3話 ありがとうと口ずさんで

 「ランドリア・プラファンドール…どうやってここに…」

 白い扉を前にランドリアと呼ばれた男は歩道に降り立つと、視線だけを左右に向けて辺りを確認した。小さなとび色の光が暗闇を泳ぐ。その様子からランドリアがこの世界に初めて来たことをクレシェントは確信した。

 「ここはあの世界ではないか…」

 街灯の明かりを一瞥した後、ランドリアの双眸がクレシェントを捉えた。その瞬間、クレシェントのうなじの辺りが痺れた。向けられた闘志と、その威圧感がクレシェントを否が応でも戦慄させる。クレシェントは思わず体を引いてしまっていた。

 「よもや内界の障壁を越えて逃げ出すとはな…。『レミアの鍵』が開くのは、認識した場所に過ぎない。無理にこじ開ければ虚無に繋がるとも言い切れん。愚者が過ぎるぞ、クレシェント・テテノワール」

 ランドリアの言葉の隅から隅までクレシェントを気遣う気配はなかった。ただ淡々とクレシェントの行動を叱咤するように、侮辱するようにいい放った。

 「それが自傷であっても、あなた達から逃げられればそれで良かった。でもまさか、こんな所まで追いかけて来るなんて…。あの男は…まだ諦めないの?」

 クレシェントの目は喋っている途中で鋭く、悲痛な叫びを上げるように鈍く光った。そして腹の底から湧き上がる怒りを必死に抑えるように奥歯を噛んだ。

 「私が貴様の目の前に降り立ったのがその回答だ。どこに逃げようとも、決して貴様が休まる場所はない。仮に世界を飛び越えたとしても、主の命がある限り…私は貴様を追い詰めることを止めん。それは身に沁みてわかっているだろう?」

 ランドリアが右手を開くと、手のひらから黒い煙が立ち昇った。煙は上と下に伸びていき、上に伸びた煙はランドリアの頭上を越えた。下の煙はランドリアの足元まで伸びると、それから横に広がって三日月状に形取っていった。

 それは煙で形を作った黒い鎌だった。ランドリアのクレシェントに対する闘志

と優越感が単奏詩レジーとして具現化された。その鋭い切っ先は強い闘争心の表れだった。ランドリアの身長を越えた巨大な鎌だった。

 「主の命により、貴様を連行する。四肢を切り裂いてでもな」

 巨大な鎌を持ち上げると、遅れて煙が尾を引いた。黒い煙はランドリアの周りを渦巻いて、その姿はさながら鎌を携えた死神のようだった。

 「出来ればここで戦いたくはなかったわ…。ここは…とても気に入っていたから…」

 クレシェントは浴びせられたランドリアの闘志に反応する直前、物寂しそうに呟いた。だがすぐにその目に闘志を浮かべ、同じように自らの激情を具現化し始めた。手のひらからは赤い液体が浮かび上がり、左右に拉げると細く伸びていった。

 それは血で形を作った赤い剣だった。剣と呼ぶには途中でひしゃげて不格好だったが、細く伸びた刀身からはクレシェントの闘気が反映されていた。

 「悪いけど…殺すつもりで行くわよ…」

 赤い剣を握り締めると、クレシェントの瞳が殺気を乗せて輝いた。

 「貴様にそれが出来るのならな…」

 二人の視線がお互いを獲物として認識する。そして二人の踵が歩道を離れると、一瞬でお互いの距離が数十センチまで縮まった。その僅かな隙間に火花が何度も散り、暗闇に染まった二人の顔を照らして点滅させる。実際には火花ではなく、単奏詩レジーに乗せた二人の概念が拒否反応を起こし、反発し合っていた。金属音の代わりに小さな金切り声が火花と共に鳴り響く。

 ほんの数秒の剣戟の後、ランドリアの体が大きく後ずさった。有りっ丈の力がこもったクレシェントの大振りによって鎌を弾かれ、足の裏を削りながらランドリアが後退していく。腕力に限ってはクレシェントに分配があった。

 すかさずクレシェントは地面を跳ねてランドリアの後を追った。一瞬で間合いを詰めると、クレシェントは軸足と右手を後ろに引いて剣を引っ込めた。そして二の腕を引き締め、溜めた腕力を乗せて右腕を突き出す。腕の先からは赤い剣が伸びて、ランドリアの顔面を狙った。

 剣の切っ先がランドリアの眉間を貫くその直前、とび色の瞳が横にぶれた。ランドリアは体を真横に向け、剣先は宙を切った。クレシェントの初手は外れてしまったが、同じ動作を二度、三度と反芻して突きを繰り出す。その度にランドリアは上半身を揺らして、剣鋒から身を躱していった。

 五回目の突きを回避すると、ランドリアは軸足を引いて上半身をねじりながら鎌を引いた。そして両手で鎌の持ち手を握り、腰を捻りながら鎌を振る。鎌の刃が半月を描きながらクレシェントに迫った。

 内側の鎌の刃がクレシェントの腕に触れる直前、クレシェントは両足の膝を曲げて歩道から跳び上がった。歩道はクレシェントの強い力でくぼみ、めくれ上がっている。満月を背後にクレシェントの姿が浮かぶ。跳躍した高さは歩道に植えられていた木々を遥かに超えていた。

 クレシェントの爪が赤く染まる。張り詰めた緊張感を指先に乗せ、クレシェントが腕をしならせると、細い帯が爪から伸びていった。鞭のように弾む真っ赤な帯は街灯を裂き、歩道を破裂させながらランドリアに襲いかかった。

 クレシェントの赤い帯が大きく弧を描いて獲物を囲い込む。その直後だった、突如としてランドリアの周りを黒い煙が包み込み、赤い帯から身を隠すようにランドリアの姿が埋まっていった。そして、処女の庭園からランドリアの心象世界を形作っている塊が溢れ出し、外界に具現化される。


 『アーガスト・デルシュオーソ(花形の忘れ草よ)』

 劇場の舞台裏、主役が消し忘れた煙草の煙が浮いていた。


 ランドリアの周りを覆っていた黒い煙が一斉に膨張し、赤い帯を押し退けた。空中までの障害物を退けると、ランドリアはクレシェントに向けて腕を伸ばす。すると黒い煙は尾を引きながら宙に向かって伸びていった。

 「っ!」

 宙に跳ねていたせいでクレシェントは身動きが取れず、迫り来る黒い煙から身を躱すことが出来なかった。代わりにクレシェントが手のひらを前に突き出すと、割れたステンドグラスのような薄い板が現れた。赤、白と黒、灰色の大小さまざまなガラス片が集約し、黒い煙からの進行を阻止していった。

 しかし放たれた黒い煙すべてを抑え込むことは出来ず、ガラス片から漏れる光を次第に遮り、あふれ出した黒い煙はクレシェントの体にまとわりついていった。やがて黒い煙が体の殆どを埋めると、まるで手足を掴まれたかのようにクレシェントは身動きが取れなくなった。と同時に黒い煙はクレシェントの体を強く押し出し、更に空高く持ち上げていった。さながら夜空の星がすぐ傍にあるかのような高さに到達すると、それから地面に向けて真っ逆さまにクレシェントを押し出していった。全身を煙に捕縛されているクレシェントは脱出することが出来ず、もがくことすら許されなかった。

 クレシェントの視界がぶれた後、地面に激突するまでほんの僅かな間しかかからなかった。轟音と、衝撃によって粉塵をまき散らしたその光景は、打ち付けられた威力を物語っていた。土煙に塗れてクレシェントの姿は隠れてしまっているが、相当な深手を負っていることは間違いなかった。

 「『アイロニーの盾』を繰り出して直撃は免れたようだが、それなりの痛手は負っただろう。大人しくしていれば良いものを」

 途中、ランドリアは言葉を詰まらせた。土煙の中から強い力が溢れ出し、その気配を感じ取ったからだ。粉塵が晴れる直前、クレシェントは体中に回る激しい痛みに耐えながら、心の深い階層から自身の精神を掬い上げた。


 『リオール・ジェネフィリア・エード(手形は哀傷を置いて)』

 棘のある蔦をねじり切って、俯きがちな気分を変えたのは傷だらけの二本の腕。


 血のような赤い液体で作られた人間の手のひらが黒い煙を押し退ける。黒い煙の中からは全身に擦り傷を負ったクレシェントの姿が現れた。そうして出来た隙間から赤い手が伸びていく。その数はクレシェントの指の数より多かった。

 「ちっ…!」

 ランドリアは慌てて黒い煙を迫り来る赤い手に放った。

 二人の概念が自己主張を繰り返し、拮抗する。物質世界に具現化された影響で、反発し合う圧力が風を起こしてクレシェントとランドリアの髪の毛を巻き上げた。同時に傍にあった街灯のガラスを吹き飛ばし、一瞬だけ暗闇が辺りを染める。暗がりの中、赤い光が砕けた地面とクレシェントの頬をてらてらと照らした。だがその光はクレシェントの顔に浮かぶ陰りを曝け出してもいた。

 本来、二奏歌シフォーよりも三奏歌ベルテナーの方が処女の庭園から引っ張り出す概念の量が多く、その分、主張が激しい。にも関わらず、ランドリアが具現化した二奏歌シフォーの主張はより激しく、より具体的に形となって現れていた。負けじとクレシェントは集中を重ね、自らの概念を強く抽出する。

 矢庭に二人の主張が終わりを告げた。それはお互いが主張を諦めたのではなく、具現化に設けられた時間の制限だからだった。二奏歌シフォーにも三奏歌ベルテナーにも、具現化を維持する時間は限られている。それは響詩者デゴーチェとしての力量によるもので、二人が具現化を続けられる時間が同時に切れた証明だった。二人の概念が残り火を散らしながら消えていく。惜しむように、その光景は最後まで形を保ったまま消滅した。

 「!?」

 一瞬、クレシェントの視界を黒い煙のかけらが遮ったときだった。具現化に疲労するクレシェントを他所に、ランドリアは既に次の一手に取り掛かっていた。手のひらを向けるランドリアの姿が、焦燥の色を浮かべるクレシェントの瞳に映し出された。

 小さな棘が真っ黒な色を引いて、ランドリアの手のひらから射出される。それは小さな刃先のようにも見えた。咄嗟にクレシェントはその場から逃げようとしたが、ランドリアの単奏歌レジーは空を切っていて、クレシェントの左胸、右上腕、脇腹、太ももを突き刺した。

 「…あぐっ!」

 クレシェントは短いうめき声を上げたが、ただ無様に傷を受けるだけでは収まらなかった。握り締めていた剣に怒りの感情を込めると、剣の先端から刀身が裂け始めていった。刃が枝分かれすると、ぐるりと小さな弧を描いて一つにまとまり、棒状に姿を変えた。全身に棘が刺さっているも、クレシェントはその棒を握り締め、肩を引いて投擲する態勢を取り始める。

 「鈍いな…」

 ランドリアが指先を丸めて拳を作ってみせると、突き刺さっていた黒い棘はぶるりと震えてその形を尖らせた。

 「がっ…!」

 クレシェントの体に刺さっていた棘はめり込んでいた肉を貫きながら伸びていった。体の前後から血が小さく吹き出し、貫いた肉の隙間からとろりと血液が流れだした。痛みに屈服したクレシェントは思わず膝を着き、握っていた棒を手放した。

 「挙動に以前ほどの俊敏性がない。ジブラル・リーン・マコットにしてやられたようだな。貴様が万全であれば、今の投擲もより迅速な運びとなろう」

 ランドリアが話す中、体中に突き刺さっていた棘は消滅していったが、クレシェントはその場から身動きが取れなかった。痛みが眉間にしわを寄せ、クレシェントはただ睨み付けることしか出来なかった。

 「せめて公平な戦いを望んでいたが、これでは興もさめざめだ。それとも貴様の従者キュベルテスを呼んでみるか?二人で襲いかかればまともな闘争に成り得るやもしれん。貴様とて…本来はそれを渇仰しているのだろう?その忌み名の通り」

 ランドリアの下目はクレシェントの奥底に閉じ込めて置いた忌まわしい記憶を揺さぶった。途端、クレシェントの指先が震えた。

 「その名を…呼ばないで…」

 思わずクレシェントは目を瞑った。しかし脳裏に過ぎった自分の影絵は拭えない。どれだけ目頭を瞑っても、過去の映像が止まらなかった。

 「違う…私は…!そんなこと望んでない!」

 三日月を裂いたような笑みを浮かべる自分がいた。銀色の髪はべっとりと血に濡れて、ぼけた色を放っていた。

 「『壊乱の魔姫』、それが貴様の本性だ」

 ランドリアの口から忌み名が放たれると、クレシェントは観念したように静かに目を開いた。

 「原罪人の称号を揶揄された、恐るべき存在…。外界に逃げてもその名を払拭することは出来ん。それ所か過去の過ちから逃げようとする輩に罪の意識などないのだろうな…」

 次第にクレシェントの視線が崩れていった。クレシェントには何も反論することは出来なかった。否定したいのに、そうではないと言葉を口にすることも許されない。

 「ならば主のもとに戻れ」

 その感情を読み取ったランドリアは静かにいった。

 「貴様に少しでも贖罪の念があるのなら、主のもとに戻ることが貴様に許された唯一の手段だ。その身を捧げ、主の本懐に心血を注ぐ他はない。例えそれが、貴様の身が滅ぶことになろうともな。だが本来、贖罪とはそういうものだ」

 その瞬間、クレシェントの口が半分だけ開いた。否応にもランドリアの言葉が胸に突き刺さる。クレシェントには今の言葉を否定するだけの理由を取り繕うことが出来なかった。

 半開きになった口が閉じる。それはクレシェントの意識が殆ど従わせられた表れでもあった。否定する言葉を放つ為の口は、もう開けそうにもなかった。

 「(やっぱり私には…どうすることも出来ないのね…)」

 クレシェントが視線の下がった顔を上げると、ランドリアの顔を見れた。しかしその視線は自分ではなく、明後日の方角に向いている。それもただ眺めているのではなかった。何かを威嚇するような目力になっている。

 はっとしてクレシェントはその方角に顔を向けた。そこには今の状況に相応しくない紫薇の姿があった。紫薇が怯えているのはすぐにわかった。悟られない様に目付きは鋭くさせているが、握った拳は小刻みに震えている。

 「紫薇!来ては駄目よ…!」

 叫び声を上げても紫薇は動こうとはしなかった。ただひたすら口を噤むばかりで反論することもその場から逃げようとすることもしなかった。

 「失せろ、小僧。貴様では役不足だ」

 ランドリアの言葉を聞いて紫薇はたじろぐ姿を見せたが、震えた手で人差し指を向けた。

 「後ろ…誰かがいる…」

 紫薇がそういうと、ランドリアは咄嗟に背後に目を向けた。それには理由があった。クレシェントには従者キュベルテスという主従関係を結んだ娘がいた。従者キュベルテスは単なる契約ではなく、主の力の一部を共有されている為、並の響詩者よりも驚異的だった。

 ランドリアの視線が闇を洞察する。だが遠くに壊れていない街灯の光があるだけで、人気を感じることは出来なかった。

 その直後、ランドリアは後頭部に向けて違和感を覚えた。顔を向けるよりも先に視線をその違和感に向け、握っていた鎌を振り払った。鈍い音と共に手のひらにすっぽりと収まるくらいの石ころが地面に落ちた。

 「外れた…」

 紫薇の舌打ちが鳴った。

 「貴様、癪な真似を…!」

 「騙される方が…悪いンだよ…」

 震えた声で紫薇は悪態を吐いた。

 その反面、ランドリアの表情は見る見るうちに険しくなり、歯軋りの音が口元から漏れ出した。曲がりなりにも公平な勝負を望んでいたランドリアにとって、不意打ちと言う紫薇の一手はランドリアの矜持を踏みにじるには十分すぎた。

 「いけない…」

 ランドリアの怒りを感じ取ると、クレシェントは我に返ったように力を取り戻した。贖罪のことなどかなぐり捨て、今は紫薇を守らなければならない。そんな気持ちがクレシェントの意識を取り戻させ、満身創痍の体を引き上げた。

 もう一度、地面に落とした棒を拾い上げ、クレシェントは出血など構わずにかかとを蹴った。血潮が風に払われて地面に模様を描く。既にランドリアは紫薇に向けて走り出していて、腕を振り上げた所だった。

 紫薇の視界に一筋の光が走った。それがランドリアの振り降ろした鎌の刃だったと紫薇が気付ける筈もなかった。だがその刃が紫薇の体に触れる直前、クレシェントが身を呈して自分を庇ったことだけは後になって気付いた。

 「貴様、その傷でまだ動くか…」

 刀身を突き出して鎌の刃を受け止めているクレシェントの姿を見て、ランドリアは動揺を隠せずにいた。全身から血を流しながらも、一度は精神を追い詰めた筈のクレシェントが反抗する力は一向に弱まらなかった。苦痛の表情を浮かべながらも徐々に鎌の刃を押し返していく。

 「ちっ…!」

 腕力ではクレシェントに敵わないことを知っているランドリアは、即座に次の手に出た。片手を鎌の持ち手から放す直前、ランドリアは全身の筋肉を緊張させて体を固めた。そうしてクレシェントの押し返す力に対抗している間に手のひらを前に出すと、再び黒い煙がランドリアの手のひらから噴出した。

 黒い煙はクレシェントの半身を包み込み、その場から引きはがすと後ろに棒立ちしていた紫薇もろとも突き飛ばしていった。途中、クレシェントと紫薇の体がぶつかったが、二人分の人間の重さであってものけぞらせてみせた。クレシェントと紫薇の体が地面に二度、三度と叩き付けられ、全身を地面に擦りつけられた。

 「うっ…くっ…」

 紫薇は嗚咽を漏らすと、震えながら体を起こした。全身に鈍い痛みが走っている。特にこめかみが酷く痛み、とろりと生暖かい血が頭から頬を伝った。視界の奥からは鎌を引きずりながら近づいて来るランドリアの姿があって、その途中には片膝を着きながらも必死に体を持ち上げて戦おうとするクレシェントの背中が見えた。

 ぼろぼろになったクレシェントの背中を見て、紫薇はふと傷だらけだった権兵衛の姿を思い出した。お腹に仕舞った権兵衛の温もりがじわりと胸を打つ。傷だらけで怯え切っていた権兵衛の姿が、クレシェントの姿と重なって見えた。

 「また…同じことを繰り返してたまるかよ…」

 気付けば紫薇は前に向けて歩き出していた。その度に胸の奥が熱くなる。まるで権兵衛の熱を吸い上げるように紫薇の体はかんかんと火照っていった。

 「何…して…」

 紫薇の手がクレシェントの肩を掴み、体を押し退けた。紫薇の背中がクレシェントの眼前にそびえる。

 「紫薇!駄目、逃げて!」

 クレシェントが叫び声を上げても、紫薇は動こうとはしなかった。ただひたすら口を噤むばかりで反論することも、その場から逃げようとすることもしなかった。

 「邪魔だ」

 紫薇の目の前に辿り着いたランドリアは見下しながらいった。傍に寄ってみると二人の対格差は歴然としていた。戦闘に特化された肉体と、本を捲る事しか知らない人間の体。勝敗は言わずもながだった。

 「戦う素振りすら見せず、ただ私の前に立ち塞がるか…。蛮勇であれば、まだ敬意を払ってやったものを…。貴様のそれは、惨憺に過ぎん。退け、小僧!路傍の石にくれてやる手間はない!」

 重油のような威圧感がランドリアの前身から、とび色の瞳から発せられる。直接その光景を見れないクレシェントでも背筋が凍り付いた。とても戦うことを知らない人間が耐えられるような気迫ではなかった。

 にも関わらず、紫薇はその場から動こうとしなかった。恐怖して動けないのではなかった。ただ一心に紫薇はランドリアから視線を外さず、じっと焦点を当てている。微弱に震える息を鼻から漏らしながらも決して逃げ出さなかった。

 「(何だ…こいつは…)」

 その異様な光景にランドリアは固唾をのんだ。力もない、勇気もない。それでも視線を背けない紫薇をランドリアは理解することが出来なかった。その紫薇の姿にランドリアは過去に置いてきたかつての自分の姿を重ねた。そして次第にランドリアは否定しがたい感情が生まれ始め、苛立ちを覚えてしまっていた。

 「その目を止めろ…」

 紫薇の双眸は憂うことなくランドリアを捉え続けた。その様はランドリアにとって耐えがたい光景だった。幼い自分になかった強い意志がそこにはある。

 「貴様は…なぜ…!」

 意識に反してランドリアの牙が紫薇に向けられる。それはランドリアが自己の嫌悪感を認め、拒絶の表れでもあった。両腕に沿って鎌の刃が紫薇を襲う。

 「止めて…!」

 そのときだった。振りかざされた刃が紫薇に触れる直前、ランドリアの肩を青白い人間の手が張り付いた。

 「…ちっ、時間切れか!」

 いつの間にかランドリアの体中を無数の手が掴まえて、これ以上この場にいさせまいと全身を引っ張っている。青白い手はもやがかかったように透明感を帯びていた。

 「何…あれ…」

 呆然とするクレシェントの目先にいつの間にか白いドアが現れていた。ランドリアが今の世界に現れたときに通ってきたあのドアだった。ただ違うのは、ドアに張り付いた女の顔が憤怒に染まり、まるでランドリアを目の敵にしたように睨み付けている。ドアは開かれていたが、中は真っ暗で何も見えない。その闇から青白い手が伸びていた。

 「ぐっ…」

 必死に抵抗するランドリアだったが、青白い手はそんな反抗を許さなかった。足で地面を削りながら、ランドリアは白いドアに引きずられていく。尚も青白い手はその数を増やし、ランドリアの体が殆ど見えなくなっていた。

 「貴様は…気に入らん…!」

 ランドリアの体が白いドアに吸い込まれる前、あれだけ追い詰めていたクレシェントを他所に、その目線は紫薇だけに向けられていた。恨み積もった瞳の色だったが、どこか紫薇に対して羨望の光があった。その光は白いドアが閉められるまで続いていた。

 ドアが閉められる重音が辺りに響いた。その途端、緊張の糸が解けて紫薇はその場に尻もちを着いてしまった。そうしてとび色の目から解放されたことを自覚すると、紫薇は落ち着いて両目を閉じた。

 「紫薇…どうして隠れていなかったの?殺される所だったのよ」

 まだ緊張が取れないのか、クレシェントの声は震えていた。そういわれて紫薇は戒められるようなクレシェントの物言いにむっとしてしていた。

 「お前はよっぽど人に恨まれるタチなのか?化け物みたいな腕した女に襲われて、今度は侍もどきが襲ってきた。ナーガで何をやらかしたんだ?お前は」

 お腹に仕舞っていた権兵衛を撫でながら、紫薇はクレシェントを一瞥した。するとクレシェントは息を止めて顔を固め、ばつが悪そうに俯いた。何も言いたくないと言わんばかりに口をきゅっと噤める。

 「居候の身だ、だんまりも程ほどにしろよ」

 紫薇は小さく舌打ちをした。

 そういうとクレシェントは黙って頷いてみせたが、何も教えようとはしなかった。

 「頑固者もここまで来ると立派なモンだな」

 思わず紫薇は口許を緩ませた。

 「もう良いよ、話す気がないなら聞くだけ無駄だ。これだけくれてやるから、とっととどこかに行っちまえ」

 そういって紫薇は小さな紙袋をクレシェントに放り投げた。

 「え…これ…」

 袋の中に入っていたのは小さな木箱だった。クレシェントが箱を開いてみると、自分の意識を奪ってしまった曲が再び流れ始めた。

 「高かったんでしょう?どうして…」

 クレシェントは喜びよりも、高価なものを買わせてしまったことへの申し訳なさと、どうしてそんな物を自分にくれるのか不思議に思った。

 「別に…」

 そういうと紫薇はばつが悪そうな顔をして顔を背けた。

 「ただ、ときどきお前が…陰気くさい顔をするから、それがあれば少しは気が紛れると思って…目障りなんだよ、その面が。どうにかしろよ」

 不機嫌そうにそういい放つ紫薇の姿を見て、クレシェントはやっと意味を理解すると、くつくつと笑い始めた。なんて不器用な子なんだろうと、クレシェントは可笑しくなってしまっていた。

 「何を笑ってる…」

 「ううん…」

 クレシェントは両手で口元を隠したが、しばらく笑っていた。やっと笑いが収まると、今度は嬉しくてクレシェントは紫薇に目いっぱいはにかんで見せた。

 「ありがとう、本当に嬉しい」

 「良いから早くどっかに行け」

 紫薇がつんとしてそっぽを向くと、クレシェントは背中を丸めて紫薇の前に座った。

 「紫薇、私がどうして狙われているのか…それを話すには少し時間を頂戴。でも必ずあなたに話すから」

 紫薇の目をしっかりと見てクレシェントがそういうと、紫薇は一瞥して静かに何度か頷いた。

 「やっと穀潰しがいなくなると思ったンだがな…」

 言葉の途中、紫薇はクレシェントの服が血で汚れていたのを思い出した。

 「お前、傷はどうした?さっきまで血だらけだった筈じゃ…」

 「血は止まったわ…。あとは、少し休めば勝手に治るのよ。これも私の秘密の一つなの。とは言っても無理は出来ないけどね」

 クレシェントは困ったようにはにかんだ。紫薇はその笑みを見て、何故かたまらなく寂しい気持ちになった。

 「なら帰るぞ…誰かに見付かったら大ごとだ、特にその血だらけの姿はな」

 「…うん」

 クレシェントは紫薇がふと悲しそうな顔をした理由がわからなかったが、紫薇が先に歩き出してしまったので、その意味がわからずにいた。


 紫薇は家に帰ると、ソファに座ってお腹に隠していた権兵衛を出してやった。権兵衛はずっと狭い所にいたせいか、何度も頭を振るって体の調子を取り戻そうとした。

 「まずその汚れをなんとかしないとな。風呂には入れないだろうから、タオルを濡らして汚れを拭いとけ。俺はその間にお前が着れるものがないか探してくる」

 「気を使わせちゃって悪いわね、でもこのままでも良いのよ?」

 クレシェントは紫薇の珍しい気配りに関心したが、

 「汗臭いぞ、お前」

 すぐに取り下げ、心の中で何度も紫薇を殴った。

 紫薇はクレシェントが着れるような代わりの服を探しに二階に上がっていった。その間にクレシェントは服を脱いで体を拭いた。傷は殆ど塞がり始めていたが、何度受けても戦いの怪我というのは慣れなかった。ランドリアの単奏歌によって傷付けられた光景を思い出すと、ぞくりと背中が震えた。

 「着替え、ここに置いとく」

 リビングの間から顔を出さないようにしてそういうと、紫薇は着替えを投げた。

 「…悪い、少し見えた。まさかど真ん中で脱いでるとは思わなかったからな。というより風呂場でやれよ」

 「あ、ごめんね」

 紫薇は小さく溜め息を吐いた。すぐ傍で布が擦れる音がしたが、それよりも紫薇は別のことに意識が向いていた。クレシェントの上半身を見てしまった最中、脇腹の辺りに七センチほどの赤い石が体に埋め込まれているのを見た。

 「着替え終わったよ、これ紫薇のパジャマ?」

 クレシェントは青い短パンに白いTシャツ姿に着替えた。

 「いや、前の家政婦が忘れてった物だ。泊まり込みだからな、たまに忘れるんだ。取りに戻ってくる奴なんていなから、勝手に使っても文句は言わないさ」

 「そうなのね」

 紫薇はやっとのことリビングに入ると、ソファーに座って手で顔を擦った。

 「疲れたよね、あんなことがあったから」

 「…まあな。だが退屈はしない」

 紫薇がそういうとクレシェントは苦笑いした。

 「聞かせろよ、そのオルゴール」

 「うん」

 クレシェントは袋の中から木箱を取り出して、底にあるねじを回した。テーブルの上に木箱が置かれると、ねじが独りでに回り始めて音を奏でた。ピンが一つ弾ける度に甲高い音が鳴って、次の音が鳴る前に優しく尾を引いて消えていく。そんな音が一定の間隔で流れて、紫薇とクレシェントの気持ちを和ませていった。

 「これ、初めて聞いたのと同じ音ね」

 ねじが止まると、クレシェントは曲の余韻に浸るように息を吐いた。

 「見知らぬ国から」

 「え?」

 「この曲名だ。適当に選んだつもりだったンだが、まさか同じ曲だったとはな」

 「本当は…知ってて買って来てくれたんじゃないの?」

 「…さあな」

 紫薇はソファーから立ち上がってそそくさとリビングから離れていった。

 「馬鹿ね、無理して…」

 クレシェントは紫薇の背中を目で追うと、困ったように笑った。

 オルゴールを手に取って眺めながら、クレシェントは自分の気持ちを眺めていた。紫薇が人間らしいことをし始めた喜びと、自分のためにオルゴールを買ってくれた嬉しさが混じり合う。それは母性と異性の気持ちが混ざった不思議な感情だった。クレシェントはその気持ちを深く味わうように木箱を額につけた。

 「ありがとう」

 今はそこにいない紫薇に向けてクレシェントは静かに口ずさんだ。

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