8話 奇跡の音は
自分の存在を強調するかのように床に滴る水銀を踏みつける魔姫の姿があった。人の姿であった二足歩行から、再び獣の姿である四足歩行に戻り、怒りをぶちまけるように咆哮した。荒ぶる声は空気を震わせ、赤いオーラを更に滾らせる。その怒りは完全にライプスを標的としていた。
魔姫は四つの足に力を溜め、一気に解き放つとライプスに向けて急接近した。宙を滑空しながら左腕を突き出し、体を引き裂こうとしている。対してライプスは水銀を目の前に出すと、円の形を作って盾のようにして身構えた。
飛来する魔姫の体が水銀の盾の中にめり込む。ゴムのように弾性力を持った水銀は魔姫の勢いによってはち切れんばかりに引き延ばされた。魔姫の推進力が完全に停止したと同時にライプスは再び水銀を伸ばして捕獲しようと試みる。
しかし魔姫の指先には赤いオーラが宿り、伸びきっていた水銀の膜が破れ、その勢いのまま魔姫はライプスに指先を向けた。
「この盾を…!」
魔姫の腕が振り下ろされる。赤く染まっていた指先は潜水服をすとんと切り裂いた。潜水服の胸部から腹部までを大きく裂けられ、その傷から銀色の液体が噴出した。だが魔姫の攻撃はそれで終わらず、それからライプスに背中を見せるようにして腰から伸びていた尾をしならせ、ぶち当てた。その威力は裂けた傷から潜水服を真っ二つにするほどで、上下ななめに分断されたあと、ライプスの体は吹き飛ばされた。
『ディアレイズ・グラノイド・シュベール(七度目の接吻は濃密に)』
魔姫の周りに炎が閉じ込められたガラス状の球体が七つ宙に浮かび、一斉に弾けていった。ガラスの破片と爆炎が四方八方にまき散らされ、辺り一帯を包み込む。
火は紫薇がいた場所にまでやって来たが、ジブラルが左手を掲げるとステンドグラスを砕いて集めたような壁が現れ、火を遮った。
「まさかリネウィーンがやられるなんてね。魔姫の力が概念体にまで影響し始めるなんて思いもよらなかったわ」
「どういうことだ?あの水銀は物じゃないっていうのか」
「そう、処女の庭園の裏側、私たちの心の合わせ鏡を司る、それが銀鏡の庭園。まあ、普通はそんなの認識しないんだけどね。でもかつてリネウィーンはもう一人の自分と出会ってしまい、体を奪われ、逃げられた。もとの人格は取り残された銀鏡の庭園にある水銀によって維持される。だからリネウィーンは不死身なのよ、物質ではなく心を形作る概念そのものになってしまったから」
「今さら驚きやしないが、ときどき自分を信じたくなくなるよ」
「割とあなたの世界は安定しているからかもね。そんなことより、その概念体である肉体を傷つけた。多分、そんなこと今までの魔姫だったら出来なかった。クレシェントが響詩者になったことと関係あるのかしら?それとも魔姫の力が成長でもしてるのかしらね」
「今までとは違うってことか…。お前でも太刀打ち出来ないのか?」
「馬鹿いってんじゃないわよ。本気出したら殺せるわ」
「殺すなって言ってるだろ…」
「そのぐらいマジでやらなきゃ私も危ないってことよ」
真剣な目つきのジブラルに紫薇は思わず固唾をのんだ。
「それにあなたをお守りしながら戦うのはちょっとしんどいわね。ねえ、もう諦めなさいよ。もと来た場所に行けば外に出られるんだから」
「悪いが戻る気はないよ」
「なんで?別に惚れた女って訳じゃないんでしょ」
「ああ、そうじゃない。でもあいつをこのままにしておきたくない。あんな…」
雨に濡れた自分の姿と、過去を後悔するクレシェントの姿が重なる。
「あんな顔した女がいてたまるか…」
「よくわかんないけど、あなたの我がままを聞いてられる余裕はないんだけど?」
「一つ気になることがある。ライプス…リネウィーンか?奴が持ってた鐘の音色を聞いて、魔姫に変わったんだ。ならもう一度、鐘を鳴らせばもとに戻る可能性はないか?」
「そんな鐘あったのね。でもそれならリネウィーンが試してない?」
「奴の反応を見る限り、あの鐘がどういう働きをするかわかっていなかった。賭けになるが、試してみたい」
「んで私に魔姫の気を逸らせるって訳ね、好き勝手やってくれるわ」
「悪いな、もしそれで駄目なら…あとは好きにしろ」
「ったく、終わったら一杯おごってよね。あ、未成年か」
「親父の書斎に幾らでもある。好きなだけ持ってけ」
「あら、意外とお坊ちゃんなのね。でもそれで良いわ、手を打ちましょ」
爆炎の中から叫び声を上げて魔姫が姿を現した。
「…行って!」
ジブラルは一直線に魔姫に向かって走り出した。
紫薇は一瞬だけ魔姫とジブラルがぶつかり合った姿を見ると、リネウィーン目がけて走り出した。背中で数回の衝撃音を聞きながら足を動かす。二人の衝突の激しさは離れていても肌で感じ取れた。
「…っ!?」
突如、紫薇は首筋に冷たい感覚を覚える。いつの間にか魔姫が標的を紫薇に変えて、紫薇のすぐ傍まで襲いかかっていた。
「よそ見してんじゃないわよ!」
その挙動よりも遥かに速い動きでジブラルは魔姫の懐に飛び込み、拳を作った右手を魔姫の腹部に叩き込んだ。魔姫の体がくの字に折れ曲がり、骨を砕く音を立てながら吹き飛んでいった。
「急いで!」
ジブラルは紫薇にそう叫ぶと再び魔姫を追撃しにいった。
紫薇は冷や汗を払いながら動揺する体を何とか落ち着かせ、また走り始めた。赤い光が紫薇の隣を過ぎていく。魔姫とジブラルの激突はいつ紫薇を巻き込んでも不思議ではなかった。途中、何度か魔姫はジブラルを無視して紫薇を追いかけようとしたが、その都度ジブラルが食い止めた。
「ちっ…なんだって紫薇ばっかり狙ってんのよ。今までそんなことあった?」
過去にジブラルとクレシェントは何度も戦いを繰り広げ、時には魔姫になったこともあった。決まってそのときの戦いは凄惨なものに変わるが、魔姫が攻撃対象をジブラルより弱小な存在に向けたことはなかった。常に脅威となる存在を肌で感じ、優先的に破壊しようとしていた。
「まさか…無意識に助けを求めてるんじゃないでしょうね、あの紫薇に」
周りが見えなくなり、自暴自棄になっている中で救いを求めるあまりの行動なのだろうかとジブラルは自問した。そしてその自問をすぐに後悔することになる。一瞬、意識を別に向けてしまったせいで魔姫が繰り出す変則的な動き、尾を使った攻撃に反応が遅れてしまい、咄嗟に右腕を使って防いだものの、体は床から離されていった。
「どこだ…?」
紫薇は無残に裂けてしまった潜水服の中を探してみるも、水銀が残っているだけで白い鐘は見当たらなかった。必死に水銀の水たまりに手を突っ込んでみても硬いものを掴むことはなかった。
「おい、リネウィーン!生きてるなら鐘を寄越せ!」
紫薇が叫んでも水銀はうんともすんともいわなかった。
ふと紫薇は妙な音を耳にした。低い唸り声がいつしか自分の背後から響いている。大粒の汗が紫薇のこめかみから頬を伝った。静かに視線を後ろに向けると、そこには魔姫が四つん這いで身を乗り出し、紫薇に迫っていたところだった。
「うっ…」
中腰になっていた紫薇は腰を落としてしまい、瞳孔を開いて後ずさりする。そんな姿を見て魔姫は小さく声を漏らした。紫薇はその声を辛うじて耳にすると、それが人間の言葉だとわかるまでずっと時間を要した。少なくともそのときはなんといっているのか紫薇にはわからなかった。
「なんで…」
紫薇がそういうと魔姫は体を痙攣させ、即座に紫薇に跳びかかろうとした。その直前、床に広がっていた水銀が紫薇の前で網を作り、魔姫の動きを止める。そして残った僅かな水銀が手の形になると、手のひらから白い鐘が浮かび上がって紫薇に差し出された。
純白に塗られた手持ち鐘、それは教会や結婚式で用いられるようなありふれた鐘だった。鐘の表面には蔦の模様が掘ってあって、その蔦を集めたように細い持ち手が伸びていた。紫薇はその鐘を受け取ると、魔姫に向けて鐘を鳴らした。
甲高い音が小さくその場で鳴り響くと、魔姫の動きが急に止まった。紫薇は生唾を飲みながらもう一度、鐘を振る。すると今度は悲鳴を上げながら魔姫は上半身をくねらせ、苦しみだした。魔姫に絡みついていた水銀は強い抵抗によって引きちぎられていった。そして紫薇が三度目の鐘の音を鳴らすと、魔姫は断末魔のように吠えて床に倒れ込んだ。
紫薇の頬を一粒の汗が伝う。倒れた魔姫はそのまま微動だにしなかったが、魔姫に化けていた尾や頭の角は徐々に小さくなってクレシェントの体の中に引っ込んでいった。その様を見ると紫薇は安堵の息を吐いた。
「あなたの読み、当たってたみたいね」
頬に小さな生傷を残してジブラルはいった。
「ああ、でも今さらながら心底ぶるってるよ。とんだ化け物もいたもんだ」
「そう言う割には無茶したわねえ」
ジブラルはくつくつと笑った。
「まさか鐘をもう一度鳴らせば良かったとは…。単純なことだが思いつきもしなかったな」
壊れた潜水服が独りでに立ち上がると、床にこぼれていた水銀が集まって裂けたところから潜水服の中に入っていった。
「あら、やっぱり生きてたのね」
「辛うじてね、この服を直さなければいずれ私の体は消えてしまうが。少なくとも、今はもうクレシェントを連れていくほどの余力はないよ」
そういいきかせるように潜水服の複眼が紫薇に向いた。
「だがどうせまた別の誰かがやって来るんだろ。揃いも揃ってこの女を狙うのは何故だ?」
「……………」
紫薇に向いていた複眼が明後日を向いた。するとジブラルは右手で潜水服の頭を軽く小突いた。
「ちょっと、だんまり決めてないで何か喋んなさいよ。さもないとその服ずたずたにしてその辺に捨てるわよ」
「…これでも主人に忠誠を誓った身だ、そう易々と吐く訳にはいかない」
「その主人ってのがお前たちを寄越した張本人らしいな」
「誰なのよ?教えなさいよ。紫薇が魔姫を止めなきゃ死んでたんだから」
沈黙を続けていたが、やがて観念したように言葉を口にした。
「…デラ・カルバンス、それが我々の主人の名だ」
その途端、シブラルの表情から余裕が消えた。
「誰だそいつは?」
「私と同じゼルア級犯罪者よ、尤も私やクレシェントよりずっと古株だけど。で?そのデラがなんでクレシェントを狙ってんのよ?」
「それは答えられないな、私にも語りたくないことはある」
「ならこの鐘のことを教えろ。そもそもこれは、お前たちの世界には存在しない筈だ」
「っていうかそれなに?」
「楽器だよ、手持ちのな。ナーガには楽器や音楽が存在しない。にも関わらず、お前がこれを持っていたとすれば、少なからずこっちの世界と交流があるということだ。違うか?」
そう紫薇が問い詰めてみせると、ライプスは再び黙ってしまった。
「ちょっと、まただんまり?」
「済まないが時間切れだ」
ライプスがそういうと真っ白な腕が宙に浮いていた鏡の隙間から現れ、潜水服に絡みついていった。その血の気ない腕は次第に数を増やし、潜水服がほとんど見えなくなるまでになった。
「なんなのよ、これ…」
「心配はいらない、『理の存在』が私をあるべき場所に引き戻そうとしているだけだ。君の持っているレミアの鍵と違って、『ソフィの合鍵』は言わばまがい物、理の存在を一時的に騙しているに過ぎない。本来、レミアの鍵を持っていない者は別の世界に渡ることは出来ないのだから」
ライプスの体が白い腕に持ち上げられると、闇の奥に白い扉が現れた。
「紫薇と言ったね、最後に君に忠告だ。再びランドリアがやって来るぞ、今度は君を完全に敵と見做して。彼は私以上にデラに対して忠誠心がある。君が丸腰だろうと切って捨てるだろう。命が惜しければ素直にクレシェントを渡すんだ。良いね?」
そういった後に白い腕はライプスの体を引きずり、奥に控えていた白い扉の中に押し込んだ。音を立てて扉が閉まると、白い腕は音もなく消えた。
「最後に嫌なお知らせを置いていったわね。誰かは知らないけど、なんかヤバそうじゃない?」
「あの騎士崩れがまた来るのか…。厄介ごとが尽きない人生で嬉しいね」
「それにしてもあのデラ・カルバンスが噛んでたとはねえ。ねえ紫薇、もうクレシェントを放っとけば?この子に付き合ってたら命がいくつあっても足りないわよ」
「そうだな、考えとくよ」
「真面目に言ってンのよ?私も何度も助けてあげるつもりないし」
「そうかい」
そういって紫薇はクレシェントの腕を引っ張り、肩に乗せた。
「そのデラ・カルバンスって奴が来るならまだしも、あの騎士崩れならまだ何とかなるさ」
「…どうあっても手放す気ないのね。どうして?」
ジブラルの視線を他所に紫薇はクレシェントを引きずりながら歩いた。そしてしばらく歩いたあと、紫薇は顔を向けずにいった。
「こいつがいなかったら、またもとに戻りそうだからだ」
「その子があなたを変えたってワケ?」
「ああ、認めたくないがな」
紫薇がそういうとジブラルは失笑した。
「そう、じゃあしっかりやんなさい。少しは手伝ってあげるから」
「どういう意味だ?」
そこで初めて紫薇はジブラルに顔を向けたが、紫薇の視界の中には既にジブラルの姿はなかった。翠緑色のレミアの鍵で作られた扉だけが残っていて、扉が閉まったところを紫薇は見た。
紫薇がやっとのことで家に戻った頃、ちょうど羽月とプランジェが買い物から家に帰ってきたところだった。紫薇はクレシェントを負ぶって来たが、重さに耐えきれず途中で何度か転んでしまったせいで小さな生傷だらけだった。クレシェントは変わらずぐったりとしたまま意識を覚まさないでいた。
「何があった…!?」
プランジェは買い物袋を落として駆け寄った。
「あとで説明する、今はこいつを寝かせてやれ」
そういって紫薇はプランジェと一緒にクレシェントの体を支えながらソファーまで移動させると、ゆっくりと体を横にして寝かし付けた。
「一体どうしたんですか…?」
羽月は心配そうに紫薇を見詰めた。
「疲れて眠ってるだけですよ、大事じゃありません」
「本当にそうなんでしょうか…。救急車、呼びますか?」
「少し様子を見ましょう。それより、実はもうくたくたなんです…。今日はもう…休みます」
家に帰ってきたことで安心したのか、急に眠気が紫薇を襲った。羽月の返事に答えることも出来ず、ふらふらと二階に上がっていった。自分の部屋のドアノブを開けて、ベッドに倒れ込む。その際、香水のにおいがふんわりと匂った。
「そういえば…あいつが使っていたんだっけ…意外と、良い匂いかもしれない」
そのにおいは女性特有の円やかな香りで、それが紫薇の瞼を急速に閉ざしていった。
紫薇の目が覚めたのは夜中だった。誰もが寝静まり、たまに家の側を通る車の音がやけに大きく聞こえる時間だった。疲れは取れたが、体が栄養を欲しがって紫薇の腹が鳴った。人差し指と親指で目を擦ると、紫薇は一階に降りた。
台所にあるテーブルにはラップに巻かれたおにぎりがあって、傍に「豚汁が冷蔵庫に入っています」とメモが置いてあった。紫薇はおにぎりを一つかじると、クレシェントの様子を見にいった。おにぎりの中身はおかかだった。
クレシェントの傍に寄って手を彼女の口許の真上に寄せてみる。鼻息が手に吹きかけられると紫薇は安堵した。これで本当に息をしていなかったらどうしようかと、内心紫薇は焦っていた。
「夜食は太るぞ」
小さな声が階段の方からした。目を向けるとそこにはパジャマ姿のプランジェが立っていた。
「お前の場合、少しは太った方が良いのかもしれないが」
「ご忠告どうも、お前も腹が減ったのか?」
「いや、足音がしたから様子を見に来ただけだ」
紫薇はそうかいと言って台所の椅子に腰かけると、プランジェはその前の席に座って尋問する様に紫薇を見た。
「紫薇、お前は何を見た?」
プランジェが核心的な一言を口にすると、紫薇の口許は一瞬だけ止まった。紫薇は噛んでいた米をゆっくりと飲み込んでから喋った。
「…ゼルア級犯罪者 壊乱の魔姫と呼ばれた姿を見た」
「なんだと…?それでどうやって生き残ったというのだ…!」
「なんとも不思議な状況だったよ、あいつを連れ去ろうとした奴と、途中でやって来たジブラルに助けられた。お前にも話しておかなきゃな、危険な目には遭ったが収穫もあった」
プランジェは愕然とした表情で紫薇を見たが、こうして無事な姿があること、そして紫薇から説明された内容を聞いて次第に納得していった。
「まさかそんなことが…」
「お前は魔姫と呼ばれたクレシェントの姿を見たことがあるか?」
「いや、私はこの目で確かめたことはない。実は私の両親がクレシェント様に殺されたと言っても、当時の私は赤ん坊に近い年頃だったからな。正直、憎しみという憎しみを感じていないのも、それが理由だろう。皮肉な話だが」
話を聞きながら急須で入れた緑茶を啜った。
「どんなお姿だったのだ?クレシェント様は…」
「一言で括ったら化け物だな。おぞましい姿だったよ」
「お前、クレシェント様をなんだと思って…!」
プランジェははっきりと怒りをぶつけながら紫薇を睨んだ。
「お前はあれを見ていないからわからないんだよ。人間の姿はしていたが、限りなく異常な状態だった。文字通り、化け物という言葉がよく似合う。だがお前らがそうなのは前からわかってたことだ。どうやらこっちの世界の人間よりも、お前らの方が頑丈でイカレてるらしい」
「言葉の荒さは容認できないが、お前よりも頑丈なのは事実だ。但しそれは一部の人間であって、一般的なナーガの住人はお前とさほど変わらん。それは私も同じだが、私と姉さんはクレシェント様の
「その
「
「ということはお前も魔姫になる可能性があるってことか?」
「いや、そこまでの力は出ない。ただクレシェント様のお体は重い怪我でも治りが早いだろう?私も同じくらいの治癒能力がある。それと少しばかり体が頑丈だ」
「早い話、体がクレッシェントに似るってことか。例えば目が赤くなったりはするか?魔姫になったときには普段の銀色の目から、濃い赤色になってたが」
「赤い色に…?何かの間違いではないのか?ナーガでは赤い目の持ち主は、決まって獣人や亜人に見られる特徴だ。彼らは
「その獣人や亜人ってのがよくわからないが、さっきも言った通り化け物になったんだ。まともな考えで決めつけない方が良い」
「ううむ…」
そこだけは納得がいかないのか、人差し指を口もとに寄せて考え込んだ。
「赤い目だが、ナーガに伝わる昔話がある。かつてナーガを滅ぼした存在で、雲を跨ぎ、山を飲み、大地を踏み荒らして世界を血の海に沈めたとされる真紅の女王 『ヴィシェネアルク』その血脈が獣人や亜人とされ、その体に女王と同じ赤い目を宿すといったものだ。ただ…」
「ただなんだ?」
「いや、これは蛇足になるが、最近の研究では私のような人間もその血を受け継いでいるのではないかとの説もあった。流石にそれは学会から総好かんを食らったようだが。今はそれはどうでも良いな、忘れてくれ」
「お前の見立ては、そのヴィシェネアルクとあいつに何か関係があるかもしれないってことだな」
「…ただヴィシェネアルクも昔話、おとぎ話なんだ。あまり現実的な話ではない」
「当の本人に聞きたくても起きる気配がないからな。明日になっても起きなかったら水でもぶっかけてやるか」
「ふざけるな」
「連中は失敗を続けてるんだ、そろそろ本腰を入れてやって来るぞ。自分の身は自分で守って貰わなきゃ困る。また連中が来ても寝たままなら、洒落にならないからな。お前も手練れなのは知ってるが、一人でやるのは無理がある」
「それは…」
「だから強引でもことを進めなきゃいけないんだよ、手遅れになる前にな」
プランジェは理解しているものの、なまじクレシェントの苦悩を知っているせいで素直に首を縦に振ることが出来なかった。
暗闇の中、鳶色の瞳が殺気を滾らせながらその手にぐにゃりと曲がった刃を持って、中央に置かれている椅子の傍に立ち塞がっていた。それを嘲笑うかの様に青い髪を靡かせる女性はその異形とも呼べる右腕を蠢かせていた。
「済まないが、もう一度だけ言ってくれるかな?」
椅子に座った赤い目の男は極めて落ち着いて、足を組みながらジブラルの顔を見ている。その目に闘気はなかった。
「だから言ってるでしょう。あなた、クレシェントから手を引きなさいな。あの女は私が仕留めたいのよ。邪魔をするなら命はないわよ?デラ」
「貴様…」
「ランドリア、止めなさい」
今にも食ってかかりそうなランドリアを止めたのはデラと呼ばれた男の声だった。その男の声を耳にするとランドリアは大人しくなって引き下がった。
「今のお前では彼女に敵わないよ。もっと実力を積まなければな」
「そうよ、敵っこないんだから止めて置きなさい」
「勘違いしては困るよ、ジブラル。今だけは君の方が上手だが、何れ君程度の小娘なら凌駕するだろう。うちのランドリアは器量が良いからね」
その言葉を聞いてジブラルはぴくりと顔を歪めた。そしてデラは椅子から立ち上がり、一歩、二歩と足を動かしながら言った。
「ジブラル、君のその体が朽ちる前に一つだけアドバイスをしてあげよう。年長者の話だ。聞いて置いて損はないよ」
「なによ?アシェラルの土産に聞いてあげるわ」
「君は自分の事を優秀だと思っていると思うが、実際には違う。残念ながらね。どんなに強大な力を持っていても、今の君は子供と同じだ。ただその力をいい加減に、勢いに任せて振るう稚拙な小娘に過ぎない。わかっていないだろうから教えてあげよう。世の中には、どう足掻いても決して敵わないものがあるという事を」
「言うこと欠いて説教とは恐れいるわ。その力を具現化したものが、この妖精のかけらなのよ!」
そういってジブラルは右手の指を鳴らしながらデラに向かってその腕を振り払った。指先はその椅子を真っ二つに砕き、その隣にあった壁までも崩れさせ、更にその奥の部屋まで破壊していった。巨大な地響きと共にその場所が、外から見れば城が音を立ててその形を崩壊させていった。
「だから君は浅はかなのだよ、ジブラル」
デラの体はその場所に立っていた。胸元は左から右に肌蹴け、着ていた洋服はその箇所だけ破れていた。しかし外傷はない。破れた服から新鮮な肌だけがあって、掠り傷も負っていなかった。
「もし君がその力を本当に支配していれば、私の体はこの世界から消滅しているだろう。しかしそれが出来ていない。…可哀想な子だ、自分の実力を見定めることも出来ないとは…ランドリアとは雲泥の差だな」
「ならその減らず口が叩けないまで攻めてあげるわ」
「その必要はないよ。次の一撃で勝負は決まるからね」
男の左頬に光が宿った。紫紺色の宝石は強い光を持ち、そしてその男の目は更に鮮やかな血の色を持って彼の右腕を変化させた。
「…嘘よ…」
ジブラルは絶句した。デラの右腕は自分の右腕の形とまるで同じになっていたのだ。いや、それどころかデラの右腕は自分の右腕よりも更に巨大で、より攻撃的な姿をしていた。
「どうして…その腕を…」
一筋の記憶がジブラルの頭を駆け巡った。
水色に広がった雪の中、幼い体をしたジブラルが自分の右腕を見ながら、わなわなと身を震わせている。子供には似合わない黒い巨大な右腕、その太い指先からは血がしたたり落ちて雪を溶かしていた。
目の前にはジブラルの顔に似た男が下半身を失って倒れていて、辺りいっぱいを真っ赤に染めていた。男の手にはナイフが握ってあった。
「……………」
焦点の定まっていないジブラルの隙をデラが見逃さなかった。ジブラルと同じように右腕を唸らせると、肩に力を入れて思い切り振り払った。ジブラルが我に帰った時には体は遥か向こうに吹き飛ばされていた。ぶつかる際、反射的に右腕で防御したものの、衝撃を和らげることは出来ず、体中から血を噴出させた。
「ごほっ…!逃げ…なきゃ…」
膝を笑わせながらジブラルは壁伝いに歩いていった。壁にはべっとりと血が着いて、何度も吐血しながら足を動かした。不意に誰かの気配が後方から迫っているのをジブラルは感じると、自分の意思に反してレミアの鍵を取り出し、扉の中に逃げるようにして入っていった。
「ちっ、白銀世界の中に入られたか…」
その場所に辿り着いたのはランドリアだった。消滅する扉を見て舌打ちをした。
崩れる壁や天井を抜けてデラのもとに辿り着いた。デラは立ったままランドリアが帰って来ると安心した顔をした。右腕は元に戻っていた。
「彼女は…白銀世界に逃げた様だね」
「申し訳ありません」
「なに、構わないさ。あの傷なら放って置けばいずれ死ぬ。あの子を手当てする者などいないだろうさ。それにしても…」
言葉の途中でデラは口許から血を流した。
「この怪我では当分動けないな。少し侮っていたかもしれん」
体の表は何の怪我もない様だったが、裏側は見事に背中が抉れて中の臓器は心臓を残して辺りに飛び散っていた。空洞となった体をよたよたと動かし、背もたれのない椅子に座るとデラはランドリアに命令を下した。
「ランドリア、私の辛抱もそろそろ限界だ。お前の言っていた策に任せよう。ソフィの合鍵も残り一つだ。必ず私のもとにクレシェントを連れ戻せ」
「はっ」
そういってランドリアがその場から影の様に姿を眩ますと、デラは破壊された天井から差し込む青い月を見ながら呟いた。
「ジブラルめ、恐ろしい娘だ…。これ程の力を持っていたとは…いや、寧ろこの力の、妖精のかけらがそうさせるのか…」
そういって自らの妖精のかけらを指で触れた。
クレシェントはまだ目を覚まさなかった。白銀世界から帰ってきてからもう二日、流石に慌てて医者を呼んでみるもどこの異常もなければ脈も正常、顔色や瞳孔を確認しても、これで目を開かないのは全くもって原因が不明だと宣言された。
紫薇は家路を歩いていた。クレシェントの事は羽月とプランジェに任せていつも通り学校に登校する事にした。その帰り、紫薇は気分の冴えないのを紛らわせようと帰り道を変えてみた。住宅街を抜けて歩いてみるとそこの道は公園に続いた道だった。景色が段々と鬱蒼として木々の壁になる。地面は赤茶色のタイルに変わり、ふと先を眺めてみると誰かが木に寄り添って座っていた。紫薇はこんな場所に珍しいなと思いながらその人間に近付いていった。
「うぷっ…」
これで何度目の吐血だっただろうか。ジブラルは呼吸をするのもままらないまま体内の血液を流していった。体が寒いと感じ、視界がぼやける。ジブラルは白銀世界にやって来てからこれからどうしたものかと思っていた。出血で頭が回らない。自分を介抱してくれる心当たりは一人だけいたが、その場所までレミアの鍵を使おうとする余裕はなかった。
それでも必死になってレミアの鍵を呼び出し、扉を開けてみるとそこはナーガでなかった。見知らぬ場所だった。しかし匂いは記憶のどこかにあった。ジブラルの体力はそこで尽きて、その場所に倒れ込んでしまった。足元がふらついて背中にあった木にもたれながら腰を落とす。地面は赤茶色のタイルだった。
「…私、死ぬのかな?」
右腕はとうの昔に元のか細い腕に戻っていた。
不意に過去の記憶が蘇る。視界の先には醜い形の手が映っていた。その手の平にはべっとりと血が付いて、裂けた肉が指の間に挟まっていた。鮮やかな血の色は降りしきる雪までも染め上げ、まるでその場所に赤い雪が降っているかの様だった。
「…怖いよ、メディストア…」
その肌に染み付いた血を洗い流すかの様に涙を零した。そして力がなくなった様に顔を左に向ける。涙で歪んだ視界のその先に、驚いた顔でジブラルを見る紫薇の顔があった。
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