6話 切羽詰った恋文

 「それでは行ってきます」

 羽月は小さめのボストンバッグを持って玄関を出た。羽月は一ヶ月に一度だけ入院している叔母の所へ土日の間、お見舞いに出かける事になっている。紫薇は玄関で羽月と別れた後、リビングに戻った。

 「さて、いよいよ私の腕を発揮する時が来たようだな。尤も今日の昼食と夕食は既に綾が作った後だから、私が担当するのは明日だけだが」

 「節約できればそれで良いさ。加工品や既製品は無駄に高いからな」

 「同感だ」

 紫薇は作ってあった今日の昼ご飯であるおにぎりの詰め合わせを一つ摘み、夕食に作られた鍋に入っていたカレーを見てみた。作りたてでまだルーは熱い。

 「テレビも面白い番組はやってないし、偶には散歩でもする?」

 クレシェントはテレビの電源を消してソファーにもたれたまま顔を出していった。

 「散歩か。公園が…歩いて小一時間ほどの場所にあったな。湖もあって、だだっ広い草原もある」

 「休日だから家族連れで混んでいそうだな」

 「いや、実はその公園、閉鎖されてる。人魚が出るとか出ないとかで騒ぎになってから、気味悪がって誰も近付かないまま封鎖されているからな」

 「その封鎖された公園にどうやって入るの?」

 「抜け道を知ってる。ちょっと狭いが肩が入れば抜けられるだろう」

 その言葉を聞いて二人は本当に野良猫の様だと思った。

 「お前も行きたいか?権兵衛」

 そういうと権兵衛は嬉しそうに尻尾を振った。

 「決まりだな。握り飯を弁当箱に入れたら出るぞ」

 「あ、待って。支度しないと」

 「支度?何があるんだ?」

 「ちょっとのお化粧とか色々あるのよ」

 「女って奴は…」

 「羽月さんにも同じ台詞を言えるの?」

 「準備が出来たら起こしてくれ」

 「この男は…」

 ごろんとねっころがった紫薇にクレシェントはわなわなと拳を握らせた。


 三十分後、支度を済ませた二人に起こされて、紫薇は欠伸を一つしてから背中を伸ばした。

 玄関の鍵をかけて外に出る。お日様は天辺よりちょっと前くらいで止まっていた。雲も少なく、気分が冴えるような青空だった。

 「お前、あれからあのドレス着ないんだな」

 「あれ、あんまり汚したくないのよ。貰いものだから」

 クレシェントは普段と違って後ろ髪を一つに纏めていた。細身の白いワイシャツ、黒のカプリを履いて靴はヒールの付いたサンダルとラフな格好だった。プランジェはスパッツに運動靴と縞模様のティーシャツを着て可愛らしい格好をしていた。紫薇は七分裾のチノパンに単色のシャツ、そして紺色のモカシンを履いていた。

 「紫薇って体が細いから私の服も着れるんじゃない?」

 「着れた所で何になるんだよ。それに洋服には興味ない」

 「勿体ないなあ…本当に今時の若者?」

 「現在進行形でな。俺はブランドに気が狂う奴の気がしれないよ」

 「悪かったわね」

 「プランジェを少しは見習え、着るもの一つに文句も垂れない」

 「私は単にこの世界の価値観に追い付いていないだけだ。値が張るものにはそれだけの理由がある。至って普通のことだと私は思うが。お前にものを見るセンスがないだけではないのか?」

 「主人のご機嫌取りも大変だな。正直に言って良いぞ、幾ら貰った?」

 「紫薇、ぶっ飛ばすわよ?」


 お日様が天辺に昇った頃、三人は公園の入り口にいた。樹木を象った鉄の門が閉まっており、道なりにずらっと鉄格子が続いている。その門を通り過ぎて少し歩いてみると、途中で一部分だけひん曲がって穴が開いている場所があった。ちょうど大人が縮こまって一人入れるか位の大きさで、紫薇はその穴に頭を突っ込むと、肩を揺らしながら中に入っていった。クレシェントとプランジェは体を丸め、紫薇に続いた。

 「不思議ね、こんなに広いのに誰もいないなんて」

 園内に広がる草原を見てクレシェントは茫然とした。中心にある湖の周りには背の低い草が遠くの方まで広がっていて、公園の端を囲む木が小さく見えるほどだった。

 「自動車の音も聞こえませんね、すぐ側を通っている筈ですが」

 「まるで外の世界と隔絶された場所みたい」

 「昼寝をするには丁度いい、誰も来ないしな。居心地が良いんで二日ほど、ここに泊まった事もある。食い物がないから流石にずっとはいられないが」

 「…………………」

 クレシェントは野良猫だなと思った。

 「さて、俺は好きにする。日が暮れたらまた落ち合おう」

 そういって紫薇は一人ですたすたと園内の奥に進んでいった。

 「クレシェント様はどうなさいますか?」

 「私?えっと…私は、ちょっとその辺りを歩いてくるわ」

 「では私は本を読んでおりますので、何かありましたらお声がけ下さい」

 持参したバスケットの中から数冊の本を取り出すと、プランジェは側にあった木陰に座ってページをめくり始めた。

 「…………………」

 クレシェントはその様子を一瞥すると湖につま先を向けた。


 サンダルの先に湖畔が浮かぶ。辺りを林に囲まれ、背の浅い水辺が一面に広がっていた。クレシェントは指先に軽い奏力を溜めると、爪がマニキュアで染めたかの様に赤く変わった。そして湖に向かって指を振るうと、爪の先から細長い帯が伸びて、湖の中心まで水面にぴたりと張り付いた。その帯をゆっくりと踏み歩いて、宛ら水面の上を歩いているかの様に湖を踏んだ。

 赤い帯の上からつま先を踏み外さないように目を向ける。水面に映った自分をクレシェントは見た。酷い顔をしていた。いつの間にか目じりが濡れていて、少し化粧が落ちていた。誰かに殴られた顔の方がよっぽどましかもしれない。

 その途端、とある言葉がクレシェントの脳裏を殴った。


 「人殺し!」


 その声は今でも夢に見る、懐かしい姿と一緒にクレシェントは決まってその夢を見ると嫌気がさした。自分がプランジェを置いて城から出て行った理由、それは彼女の姉であるミューティ・フィーリアスに浴びせられた言葉がきっかけだった。赤い帯から波紋が広がる。動揺と後悔が絶えず入り混じっていた。

 湖の真ん中に着くとクレシェントは空を仰いだ。いつプランジェにその話をすれば良いのかわからない。正直に話すべきだろう。実は彼女たちの親の仇が自分だと。クレシェントは自分の命を差し出す覚悟はあった。しかしその現実がプランジェに与える絶望と精神的な傷をクレシェントは恐れていた。

 「ご免なさい、プランジェ…。私どうしたら良いの…?教えて、マルテアリス…」

 かつて自分の額を相手の胸に当てることが出来た人間を思い出しながら、また目じりの化粧を汚した。


 しばらくしてからクレシェントは汚れた化粧を指で直すと、気晴らしになりそうなものを探した。膝に力を混めて跳び上がる。周りの木の高さを優に飛び越えた跳躍だった。湖の淵に降り立つと、草むらに二本の足が伸びていたのを見つけた。

 クレシェントはその足の側まで歩くと、紫薇の隣に静かに座った。

 「向こうに行けよ」

 「…ごめん」

 紫薇はばつが悪そうに背を向けた。するとクレシェントは懺悔のようにその背中に向けて語り始めた。ただ視線は自分のつま先を見詰めたままだった、意見は言わないでと言わないばかりに。

 「私ね、自分の力を制御できない時があったの。本能と、深い激情に身を任せて力を暴走させてしまった事があったわ。その時に私はとある名前を付けられたの。『壊乱の魔姫』、ナーガの世界で最も罪深い称号とされる『第ゼルア級犯罪者』として。その時に…その時にね…」

 クレシェントはその言葉を口にする頃には声を震わせていた。紫薇の背中はまだ他所を向いたままだった。

 「プランジェたちの両親を殺めてしまった…それだけじゃない、沢山の人を殺してしまったの。望まない事だったにしても、私は自分の手を汚した。その事は後でプランジェの姉から聞いたわ。その事を知ったミューティは私の前から姿を消したの。私も、その事がプランジェに知られてしまうんじゃないかと思って…怖くなってプランジェを一人置いて逃げたわ。だから本当は…プランジェに会った時、とうとう来てしまったと思ったわ。殺される覚悟は出来てる。でも、プランジェに辛い思いをさせてしまったら、私はどうしたら良いのかわからない。それが怖くてプランジェの顔をまともに見れなかった。…ご免ね、こんな話をして。出来たら、今の話は忘れてくれない?もう少ししたら、離れてあげるから…」

 独白が終わったあと、クレシェントは目を閉じて自分が言い放った言葉を嚙み締めた。また目元の化粧が汚れている。

 紫薇は背中を向けたままだったが、目は開いていた。その視線の先にはもう一人の傍聴者が立っている。

 「忘れろと言われりゃ俺は忘れられるが…プランジェ、お前はどうなんだ?」

 「…えっ?」

 背中を一突きされたような痛みでクレシェントは目を開け、紫薇の声の先に視線を向ける。そこにはあろうことか原告であるプランジェの姿があった。但し、原告の顔は歪んではいなかった。ただいつもと変わらない済んだ目だった。

 「プランジェ…私は…」

 「貴女があの時、もう一緒にはいられないと言った時、それとなく気付いていました。ああ、きっとこの人はそういう人だったんだろうと」

 紫薇は気まずそうに立ち上がると、湖の淵まで離れていった。

 「確かに、私と姉さんにとって貴女は仇なのでしょう。でも、貴女は覚えていますか?あの雨の日の事を…貴女と私たちが初めて出会った日です」

 

 暗闇に浮かぶ銀色の双眼、目じりは折れ曲がったかのように鋭かった。その視線の先には雨に打たれる二人の姉妹の姿があった。


 「あの時の貴女の顔は、まるで猛獣の様にぎらぎらとしていて…。私はただ怯えてしまっていました。でも貴女は、そんな私の姿を見て、困った顔をしながら私たちを城に招いてくれましたね…」

 「それは…どうすれば良いのかわからなくて、あの場所に来る人なんて殆どいないから…。気紛れだったかもしれないじゃない…」

 「そこに貴女の気紛れも贖罪も関係ありません。貴女は見ず知らずの私たちの命を救ってくれた。あのときに飲んだ白湯の味は今でも覚えています。貴女が良かれと思って入れてくれた薬草は、ただの雑草でしたね」

 プランジェは渋い顔をしながら口角を上げた。

 

 白湯に浮かぶ細い草、口をつけた後に二人は渋い顔をする。その様子を見て、銀色の双眸はもっと困った顔をした。


 「その時からです、私にとってクレシェント・テテノワールという存在は、私の中で崇拝に近い存在となった。仮に貴女が私を愛してくれずとも、私は貴女を愛します。でも貴女は私たちに愛をくれた。そんな貴女に、どうして怒りを抱きますか?どうして憎しみを抱けましょうか?」

 プランジェは涙をぼろぼろと零しながら言葉を続けた。

 「私には…姉さんのやろうとしている事はわかりません。でも私は…貴女のお側にいたい。貴女が私の両親の命を奪ったとしても。クレシェント様、私は貴女を愛しています。だから貴女も、私を愛して下さい。私には、貴女が必要なのです」

 そういってプランジェはクレシェントの胸元に飛び付いた。嗚咽を漏らしながらわんわん泣いた。クレシェントは何度もご免なさいと言いながらプランジェを抱き締め、頬を濡らした。

 「…………………」

 二人の泣き声を紫薇は離れた場所で聞いていた。あれが愛なのだろうと、温もりなのだろうとその肌で感じながら。


 嗚咽が止んだのはそれから暫くしてからだった。紫薇はその間ずっと湖の傍で雲の形を眺めたり、権兵衛を肩に乗せて顔を撫でてやったりした。それにも飽きて小石を水面に投げて遊んでいると、二人がやって来た。

 「お待たせ」

 「随分と待たせてくれたな、ええ?仲直りは出来たのか?」

 紫薇は湖に顔を向けたまま小石を投げた。水面を弾いて波紋が揺れた。

 「紫薇のお陰でね」

 「…俺のお陰?」

 紫薇が不思議そうに顔を向けると、ぐしゃぐしゃになった顔で笑みを浮かべるクレシェントとプランジェが立っていた。乱れた化粧で顔は汚れていたが、その笑みは美しいと紫薇は思わずにはいられなかった。

 「何を馬鹿な事を言ってる」

 思わずそう思ってしまったことを否定するように紫薇は口早に言葉を続ける。

 「俺は別に…」

 何もしていない、紫薇の唇がな行の形に変わろうとした瞬間、クレシェントとプランジェの顔は剣幕な表情に移り変わった。プランジェは紫薇の胸倉を掴み、両足を払って体の重心を崩しながら紫薇を地面に叩き付ける。と同時にクレシェントの銀色の瞳の上には巨大な右腕を振りかざすジブラルの姿が映っていた。

 振り払われた指先は空気を引き裂きながら紫薇とプランジェの頭上すれすれを通り抜け、両腕を交差させて防御の体勢を取っていたクレシェントの体を吹き飛ばした。鈍い音と共に突風が二人の頭上を駆け抜けた。

 「くっ、何だ…?」

 頬を土で汚しながら紫薇は目線を上に向ける。そこには青い髪を靡かせるジブラルの姿があった。足元には真っ青な光の壁が広がっていて、浮かぶ様にして空中に立っていた。ジブラルは自分の右腕を確かめる様に見詰めると、その冷たい視線をクレシェントに向けた。

 「まさかこんな所にいるなんて思わなかったわ、クレシェント…。それに、どういう訳かあの小生意気なおちびさんもいて、楽しそうで羨ましいわ」

 「ジブラル…貴様もこの世界にやって来ていたのか!」

 「相変わらずぴぃぴぃ口うるさいわねえ。その顔、吹っ飛ばすわよ?」

 けらけらと笑みを浮かべるジブラルの顔に急に影が出来た。太陽を背にして赤い剣を振り上げるクレシェントの姿。ジブラルよりも高い場所から駆け下り、その手にしていた刀身を振りかざした。強襲にも関わらず、ジブラルは視線を横に向けると右腕を曲げてクレシェントの攻撃を防御した。しかし勢いは殺せず、彼女の体は湖に向けて吹き飛ばされた。水面で爆弾が爆発した様に高い飛沫が沸き起こった。 

 「紫薇、未だ権兵衛には引っ込んで貰ってて」

 紫薇の傍に降り立つとそう言い放ち、間髪入れずに水飛沫の元に走っていった。それに続いてプランジェも知らぬ間に手にしていた短刀を持ってクレシェントを追いかけた。二人は水面を滑る様にして足を動かしていた。

 打ち上げられた水飛沫は崩れながら徐々にその形を変貌させていった。飛沫はやがて潰れた楕円に近付いて、その中心に渦を巻きながら焦点を目指して集まっていった。焦点は左腕を掲げたジブラルの手の平だった。集められた水滴の光は段々とピンクに近い紫色の光を点し始め、妖しい情緒に彩られていった。

 『グラノイド・シュベール(囁いた情婦の吐息)』

 ジブラルは集まったその艶かしい光を水面に向けて放り投げた。途端、光はその体積を一気に膨張させ、炎の壁となってクレシェントとプランジェに押し寄せた。プランジェはその壁を見ると足を止めた。すると彼女の体を覆い隠す様に赤い、血の壁がプランジェの体を覆った。しかしクレシェントはその壁を見てもその足並みを弱める所か更に速度を上げた。炎の壁との距離は数メートルまで迫っている。

 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 クレシェントは有りっ丈の奏力を込めて鮮血の腕を何本も召喚した。彼女の後方から伸びた手たちは炎の壁を次々と受け止め、その進行を食い止めるとそのまま壁を横に伸ばして、ジブラルまでの道筋を作った。

 クレシェントは走りながらその隙間を抜けてジブラルに再び剣を振りかざした。それに対してジブラルも既に右腕を振りかざしていて、二人の武器は光の中でぶつかり合った。その衝撃でジブラルの概念は吹き飛ばされ、続いてプランジェを覆っていた血の壁もなくなった。

 「しばらくねえ。あの時の怪我、やっと治ったみたいね?」

 斜めやら右やら上からと様々な方向からジブラルは腕を振るった。

 「貴女の方こそ心臓を傷付けた割には平気な顔して…やっぱりあの時に殺して置けば良かったわ!」

 目まぐるしいジブラルの攻撃をクレシェントは剣で受け流し、弾きながらも時に突いたり切り付けたりして二人の攻防は接戦していた。しかしその流れに逆らう様にジブラルは右腕を突き出した。咄嗟にクレシェントは彼女の指先から体を横に逸らしてかわし、握っていた剣を放り投げると、そのままジブラルの右腕を手で囲んだ。そして腹と膝、腕に力を込めてぐるりと体を反転させてそのままジブラルの体を放り投げた。

 クレシェントは爪を手の平に食い込ませながら力を入れた。爪は肉を裂いて入り込み、じわりと血が溢れると彼女の爪の中に吸い取られる様にしてなくなった。マニキュアを付けた様にクレシェントの爪は真っ赤になると、その手を投げ飛ばした方向に何度も振り払った。するとクレシェントの手から弧を描いた血の飛沫が真っ直ぐに飛び出していった。

 放り投げられたジブラルは勢いに乗ったまま体を後転させ、その力を使って水面に足を押し付けその勢いを殺した。その束の間、彼女の目の前から鮮血の刃が十本やって来て、ジブラルは右腕を使って始めの三本を叩き落とし、残りの二本を体をくねらせて避け、左腕を前に押し出すと透明な壁が現れて最後の五本を防いだ。

 「この程度?がっかりだわ…」

 ジブラルは余裕の笑みを浮かべて粉々になった刃たちを見た。だがそのぼろぼろになった破片の先に、水面に手を付けてジブラルをじっと睨むクレシェントの姿を見ると舌打ちした。彼女の体には既に強い奏力で満ち溢れていた。

 『クリュード・ジェネフィリア・キーズ(狩人は矜持を忘れて)』

 ジブラルの足元の水面はいつの間にか血で濁っていた。歪んだ円で囲む様にして彼女の周りを覆っている。そしてその淀みから一斉に大小様々な赤い槍が突き出た。その光景はまるで狩人が我を忘れてしまったかの様に獲物を何度も何度も突き刺したかの様だった。やがて突き出した槍の塊は三角を描いてその音を止めた。ゆらりと槍の隙間からジブラルのであろう血液が流れて水面を汚した。

 「プランジェ!」

 しかしクレシェントは警戒を緩めなかった。この程度ではあのジブラルに止めを刺した事にはならない。何度も刃を交えた彼女の経験がそれを告げていた。そしてそれはプランジェにとっても同じで、身を潜めながら決定的な一撃のタイミングを見計らっていた。槍の塊の後方から概念を召喚しながら迫った。

 『ジュブネ・パラール・エドナス(無骨な指先が開いて)』

 プランジェの持っていたナイフが光だす。淡い青緑の刀身はその斜め横にもう一つ光を出して刃を増やした。そしてまた一つ、また一つ。それぞれ色が異なった光の刃がやがて開花になった頃、プランジェの位置は槍の傍まで寄っていた。

 クレシェントはその瞬間を待っていた。水面から手を離し、召喚していた概念を消滅させた。するとそこには卵型の光で身を守っていたジブラルの姿があった。緑色の光の中から余裕の表情を見せたジブラルだったが、後方から感じた気配を察知すると目線を後ろに向けた。その時には既に樹木は倒れかかった後だった。

 咄嗟に右腕を突き出してその開花を受け止める。空中でプランジェが必死に力を入れても、宙に浮かんだ光の木はびくともしなかった。それ所か徐々にその表面にヒビが入り、右腕の指先が光の中に食い込み始めた。

 その事態もクレシェントは予測していた。再び手の平に奏力を集め、剣を呼び覚ますとそのままクレシェントはジブラル目がけて突撃した。赤い電光石火の様なスピードでジブラルとの距離を一気に縮め、握っていた剣の切っ先を突き出した。刃はジブラルの目の先で止まった。がっしりと彼女の左手は剣の刀身を掴んでいた。

 その様子を見るとジブラルは得意げに笑ったが、その笑みはクレシェントも含んでいた。口許を緩ませるとクレシェントは湖の向こうで今までの光景を眺めていた人間の名前を呼んだ。

 「紫薇!今よ!」

 紫薇はその言葉に動かされる様に手に抱いていた最後の希望を解き放った。純白の光に包まれながらその希望は見る見るうちに体を肥大化させ、その牙と爪を持って三人の元へ駆け出した。

 「なっ…あれは…!?」

 初めてジブラルの表情に焦りの色が映った。その場から逃げようと足を動かすが、右腕は落下する大木を、左腕は隙あらば自分の喉元を突き刺そうと狙っている切っ先を止めるので精一杯だった。迫り来る白い死神に再び目を向ける。

 初めて目にしたジブラルの焦燥にクレシェントは確かな勝利を感じた。諦めたのか、視線を落としてジブラルの表情が見えなかった。それと同時にクレシェントはジブラルに対して一握の安堵と、深い謝罪を思った。

 「ご免なさい、ジブラル…」

 しかし、その感情は即座に身の危険である悪寒に切り替わった。

 「ご免なさいですって?この私に…」

 顔を落としたジブラルから未知の力をクレシェントとプランジェは感じ取った。と同時に俯いていたジブラルの顔が起き上がった。目には強い奏力の光、青い光が彼女の目に現れていた。その勢いで束ねていた髪は解ける。

 「この第ゼルア級犯罪者の…『蒼昊の悪女』に向かって…!」

 左手に握っていた剣の切っ先は徐々にその色を赤から青い色に変わり、右腕で抑えていた大木はその表面に生じていたヒビは更にその痕を増やしていった。

 「これは…アデュミナスの…」

 「…危機!?」

 二人はその現象を見るや否や剣を引っ込め、開花を消滅させてその場から飛び去った。ただ一匹、権兵衛を除いてはそのままジブラルの元に駆け出したまま、その両腕をジブラルに向かって突き出した。

 「止めなさい!権兵衛!」

 クレシェントの叫びは間に合わなかった。突き出された権兵衛の腕はジブラルの目の前まで向けられると、その瞬間に水面に思い切り叩き付けられ、権兵衛はその体ごと何かに押し潰されたかの様に水面に押し付けられた。悲痛な叫び声を上げて、水面の上で見えない力に圧迫されている。

 その様子を見ながらジブラルは解けた髪の毛をぐしゃぐしゃと掻いた。

 「少しだけ…本気を見せてあげるわ、クレシェント。来なさい?」

 その目には最早、焦燥感の欠片も残っていなかった。その顔を見てクレシェントは足を動かす事が出来なかった。穏やかな、それでいて氷の様に冷たいジブラルの瞳にクレシェントは恐怖を感じていた。それはプランジェも同じで、彼女に至っては膝を震わせながらジブラルから目が逸らせなかった。しかしクレシェントはこのままではこちらがやられてしまうと追い詰められ、決死の覚悟でジブラルを攻めた。

 奏力を使ってレイピアの様な剣を手に握ると半ば恐れながら剣を振るった。その攻撃をジブラルは右腕で受け止め、弾いた後に強い力で横に振るった。可笑しい。クレシェントはジブラルとの剣戟を続ける中で腑に落ちなかった。あれ程までに巨大な、他の奏力を飲み込んでしまう程の力を見せているのに当の本人の戦い方は丸っきり前と同じだった。不安を感じながらも剣を振るった。

 その内にプランジェも恐怖を背負ったままジブラルに向かって走り出した。それに続いて、権兵衛もやっとその身に降りかかった圧力を拭い去り、もう一度その両腕を使ってジブラルを追い詰めようとした。そしてジブラルの真の力の一角を二人と一匹は思い知らされる事になる。

 青い軌跡。その後にまるでジブラルが三人に分身したかの様に目まぐるしいスピードで二人と一匹の後方や真横に移動してその右腕を振るった。軌跡はペンで線を描いた様だった。ジブラルの姿が水面の中心に移動し終わると、二人と一匹に凄まじい衝撃が体を襲い、次々と湖に溺れていった。

 「殺しはしないわ、あなた達はね。でも…あの子はどうしようかしら?」

 湖の向こうからその光景を眺めている紫薇とジブラルの目線が合った。咄嗟に身の危険を感じた紫薇だったが、瞬きをした後にはもうジブラルの姿は目の前に立っていた。自然と紫薇は後退してしまう。

 「止めて!ジブラル!」

 クレシェントは溺れながらも必死に叫んだ。ジブラルの殺意は湖まで届いていた。

 「聞いた?止めて、ですって…あなた、彼女に相当好かれてるのね」

 不気味な笑みを浮かべながらジブラルは右腕を唸らせた。まるで一つの生き物の様に蠢いている。紫薇はそれを目にすると喉を鳴らした。

 「ここであなたを殺してみるのも面白そうね…彼女、どんな顔をするかしら?悲痛に歪む?それとも怒りに身を任せて…魔姫にでもなるのかしら?」

 「俺を殺すつもりか?」

 紫薇の口から出た言葉は確信的だった。

 「そのつもりよ。死ぬのは怖い?」

 「…もちろん。だが死ぬ前に一つだけ頼みがある」

 紫薇はジブラルを出し抜こうなどと考えてはいなかった。ただ、一つだけ心残りがあった。死ぬ前にどうしてもやって置きたいこと。それは。

 「聞いてあげる。あなたが死ぬ間際に何て言ってくれるか興味が湧いたわ」

 そういってジブラルは右手を紫薇の喉元に押し付けた。最後の言葉を聞いたら紫薇の首を捻り上げるつもりなのだろう。人の手とは思えない冷たい皮膚の温度が紫薇の首筋を伝った。

 「最後に…自分の思いを伝えたい。初めて人を好きになれた。その感謝を、羽月綾という女性に伝えて欲しい」

 そう紫薇が告白をするとジブラルはぴたりと止まった。

 「恋、というものはわからない。でも、こんなにも胸が高まったのは生まれて初めてだった。だから最後に、貴女に好意を寄せた男がいる。その事だけでも知って置いて欲しかった」

 いつの間にかジブラルは俯いて、ぴくりとも動かなかった。

 「…頼みは終わりだ。さあ、やれよ」

 しかしそれでもジブラルは動かなかった。紫薇が目を凝らしてみると、肩が小刻みに震えていた。紫薇が不思議そうにジブラルの顔を覗いてみると、

 「ふっ…ふひひ…!あひゃひゃひゃひゃひゃ!」

 ジブラルは顔を真っ赤にしながら笑い転げた。

 「ひーっひっひっひ…最後の言葉が…愛の告白って…!くっ…腹痛い…!あはははははは!今時、そんなの…ぶふっ!」

 ジブラルは涙を流して咽ながら、高笑いに大笑い、似非笑いをした。笑いが呼んだかと思えば独り笑いをしてまた笑っている。そんな中、紫薇は眉間にしわを寄せて、目をしっかりと閉じて羞恥心を抑えていた。

 この異様な光景にクレシェントは鳩が豆鉄砲を食ったように固まっていた。

 「…さっさと殺せ、笑ってないで」

 ここまで笑われるといっそ死んだ方がましだと紫薇は思った。

 「だって可笑しいじゃない…ぶっ…くくく…あー、もう笑い過ぎてお腹痛い。止めてよね、本気でそういう事を口にするの。ダサいなんてもんじゃないわよ」

 「良いから殺してくれ…」

 紫薇は穴があったら入りたいと思った。

 「嫌よ」

 「は?」

 「だってそっちの方が面白いんですもの。それにいつかちゃんと自分の口で告白しなさいよ、その…羽月だっけ?そいつに。それまで…生かして置いてあげるから、精々洒落た台詞でも考えて置きなさい」

 そういってジブラルは手の平から緑色の鍵を取り出すと、宙に差し込んで扉を発生させた。扉はクレシェントが出したものと同じ形をしていたが、色合いが違って深い、常盤色をしていた。

 「さっきの事は誰にも言わないであげるわ、二人だけの秘密ね」

 ジブラルは扉を開けて、去り際に羽月に宜しくねと言って扉の向こうに消えていった。紫薇は彼女の背中を見送ると、恥ずかしそうに俯いて溜め息を吐いた。

 「紫薇!」

 ずぶ濡れになったクレシェントがやっと辿り着いた。心配そうな顔をして紫薇の顔を見詰めると、怪我一つしてない事に気付いて安堵した。

 「命は、助けられたみたいだな」

 「どうして…」

 その言葉を聞くと紫薇は動揺を隠す様に立ち上がった。

 「さあ、犯罪者の考えなんてわからん。おおかた気紛れだったんじゃないか?それよりも、また随分とやられたな」

 「まさか今まで手加減をしていたなんて思わなかった…。あれが彼女の本気なのね…」

 苦笑いした後に突き付けられた現実を噛み締める様にクレシェントは言った。

 「クレシェント様、ジブラルは?」

 遅れてやって来たのは同じ様にびしょびしょになったプランジェと、濡れたモップの様になった権兵衛だった。仕切りに体を震わせて水気を切っている。

 「去って行ったわ。どうしてかはわからないけど…」

 「奴の…本当の力を垣間見た気がしました…なんて凶悪な奏力だ…。それに伴ったあの『アデュナミスの危機』。あれ程までに侵攻の早い侵食は初めてです」

 「何だそれは?」

 「奏力は時に他人の奏力と結合して、その力が余りにも強いと弱い方の奏力を乗っ取ってしまおうとする特性を持っているのよ。それは概念にも同じ様に作用するわ。その現象をアデュナミスの危機と呼んでいるのよ」

 「細菌みたいな特徴だな、奏力は」

 「でもそれを利用した新しい概念があって、二人の波長を合わせる事によってお互いの庭園の中に存在しない新たな概念を作り出す事も出来るの。『複合概念』といって、『共鳴奏歌アルトリアム』と呼ばれているわ」

 「上位、下位概念の他に未だそんなものがあるのか…」

 「他には『叙情奏歌アクペル』と言った概念があるが、それは『集合概念』…へくちゅ!であり…くちゅん!うう…」

 戦闘が終わって体の熱が取れてきたのかプランジェは何度もくしゃみをした。

 「このままじゃ風邪引いちゃうね。家に戻ろうか、権兵衛もドライヤーをかけてあげないと体に悪そうだし」

 権兵衛も同じ様にくしゃみをした。

 「そうだな、それが良い」

 三人と一匹は公園を後にした。途中、二人と一匹は何度もくしゃみをして、その度に紫薇はバスケットに入っていたちり紙で鼻を拭いてやった。バスケットの中が粘液まみれのちり紙でいっぱいになった頃、一行は家に着いた。玄関を開けるとクレシェントとプランジェは走って浴室に向かい、冷めた体を温めながら熱いシャワーを浴びた。紫薇はバスケットをテーブルに置いて、タオルで権兵衛の体を拭いてやると、ドライヤーで毛皮を乾かした。元気になったのかドライヤーの風を口で受け止めて遊び始めた。

 「喉が火傷するぞ。…でもお前が病気になったら、今度はちゃんと動物病院に連れて行ってやるからな」

 そういって紫薇は権兵衛の頭を撫でた。そしてふと湖で自分が口走った言葉を思い返していた。本当にいざ羽月の前で告白をするとしたら、どんな言葉を選べば良いのだろう。それよりも、自分は本当に恋というものをしているのだろうか。そんな考えが次々と紫薇の頭を過ぎっていった。

 「あんな綺麗な人だから、恋人はいるだろうな…」

 勝手な妄想が紫薇の中で膨らんでいた。そうして嫌な事ばかり考える様になって、収集がつかなくなると紫薇は思考を止めて、何も考えない様にした。それが今、自分にとって都合が良いとわかった。

 少年の淡い恋心は桜の花の様な色をしていた。それが散ってしまうのか、花開くのかは未だ誰にもわからなかった。

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