7話 血の味のする綿

 紫薇はページを捲った。

 恋愛とは男女が互いに相手を恋し、慕う事を指す。また、恋に男女の隔てはなく、同姓同士が惹かれ合ったとしても何ら可笑しい事ではない。現に生物界では雄のゴリラ同士が精液をかけ合うなど、同性愛が極普通に行われている。しかしながらその同性愛が許容されているのは一部の国だけであり、日本に関しては法律で認められていない。恋愛とはまた普遍性に欠けるものであり、同時に特別性を持たない厄介極まりないものである。だからこそ許容する国と、許容しない国に分かれてしまうのではないか。

 「…成程」

 紫薇は羽月の弁当を口にしながら学校の図書室で恋愛に関する本を読み漁っていた。誰にも見付からない様にテーブルではなく、図書室の奥の窓際で隠れる様にして読んでいる。にも関わらず、いつの間にか紫薇の隣には氷見村がやって来て、購買で買ってきたパンの包みを開け始めた。

 「おい」

 「ん?なに?」

 パンにかぶり付きながら紫薇に顔を向ける。

 「向こうで食えよ、なんでこっちに来る?」

 「なんでって…つれないなあ、ご飯は一人で食べるタイプ?」

 「お前に関係ないだろ。それよりなんで当たり前のように側に来るんだ」

 「いや、一人で寂しそうにご飯食べてたからさ。良いだろ?知らない顔じゃないんだし。ところでなに読んでんの?」

 紫薇の隣に積まれた青い花やミーラと書かれたタイトルを見て氷見村は目にした。

 「うわ、君がノバーリスやアルフィエーリ?シェイクスピアの方が似合ってると思うけど」

 「放っとけ、参考までに読んでるだけだ」

 「って事は誰か好きな人が出来たの?誰?クラスの人?確か君のクラスの目ぼしい子は…こぶ付きの榊原さん?それとも不良娘の白那美さん?オタクの卯月さん?まさか幼児体型の鞠宮さんだったりして」

 一人楽しそうに妄想を広げる氷見村に紫薇は溜め息を吐いた。

 「お、恋だねえ。知ってる?溜め息の数だけ出会いがあるんだよ」

 「お前の戯言に付き合ってらんないよ」

 そういって紫薇は弁当箱を包み直して席から離れた。

 「あれ?本はどうするの?」

 「ああ、もとに戻しといてくれ。じゃあな」

 「良いけど、その代わり放課後にまた手伝ってくれる?人手が足りなくてさ!」

 その場から去ろうとする前に氷見村は釘をさす様に言った。

 「ああ、気が向いたらな」

 不満そうな氷見村の声を無視して紫薇は図書室から出て行った。


 放課後、二人は新品のモップを持って体育館に向かった。紫薇は氷見村にいわれたことをすっかり忘れていたのでそのまま帰ろうとしたが、氷見村が下駄箱で待ち伏せしていたので捕まってしまった。

 体育館の中には誰の姿もなく、しんとしていた。氷見村の仕事は体育館の床にニスを塗る仕事だった。本来は用務員の仕事だが、腰痛のため風紀委員が代わりに仕事をすることになっていた。そのため普段は部活をする学生の姿があるが、今日だけはお休みということになっていた。

 「本当にこの広さを二人だけでやるのか?」

 紫薇が鼻で溜め息を吐きながらいった。

 「普段は用務員さんが一人でやってるんだ、それと比べたら作業は半分だよ」 

 「風紀委員ってのは雑用が仕事らしい。もっと文化的なもんだと思ってたがね」

 ニスの入ったボトルを振り、やや乱暴に床に撒いた。

 「より学校を良くする為だからあながち間違っちゃいないかな。普段は校則に反してない生徒を見つけたり、持ち物検査とか、放課後のパトロールとかやってるよ」

 床に広がったニスをモップで擦っていく。床に光沢が広がると氷見村の顔が映った。氷見村の額には汗がにじんでいたが、そんなことに目もくれず床を磨き続けている。紫薇はそんな氷見村を見て始めは邪見にしていたが、ひたむきに仕事をする氷見村を見ていると自然と体が動いていた。むしろ紫薇は少しずつ氷見村の努力や善行を理解し始めたのかもしれなかった。

 「…感謝されたことはあるのか?」

 「あんまりないかな、風紀委員の仕事って外に発信してる訳じゃないし」

 「委員の紹介も含めて学校新聞でも出したらどうだ?少しはそうされるべきだろ」

 「いいよ、今のところ僕だけで何とかやっていけてるし、たまに君が手伝ってくれたらそれで助かるからさ」

 「そうか…」

 「でもありがとう、君だけでも知ってくれてたら僕はそれで満足だ」

 はにかむ氷見村を見て紫薇は反射的に顔を背けた。じわりと紫薇の胸が痛む。紫薇はそれを隠すように仕事に集中した。たぶん、紫薇は友達として氷見村のことが気に入り始めたのだ。でも今までにそんなことがなかったから、少し紫薇は混乱しているのかもしれなかった。


 それから床一面がぴかぴかの照りを持ったのは日が沈み始めた頃だった。

 「良し、これで後はこのまま明日を待てば良いだろ」

 黙々と作業をしていたせいでワイシャツは汗で濡れていた。

 「いやあ、疲れた。でもこの汗も青春だよねえ」

 二人が腰を下ろして自分たちの功績を眺めていると、一人の教師が体育館にやって来て二人に近付いた。

 「おお、用務員の代わりにやってくれたんだってな。ご苦労さん」

 白いポロシャツに赤いラインの入った短パンを着た体育の教師の代名詞ともいうような男だった。

 「おいおい…なんだこりゃ?」

 その教師は体育館の中に入るや否や、光沢を持った床を見て悪態を吐き始めた。それもその筈、油の膜の下には髪の毛やほこりが塗りつぶされていたからだ。

 「お前らニスを塗る前に床を拭いたのか?これじゃ汚れを油で固めたようなもんだぞ。手伝ってくれるのは良いが、手を抜くんだったらやらなくて良いぞ」

 「すいません、用務員さんからはニスだけ塗ってくれれば良いと聞いてたので…」

 狼狽する氷見村を他所に紫薇は明後日を向いていた。

 「少し考えりゃわかるだろ、言われたことだけやってても駄目なんだよ。そんなんじゃ社会に出てもやってけないぞ」

 「はい、すいません…」

 「頼むぞ、こんなこと誰でも出来るんだから」

 紫薇の眉間がこわばった。その言葉は紫薇の沸点に触れるのは簡単だった。

 「じゃああんたがやれよ」

 始めは顔を向けなかった。

 「なんだと?」

 「誰でも出来るのに、誰もやらないのはなんでだよ。誰も出来ないことをやってるのはこいつだろ」

 紫薇は立ち上がってその教師を睨みつけた。

 「少しは感謝しろよ、その誰もやらないことをやってやってるんだからな」

 「誰も感謝してないなんて言ってないだろう。突っかかってくるんじゃない。それと口の利き方に気を付けろ、目上の人間には敬語を使え」

 「話すり替えんな、結果がどうであれやったことに対して評価してやれって言ってんだよ」

 「し、紫薇…良いよ」

 みるみるうちに教師の顔が赤くなっていく。片目が痙攣をはじめ、体が少しばかり膨れ上がったようにも見えた。体育を専攻していることもあって体は筋肉質だった。そんな大の男が鼻息を荒くするものだから氷見村は更に狼狽した。

 そんな状況でも紫薇は怯まなかった。その態度がさらに気にいらなかったのか、教師の手が紫薇の胸倉に伸びる。

 「綺麗になりましたねえ。佐上先生もそう思いませんか?」

 不意にしがれた年配の声がその手を止めた。

 こげ茶色のスーツを着た柔和な顔の教師。まん丸の眼鏡をかけて、頭は両脇を残して禿げている。とても温和な声で紫薇の側に近づいた。

 「いや…私もそう思った所でして。はは、実にそう思います、校長」

 真っ赤になっていた素顔はあっという間に青ざめ、伸ばした手は紫薇の肩に向いて軽く叩いた。それを紫薇が手で払いのけると、一瞬、目じりが痙攣したがすぐに笑顔を取り繕った。

 「絵導くんも氷見村くんも有難うね。後片付けは佐上先生にやって貰いますから、二人はもう帰って良いですよ。それじゃ、後はお願いしますね、佐上先生」

 「私がですか?今日はその…いや、わかりました」

 小さい声で文句を言いながら片づけを始める。紫薇と氷見村はそんな教師を傍にそそくさとその場から離れていった。途中、紫薇は年老いた教師を一瞥すると、目が合ってしまったので慌てて視線を戻した。


 「はあ…今日は散々だったね」

 校舎を出てから氷見村はしみじみと無事を感じた。

 「あの佐上ってさ、結構やらかしてるらしいよ。生徒に手を出したこともあるんだってさ。まさか紫薇が食ってかかるなんて思ってもみなかったけど。よくビビらなかったね、意外と肝っ玉すわってんだ」

 「そうでもない、ただもっとヤバい目に合ってきただけだ」

 ここ最近の出来事は紫薇の胆力を格段に上げていた。

 「それより…悪かったな、俺が話をややこしくしちまった」

 「はは、でも嬉しかったよ、紫薇が怒ってくれたの。ありがとな」

 そういって氷見村はにこりと笑った。紫薇はなんて返したら良いのかわからなくて、思わず苦笑いした。

 「そういやあの爺さん、校長だったんだな」

 「え?知らなかったの?」

 「誰がいるとか興味なかった」

 「せめて校長先生くらいは覚えとけば?蓬莱寺ほうらいじ先生っていうんだよ」

 「ああ、覚えとくよ。お陰で大事にならなかったしな。まともな教師もいるらしい」

 そういうと氷見村は困ったような顔して笑った。


 それから紫薇は帰りの途中で氷見村と別れた。途中、仕事の疲れで腕と腰が痛くなっていたので、薬局で湿布と消毒薬に包帯、簡単な救急セットを袋に詰めて家に帰った。

 「ん?」

 不意に紫薇の耳に金属音が入った。微かに聞こえる鐘の音。紫薇はどこから鳴っているのだろうと辺りを見回したが、その音はいつの間にか消えていた。紫薇は不思議に思いながらも止めていたつま先を家路に向けた。

 

 「ただいま」

 玄関のドアを開けると、羽月の靴とプランジェの靴がない事に気付いた。最近の買い物はもっぱら二人の仕事だったが、紫薇の下校過ぎでもいないのは珍しいことだった。紫薇はスリッパに履き替えてリビングに向かった。

 「あ、お帰り。おやつあるよ」

 リビングではクレシェントがテレビを見てくつろいでいた。ソファーから首を曲げて顔だけ覗かせる。

 「甘いものならいらない」

 「羽月さんが焼いてくれたしょうがクッキーだからそんなに甘くないわよ。辛いから牛乳と一緒に食べないと舌がぴりぴりするわ。プランジェは喜んで食べてたけど」

 プランジェは辛いものが好物で、色んなものに山椒や練りからしを付けて食べる。特にわさびが好物だった。

 「背格好の割に舌だけはいっちょ前だな」

 紫薇は試しに生姜のクッキーをかじってみると、爽やかな、それでいてパンチの効いた味が舌を蹴飛ばした。思わず片目を閉じてしまう。

 「そうね。辛いものはカレーだけで十分だわ」

 「口に入れば何でも良いと思ってたんだが…違うのか?」

 「その口の中にクッキー山ほど入れてあげようか?」

 笑顔でそう口にするクレシェントに紫薇は手で払うポーズをとると、側にあったリモコンを取って椅子に座った。アニメ、教育、娯楽、ニュース番組に変わったところでチャンネルを止めると、ちょうど今週の天気について報道していた。

 『今週は前線が非常に不安定で、明後日から雨が続くでしょう。洗濯物や布団を干すのは避けた方がよいでしょう』

 「これから雨か…」

 また一つクッキーをかじった。噛めば噛むほどクセが出てくる不思議な味だった。

 「雨は嫌い?」

 「いや、雨が嫌いと言うよりも…」

 子供の頃、何度も雨の日に外に放り出されたことを思い出して小さく身震いした。

 「雨に当たるのが嫌いだな」

 「文学的ね」

 「お前は?」

 「私は…雨は好きだと思う。色んなもの、洗い流してくれるから」

 そう口にするクレシェントを紫薇は横目で眺めた。視線を落とす彼女の顔はまるで雨に打たれた子犬の様だった。

 「可愛げのない奴」

 「え?」

 ぼそっと呟いた紫薇の一言をクレシェントは聞き逃してしまった。

 「いや、別の世界でも雨は降るんだなと思ってね」

 「え、ええ…降るわよ。場所によってはだけど」

 「そうかい」

 紫薇はクッキーを食べ終えると腰を曲げて膝の上に腕を置いた。

 「お前、時々そんな顔をするな。首に縄を巻かれた死刑囚みたいな顔だ」

 「そうね…ご免なさい…」

 そういうとクレシェントの目は更に淀んでいった。

 「お前が何であろうと構いやしないが、俺の目の前でその顔は止めろ」

 棘のあるその一言にクレシェントは思わず胸を打たれたものを感じた。

 「…どうしてそんなこと言うの?」

 紫薇は黙ったまま目線だけをクレシェントに向けた。

 「そんな顔を見て喜ぶ奴がいるか?それに…」

 紫薇は言葉を詰まらせた。そう、今のクレシェントの顔は自分の幼い頃と酷く似ていたのだ。毎日が地獄の様に感じたせいで顔はやつれ、血色は悪く、笑ってもいないのに頬がこけて薄ら笑いを浮かべている様な顔だった。紫薇はその時の顔と今のクレシェントの顔を嫌でも重ねてしまうのだ。だから紫薇はそのクレシェントの顔が許せなかった。

 過去の痛みが紫薇の視界を潰す。閉じた目の先にはかつての自分がいた。

 「お前のその顔が…」

 瞼に映った自分から逃げるように目を開けると、がっくりと顔を項垂れたクレシェントの姿があった。顔だけではない、上半身を傾けて今にも倒れそうだった。

 「…おい、どうした?」

 「わからない…。急に…頭が…」

 頬は昂揚し、余りの熱に額から大粒の汗を流してしまっていた。その姿を見て紫薇はおろおろするばかりだったが、とある鐘の音が狼狽を止めた。小さな鐘の音色、それは紫薇が帰り道で耳にした音だった。

 「うっ…!」

 鐘の音がするとクレシェントはびくりと体を弾ませ、顔を歪ませた。

 「これ…まさか…!」

 音色が響くたびにクレシェントの苦悩が濃くなっていった。その最中、紫薇は銀色の髪の毛の隙間から赤い光を垣間見た。血の色よりも濃い赤い瞳、普段のプラチナブロンドを塗りつぶすような色合いだった。

 「ぐっ…!紫薇、追ってこないで…プランジェにもそう伝えて…!」

 二の腕を掴みながらクレシェントは必死に抵抗した。そしてうめき声を上げながらその場から立ち去ると、勢いよく玄関を飛び出していった。

 紫薇はその様を終始うつろに眺めてしまっていたが、途中で我に返ると椅子から立ち上がった。と同時に権兵衛が警鐘を鳴らすように叫び声を上げる。

 「わかってるよ、何が起こってるかわからないが、奴を追わないと。だが権兵衛、お前はここに残れ」

 そういうと権兵衛は驚いた顔をして首を横に振った。

 「なにか嫌な予感がするんだ。お前はここに残って、プランジェが帰ってきたらこのことを知らせろ。大丈夫、お前が居ないんだから無理はしないよ」

 紫薇は権兵衛の頭を撫でると足早に玄関に向かった。ドアノブを開ける際、まるで白銀世界に続いているあの扉の様に感じてしまった。いつもとは事情がまるで違う切羽詰ったこの状況に紫薇は息を一つ呑んでから家を出た。


 家を出てから紫薇はまっすぐに翠川公園に向かった。何故その場所に足が向いたのか紫薇にはわからなかったが、クレシェントの言葉からして向かうならそこしかないと紫薇の直感がそう告げたのだ。

 紫薇の直感は当たっていた。翠川公園の横穴を潜ってその先に進んでみると草むらの上に奇妙な光景が広がっていた。ぽつんと真っ白い扉が立っている。空襲があったみたいな家のそのドアは半開きで中から闇が手ぐすね引いて待っていた。

 「なんだこの扉は…」

 その扉はレミアの鍵と呼ばれたものと似ていたが、外装が違っていた。紫薇はその半開きになった扉をゆっくりと開け、ぶるると体を震わせながら中に入っていった。

 「…?」

 紫薇が扉の中に入った頃、その後ろ姿を離れた場所から青い髪をなびかせた女が不思議そうに眺めていた。


 白い扉の中は紫薇の想像だにしない光景が広がっていた。暗闇が広がっているものの、縦横無尽に鏡が一面に貼られていて、それ自体が弱く発光している。そのお陰で足元を見ることは出来たが、自分の姿が何重にも拡散して一歩歩くたびにどこにいるのかわからなくなりそうだった。まるで自分の姿を何かから隠すかのようだった。

 ふと紫薇は何か柔らかいものを踏んづけた。紫薇は鏡に映った無数の自分の姿に惑わされ、それが何なのかわかるまで時間を要してしまった。

 「お前…!」

 それは床に寝そべっていたクレシェントだった。精気がなく、ぐったりと肩を落としているその姿はまるで死体のようだった。

 「クレシェント、しっかりしろ」

 体を揺すってみるとクレシェントは微かに声を上げた。紫薇が仰向けにしてやると汗で顔にべったりと髪の毛がついた。クレシェントの体は高熱を持っていて、大粒の汗が頬や首を伝った。

 「紫薇…来ちゃ駄目って…言ったのに…」

 「穀潰しの言うことなんて利きたくないね」

 そういうとクレシェントは困った顔をして笑った。

 「何があった?どうしてこんな所に…」

 「誰かが…私を呼んでいたの…鐘の音に乗せて…あの時と同じ、音色が…」

 ぽろぽろと涙を零しながら何かを懺悔する様にクレシェントはいった。紫薇はその濡れた頬をただ黙って見てやることしか出来なかった。涙を拭ってやることも、頭を撫でてやることも今の紫薇には無理なことだった。

 「ならその誰かに見付かる前に、引き上げるぞ」

 紫薇はクレシェントの腕を肩に寄せ、腕力のない体でやっとこさ彼女の体を引き上げた。惨めだなと紫薇は思った。クレシェントを負ぶった日が嘘の様で、急に紫薇の筋肉が彼女の体重に負けて前につんのめりそうになると、紫薇は慌ててつま先に力を入れた。そして必死になってバランスを取り戻し、視界が上下に揺れるといつの間にか目の前に得体の知れないものが立っていた。

 銀を捻じ曲げて作ったような大きな潜水服、顔の部分には幾つも丸いガラス板があって覗き穴のようになっていた。ガラスは鏡になっていて中の様子は見てとれなかったが、誰かが服の中から語りかけている。

 「彼女を渡して貰おう」

 フィルターを通して発声されたような声が響く。体の大きさは紫薇の倍あったが、男とも女とも聞いて取れるようだった。

 「騎士崩れの次は潜水服のバケモノか…どういう趣味してんだ…」

 「ランドリアが言っていた小僧というのは君の事か…。我々は危害を加えるつもりはない。大人しく彼女を渡してくれれば、事は穏便に進む。君は利口そうな見た目だ、私の言っている事が理解できる筈だ」

 「渡してやっても良いが、一つだけ知りたい。何故この女をそうまでして付け狙う?目的は?まさか美貌に眩んでこいつの体が欲しい訳でもあるまい?」

 クレシェントは意識を失っているのか、頭をぐらりと俯かせていた。

 「その通り、我々は彼女の美貌に負けて彼女を欲している。ただその美貌は、彼女の内に潜んでいるものだがね」

 「内に?響詩者デゴーチェの事か?」

 「それを知っているのか。いや、その力ではない。もっと深淵に潜むもの。本能的な情緒、彼女を壊乱の魔姫と呼ばせしめる力の源だ」

 「そんなものがこいつの中に…?」

 「危険な力だ、彼女もそれを支配し切れていない。だからこそ我々が統制しなければならないんだ。悪いようにはしない、彼女を渡しなさい」

 「いや、その先の話をこいつから聞いてみたくなった。悪いが交渉は決裂だ」

 「利口な子だと思っていたが、やはり仕置きが必要か。余り時間もない、私の合い鍵が閉じてしまう前に君を痛め付けるとしよう」

 その言葉が発せられた瞬間、クレシェントの双眸は見開いた。覚醒の次に剣を呼び起こし、潜水服を切り付けながら遠くまで吹き飛ばした。

 「紫薇…!離れて…いて!」

 クレシェントはまだ本調子でない様だった。剣を握りしめるものの、ふらふらと足もとがおぼつかない。垂れた前髪をかき分けることも出来なかった。

 「鐘の音色で弱らせていても、まだこれほどの腕力を振るえるのか。ならば限界まで体力をそぎ落とさせて貰おう」

 潜水服の顔についていたガラス板が開くと、中身から銀色の液体が噴き出していった。床に広がった液体はぷるぷると震えながら広がり、それから何本もの腕が液体から吸い上がるようにして伸びていった。やがて腕は細長い人間の形を取り、列をなすと一斉にクレシェントに向かって駆け出していった。

 銀色の人形は走りながら右腕をヒレのように伸ばし、ギロチンのような刃を作ってクレシェントに襲いかかる。だが何体もの人形が切りかっていっても、クレシェントはその振りを躱し、赤い剣を振るって切り裂いていった。そのうちに切りがないと悟ったのか、クレシェントは剣劇を止めて距離を取ると、概念を呼び起こした。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(汚れた手形は哀傷を置いて)』

 目の前から突撃して来る人形の群れを赤い腕が握りつぶし、叩き、打ち払っていく。数を成していた人形の群れは一気に崩れていった。その様はまるで遊びに飽きた子供が人形を蹂躙するかのようだった。

 戦況はクレシェントに優勢のように見えたが、潜水服の人間は人形遊びの中でも次の一手を用意していた。

 『ラグフェル・マハ・ハイドリッヒ(とても身近な死)』

 人形を他所に銀色の液体が流動し、球体になりながら徐々にその重量を増やしていった。巨大になったその球は複数に割れ、やがてトカゲのような形を成していく。それは人間の受精卵で発育途中の赤ん坊の姿だった。ちょうど第7週ぐらいの形にまで成長すると、まだ出来上がっていない手のひらをクレシェントに向けた。

 クレシェントは手にしていた剣を無意識に床に突き刺す。胎児の手のひらから強大な奏力を感じ取ったからだ。両手に力を込めると彼女の傍に二つの光が浮かび上がった。そして両腕をその光の中に入れ、再び赤い腕を発生させた。

 胎児の手のひらから波紋が放たれる。波紋は徐々に広がっていき、辺りの鏡を粉砕しながらクレシェントに近づいていった。ちょうど胎児とクレシェントの距離が3メートルのところで赤い腕と波紋がぶつかり合った。その瞬間、衝撃によって周りの鏡は吹き飛び、幾重にも光を屈折させながら散っていった。

 「なんて光景だ…」

 何本もの赤い腕が胎児の繰り出す波紋を押さえつけ、波紋がこれ以上広がらないように抵抗している。その光景はおぞましいものでもあり、まるで現実味のない状況だと紫薇は思わず口を漏らした。

 胎児の体が後ろに下がる。両者の力は拮抗していたが、やがて赤い腕は胎児を波紋ごと押し伏せようとしていた。負けじと潜水服の人間は奏力を胎児に送り込むが、それでもクレシェントの勢いは止められなかった。

 「これほどとは…噂以上だな、壊乱の魔姫の実力というのは…!」

 その言葉がクレシェントの耳に入ると、更に赤い腕の力が増した。

 「仕方がない、許せよ…」

 そう呟いて潜水服の人間は懐から手のひらに収まるくらいの白い鐘を取り出した。それを一振りすると、鐘の音色が辺りに小さく響き渡った。

 「………っ!?」

 小さな音色は赤い腕と波紋が繰り広げる衝撃と音でかき消されることなく、クレシェントの鼓膜を刺激した。赤い腕の進行が止まり、クレシェントは体を痙攣させながら顔を蒼白させた。

 「止めて…!」

 必死に手で耳を押さえるが、鐘の音は止まなかった。クレシェントの心臓が跳ね上がる。心臓が鼓動するたび、クレシェントは恐怖した。かつて自分を支配してしまっていた激情が再び現れると。


 手足の伸びきっていない銀色の髪の毛を持った少女が舞台の上に立って肌色のスポットライトを浴びている。髪は短く切り揃えられ、着ている服は布に穴を開けただけの様な服だった。彼女の周りには可愛らしいフェルトのぬいぐるみが幾つも落ちている。女の子もいれば男の子もいた。

 彼女向けられたスポットライトが真っ赤に染まると、そのぬいぐるみの一つが中の綿を飛び出して千切られていた。スポットライトが肌色に戻る。少女の背丈は少しだけ伸びていた。再び光は赤に戻り、同じ様にまた一つぬいぐるみが中身を出して死んでいた。そして光が肌色になると、今と余り変わらないクレシェントの姿が現われ、次にスポットライトが真っ赤に染まると辺りに落ちていた人形は一つ残らず食い散らかされていた。彼女の口許には綿のくずが付いていた。

 

 「助けて…」

 クレシェントは最後に紫薇に向けてそう懇願した。最後に銀色の瞳から血の涙を流すと、瞳はその涙の色を啜るように深紅に変わった。と同時に卵の殻が割れるような音を出しながら口角が裂け始めた。クレシェントの体が痙攣し、上半身が跳ね上がる。裂けた口もとから唸り声にも似た吐息が漏れ出した。

 「あ…ガ…」

 クレシェントの体中から血潮が噴き出すと、嗚咽は咆哮へと変わった。

 「あああああああああああああああああああああああっ!」

 大きく裂けた口からは犬歯をはじめ歯が異様に伸びる。指先は爪と一体化して爬虫類に似た手に変わり、腰の辺りからは衣服を突き破って光沢を持った黒い尾を伸ばした。頭部からは二本の角が捻じれながら生えていった。凡そ人間の姿をほとんど捨てたクレシェントの姿は、かつて壊乱の魔姫と呼ばれた姿に変貌した。

 「馬鹿な…壊乱の魔姫に変化するなど…」

 潜水服の人間はこの事態に思いもよらなかったのか、激しく動揺していた。

 一方の魔姫は変貌したてで、まだ本格的に動こうとせずに辺りの状況を感じ取っていた。さながら獲物を探す捕食者のように対象を探す。目の前には大きな力を持った存在がいるが、捕食者にとっては魅力的に映っていなかった。代わりに弱々しい雛鳥のような対象がその場所にいると気付くと、深紅に染まった双眸を向ける。

 「…っ!」

 獲物として見られたのは紫薇だった。紫薇の首筋が凍り付く、初めてそこで目にした魔姫の素顔はおぞましいものだった。人間の顔こそ保っているものの、裂けた口は今にも首から落ちてしまいそうだった。

 「いけない!」

 潜水服の人間は魔姫の対象が紫薇に向けられると思っていなかった。魔姫が紫薇の体を貪ろうとする前に繰り出していた胎児に向けて手をかざす。すると胎児は独りでに溶け出し、もとの水銀の塊となっていった。そして今度は空中でその塊を薄く伸ばしてみせた。

 『ヴェルバロン・アデス・ガイシュネールヅ(美女と呼ばれた由縁)』

 薄く伸ばされた水銀の中から細い女性のような腕が次から次へと伸び始め、あっという間に無数の腕が一面に溢れると、波濤のように群れとなって魔姫に襲いかかっていった。その間、魔姫はじっと紫薇を向いたままだった。

 白魚のような指先が魔姫の脳天を狙うその瞬間、深紅の瞳が動いた。魔姫の五本の指が床から離れ、宙を切ると強烈な衝撃が巻き起こった。波濤のような無数の腕はその衝撃に打ち砕かれ、その後方に控えていた潜水服の人間ごと吹き飛ばした。

 その光景を紫薇は息をのみながら見ているしか出来なかった。やがて遠くの方で潜水服の人間がひっくり返っているのを見ると、紫薇は覚悟を決めるしかなくなった。魔姫は上半身を前のめりにして跳びかかる体勢を取っている。紫薇は逃げようにも膝が笑ってしまってその場から身動き取れずにいた。

 やがて辛抱が出来なくなったように魔姫の牙が紫薇に向けられる。紫薇が気付いたときには魔姫の体が床を蹴って眼前にまで近づいていた。大きく開かれた口からは鋭い牙が飛び出していた。しかしその口は突如として閉じられる。

 青い光が紫薇の視界の外から飛び込み、巨大な拳が魔姫の顔を殴りつけた。魔姫の悲鳴が一瞬その場から漏れると、紫薇の目から見えなくなるまで飛ばされていった。

 「とうとう魔姫になっちゃったのね、あの子」

 「お前、どうして…」

 拳を叩き込んだのはジブラルだった。肩にかかった髪の毛を払うと眉を上げた。

 「なによ、助けてあげたのにお礼もないの?」

 「どうも…」

 紫薇は肩をすくめながらいった。

 「素敵な感謝の仕方ですこと。それよりもクレシェントが魔姫になった以上、もう手がつけられないわ。ああなったら最後、ぶっ倒れるまで暴れ続けるわよ。さっさと尻尾巻いて帰んなさい」

 「あの馬鹿を放って置いたら、プランジェにどやされる」

 「どやされた方が未だマシよ。良い?魔姫になったクレシェントは本当の意味でゼルア級と同格になったの。ゼルア級ってわかる?世界を滅ぼす危険性を秘めたものに贈られる素敵な名前。その気になればナーガを吹っ飛ばせるような力を持ってるって事なのよ。ただの人間のあなたが、ましてや響詩者でもない者がまともに敵うような相手じゃないわ」

 「…確かお前もゼルア級だったな」

 紫薇は頭の隅に残っていた記憶を掘り起こした。

 「勿論、クレシェントよりもずっと優れたゼルア級ね」

 得意そうに笑った途中、笑顔が止まった。

 「ねえ、まさか…」

 「頼んで良いか?あいつより優れてるんなら、押さえつけられるだろ?ふじばったって良い、あいつを止めてくれ」

 「勢い余って殺しちゃうかもよ?」

 「善処してくれ、頼む…」

 そういうとジブラルは溜め息を鼻から吐いた。

 「しゃあないわねえ…。殺しちゃ駄目ならちょいと人手がいるわね。ちょっとー?リネウィーン、まだ生きてるー?」

 離れて場所でひっくり返っている潜水服の人間に声をかけた。潜水服の周りには水銀が広がっていて、ジブラルの声に反応するように流動し、ジブラルの目の前まで伸びていった。

 「なぜ私の名前を知っている?」

 水銀はラッパのような聴音機の形になると、その穴から声を漏らした。声は女性だとわかる声質だったが、名前を知っていることに対して訝しげな感情を持っていた。

 「ちょっとした腐れ縁の女から聞いたのよ。ライプス・ワーグナーなんて無骨な名前にしちゃってえ。そのゴテゴテの服、『銀鏡の庭園』が抜け出したせいなんですってね、大変ねえ」

 「まさか…メディストアか?」

 「そうよ、あのババァから聞いたの。それよりなあにクレシェントを魔姫にしちゃってんのよ。ああなったら止められないって知ってるでしょ?」

 「いや、まさかああなるとは聞いていなかった。あれは動きを止めるもの、取り扱いには気を付けろと聞いてはいたが…」

 「なるほどね、ちなみに元に戻す方法って知ってる?」

 「いや、わからん…。だが少なくとも力を枯渇させれば元に戻る可能性は否めない。問題はあれとどこまで戦えるかだが…」

 「じゃあ先にあなたが戦って。疲れたところを私が止め刺してあげるから」

 「無茶を言ってくれる…。今の私ではあれに太刀打ち出来ないぞ」

 「あなただってもとはゼルア級の名前を持ってたでしょ、『生ける水銀』さん。それに不死身なんだからどれだけふっ飛ばされても平気でしょ」

 「メディストアの奴はいったいどこまでお喋りなんだ…!だがわかった、ああなってしまったのは不本意ながらも私の責任だ。どうにか止めてみよう」

 不満げな声を漏らしながら水銀はもとに戻り、潜水服の中に入っていった。

 辺りに散らばっていた水銀が潜水服の中に戻っていく。するとひっくり返っていた体を起こし、金属音を鳴らしながら立ち上がった。

 それと同じくして吹き飛ばされた魔姫も体勢を立て直そうとしていた。

 「まだ起き上がってきちゃ駄目よ、そこでおねんねしてなさい」

 ジブラルが左手を差し出すと、その手のひらから球体の青い光が三つ飛び出していった。青い光は魔姫の傍まで飛来すると、急激に膨張して弾け飛び、爆発した。

 その爆発が魔姫を食い止めている間に潜水服の人間、ライプスはまた別の概念を呼び起こしていた。但しそれは自分の心を描いている処女の庭園にある概念ではなく、水銀となった肉体の一部を変化させ、表現する技法だった。

 『シャヴェール・アデス・ハイドリッヒ(口を閉ざした隣人)』

 水銀が宙で引き延ばされ、完全な円を描いている。それから円は大小さまざまな大きさの三角形を持ち、幾何学模様を浮かばせた。模様は次第に抽象化された人間の姿を形取り、銀色の巨人がその場に降り立った。

 優に十メートルはあるその巨人が倒れている魔姫の側に寄ると、幾何学模様の両腕で魔姫を挟み込んだ。鈍い音と共に魔姫の体が押し潰される。しかし完全に潰される前に魔姫は両手を使って幾何学模様の腕を押し退けようとしていた。その腕力は巨人よりも強大で、体格差があっても徐々に隙間を広げていった。

 「そのまま押さえてなさいよ、キツいの一発おみまいしてやるから」

 それを好機と見たジブラルは身動きの取れない魔姫に向かって次の一手をしかけようとしていた。

 「待て、このまま封じ込めてみよう」

 両腕で魔姫を閉じ込めている最中、残った水銀が魔姫の周りに線を作って多面体の形を作り始めた。巨人に充てていた水銀も成形に回すと、徐々にその体が小さくなっていった。やがて多面体に面が出来ると、魔姫の体はその檻に閉じ込められた。

 「良し、これでこのまま連れて行けば…」

 ライプスは制圧を確信していた。それはジブラルも同じで、紫薇に向かって小さく笑ってみせたほどだった。しかし二人の予想を遥かに上回る力がその檻の中から生じた。強い衝撃が多面体の中から発生する。水銀が二度、三度震えた。

 咄嗟にライプスが檻の力を強めてみたものの、既に始まっていた異変を止めることは出来なかった。いつの間にか多面体の面はただれていて、小さな穴から中に閉じ込められていた魔姫の姿が垣間見えた。

 「馬鹿な…概念体である私の肉体を侵食するなど…」

 その光景を目の当たりにしたライプスは完全に困惑していた。

 「ごめん、さっきの言葉は訂正するわ」

 徐々に溶け出した水銀の面、ジブラルはその現象を見ると初めて目を強張らせた。

 「殺さずに魔姫を押さえつけるの、無理かも」

 その言葉を裏付けるように魔姫は赤いオーラをまき散らしながら、多面体を内部から破裂させた。唸り声を上げながら檻から出るその様を見て、その場にいる誰もが絶望を思い知らされるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る