5話 湿った手の平

 胸の奥が痛む。じんわりと低温の火が鳩尾の辺りを焦がす。紫薇は今迄に感じた事のない感情を抱いていた。それは自分で片付けをしながらも思っていた事だった。

 新任の家政婦、羽月綾は今迄の家政婦とは違って、決められた仕事をこなすというよりもそれ以上の、その仕事の先を見据えて仕事をこなそうとしていた。家の中が汚れていればその掃除を一緒にやらせ、洗濯物が溜まっていれば一緒に洗濯をする。新任の家政婦に押し付けようとしていた仕事はその殆どを紫薇に教えながら一緒にこなし、これからは自分で何でも出来る様にしようと家庭教育を決められた。

 「どうですか?お皿洗いは?」

 紫薇がケチャップで汚れていた皿を磨いていると羽月が傍にやって来た。

 「…出来ました」

 洗った皿を差し出すと羽月は目の色を変えて怒った。

 「何をやってるんですか?未だお皿に汚れの塊が着いています。しっかりスポンジを擦らないと落ちませんよ。ただ表面をなぞるだけでは汚れは落ちません。はい、やり直し」

 その厳しい一言に紫薇は形なしだった。何も反論できずにスポンジに洗剤を付け、もう一度お皿を擦り始めた。すると間髪入れずに羽月の注意が飛んだ。

 「洗剤を付け過ぎです。ちょっとで良いんですよ。それとそうやってお皿を持つんじゃなくて…良いですか?見ていて下さい」

 羽月はスポンジに最低限の量だけ洗剤を付けるとスポンジをまあるく擦らせた。ケチャップが乾いて塊になっている部分には、スポンジの裏の硬い部分を使って削り落とします。こうやって用途に応じてスポンジを使うんですよと羽月は説明をしていたが、紫薇の目線は皿から羽月の全体像に変わっていた。

 濃い緑色の花柄ヘアバンダナを頭の天辺に被り、鎖骨の見えるバレリーナネックの黒いタイトシャツにすらっとした薄地のペンシルスカート。腰にはストールの様な紺色の花柄の布を巻いて垂らし、髪の毛は染めているのか落ち着きのある赤茶色で、右にまとめて胸の方に下ろしていた。

 顔の造りは紫薇にとって理想的な出来だった。完璧な黄金比を持たなくても少しずれていた方が人間らしくてずっと良い。紫薇はいつの間にかまじまじと羽月のフェイスラインと体を見てしまっていた。

 「どうかしましたか?」

 不意に羽月の顔が皿から紫薇の目に向けられる。紫薇は平静を装いながら何もと言って皿を洗い出した。じっとスポンジを擦りながらも紫薇の胸はじわりじわりと痛みを増して、どうしてこんなにも胸が痛むのか紫薇は不思議でならなかった。

 「何か嫌いな食べ物はありますか?」

 一緒に皿を洗いながら羽月は徐にいった。

 「強いていうならトマトが。あと、甘いものは苦手です」

 土臭い味が紫薇は苦手だった。

 「うーん、頑張って克服しましょう。出来るだけトマトの味を変えてみますから。あとあの人たちは何かありますか?嫌いなもの」

 リビングの方で掃き掃除をしているクレシェントとプランジェを見ていった。プランジェはクレシェントに掃除をさせるなど以ての外だと言い張ったが、羽月の教育熱心には敵わなかった。全員が出来る様になったらお願いしますと最後に言われ、渋々プランジェはクレシェントに箒を渡した。

 「大きい方は口に入れば何でも食べます。小さい方は…わかりませんが、我侭を言ったら尻を蹴飛ばすと念を押しているので平気だと」

 「紫薇くん、女の人の前で汚い言葉は使ってはいけません。デリカシーがないと思われちゃいますよ。女性の前では常に礼儀を忘れず、誠実であれ。大学にいた頃に専攻していた科の教授がいつも言っていました」

 「大学では何を専攻に?」

 「福祉と心理学を。あとサークルでは剣道をやっていました。こう見えて全国大会まで昇ったんですよ。優勝は…出来なかったですけど」

 よほど悔しかったのか、最後の部分になると苦笑いしながら唇を噛んだ。

 「…準優勝?」

 日本で二番目に強い女の侍を目の前にして紫薇は冷や汗を垂らした。

 「あの…今更なんですけど…」

 聞き辛そうに羽月は会話を詰まらせると紫薇は何ですかと聞いてみた。

 「あのお二人は、お友達なんですか?紫薇くんと」

 「…みたいなものなんでしょうね。自分でもわからないですけど。ホームステイをしている留学生とでも思って頂けたら。或いは若者のホームレスとでも」

 「訳ありですね?」

 「黙っていて頂けますか?」

 「勿論。但し、一つだけ条件があります。聞いて頂けます?」

 「耳を貸すだけなら」

 「もうそろそろ、学校に行って下さい。今日だって、本当は授業があった筈でしょう?もうどのくらい行っていないんですか?」

 嗜める様に優しい口調で羽月はいった。

 「かれこれ一週間は」

 「そんなに?学校の場所、忘れちゃいますよ」

 「行っても意味があるとは思いません。授業のレベルも合わないし、いっそ辞めようかと思っています」

 「それは駄目ですよ。私はここのご厄介になると決めた時に、あなたを立派に卒業させると決めたんですから」

 「学校なんて…」

 今度はお皿をしっかり洗い終えるとぶっきらぼうにお皿を置いた。

 「俺には必要ありません」

 「どうして?人を傷付ける事なんて仕方のない事ですよ。お婆様が貴方にした事だって同じ事です。仕方のなかった事なんです」

 そこで紫薇は初めて羽月に対して強い憤りを感じた。背中の傷跡が沁みる程に疼いた。自然とこめかみに力が入る。気付けば紫薇は羽月を睨んでいた。

 「あの男に聞いたのか…」

 「はい。それと前任の方から」

 紫薇は驚いた。話を聞かれた事よりも思い切り睨んでいるにも関わらず、じっと羽月の目は自分の目を見て離さなかったからだ。澄んだ二つの目が余りに汚れを知らず、紫薇は思わず顔を背けてしまった。

 「あんたに何がわかる…!」

 そして捨て台詞を吐いて羽月に背中を向け、そのまま玄関に向かうとドアを開けて外に飛び出していった。クレシェントとプランジェは何が起こったのかわからず、ただ羽月の顔を見ているだけだった。

 紫薇は走った。背中の痛みから逃れる様にひたすらに足を動かし続けた。息が詰まって胸が苦しんでも、足に熱を持ってもそれでも止めなかった。今、足を止めればあの時の記憶が蘇り、また闇の中に引きずり込まれて自分が消えてしまう。そんな恐れが更に紫薇を追い立てていた。

 足が止まったのは夜になってからの事だった。紫薇は自分が今どこにいるのかわからなかった。疲れとぼろぼろになった心で、冷静に場所を特定できる筈もなかった。やっと気が付いたのは辺りが海沿いで、どうやら港に来てしまっていた。コンクリートの上に置いてあったベンチにいつの間にか座っている。海と境界線を引いた柵が目の前に広がり、オレンジ色の街灯の下、海水がてらてらと光っていた。

 「ここは…どこだ?」

 その場所は紫薇が住んでいる町、芽吹町の隣、夜香街と呼ばれる都市部だった。紫薇は走り続けて町の枠を一つ飛び越してしまっていた。タンカーの汽笛が耳に響く。海は静かに波打って、薄暗い空は紫薇の心を表していた。

 「探しましたよ」

 穏やかな声をして羽月が紫薇の隣に座った。しかし紫薇は顔を向けようとせず、中腰になって海を見続けている。

 「俺に何の用ですか?」

 疲れた体では嫌味の一つも言えなかった。

 「決まっているでしょう。もうこんなに夜遅くなってしまって…皆、心配してます。でも見付かって良かった」

 「先に帰って頂いて結構ですよ。俺はもう少しここに居ますから」

 そういった紫薇だったが、思わぬ羽月の回答に紫薇は驚いた。

 「未だ帰らせませんよ」

 「何を言って…なっ!?」

 思わず紫薇が羽月に顔を向けるとそこには焼け爛れた背中があった。羽月は上着を半分まで脱いで自分の背中を見せていた。酷い火傷の痕に切り傷の痕もあった。それはタバコの先や熱した鈍器を何度も押し付けた痕だった。

 「私が選ばれた理由、これなんです。私も小さい頃に虐待を受けました。父はアルコール依存症で、母はそんな父を置いて出て行きました。勿論、私を置いて」

 紫薇はその生傷から目を離せなかった。同じだったのだ。羽月と紫薇が背負っていたものは。抉られた傷を見ればその時の悲鳴が、火傷を負わされた傷を見ればその時の絶望が紫薇に痛いほどわかった。

 「貴方の気持ちは誰よりもわかります。でも私は父を恨んでいません。父が倒れてしまった時も涙が溢れました」

 そういって服を戻し、改めて紫薇の顔を見た。

 「…私は思ったんです。仕方のなかった事だったんだって。そうする事で自分をぎりぎりの所で守れた。だから紫薇くんにもそう思って貰いたいんです。きっと辛かったでしょう。寂しかったでしょう」

 まるで自分に言い聞かせる様に羽月は紫薇の頬を手で擦った。

 「もう大丈夫、きっと誰かを愛せる様になる。愛して貰える様になる。これからは、一生懸命に生きなさい」

 紫薇は羽月に心臓を掴まれた様な気がした。それはとても心地よくて、今迄に一度だって感じた事のなかったものだった。そして最後の言葉は紫薇の胸を打ち付け、気付けば紫薇は羽月の胸元に顔を埋めて泣いていた。声を殺して泣くなど出来なかった。咽び泣き、その度に羽月は紫薇の頭を撫でた。

 泣き声がその場から聞こえなくなったのはそれから大分時間が経った後だった。紫薇は泣き疲れて目を真っ赤にさせていた。

 「…済みません。こんな事に付き合せてしまって」

 「何を言ってるんですか、気にしてなんかいませんよ。それより早く帰って二人を安心させてあげないと。それに、晩御飯の支度だって未だなんですから」

 「…済みません」

 そういって紫薇は苦笑いした。

 「さっ、もう帰りましょう。ここからだと…どうやって帰れば良いんですか?」

 立ち上がって辺りを見回す羽月だったが彼女も今どこにいるかわかっていない様だった。困った顔をして紫薇を見ている。

 「もしかして当てずっぽうで来たんですか?良く見付けられましたね」

 「何となーく、こっちかなあって…済みません」

 申し訳なさそうな顔をして謝る羽月に紫薇は特別な感情を抱いていた。

 散々泣いてやっと頭も落ち着きを取り戻したのか紫薇は立ち上がると、辺りを見回した。そして頭の中に入っていた地図と今の場所を比べて、家までの帰路を計算すると、ここからベンチを背にして歩いていけば夜香街と駅にぶつかると踏んだ。

 「ここから、海を背にして歩いていけば駅に着くと思います」

 「流石ですね!お姉さん感激しました」

 「未だこれが当たっているかどうかわかりませんよ」

 「いえ、私が確かめて紫薇くんの言った通りにしてあげます。行きましょう」

 そういって羽月は我先にとベンチから離れていった。紫薇は不思議な人だなと思いながら彼女の後を付いて行った。それから十分ほど歩いてみると段々と風景が都会に近付いて雑居ビルが目立ち、次第に駅のありそうな雰囲気になっていった。そして通行人が一際集中する夜香街の駅へと辿り着いた。

 羽月はやっぱりと喜ぶと駅の改札口で切符を買って紫薇に渡した。二人は改札口を通り過ぎると丁度、芽吹町に向かう電車が発車しようとしていた。慌てて二人は駆け込み、その電車の車掌にアナウンスで注意を受けながらも中に入った。

 「あはは、初めて車掌さんに怒られちゃいました」

 「俺は初めて電車に乗りました」

 羽月は驚いた声を出して笑った。

 黄色いネオンに混じって電車が揺れ動いた。その窓には二人の楽しそうな顔が描かれている。紫薇はいつも以上にはにかんでいた。電車はあっという間に芽吹町に着いた。電車のドアが開くと一斉に乗客が下りる。二人もそれに続いて電車から下りだした。途中、逸れない様にと羽月は紫薇の手を取ったが、つい紫薇は恥ずかしくて手を払ってしまった。それを見ると羽月は笑った顔をして駅の改札口に指を指して案内した。

 芽吹町の改札口から出ると紫薇はほっとした。正直、帰って来れないかと思っていたからだ。駅から離れる途中、羽月と一緒に駅前のスーパーで買い物をした。晩御飯の献立は何だろうと思いながら、紫薇は羽月が野菜コーナーの前で先ず初めにトマトを選んだ事に落胆した。そして羽月は玉ねぎやセロリ、人参に牛バラ肉を買って、最後に小さめの小麦を選んだ。そしてエコバッグを買って、これも節約に繋がりますと紫薇に言った。

 エコバッグいっぱいに積み込まれた食材を紫薇が持ったが、筋力のないせいで何度も休み休みに歩いた。羽月が試しに持ってみるとどうやら彼女の方が腕力があるらしく、物足りなそうな顔をしたのを紫薇は驚いてしまった。負けじと袋を持ってみたが、やはり敵わず半分以上の道のりを羽月に任せてしまった。

 やっとの思いで家に帰ってみると一人はやっと帰って来たかといった目をして紫薇を見て、もう一人はリビングで大の字になって餓死していた。傍にお菓子が食い散らかしてあったが足りなかった様だった。

 羽月はすぐに晩御飯の支度に取りかかった。慣れた手付きで野菜を洗い、それぞれに適した大きさや形にカットしていき、魔法でも見せられているかの様なスピードで料理を完成に近付けていった。どうやらトマトは小さめに切って煮込み料理に使った様だった。やがて甘酸っぱい香りが台所を包むと、餓死していたクレシェントがふらふらとその匂いに釣られてやって来た。紫薇はその間にスーパーで買って置いたドッグフードとキャットフードを半分ずつ器に入れて権兵衛にあげていた。権兵衛は美味しそうにご飯にむしゃぶりついたが、ふと誰かの視線を感じたのか汗を垂らしながらその視線の元を辿った。するとそこにはクレシェントが恨めしそうな目で権兵衛を見ていた。たまらず権兵衛は鼻で器を押して視線の外れた場所でご飯を食べていたが、視線は定められたままで権兵衛は気まずそうな顔をした。

 すかさず紫薇は履いていたスリッパでクレシェントの後頭部を引っぱたいた。

 「止めれ」

 やっとテーブルに料理が並べられた。それは甘酸っぱい香りが新鮮なハヤシライスだった。手短にデミソースを作り、そこにトマトを入れて最後に溶いたコーンスターチを入れてとろみを出した様だった。

 「お米はごめんなさい、今日はお腹が空いてると思ってインスタントのもので済ましちゃいました。でもルーの味は折紙付ですよ。召し上がれ」

 三人は頂きますと言ってスプーンを口にした。トマトの酸味と玉ねぎの甘みが程よい味付けで、何故か懐かしい味と思ってしまう口当たりが広がった。紫薇は短時間でこれほど濃厚なソースが出来るのかと関心した。どうやら圧力鍋と、使った牛の肉に秘密がある様だった。それは乾物のおやつにあったビーフジャーキーを出汁に使っていたからだった。濃密なエキスを手頃に出し、尚且つ紫薇の嫌いなトマトの土臭い部分をこんなにも隠してしまう羽月の腕前に、紫薇とプランジェは尊敬の意を抱いた。クレシェントは口に入れて、一度だけ舌でじっくりと味わうと後は掻き込む様にして平らげていった。

 夕食の後片付けはやはり羽月と紫薇が一緒になって行った。クレシェントとプランジェはお風呂掃除を任され、紫薇は皿洗いをした。羽月の手解きのお陰でやっと真っ白なお皿が出来て紫薇は嬉しそうに水気を拭いた。一つだけ皿まで舐めたかの様なお皿があったが、紫薇は特に反応もせずにスポンジで磨いた。

 「本当に良いんですか?」

 就寝の時間になると紫薇はリビングのソファーの上に枕と布団を敷き始めた。残っている部屋はあと一つだけで、プランジェを自分の部屋に寝かせて紫薇はリビングで寝る事にして残った部屋を羽月に渡した。その部屋は元々家政婦が寝泊りする為の部屋として使っていた。

 「プライベートがないと何かと不便でしょう?まあ、何故あの居候二人が部屋を占領しているかは兎も角、別に俺はねっ転がれる場所があればそれで構いません。気にせず使って下さい」

 「…ありがとうございます。それじゃ、お休みなさい」

 そういって羽月が二階に上がろうとすると、紫薇はある一言だけ伝えたくて彼女を呼び止めた。

 「そうだ。羽月…さん」

 「何ですか?」羽月は顔だけ紫薇に向けた。

 「…その…ありが…とう」

 ほんの少しだけ、口許を緩ませて紫薇はいうと羽月はにっこりと笑って二階に上がっていった。その後姿を見ると紫薇は一仕事を終えたかの様に溜め息を吐くとソファーに戻り、窓際から照らされる月光を見ながら眠りに着いた。


 鏡の前に制服を着た紫薇の姿をクレシェントとプランジェは不思議そうに覗いていた。そんな二人を他所に紫薇は久し振りに締めるネクタイに懐かしみと、一握の不安を抱いていた。その不安を振り払う様にネクタイをきゅっと締めた。

 「その洋服は何だ?」

 プランジェが珍しそうに聞いた。

 「学校の制服だ。ナーガには学校というか、教育施設みたいなのはないのか?」

 「あったとしても行けるのは中流階級以上だな。後は協会がボランティアでやっている青空教室くらいか…自慢ではないが私は独学で知識を身に着けた」

 「殊勝だな、感心したぞ」

 「まあ、家なき子だったからな。それなりの苦労はしていた」

 「成程。ところで協会とは何だ?」

 「こっちの世界でいう警察、司法を取り締まる機構の事だ。『調律協会フィルバース』、基本的にナーガで唯一武力を持っている組織だ。例外に一つだけ武力に準ずるものを持っている王国があるんだが、それはまた後で話してやろう。綾が着替えたら一階に下りて来る様にと、朝食が出来たそうだ。ほれ」

 そういってプランジェは椅子にかかっていた上着を渡した。

 「どうも。未だ早いけどな」

 紫薇は上着を取ると腕にかけてプランジェと一緒に一階に下りていった。階段を下り切ると卵の焦げた臭いが鼻を突いた。料理に失敗したのかなと紫薇は思いながらキッチンに向かうと、既に料理はテーブルに並べられていた。献立はご飯にみそ汁、みそ汁は茄子とわかめが具材で、目玉焼きと焼いたハムがあった。台所の奥ではクレシェントがばつが悪そうにフライパンと睨めっこしている。その隣には羽月が丁寧に目玉焼きを教えていた。

 「う…ん…また焦げた…」

 「火力をもっと弱めて。水を入れたら蓋をする。後は出来るだけ動かさない事が目玉焼きを作るコツですよ」

 「うーん、私には食べる方が似合ってるみたい」

 苦笑いしながらクレシェントがいうと紫薇とプランジェは心の中で同意した。

 「駄目ですよ、ちゃんと出来る様になるまで帰しませんからね」

 「鶏を連れて来ないと無理そうだな」

 紫薇は席に着いていつもの様に悪態を吐いた。

 「む、いつか出来る様にしてみせるわよ」

 「どうだかな」

 「二人とも、朝から喧嘩なんて止めて下さい」

 「クレシェント様、馬鹿のいう事など聞き流して置けば良いのです」

 プランジェは納豆がお気に入りの様で何度も混ぜていた。それに生卵と小口ネギ、少しの山椒を入れるとご飯の上にかけて食べ始めた。プランジェはどういう訳か日本食がとても口に合う様だった。

 「うむ、この味は外せないな」

 「羽月さん、次から俺の分のご飯はもっと少なめで良いです。これの半分位で」

 普通盛りにされた茶碗を指していった。

 「わかりました。あと、これを持っていって下さい」

 そういって羽月は紫薇に布に包まれた卵型の弁当箱を渡した。

 「ありがとうございます」

 「お弁当ってこっちの世界だと普通なの?」

 クレシェントは弁当箱を見ていった。

 「ナーガでは珍しいのか?」

 「我々は昼食に弁当を持参する事を嫌う。もっぱら屋台の様な出店で済ませるのがポピュラーだな。仕事上だと仲間内との良いコミュニケーションの場になるし、金融の周りも円滑になるからな。弁当箱を持っていると白い目で見られる位だ」

 「その辺りはもう完全に文化の違いだな」

 「興味深いお話ですね。ところでナーガってどこの国の名前ですか?」

 「まあ、遠い国の名前ですよ」

 しれっと紫薇は答えた。

 「そうなんですか。あ、そうそう。紫薇くん、ちょっとお願いがあるんですが。聞いて頂けますか?」

 「何ですか?」

 「実は…生活費を少しだけお二人の衣服に回してあげても大丈夫ですか?流石に一枚と寝巻きだけだと洗濯も不便で…私が買ってあげたいんですけど、未だお給料日まで時間があって…振り込まれたらお返ししますから」

 クレシェントとプランジェの洋服は予め身に着けているものしか持っていなかった。確かに黒いブラウスと灰色のカーディガンだけでは不便だろうと紫薇は思った。何より洗濯する人が大変だろうと。

 「良いですよ。残っている残高が平気そうなら羽月さんの分もどうぞ。お金は返さなくて結構です。通帳は羽月さんが管理して下さい」

 「わかりました。ありがとうございます」

 「ありがとー紫薇」

 「感謝してやる」

 「…お前らは本当にそう思ってるのか?」

 紫薇は最後にみそ汁を啜って席を立った。玄関に置いてある皮の鞄はすっかり埃に塗れて、触る前に手で払って持ち手を握った。

 「行ってらっしゃい」

 「行ってきます」

 玄関で羽月に見送られ、紫薇はドアを開けた。青空が広がる下、紫薇は少し緊張した面持ちで家を出ていった。太陽は眩しい位に輝いている。五月の空は眩しい位に光り始めていた。

 学校に近付くにつれて同じ制服を着た生徒が徐々に増えてくる。紫薇の緊張は思ったよりも早く出てしまっていた。自然と目が猫目の様な釣り目になる。校門を抜けた頃にはすっかり以前の状態になってしまっていた。

 二のビー、紫薇の教室はそこだった。紫薇の通っている新光学園(しんこうがくえん)には一学年に六つの教室があって、一クラスに四十人前後とマンモス高校となっていた。紫薇は一週間振りの教室のドアを開けた。何人かの生徒は紫薇の顔を見るとすぐに視線を戻し、ある生徒は紫薇の顔を見ながら耳打ちを始めた。

 紫薇はいつもの事だとしれっとしながら自分の席に向かった。窓際の、一番後ろから二つ目の席が紫薇の席だった。席に着いてカバンを机の傍に置いて、机の中から図書館から借りっ放しの本を探し出した。タイトルは「チョコレートと私、そしてバター。微妙な三角関係」という本だった。紫薇は意味不明なタイトルに誘われて借りてみたが、内容はずっと濃いもので、ラブロマンスに近い考察だった。

 『どうしても私にはチョコレートが手放せなかった。高カロリーで脂質を多量にう含み、時には中毒性を引き起こすそんな憎いチョコレートを私は手放せなかった。勿論、バターの事も忘れられない。牛乳を分離して凝固させたただの油の塊のくせに、私をその目まぐるしい匂いで誘惑する憎い奴。嫌いだ、あんな奴は嫌いだ。そう心に言い聞かせても、手は自然とバターの方に伸びていた。いけないわ。私、このままだと本当に二股をかけてしまう。二つの甘美で危険な誘惑が私を誘っていた。いけないのは誰?二人を魅了してしまった私?それとも…』

 「深いな…」

 紫薇はページを捲りながらそう呟いていた。

 「そんなに深い内容なのかい?」

 唐突に見知らぬ人物の声が紫薇の前で響いた。その瞬間、機嫌が悪そうに眉間に皺を寄せた。紫薇は何よりも読書の邪魔をされるのを嫌った。邪魔するものならば仮にそれが誰であっても面を切るのが紫薇だった。鋭い猫目を上に向ける。

 「やっ」

 紫薇の机の前には見知らぬ男子生徒が手をかざして立っていた。一瞬、女性かと思わせてしまうかの様な中性的な顔立ちをしていて、左目の傍にほくろがあった。髪の毛はかなり短めに切り詰められ、その髪型がまた両性さに拍車をかけていた。

 歌劇団でも似合いそうなその男子生徒に周りの女子生徒は釘付けになっていた。しかし今の紫薇にとってそんな事はどうでも良かった。相手が誰であろうと眼を付ける。宛ら威嚇だった。

 「誰だお前?」

 「おっと、読書の邪魔をしちゃったかな?これは失礼しました」

 はははと笑いながら一枚のプリントを紫薇に差し出した。

 「?」

 そのプリントには求む、風紀委員。来たれ、若人よ。と書かれていて、学校の風紀についてびっしりと文字が詰められ、最後に氷見村 真弓の一言が数行に渡って記載されていた。

 「良かったら目を通して置いてくれないか?僕は三年の氷見村、風紀委員長を任されている。興味があったら…」

 その言葉の途中で紫薇はプリントを片手でぐしゃっと握り潰した。何なのだろうこの男はと紫薇は思った。人の読書を邪魔するだけには飽き足らず、あまつさえ機嫌を悪くされたのに本の上にプリントを掲げて文字が見えなかった。紫薇の怒りは爆発していた。

 「あああっ、何て事を!徹夜して打ち込んだのに!」

 「邪、魔、す、ん、な」

 牙を剥き出しにして氷見村を睨み付けると氷見村は尻尾を巻いてその場から逃げていった。紫薇は氷見村が目の前からいなくなると鼻息を吐いて視線を下に戻した。

 教室の奥から小さい声で逃げた氷見村と数人の女子生徒の話しをしていた。

 「駄目ですよ氷見村先輩、絵導に関わっちゃ!」

 「そうそう!不良だし、何されるかわからないですよ!」

 「ええ?そうなの?」

 その言葉を聞いて紫薇はいつもの事だと聞き流そうとしたが、意外な一言が氷見村の口から出た。

 「うーん、でも僕にはそうは見えないなあ。彼、面白そうじゃないか」

 けらけらと笑いながら氷見村はいった。

 紫薇は一瞬、目線を文字から離すとまたページに戻した。本には丁度、クライマックスに近い緊張の描写が描かれていたが、紫薇は何故か読書に集中する事が出来なかった。今の一言が頭の中から離れない。

 一生懸命に生きる。その羽月の言葉が胸を締め付けたが、それを実行するには遅過ぎた。校舎にチャイムが鳴り響いて散らばっていた生徒たちが指定の席に戻る。氷見村も話していた女子生徒たちに手を振って自分の教室に帰っていった。

 不意に自分の傍にさっきの丸まったプリントが落ちているのを見ると、紫薇は他の人に見られない様にそっと自分の机の中に入れた。誰もそれに気付かなかったが、ただ一人。紫薇の席の後ろに座っていた、紫薇と同じ様に目付きの悪い男子生徒はその一部始終を目にしていた。


 その日の学校は紫薇にとって以前と何も変わらない、退屈で放漫な一日だった。授業中も視線を黒板から左の窓際に向けて、ぼーっとしながら教師の話を聞き流していた。ただ一つだけ違ったのは昼食の時間の羽月の弁当だった。中を開けてみると下の方にご飯が敷き詰められ、上の方には卵焼きにこんがりと焼かれたウインナー、残り物のハヤシライスと、しっかり切り分けられたトマトが入っていた。紫薇は一瞬、嫌な顔をしたが最後にはきちんと食べ終わった。

 紫薇は教室に誰もいなくなるまでずっと本を読んでいた。物語の落ちは私がバターと付き合ったが、後に別れてチョコレートと交際を始め、そのままハッピーエンドになるかと思いきや、太陽が現れてバターとチョコレートをどろどろに解かしてしまい、私の手に残ったのは解けたチョコレートから出た砂糖の塊だけだった。という結末に紫薇は心を打たれた。こんな結末、誰が予想したのか。紫薇はその事を何度も自分に問いかけ、ぱたんと本を閉じた。

 そして紫薇は教室に誰もいない事を確認すると机の中に入れて置いたぐしゃぐしゃのプリントを静かに広げた。氷見村のコメントの下に興味の湧いた方、やってみたいという方がいましたら放課後、四時半から三のエーで集会を行います。是非いらして下さい。と書かれていた。紫薇は教室の時計に目をやると、時刻は五時二十分を回っていた。紫薇はもう少し、時間が早かったらと後悔しながら鞄を持って教室から出た。その際に皺だらけのプリントを扉の傍にあったごみ箱に入れた。

 校舎には人の気配がしなかった。もう殆どの生徒は家に帰るか部活動に勤しんでいるのだろう。紫薇は窓からの夕焼けに身を包まれながら昇降口に向かった。その時に昇降口から一人の生徒が逆に校舎の中に入って行こうと階段を上がっていた。その生徒は腕や頭に包帯を巻いていた。階段を降りる紫薇とすれ違う。一瞬、紫薇はその男子生徒に見られた気がしたが、特に気にも止めずにそのまま階段を降りていった。

 「あいつが絵導か…気に入らねーな…」

 その男子生徒は紫薇の席の後ろに座っていた生徒だった。紫薇の姿が階段から見えなくなるとその生徒は吐き捨てる様に呟いた。

 丁度、下駄箱の目の前に着いた時に偶然にも氷見村の姿を見かけた。手にダンボールを抱えて下駄箱の傍を通り過ぎようとしている。向こうは気が付いていない。紫薇は声をかけようかと思ったが、何と口火を切って良いのかわからなかった。そうして氷見村の姿が見えなくなってしまうと、紫薇はやってしまったと視線を落として下駄箱の方に戻した。すると、

 「あれ?絵導君じゃないか」

 通り過ぎた筈の氷見村が首だけになって顔を覗かせていた。急だったからか紫薇は慌てて視線を氷見村に向けて固まってしまった。

 「こんな時間まで読書?それとも風紀委員に興味を持ってくれた?」

 今度は体全体を出してはにかみながらいった。

 「いや、俺は…」

 正直に言って紫薇には何がしたいのかわからなかった。声をかけてからどうするのか。それから何をしたいのか紫薇は何も考えて、思い付かなかった。そもそも自分は氷見村に何を求めているのかも余り理解できずにいた。

 「良かったら、少しだけ付き合ってくれないかな?集会は終わってしまったけど、ちょっと未だ仕事が残っていてね。僕しか残っていないから、君の手が欲しいんだよ。良いかな?構わないなら後から付いて来てよ。荷物、重いしゆっくり歩いているからさ」

 そういって氷見村は下駄箱から離れていった。紫薇は少しの間その場で固まったまま考え込み、やがて意を決した様に氷見村の後を追った。背中を押したのはやはり羽月の言葉だった。恐れはある。でもそればっかりに目を向けていては、何も変わらないと紫薇は自分でその答えに辿り着いた。

 「さてさて、よいしょっと」

 そこは十畳程の狭い部屋だった。にも関わらずその部屋には破れた暗幕や放送に用いる機材などが入ったダンボールが所狭しと並べられ、実際の人のスペースは六畳程しかなかった。その真ん中に机があって、そこに氷見村は手に持っていたダンボールを置いた。

 「風紀委員って言ってもその実情は雑用ばかりでね。本命は生徒会がやってるのさ。僕らは体の良い下っ端ってワケ。だから誰もやりたがらない。実は、風紀委員って言っても仕事をしてるのは僕だけなんだよねー」

 あははと笑いながら氷見村はいった。

 「部屋も生徒会みたいに会議室を牛耳れる訳じゃないし、倉庫として使ってる部屋が風紀委員の活動スペースなんだ。その辺に転がってるガラクタは持って帰って良いよ、気に入ったのがあれば、だけどね」

 紫薇は試しに傍にあったダンボールの一つを軽めに蹴飛ばして中を確かめてみた。がちゃりと金属音がすると中には埃の被ったクリスマスツリーの飾りや変な形をした電球、折れたねじにへっこんだアンプ、年季の入った木板があるだけで、とても紫薇が気に入ったものはなかった。

 「本当にがらくたばかりだな。役に立つものなんてありゃしない」

 「アンティークになりそうなものもないしね。いつか捨てようと思ってるんだけど、中々捨てられなくてさ。絵導君、だったよね?早速で悪いんだけど、手伝ってくれる?」

 言われるままに紫薇は机の傍に寄った。ダンボールには埃を被った教材がぎっしりと積まれ、中には昭和と書かれたものまであった。

 「今回のお仕事は年季の入った教科書たちの仕分け。年代別に仕分けたら、古い順に机の上に並べてくれるかな?」

 紫薇は指をすーっと流してみると指先は真っ黒になったのを見て短い溜め息をした。鞄を置いてダンボールの中から三冊ほど纏めて取り出すと、中から凄い量の埃が紫薇の顔を直撃した。

 「…通りで誰もやりたがらない訳だ」

 咽ながら紫薇は教材をダンボールの傍に置いた。

 「見返りは何もないけど、青春を感じないかい?意味のある事よりも意味のない事の方が楽しいものさ。げほーげほ、うげほっ!こりゃたまんないね!げほっ!」

 「堰をするな。埃が余計に飛ぶ」

 もくもくと立ち上る埃はまるで火事が起きたかの様だった。

 「うひぃー、煙い!しかし君が来てくれて助かったよ。僕一人じゃここで窒息死してたかもしれない。本当に感謝感謝。台湾語では謝々多謝だったかな?」

 「黙って手を動かせ。余計に埃が飛ぶと言ってるだろう」

 埃が目に沁みて涙目になりながら紫薇は半ば叫んだ。

 「ごめんごめーん。でも黙ってるのは性に合わなくてさ。仕事が終わったら僕ら人種が変わってるかもね、ははっ」

 「あー、うるさい…」

 それから二人は顔を真っ黒にしながら仕分け作業を空が真っ暗になるまで続けた。時刻は七時を回っていて、二人が校舎を後にしたのは八時を過ぎていた。制服の裾で顔を拭きながらグラウンドを歩いている。

 「やー、汚れたねー。いっそ脱いで帰りたい気分だよ」

 「一人でやってくれ」

 紫薇は顔中を汚したまま我慢して歩いていた。制服で顔を拭いてしまえば後で洗濯する人に迷惑がかかると思ったからだ。むずむずするのを必死に耐えている。

 「絵導君の顔も真っ黒だね。炭鉱マンみたいだ」

 「あんたの顔もな。乞食みたいになってるぞ」

 「ありゃりゃ、じゃあ君に恵んでみようかな」

 「何をだ?」

 「風紀委員の席をね。どうだい、やってみない?君とは良い関係に、先輩と後輩だけど良い友達になれると思うんだけどな。って君はずっと敬語を使ってくれないけど。まあ、構わないんだけどさ」

 紫薇は初めて聞いた友達という言葉に衝撃を受けていた。こんなにも簡単に友達とは出来てしまうものなのかと。仕事を手伝ったら自然と友達になるのかと紫薇は頭の中で何度も議論した。同時に紫薇は顔色を変えなくてもどこかはにかんだ表情をしていた。氷見村はお喋りで、観点の合わない人間だがそれでも友人という関係になれるのなら、紫薇にとってこれ以上ない喜びだった。しかし紫薇はある事を思い返していた。ここで友達になったとしても、いつか氷見村を傷付けてしまうのではないかと。過去に起きた、やってはいけない事の記憶が紫薇の頭を渦巻いていた。


 「仕方のない事なんです」


 不意に羽月の言葉が紫薇を過ぎった。仕方のない、仕方のない事なのかもしれないと。けれど紫薇は何故かそれが嫌だった。もし友達として氷見村と関係を築けるのなら、そのままの関係が良い。紫薇はそう結論付けた。

 「…遠慮する。あんたと一緒にいたら、いつか怒鳴り散らしそうだからな」

 悪態を吐きながらも紫薇は悲しい目をしていた。

 「あはは、構わないさ。その時は黙って君の前から去るよ。ほとぼりが冷めたら、また戻ってくれば良い。それならどうかな?」

 氷見村は紫薇の思っている事など知らないだろう。だが知らないからこそ、紫薇にとってその言葉は何よりも嬉しいものだった。

 「馬鹿馬鹿しい…勝手にしろ」

 紫薇は顔を背けながらもじわりと目を濡らしていた。

 「じゃあ友情の証として握手をしてくれない?」

 そういって氷見村は手を差し出した。紫薇はそれを見てすぐには手を出せなかった。じっと彼の指先を見詰めるとまるでそれが向けられた刃の様に感じた。恐れを抱いたままそっと右手を差し向け、氷見村は見計らった様に手を握った。

 「君の手って、思ったより柔らかいね。もっとお肉を食べなきゃ駄目だよ」

 じっとりと肉の感触が紫薇の手の平から離れなかった。熱と熱が混ざり合い、紫薇の背中には汗がじっとりと湧き出た。電気的接触にはまだ紫薇には早かったのかもしれない。紫薇の指先は震えていた。

 「それじゃ、また学校で。良い休日を」

 今日が金曜日だと忘れてしまうほど、紫薇は動揺していた。氷見村が背中を向けて歩き出しても紫薇は少しの間その場に立ち尽くしてしまった。生唾を飲む。一呼吸を置いた後、紫薇はやっと初めての友人が出来た事に喜びを感じながら家に帰っていった。

 家の玄関を開けると羽月の出迎えの前にクレシェントが新しい洋服を見せにやってきた。ポーズを決めて紫薇の前に立った。

 「見て、バーゲンだからまとめ買いしちゃったの。似合う?」

 彼女の選んだ服装はアーバンタイトな大人の色気が目立った服装だった。細身のパンツにボトルシャツ、薄地の黒いジャケットを着て気分は都市ガール。

 「似合ってるよ、色んな意味でな」

 紫薇はクレシェントの傍を通り過ぎ様にいった。正にマネキンガールだった。

 「ちょっと!?色んな意味って!?」

 紫薇は何でもないといいながら奥に入っていった。


 氷見村はじっと握手をした手の平を見詰めると、徐に舌を使って握手をした人間を取り込むかの様に舐めしだいた。そして目と唇を真っ赤に染めながら口許を緩ませた。闇夜の中、紅の唇が艶かしい光を宿していた。

 「あれが片割れか…良い味しているよ…」

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