4話 白い海のキネマ

 「では先ずおさらいから。概念の具現化とは処女の庭園、つまり心の形相を意識的に認識することから始まります。その際に庭園の天井に浮かんでいる『ゾラメスの心臓』と交信をする必要があるのよ」

 「ゾラメスの心臓?」

 「別名を投影の目とも言うわ。私たちは産まれながら極小さな規模、モナドの少ない心の表像であれば、具現化することは出来るの。概念じゃなくて、小さな意思や感情ね。響詩者デゴーチェとそれ以下の存在、二者の決定的な違いは、心を深く見通すことが出来るかどうか。投影の目は深層心理を見通す為に作られた一種の道具なのよ」

 小さな花園の上に心臓が浮かび、その心臓には目がついていた。

 「前に初めて響詩者デゴーチェになったのは、高名な芸術家だったって言ったの覚えてる?その人の名前がゾラメスって言うの。ナーガではそのゾラメスを始まりに響詩者デゴーチェが広まっていった。つまりね、私たちのこの力は、もとは一人の芸術家が作り上げたものを真似して引き継がれてきたってことなの」

 「概念の具現化は、オリジナルじゃないってことか…」

 紫薇は説明の内容を理解するようにマグカップに注がれたコーヒーを飲んだ。

 「続けろ、頭でまとめながら聞いてる」

 「そう、じゃあ続けるわね。響詩者デゴーチェはゾラメスの心臓を通して処女の庭園を読み取ってイデアを得る。そのときに消費される心の労力を『奏力レグロス』と言うわ。得られたイデアは無意識から意識に移行され、そこで初めて響詩者は自分の心の形相を知ることが出来るの。断片的だけどね。そしてそのイデアを確固たる概念に昇華する為に、必要なものがありますが、さてそれは?」

 「二つ以上のテーゼ。下から順に二奏詩シフォー三奏詩ベルテナー。テーゼのない概念は単奏詩レジーだったな。これらの違いは何だ?位置づけ、という事は何か意味があってそうしてるんだろう?」

 「それはゾラメスの心臓が一度に読み取った心の形相の大きさによって区別しているの。人によって広い狭いはそれぞれだけど、大体は数が増えていくほどに具現化する大きさも大きくなっていくと思う。ちなみにずっと具現化を続けることは出来なくて、個人差はあるけれどその法則には誰も逆らえないのよね」

 「オリジナルじゃないから、創作者の意向には逆らえないってことか…」

 「そういうことみたい」

 クレシェントは自分のマグカップに口をつけると、小さく息を吐いた。

 「聞けば聞くほど、こっちと違うってのが思い知らされる。聞く分には面白いが、とても信じられない…と言いたい所だが、もう何度も見ちまってるからな。お前がこっちに来なかったら、そんなこと死ぬまで知らなかっただろうよ」

 紫薇は肩をすくめていった。

 「もう一つ聞きたいんだが、なんでこっちに来た?そろそろ覚悟は出来たろ」

 「覚悟は出来たって、昨日の夜の話なんだけど…」

 「一晩、寝りゃ変わるだろ」

 「う…ん、まだ…待ってくれない?」

 クレシェントは苦虫を嚙み潰したような顔をしていった。

 「待ってる間に誰かに殺されそうだよ、昨日のランドリアって侍崩れみたいなのもやって来たことだしな。あいつもナーガからやって来たみたいだが、どうやって…お前もランドリアもこっちに来たんだ?」

 「それなのよ、私も気になってたのは。あの扉、私のと似ていたけれど、どこか違う…あんな顔なんて付いてなかった。そもそも『白銀世界』をどうやって…」

 鼻の先を人差し指で抑えながらクレシェントはつぶやき始めた。

 「扉?てっきりあの亀みたいな、鯨みたいなやつが、お前とジブラルを運んで来たと思ってたんだが…」

 「あれね…!私もあれに飲み込まれたときはああ、こうやって移動するんだ、って思ってたのだけど、実際は違うみたいね」

 「…何だか話が嚙み合わないんだが、察するにあれが本来の手段じゃないってことだけはわかった。本来はどうやって世界を渡り歩く?」

 「ああ、ごめんね。私もちょっと混乱してて…。何しろ別の世界に渡ろうとしたのは初めてだったから」

 「その渡り方ってのは、そもそもどうやってやるんだ?お前の言い分だと、誰しもが出来るようなことじゃなさそうだが」

 「ええ、本来であれば世界を隔てる境界線を越えることは出来ないわ。それを可能するのが、この『レミアの鍵』よ」

 そういって手を胸の辺りまで上げると手の平から赤い、小さな棒が浮かび上がった。それは数センチほど伸びると全体像を露にした。クレシェントの体から出て来たのは四角い持ち手の鍵だった。持ち手には蛾のような翅が描かれていて、奇妙なことに重要な部分である鍵の先っぽがぽっきりと取れてしまっていた。

 「その頭の取れた鍵で何をどうするってんだ?」

 訝しげに見つめている紫薇を他所に、クレシェントは腕を横に逸らして鍵の先端を宙に向けた。そしてその頭のない鍵を宙に差し込み、鍵を左に回すと鍵穴もないのに金属音がカチリと鳴った。

 

 からからと金属の歯車が回っている。幾つもの歯車が複雑に重なり、それらの背後に巨大な黄金の歯車がかちこちと回っていた。鍵が開かれると歯車の動きが次第に弱まり、そこの隙間に挟まっていたものの姿を暴いた。全身が緑色に染まった女性が歯車の合間に下半身を挟まらせ、ぶらりと伸びた髪の毛と共に顔を上げてこう呟いた。


 ―――――幾何学の資格なきもの入るべからず


 歯車に挟まった女性の姿をクレシェントと紫薇が見ることはなかった。二人の目の前に現れたのは一枚の扉だった。頭のない鍵の先から赤い鉄くずが集まり、見る見る内にそこから広がって長方形を描いていった。磁力に寄せられるかのようにどこからともなく破片がやって来て、その長方形の外装を組み立てていった。やがて破片が蛾の翅を描いてみせると、最後に取っ手を作って真っ赤な扉が完成した。

 紫薇は何故かその彫りをじっと見入った。記憶の片隅にその彫られた蛾の模様が存在していた様な気がしてならなかったのだ。 

 「この扉の先には『白銀世界』と言って、とても不思議な場所があるのよ。銀色の砂浜にミルク色の海があってね、そこに桟橋が浮かんでいるの。橋の先は霧に包まれていて、目を凝らしても何もわからない。波の音に混じって時おり、小さな鳴き声が聞こえるの。別の世界に行くには…橋を渡らなければいけないわ。でも条件があってね、行きたい世界に辿り着くにはその世界のことを認識していないといけないの。もし何の認識もなしに橋を渡ろうとすれば、どこか知らない世界に引きずり込まれるって言ってたわ」

 「言ってたってことは…誰かに教わったのか?」

 「ええ、私のとても大事な人からね。その人からは色んなことを教わったわ」

 そう口にするクレシェントの表情はどこか安らかで、また無意識に口角が上がっていた。

 「…で?これ見よがしにリビングにこんなもの立てやがって、元に戻せるんだろうな?」

 紫薇は自分でも気付いていなかったが、声が少しだけ早口になっていた。

 「うん、もとには戻せるんだけど、折角だから白銀世界に行ってみない?」

 「正気か?」

 「興味ない?」

 「いや、ない訳じゃないが。ただ…」

 この先に何かを感じる。紫薇にはそれがわかっていた。それが何か、今の紫薇には知る由もなかった。

 クレシェントに促され、ようやっと紫薇は扉を潜ることにした。クレシェントは手の先をドアノブに向け、紫薇は諦めがちにドアノブを握った。細長いドアノブは真っ直ぐで握り易かったが、それだけに奇妙な感覚だった。息を吸って吐いて、溜め息と共に紫薇はドアを開けた。

 光が紫薇の目を一瞬だけ眩ました後、灰色の空を映し出した。その後すぐに甘酸っぱい、切りたての林檎のような匂いが紫薇の鼻孔をつつき、ミルク色の海を映し出した。その景色の真ん中に、紫薇は海に浮かぶ桟橋を見付けた。桟橋は朽ちた木材で建てられていた。足が波に打たれていたが、海藻やふじつぼみたいなものは着いていない。橋の先は真っ白な霧に覆われて地平線すら教えてくれなかった。

 二人は扉を潜って白い海岸に向かった。汚れが落ちた砂鉄のような砂浜を踏み締めると、さくさくと新雪を踏んだような音がしたが靴の沈み具合は深かった。

 「随分と寂しい場所だな…それに、酷く奇妙だ」

 率直な感想がそれだった。

 「私も…初めて目にした時は何て表現したら良いのかわからなかったわ」

 紫薇は他に何かないのかとそれとなしに砂浜を見渡した。右も左も銀色の砂が広がっているだけだった。ふと波打ち際に塩水に濡れた糸の塊のようなものを見付けたが、紫薇にはそれが単に海の藻くずにしか見えなかった。それで紫薇は視線を前に直そうとした。その際にもう一度、その糸の塊が頭の裏を過ぎった。そこから紫薇の意識は急激な動作を始めた。紫薇の視界に早送りされた灰色の雲が猛烈な速さで過ぎっていく。その動きが急に止まったかと思いきや、モノトーンで描かれた女性の腕が紫薇の視界に入った。目のレンズが曇ってその腕が誰の者かわからないまま、紫薇はなすがまま持ち上げらた。そこから再び早送りが始まり、下ろされた紫薇の視界は細い線によって編み込まれ、真っ暗にされるとぱっと白い光景に移り変わり、最後に切りたての林檎のような匂いと共に、滴が落ちる音が鼓膜に囁いた。

 「紫薇!起きて!」

 ばちんと鳴った平手打ちと共に紫薇の意識ははっきりとした。随分と長い時間が経っていたのか、クレシェントの顔はすっかり青ざめてしまっていた。

 「大丈夫?しっかりして!」

 やがてじんわりと頬に痛みが湧き上がると紫薇は顔をしかめた。

 「…頬が痛い」

 「だって思い切り引っ叩いたもの。未だ本気じゃないけど…」

 「これで本気じゃないのか…。全力でやったらどうなる?」

 紫薇は頬を擦りながらいった。

 「紫薇の顔が吹き飛ぶわ」

 「…冗談でも止めてくれ」

 顔が笑っていないクレシェントを見て紫薇は背筋を震わせた。

 「しないわよそんなこと…。それより大丈夫なの?」

 「何がだ?」

 「何がって…意識が飛んでいたのよ?こんなの…普通じゃないわ」

 一番普通ではない人間に心底心配された紫薇は、少し可笑しくなっていた。

 「俺にも…良くわからない。俺も、お前と同じでまともじゃないのかもしれないな。正直、あまり良い気がしない」

 「それって…私を馬鹿にしてる?」

 急にクレシェントはむっとした。

 「ああ、その通りだ」

 「んがっ!?」

 クレシェントのその声に紫薇は逆に驚いた顔をした。

 「あのね、紫薇…貴方に一言だけアドバイスしてあげる。人に向かって悪態吐くのは止めなさい。失礼だし、本当に嫌われるわよ」

 「そうか?別に悪態を吐いたつもりはないんだが。気に触ったか?」

 「とっても。もう何もしてあげないわ」

 すっかりへそを曲げたクレシェントに紫薇はやれやれと溜め息を吐いた。

 「(…面倒くさい奴)」

 「(何て思ってる辺りが余計に腹ただしいわ…)」

 膨れ面をしながらクレシェントはそっぽを向いた。

 「大人のする事か…」

 「どうせ私は大人じゃないわ。紫薇の方がよっぽど大人なんでしょう」

 「面倒臭い奴だな、お前は…」

 「女ってそういうものよ。良いわね、男は気楽で。直情的だし、我侭だし、自分の気に入らない事があったら放って置けば良いの一言で終わらせるし。おまけに紫薇は口が悪いし、デリカシーないし、目付きも悪ければ頭も悪いんじゃない?そりゃ、ここまで良くしてくれたのは有難いけど…それにしても酷過ぎるわよ!」

 いいたいことを全ていってしまいはっとしたクレシェントだったが、当の紫薇は予期せぬ出来事にぽかんと口を開けていた。

 「ご、ご免なさい…ちょっと言い過ぎて…」

 あたふたとする中、クレシェントは初めて紫薇のはっきりとした感情を垣間見た。目を細めて口角を緩ませながら声を出して笑い出したのだ。

 「ふっ…くくっ…ハハハ…はははは…」

 その顔は少年そのものでクレシェントは年相応の顔を見せた紫薇に驚いていた。乾いた笑い声が白銀世界に鳴り響く。

 「…初めてだ」

 「え?」

 「初めて笑ったよ。生まれてこの方、こんなにも笑った事がなかったんだ」

 そのことにクレシェントは驚きながらも自分もそんなことはなかったといった。

 「…不思議なもんだな、お前と居ると今まで感じた事のなかった感情が次々とやって来る。お前に、感謝すべきなんだろうな」

 笑みは消えていた。代わりに以前と少しだけ違った、優しい目付きをした紫薇がクレシェントに顔を向けていた。その顔を見るとクレシェントも嬉しそうに笑みを浮かべ、そんなことないよと言った。

 「しかしあれは何だったのか…」

 気付けば糸の塊は白い波に流されてどこかに行ってしまっていた。

 「何を見たの?無意識の中で」

 「…わからない」

 ぼやけた視界の中で唯一わかったのは、持ち上げてくれた女性の顔が笑っていた。そんな気がしてならなかった。

 よほど気分の悪そうな顔をしていたのかクレシェントは心配そうな顔をした。

 「気晴らしに海でも眺める?」

 「お前と二人っきりっていうのもな」

 そういうとクレシェントはきいきい叫びながら怒った。紫薇はその声を背中に浴びながら銀色の砂浜に腰を下ろして白い海を見詰めた。クレシェントは不満そうな顔をしながらも紫薇の隣に座った。

 「まるでモノクロ映画の中に入った気分だ」

 「…何それ?」

 「古いキネマだ。白と黒で描写された箱庭みたいなもんだ」

 「単色だけで?素敵ね」

 その映像を想像してみるとクレシェントは柔らかい顔になった。

 「別の色があった方が良いと思うが」

 「赤も良いけど私はやっぱり黒が好きかな。だって二つの色で何かを表現するんでしょ?それってとても繊細なことよ」

 紫薇はそうかいと言って返した。

 それから二人の会話が止まって十分ほど海を見続けていると紫薇はそろそろその景色に飽きて来てしまった。紫薇は徐に立ち上がると尻に着いた砂を手で払い、そろそろ戻るぞといった。

 「そうね」

 そうしてクレシェントが紫薇に習って腰を上げるとどこからか小さな音がからからと鳴り始めた。止まった自転車の車輪を回した様な音だった。

 「…何の音だ?」

 「わからないわ。でもあの霧の向こうから…」

 クレシェントの視線の先には霧に包まれた桟橋が続いていた。未だに霧はちっとも晴れず、一寸先まで白い闇が広がっている。そこから霧を退けて静かに車椅子が独りでに歩いてやってきた。

 「このにおい…まさか…」

 視覚よりも先にクレシェントは嗅覚で何かに気付いた。それは車椅子にひっそり座った一人の少女の姿だった。小学生くらいの年頃で、小豆色の短髪が似合う可愛らしい顔立ちだったが、少女に似合わない大きな刃創が右目から頬にかけて刻まれていた。服装は黄色い細身のスモック・ブラウスを着て、紺色のミモレスカートを履いていた。裸足でフラットシューズを履いていた。

 「…プランジェ!?」

 予想だにしなかった珍客にクレシェントはその少女が乗った車椅子が砂を踏むまで口を開けたまま固まっていた。車椅子が桟橋を渡り、砂浜に着いてからやっと止まるとクレシェントはやっとわれに返って車椅子に向かって駆け出した。

 「…プランジェ?しっかりして!」

 しきりに肩を揺すってもその少女はかたく瞼を閉じたままだった。

 「顔でも吹っ飛ばしてやったらどうだ?」

 冗談ではないとクレシェントはむっとしながら紫薇を睨んだが確かにそうするしかないと右手をぴんと伸ばし、軽めにぱちんとその少女の頬を引っ叩いた。

 「…痛っ!」

 少女が顔をしかめるとクレシェントは心底安心した顔をして喜んだ。

 「良かった…」

 「私は…」

 正気に戻った少女は顔を歪めながら瞼を開けて薄いブルーの瞳を見せると車椅子を蹴飛ばしてクレシェントに抱き付いた。

 「やっと…やっとお会いする事が出来ました。ずっと貴女を探していたのです」

 「私を?どうして…」

 「当たり前ではありませんか。私は貴女の従者です。あんな事を言われても、納得など出来ません。だから城を飛び出して貴女を…ご迷惑でしたか?」

 「迷惑だなんて…そんな事ないわ。また会えて嬉しい」

 しかしクレシェントの顔はどこかぎこちない笑顔だった。自分でも気が付いているのだろう。咄嗟に話題をずらした。

 「紫薇、紹介するわ。この子はプランジェ、私の『従者キュベルテス』なのよ」

 「従者…。女中みないなものか?だからお前みたいな怠け者が生まれるんだな」

 自分も家政婦を雇っている事は棚に上げて紫薇は偉そうにいった。その次の瞬間、紫薇の喉元には五十ミリほどの鋭い切っ先が光るナイフが突き付けられていた。素早い動きで一瞬にしてクレシェントの手元から移動すると、いつの間にか手に短刀を持って紫薇の目の前に移動していた。

 「貴様…私の前でよくもそんな暴言を…」

 きっと睨みながら短刀を押し付ける。皮膚は凹み、後少しでも力を入れれば血が出そうなほど紫薇の喉はうっ血していた。その時に紫薇は少女が持っていたナイフがやけに古びたものだと気付いた。持ち手は所々が剥げ、規律を思わせる暗い緑色が台無しだった。

 「躾がなっていない所がお前にそっくりだ。その生意気な目付きもな」

 「躾よりもその下品な舌をどうにかしたらどうだ?それとその貧相な体もな」

 見下す目と見上げる目はどちらも一歩も譲らなかった。強情さは拮抗して、それが余計に二人の否定し合う感情に拍車をかけていた。

 「二人とも止めて。プランジェ、いい加減にしなさい。紫薇も挑発をする様な事を言わないで。本当にもう、子供なんだから…」

 兄妹喧嘩を止めに来た母親の様に二人を嗜めた。プランジェは恨めしそうに紫薇に面を切ると、短刀をどこかに仕舞った。紫薇も鼻で息を吐いてそっぽを向いた。その二人の姿を見てこうなる事は予測できたかの様に溜め息を吐いた。

 「それよりプランジェ、どうやってここに来れたの?」

 「それが…良く覚えていないのです。最後に妙な老人と出会ったきり、そこから記憶が曖昧で…」

 プランジェにも何が起こったのかわからなかったのかばつが悪そうに俯いた。

 「しかしながらこうして再開できたのは不幸中の幸いと呼べるでしょう。原因はわからないにしろ、それだけは事実なのですから」

 「そうね…」

 クレシェントの返事はどこか空返事だった。

 「感動の再開を邪魔して悪いんだが、これからどうするつもりだ?」

 「…それなんだけど、お願いしても良いからしら?その…プランジェも」

 「当の本人が納得するかね…それより俺はこいつを招こうとも思わないんだが」

 「そこをお願いしてるのよ。彼女も厄介になって構わない?」

 「まさかクレシェント様、この男の厄介になろうと?いけません、こんな奴の厄介になるのなら城に戻って息を潜めていた方が安全です!」

 「ジブラルにも同じ手が通用すればそうするのだけれど…それにこの世界にいれば追手は少なくて済むのよ。紫薇には…迷惑をかけてしまうけれど…」

 「食費も上がったりだしな」

 「ご免なさい…」苦笑いしながらいった。

 「クレシェント様が頭を下げる必要はありません!この男の厄介にならなくてもどこか…どこかで暮らしましょう」

 「どうやってだ?食い物はどうする?何より金は?まさかナーガの通貨がここで使えるなんて思うなよ。パン一枚を買うのにどれほど苦労するかわかっていて口にしているんだろうな?」

 「そ、それは…」

 舌比べはどうやら紫薇の方が一枚上手だった様でプランジェは言葉に詰まってしまった。追い討ちをかける様に紫薇は彼女を見下した。

 「それは?教えてくれないか?俺も参考にしたい」

 「そこまで。紫薇、もう許してあげて。悪気がある訳じゃないのよ」

 助け舟を出されるとプランジェは涙ぐんだ。

 「そりゃそうだ。悪気があったら尻を蹴飛ばしてる」

 その言葉にプランジェは恐怖を感じた。

 「…わかったよ、寝室もまだ空いてるし、子供の一人や二人じゃ食費も変わらないさ。但し、贅沢は敵だからな。唯でさえ誰かさんのお陰でエンゲル係数は上がりっぱなしだし、いっそ空から金でも落ちて来ないかと思うよ」

 「そこはほら、代わりに美女二人が、ね?」

 「マネキン女にませた餓鬼、大損だよ」

 紫薇は聞こえない様に小さな声でいった。

 「ちょっと!?今なんて言ったの!?」

 血相を変えるクレシェントに何でもないと紫薇は言いながら壁に背を向けて白銀世界から離れていった。その二人の光景を見てプランジェは疎外感を覚えると、くすんと鼻を啜って後を追いかけた。



 「そうか、お前が撤退を余儀なくされるなど珍しい事もあるのだな」

 「申し訳ございません、主」

 頭を下げるランドリアの目の前には栽培された庭園が広がっていた。一人の男がランドリアに背中を向けて、バラの様な品種の木々に銀のじょうろうで水を与えている。指には銀色の指輪を幾つも着けていた。声は柔和でやっと年季がかかってきた質だった。四十路を過ぎた頃と言った所だった。

 「良い出来だ。お前も始めてみないか?」

 真っ黒な色をした花を手で摘みながらいった。顔はまだ見えない。

 「遠慮して置きます。それよりもあの女…いや、男は何者ですか?」

 顔を向けたその先には真っ赤な唇と瞳が特徴的な女性が庭園を好き勝手に歩いていた。暗いねずみ色のインバネスコートに袖を通しているせいで男なのか女なのかもわからない。ランドリアの視線に気が付くと笑った顔を見せた。

 「あの男の知り合いらしい。何、そう構える相手ではないよ。気軽に話しかけてみると良い。素敵なご婦人だと思ってね」

 「それも遠慮します。主、これからどうなさるおつもりですか?ご命令を」

 「そうだな、お前は少しの間ゆっくりしていてくれ。確か完成途中の絵があっただろう?早いところ出来上がりが見たくてね、それに勤しんでくれないか?」

 「…主の命とあらば」

 どこかランドリアは腑に落ちないといった返事をした。

 「勘繰りはしないでくれよ?少し手を変えてみようと思ってね。私ではあの世界に何度やっても辿り着けないし、お前に渡した『ソフィの合い鍵』も残り少ない。確実な方法を取らなくてはね。その為に今回はライプスに頼んだんだ」

 「主、仮にライプスが失敗した場合、もう一度だけ私に機会を下さい」

 「構わないよ。何か面白いものでも見付けたのか?あの世界で」

 ランドリアは未だにあの時の光景が胸の中に渦巻いていた。牙もない、鬣もない、ただの矮小な子供にランドリアは一瞬でもその歩みを止められた。紫薇のあの時の目の色が頭から焼き付いて離れなかった。自然と手を握り締める。

 「怖い顔だな、もっと笑顔を大切にしなさい」

 「主、その事よりももっと重大な報告があります。あの世界で、ウェルディ・グルスの気配を感じました」

 その言葉を耳にすると男の手はぴたりと止まった。

 「…それは確かなのか?ランドリア」

 「はい、微かながら奏力も感じ取りました」

 「そうか、これもあの男のいう運命なのかもしれないな…本当に…度し難い!」

 その男が最後の言葉を言い終わると辺りの草花は精気を吸われたかの様に見る見る内に枯れ果て、十ヤードはあった庭園は全て灰になってしまっていた。

 「これが運命だと言うのなら、私のこの手で捻じ伏せてくれる…」

 その男の左頬にはクレシェントと同じ様な宝石が埋め込まれていた。紫紺色の宝石。勾玉の様な形をした周りにはやはり刺青の様な黒い痣が描かれていた。そしてその目は、鮮血の様に鮮やかな赤い色をしていた。



 紫薇が庭先に戻って来た頃には空は夕焼けに染まっていた。芝生はオレンジ色に成り代わり、久し振りの太陽はやけに眩しかった。続いてクレシェント、プランジェが扉から出てくると、その扉は役目を終わらせた様に朽ちて消えていった。

 「ここが…ナーガとは違った世界…」

 プランジェは辺りを見回したり空を見上げたりして仕切りに周りを調べた。芝生を千切ってその質感を確かめたり、ぺたぺたと樹木に触ったりもしている。彼女にとって興味と発見の連続だった。

 「腹が空いたな、カップ麺でも食べるか」

 まだ昼食を食べていない事を思い出すと自然と腹の音が鳴った。

 「あ、私も」

 一人昼食を食べていても腹の音は鳴った。

 「カップ麺?」

 言葉の意味を知らなくても腹の音は鳴った。

 三人は庭から玄関に回り、紫薇がドアの鍵穴に鍵を差し込むと妙な違和感があった。既に鍵が開けられていたのだ。紫薇は閉め忘れたかなと思いながらドアノブを空け、中に入るとそこには見知らぬ靴が置いてあった。白いヒールが丁寧に並んでいる。いよいよもって怪しいと思った紫薇は二人に注意を促して、ゆっくりと家の中に進んでいった。

 気配はリビングからしている。廊下からリビングに繋がる扉は開いていて、独り言だろうか若い女性の声が紫薇の耳に入った。緊張の面持ちで半開きになっていた扉を開けた。するとそこには見た事のない若い、二十代中ごろの女性がごみだらけになったリビングの真ん中に立っていた。

 「…誰だ?」

 「あ、もしかして絵導紫薇さん?」

 その女性は煉瓦色の長い髪の毛を靡かせて紫薇の方に顔を向けた。とても綺麗な女性だと紫薇は直感的に思った。

 「…あなたは?」

 あなたという言葉にクレシェントは耳を疑った。思わず紫薇の顔を見る。

 「あれ?連絡、聞いてないですか?私は羽月綾はづき あや、今日から働かせて頂ける事になった新任の家政婦です」

 そういって飛び切りの笑顔を三人に見せた。

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