 「…わかりました」

 どうしても羽月の押しには紫薇は弱かった。惚れた弱みはこれほどかと思いながら紫薇はお粥の乗ったお盆を二階に持っていき、肘を使って扉を開けて部屋の電気を付けた。明かりが付けられるとジブラルは声を上げて起きた。

 「ふあ…。寝たからだいぶ具合も良くなって来たわ。あら、ご飯でも持って来てくれたの?」

 「粥だ、病人食の定番だよ」

 「もっと精がつくものにしてくんない?」

 「それはもう少ししてからだ。今はこれで我慢しろ、食ったものと再会したくなかったらな」

 紫薇は机の上にお盆を置いて大丈夫そうだなと決め付け、そそくさと部屋から出て行こうとした。

 「なによ?食べさせてくれないの?怪我人なんだけど」

 「図に乗りやがって…」

 紫薇は心の中で舌打ちをして体を向け、椅子をベッドに近付けると木製のスプーンで一掬いしてジブラルに差し出した。

 「なんかどろどろしてて不味そう」

 「いいから口を開けろ、レストランじゃないんだよ」

 「ふーふー位してよね。…うん、無味ね」

 口に入れてすぐに飲み込んだ。

 「少しは噛め。そうすれば米の甘みが出て来る」

 そういってもう一度スプーンを差し出すと今度はゆっくりと噛み締めてから飲み込んだ。するとジブラルは意外な顔をした。

 「うん、美味しいわね。でもぱっとしない味ね」

 「文句の多い…。ならこれを潰して、混ぜて、今度はどうだ?」

 紫薇は梅干をスプーンで潰した後に指し出し、食べさせるとジブラルは顔を潰して歯軋りした後、涙を零した。

 「すっぱ!何よこれ!?劇薬!?」

 「梅干だ。今度はお望み通りぱっとした味になったろ?」

 「…うん、かなり酸っぱいけど米と合わせるとまあ、良いわね。遠慮せずにもっと口に運んでくれる?」

 「…自分でやれ」

 「冷たいのね」

 「見た目通りな」

 「そうねえ、初めて見た時はあなたがクレシェントを狙っていたのかと思ったわ。あんまりにもガラが悪かったからついね」

 「まさかそれが俺を殺そうとした理由だったのか?」

 「うん。邪魔されると思って早めに始末しようと思ったら、クレシェントが庇ったでしょ?ちょっとこんがらがったけど、最終的にまあ、いっかって思ったのよ」

 「……………………」

 紫薇はそこで初めてもう少し愛想を良くしてみようかと思い詰めた。

 「ちょっと、手が止まってるわよ。あーん」

 紫薇は少しの間、無言になりながらスプーンを運んだ。


 「ご馳走様、見た目以上にお腹が膨れるのね」

 お粥を平らげ、ジブラルは満足そうな顔をした。

 「何だって死にそうになってたんだ?お前ほどの女ならそう易々とやられやしないだろう」

 「それね…」

 ジブラルはばつが悪そうな顔をして指で頬を掻いた。

 「実はデラに啖呵切ったんだけど…返り討ちに合っちゃった。ちょっち油断したわ」

 「あれからすぐに乗り込んだのか…!だが油断してたとはいえ、お前をここまでいたぶる力量か…」

 「まさかデラが妖精のかけらを持ってるとは思ってなかったし、色んな意味で失敗したわ」

 「なんだそれは?」

 そういうとジブラルは自分の右手の甲を紫薇に見せた。そこには翠緑色の宝石が埋め込まれ、黒い刺青のような模様が広がっていた。

 「これよ。この石がレミアの鍵の源で、同時に所有者に呪いをもたらす代物よ」

 そう口にするジブラルの目が一瞬、曇ったのを紫薇は見た。

 「クレシェントにもあるでしょ、レミアの鍵を持ってるんだから」

 「いや、目に見えるところにはなかったな」

 「ひん剥いてみたらどこかにあるわよ。あとで見てみたら?」

 「遠慮しとく…。それより妖精のかけらってのはどういうことだ?」

 「ナーガにはとあるおとぎ話があってね、その昔ナーバル・メズ・ガウシュリーは一匹の妖精が創り出したと伝えられているわ。妖精はナーガに様々な命の種を振り撒いて世界を照らしていった。でもそこに一匹の獣が現れた」

 紫薇は話の途中でも次に現れる存在を予期していた。

 「真紅の女王 ヴィシェネアルク、雲より高い真っ赤な体をしたその人竜は、自分と同じ目の色をした魔獣を創り出し、ナーガを支配しようとしていった。それに妖精は対抗し、自分が創り出したナーガの住人と一緒にヴィシェネアルクと戦った。争いは長い時間をかけて続けられ、やがて」

 ジブラルは次の結末を一呼吸を置いた後にいった。

 「勝ったのは女王だったわ。大勢の命から流れた血は、ナーガを赤い海に沈めていった。出来の悪い終末の物語よ。このお話はね、『妖精戦争』っていってよく大人が子供に読み聞かせるおとぎ話なの。良い子にしないと女王に食べれちゃうぞってね」

 「妖精は…妖精はそのあとどうなったんだ?」

 紫薇はその後に妖精がどうなってしまったのか、何故か頭の中に引っかかって仕方がなかった。

 「さあ、物語はこれでお終いだから続きは読者の想像次第じゃない?一説じゃこの物語は創作だって言われてるし、実際はどうだったかなんてねえ。ただ絵本には妖精は女の子として描かれているわ。ヴィシェネアルクに勝てなかったのも、子供だったからじゃないかしら」

 「子供だったから負けた…」

 「で、妖精のかけらの話に戻るけど、一説には妖精の落とし物とか、争いに負けた妖精が次の世代に託した残り香なんて言われてるわ。ただ妖精のかけらは禁忌の産物として忌み嫌われてるけどね」

 「何故だ?」

 「そりゃおとぎ話とはいえ負けた方の持ち物だしね、幸運をもたらすようには思えないでしょ。それに妖精のかけらは前触れもなく所有者を選び、勝手に力を与えると言われてるわ。私だって欲しくて手に入れた訳じゃないから」

 再びジブラルの視線が下がると手の甲を摩った。

 「だから妖精が人目を盗んで選ばれた人間は、いつの時代も忌み嫌われたらしいのよ。レミアの鍵なんてどこの世界に繋がるかわからないものまで与えられるしね」

 「確かにな…」

 「おまけに私なんかあんな醜い腕になっちゃうし…妖精のかけらを持って良いことなんてないわ…」

 「だがそれのお陰で俺が助けられたことは確かだ。醜い腕かもしれないが、しっかり自分の体として使ってるじゃないか」

 そういうとジブラルは困った顔をしてみせた。

 「ありがとな、まだあのときの礼を言ってなかった。その右腕がなかったら俺もクレシェントも死んでいたかもしれない。そう悲観しなくても良いのかもしれないな」

 「そうかもね」

 少しだけジブラルは嬉しそうに笑った。

 「でだ、今の話で気になるとことが二つあった。一つはデラも妖精のかけらを持っていたと言ったな?ということは奴がここに来る可能性があるかもしれない。少なくともこっちの世界と何らかの接触はしている筈だ、あの白い鐘を持ってたからな」

 「だとしたら端からやって来ない?秘蔵っ子のランドリアが失敗した時点で」

 「確かにそうだ…」

 「わざわざソフィの合鍵だっけ?それを使ってリネウィーンが来てたから、デラはこっちに来れないってことはない?そもそもソフィの合鍵って何なのよって話だけどサ…」

 「やや楽観的だが、奴がこっちに来ることはないと考えて良いか…」

 「かもね。もう一つは?」

 「クレシェントのことだ。正確には魔姫の姿のことだが、以前プランジェとあいつの正体はヴィシェネアルクなんじゃないかと話してた。お前はどう思う?」

 「そんなこと唐突に言われてもね…。そもそもおとぎ話じゃないって言おうとしたけど、こうして妖精のかけらもあるしなあ。仮にヴィシェネアルクだとしたら、デラが躍起になって欲しがるのもわかるような。ただ何の為に女王様を欲しがるのかわからないけど」

 「世界征服でも企んでるってのか?」

 「なんかそんなタイプじゃないとは思うわ…」

 紫薇とジブラルはそれ以上考えてもわからず、お互いうんうんと唸った。

 「やっぱり水でもぶっかけてみるか?あいつに聞いた方が早いような気がする」

 「それが良いかもね。ただあの子が素直に喋るかどうかだけど」

 「なら今起きても後で起きても同じか…。とにかくあと数日は様子を見よう。悪かったな、無理して起こさせて」

 「良いのよ。こっちこそ助けてくれてありがとね。まだ本調子じゃないから、もう少し寝るわ」

 「ああ、お休み」

 紫薇は空になった器を下げると、電気を消して部屋を出た。

 

 「何か聞き出せたか?」

 プランジェは台所で洗い物をしながら紫薇から器を受け取った。

 「少しはな。だが核心的なところは掴めてない。なんでデラがあいつを狙うのか?そればっかりは本人の口から喋らせるしかなさそうだ。もっとも目を覚ましそうにないのがまた問題なんだが」

 「…目が覚めてもクレシェント様も知らないかもしれん」

 洗い物を途中で止め、プランジェは俯いた。

 「どういうことだ?自分でも心当たりがないと?」

 「ご自身の中に強大な力があることはクレシェント様もわかっている。だがそれが何なのか、そして何故それに支配されてしまうのか…。それがわからないから、クレシェント様は苦悩されている。そんな気がしてならないのだ。私がお傍にいながら本質的にはお助けすることが出来ずにいる…」

 そういった後にプランジェは黙ってしまった。蛇口から流れる水の音が大きく聞こえてしまうほど沈黙が続いた。

 「あとは俺がやっとく、お前ももう寝ろ」

 流れっぱなしになっていた蛇口を締めると、紫薇はプランジェを退かして器を洗った。


 その夜、全員が寝静まった頃、紫薇は今度は足音を立てない様に注意しながら一階に下りた。途中、権兵衛に見付かったが口許に指を当てて静かにするようにとジェスチャーした。そしてクレシェントが眠っているソファーに近付いて腰を下ろした。

 「目を閉じながらで良い、聞いてくれ」

 紫薇は出来るだけ小さな声でクレシェントに語りかけた。

 「お前が来てから俺の生活は滅茶苦茶だ。訳のわからないことは起こるし、何度も殺されかけて、赤の他人のお前たちを家に上がらせた。今じゃこの家の住人のように暮らしている。迷惑極まりない話だよ、本当に」

 困ったように紫薇は頭を掻いた。

 「でもお前に一つだけ感謝してるのは、お前らがやって来たことでやっと人間らしく生活できてきたことなんだ。こんなこと、本当は誰かに聞かれたくないんだが…」    

 そこで紫薇は初めて口許を緩ませた。

 「嬉しいんだ、とても…。こんな風に思えるようになったのは、お前のお陰だと思う。だから俺は決めた、誰かがお前を連れ去ろうとしても、それだけは防いでやろうって。この先お前が何も話さなくても構わない。それでも俺は考えを変えないよ」

 紫薇はクレシェントに顔を向けず、窓から差し込む月の光に向けてそういった。

 「それがお前への恩返しだ。眠ったままでも良い、それだけが言いたかった」

 紫薇の独白を聞いてもクレシェントが目覚めることはなかった。だが紫薇の姿が傍から離れると、クレシェントの頬が光った。目を閉じていても、耳を閉ざしていても、心が紫薇の感情を受け入れる。涙はその表れかもしれなかった。

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