2話 見知らぬ国から
テーブルの上に置かれたお菓子の盛り合わせをクレシェントと紫薇は囲んでいた。紫薇はその中から甘みのないしょうゆ味のお煎餅を一つ取り出して口に入れた。じわりと舌の上にたまり醤油の味が広がった。
「それで…お前が暮らしていた世界は『ナーガ』と呼ばれているのか」
「ええ、本当の名前は『ナーバル・メズ・ガウシュリー』と呼ぶのだけど、長いからみんな省略して呼んでいるわ」
クレシェントは小さめのクッキーを選んで口に含んだ。クッキーはお酒に漬かった干し葡萄が入れてあって、バターの香ばしさとコクが葡萄の甘みを引き立たせる味だった。口に含むとほろほろと崩れてバターの香りが鼻腔を優しく突いた。クレシェントはその味が気に入ったのか一つ、また一つと平らげていった。
二人はお互いの世界のことを可能な限り話し合い、その事実に驚きながらも情報を共有していった。二つの世界で特に異なった点は、ナーガには細かい時間という概念が殆ど存在せず、定まった時刻や週、曜日などがないという点。そしてもう一つは楽器というものが存在しないという点だった。
「いまだに信じられないな…この世界とは別の場所があるなんて…。話を聞いていると、どうも別の星って訳でもなさそうだ。代替宇宙って言葉があるが、空想の話だと思っていた」
「紫薇はそんな話でもすぐに信じられたのね」
クッキーを食べ終えると、次にクレシェントが手を伸ばしたのはビスケットだった。粉末状のココナッツが振りかけられていて、さくさくと歯ごたえのいい音と一緒に、ふわりとはちみつの香りが漂った。
「いや、まだ俺の頭がイカれていないと断言できない。もしかしたらお前が俺の妄想かもしれないしな。昨日の夜から正気を疑うような光景を見過ぎたよ。デカい鯨が空から降ってきたと思ったら、お前を含めたイカれた女が現れて、危うく二度も殺されたかけた。我ながら厄日だね…」
クレシェントは自分もそのイカれた人間の数に数えられるとむっとした。
「あの青い髪の女…何だってお前を襲いかかったんだ?金を貸したようには見えないが、随分と因縁深いようには感じたな」
紫薇は殺されそうになった時の光景を思い出して身震いした。
「そうね…そうなのかもしれない。ジブラルとは何度も戦ってきたわ…。私と同じ…お互い忌み嫌われた存在だから…」
そういうとクレシェントは塞ぎがちに俯いて、話を続ける代わりにポテトチップスをかじった。鶏のエキスが染み込んだ濃厚な味わいを堪能すると、クレシェントはあっという間に平らげていった。
「殺し合いをしていたんだ、忘れたくても忘れられない関係だな…」
紫薇はやっと煎餅の半分を食べ終わり、口で残りを咥えながらアイスティーが入ったグラスを手に取った。ミルクも砂糖も入れずに無糖のまま口に含んだ。紫薇は甘いものが大の苦手だった。
「お互い傷付けたり、傷付けられたり…。ジブラルの力が強大過ぎて、まともに話なんてしたことはなかったわ。殺されないようにするだけで精一杯…」
クレシェントは野菜チップスに手を出した。ゴーヤを食べると苦旨いといった顔をして、さつまいもを食べるととろんとした顔をして、玉ねぎを食べると何度も噛んで味を楽しんだ。にんじんは歯応えを顎で感じながら、りんごは口の中でその甘い香りを嗅ぎながら食べた。
「もてる女も大変だな…ん?」
やっとせんべい一枚を平らげた紫薇は、次のお菓子を食べようと手を伸ばしたが、指は空を切るばかりで何も掴めなかった。紫薇が木の器を見ると、乾き物のカスだけが残っていた。視線を上げると、クレシェントの手には残ったポテトチップスが掴まれていた。
「(食い過ぎだろ、こいつ…)なあ、一つ良いか?」
「どうしたの?」
「…いや、一つ貰っても良いか?」
「ああ、ご免なさい。はい」
文字通り一枚だけ、それも不憫に感じてしまうような小さなかけらを手渡すと、クレシェントは残りを口の中に放り込んだ。
「ここだけあいつとは大違いだな…」
紫薇はそのかけらを面白くなさそうにかじった。
「ご馳走様、とても美味しかった」
クレシェントはお菓子を食べ終わると、満足そうにお菓子の袋を折り畳んだ。
「またあんなのが襲って来たらたまったモンじゃないな…」
「しばらくは大丈夫だと思うわ。小さいけれど、『
「ちょっと待て…響詩…なんだ?」
聞き慣れない言葉に紫薇は耳を疑いながらも、やっと興味が沸く話が出て来たと嬉しがった。
「
「自分の概念を具現化だと?どういうことだ…」
「私たちは心の形相を写し取って、一時的だけど物質世界に形として表現が出来るの。ナーガでは誰もが概念を具現化できるけど、それは『
「いよいよ話が眉唾ものになって来たな…。でも昨日の一見を見てからだと、強ち否定できないな…」
「そして私たちはその心の形相を『処女の庭園』と呼んでいるわ」
「処女の…庭園…。汚れない、自分だけの庭か…」
「そう、純粋無垢な…他人に踏み荒らされない潔癖の世界。心には必ず花が宿り、世界を形取る固有の概念がある。処女の庭園を投影し、自身の新しい表現とする。それこそが
「本懐ね…。まるで音楽の代わりに発達した新しい芸術だな」
「詳しいことは私も知らないけど、ナーガで初めて
「そりゃ、まあ…芸術よりも人を襲うために使われれば、嘆きたくもなるだろうよ。その具現化が何に使われようと、俺にはそんな表現の仕方なんてご免だがね。芸術ってのは自分の感性や感情を表に出して形にすることだろう?踏み荒らされたくもない庭園を、それも形にするなんてよっぽどだ。俺は絶対に見せたくないね」
紫薇は指でつまんでいたストローをいじりながらいった。
「私も初めはそう思っていたわ。でも言葉や仕草の代わりに自己を表現できるなんて素敵だと思わない?例えそれが醜い外見をしていても、自分が生きていることの証になるなら…それは尊ぶべきものだと思う…」
クレシェントは手を重ね合わせながら何かを願うような仕草でそういった。
紫薇が手を見つめ、視線をクレシェントの顔に向けると、クレシェントは困った顔をして小さく笑った。紫薇は何故か、その笑みがとても神々しい、いや、文字通り尊いもののような気がして、気付けば席を立っていた。
「どうしたの?」
「特に何も…」
クレシェントは紫薇の顔が曇っている理由をなんとなしにわかっていた。
「私もね…今話したようになれたのは、誰かの温もりを教えて貰ってからだった。誰も信じることが出来なかったけど、恐れずあの子たちは私に触れてくれた。けでも結局、私が裏切ることになってしまったんだけどね…」
またクレシェントは困ったように小さく笑った。
「その笑みを止めろ…!」
紫薇は嘆くような声でいった。
紫薇にとってその笑みはどうしようもないほど不快だった。それは紫薇に決して出来ない仕草であり、人の温もりに触れたことがない証拠でもあった。紫薇はその笑みに羨望を抱いている。それが溜まらなく惨めで、悔しかった。
「ご免なさい…そんなつもりじゃ…」
「うるさい…!」
言葉が紫薇の胸を突き刺す。紫薇はクレシェントに顔を背けると、そのまま廊下を駆け抜け、ドアを蹴飛ばして外に飛び出して行った。
クレシェントは紫薇を追いかけようとはしなかった。何故ならクレシェントが初めての友人たちに同じことを聞かされたとき、自分も同じように自分の世界に閉じこもろうと部屋の鍵を閉めてしまったからだ。ただ紫薇と違ったのは、紫薇が外の世界が自分の世界だと認識しているということだった。クレシェントにとって自分の世界は外の世界と関わらない内側だけ。出来ることならもっと外の世界に飛び出して行きたかったとクレシェントは思っていた。だからそんな紫薇をクレシェントは羨ましくも切なく思ってしまうのだった。外の世界に踏み出す勇気はあるのに、そのことに気が付いていない紫薇をクレシェントは不憫にも思った。
ふとクレシェントは誰かに囁かれたような気がした。その声に耳を傾けようとクレシェントは席を立ち、辺りを見回した。本棚の上に置かれた写真立てが気になって、クレシェントは手を伸ばした。長い時間、誰にも触られていないのか、写真立ては灰色に染まっていた。指で埃を払うと、そこには赤ん坊を抱いた紫薇の両親が写っていた。ただ二人とも顔をペンで汚されて上手く顔が見えなかった。それがどういう意味を持っているのか、クレシェントは自然と悟ることが出来た。辛うじてわかったのは、二人とも紫薇に余り似ていないことと、母親は長い髪の毛で顔の半分が隠れ、赤い目だけがかすかに見えたことだった。
紫薇は行き先もままならないまま、ただ黙って歩いていた。夕焼けに染まる紫薇の顔はどこか哀愁を漂わせる。歩いている途中、仲の良さそうな学生の集団や、少女を挟むようにして手を繋ぐ家族の姿が通り過ぎていった。
「今度は皆でどっか行こうぜ」
「お母さん、今日のご飯はなあに?」
紫薇はもしも当たり前のように家族がいて、友達に恵まれていれば、今の自分はどんなに幸せだったのだろうと思った。今からでも遅くはない。しかしそう裏付けるだけの確信が今の紫薇にはなかった。人の温もり。きっとそれは儚くて、それをわからない人間にとってはどれほど恐ろしいものであるか、紫薇にはわかっていた。それをわかっているからこそ、紫薇には前に進む勇気が出なかった。背中についた古傷が小さく悲鳴を上げる。その痛みを堪えるように紫薇は目を瞑った。
空が真っ暗になって、紫薇は自分の立っている場所がやっとわかった。紫薇は廃ビルの鉄筋の上に寝転がっていた。今日の空は紫薇が望んだ色をしていた。まばらに散った星が静かに輝いて、やっと紫薇にとって憩いの場所になった。けれども紫薇はどうしても落ち着けなかった。景色を眺めるというよりも、目のやり場に困って空を向いている。そんなものだった。
不意に誰かの足音が聞こえた。始めは工事の人間がやっと現場に来て、何かの撤廃作業をしに来たのかと思った。それならば叱られたときに出て行こうと、紫薇は気に留めずに組んでいた足を組み替えた。
足音が紫薇の傍で止まった。
「こら」
聞き覚えのある声だった。その声の主を知っているので、紫薇はまた気にも留めずに足を組み替えた。声の主は静かに溜め息を吐いて傍に座った。
「綺麗ね…あんなにまん丸なお月様は初めて。ナーガの月は二つに割れているから、何だか寂しげなの…。初めてこの世界に来たときには、ちゃんと見れなかったから良かった」
原っぱは月光を受けて仄かに光っていた。
「人の縄張りに勝手に入って来るな」
「あら、縄張りだっていうならここを私が欲しがったら貴方は譲らなきゃ」
「何故?」怪訝な顔をしていった。
「紫薇は私に勝てる?縄張りは常に強者のものじゃなかった?」
そういわれると紫薇は肩を竦めた。
「何となくね、ここに居るんじゃないかなって思ったの。ここに近付いてみたら、貴方の匂いがしたから案の定、ね…」
「犬か、お前は…」
「犬って?」
「ああ、もう良い…。黙ってろ」
静かな夜だった。とても静かな夜。自動車が通る音も、風が流れる音もしない。ただ黙って二人は目の前に広がる静寂を眺めていた。
ふと紫薇は死んでしまったあの動物のことを思い出していた。人の温もりを感じることは出来なかったが、あの動物だけは触れ合えた。
「お前にもう一度、会ってみたい…」
目を閉じて、いつの間にか紫薇は願いを口ずさんでしまっていた。
「し、紫薇…」
不意にクレシェントが妙な声を上げた。
「なんだ、どうした?」
紫薇が目を開けると、クレシェントが目を見開いて空を見上げていた。
「あれ…」
驚愕するクレシェントの視線を紫薇が追うと、暗い空の中から白い小さな星が光っていた。それが空から降ってくるあの白い亀鯨であることはすぐにでもわかった。いつの間にか銀色に光っていた原っぱはミルク色の水面に変わり、異様な輝きを放っている。
「あれは、あのときの…!」
猛烈な速度で落ちる白い亀鯨を二人は目で追えなかった。視線を下げるよりも早く、白い亀鯨は真っ白な海に飛び込み、巨大な波濤を上げた。純白の波が二人の視界を奪い、暗闇の中で汽笛のような音の残響が木霊した。
紫薇とクレシェントが目を開けると、いつの間にかミルク色の海は消滅してまたもとの原っぱに戻っていた。
「そんな…あれは…」
その代わりに原っぱにはぽつりと小さな影があった。紫薇はその影に見覚えがあった。その正体を確かめるよりも前に紫薇はその影に走っていった。
「紫薇!?どうしたの…!?」
叫ぶクレシェントを背中に紫薇は走り続けた。
「有り得ない!こんなの…有り得ない筈だ!」
紫薇は走りながら怒鳴っていた。階段を駆け、段を踏み外しそうになりながらも走り抜けた。転がっていたパイプを蹴飛ばし、シートを乱暴に引き抜いて原っぱに座っている影のもとに辿り着く。紫薇は呼吸を荒げながらその影に少しずつ近付いていった。縋るように喜びに震えるように。
影はじっと紫薇を見つめていた。紫薇が近付くにつれて、その影も紫薇に近付いてその正体を明かしていった。真っ白い毛皮を持った、猫のような細い体に狐のような太いしっぽ、顔は犬に近いが頭には鹿のような小さい角を持っていた。そして白い体に反するような真っ赤な目が浮かび上がった。
「本当に…お前なのか?」
紫薇との距離が数十センチになると、その動物は嬉しそうに足並みを揃えて紫薇に近付いた。真っ白い毛並の手触りは死んでしまった時と同じだった。艶があり、指先に触れると、絹の様に柔らかい毛先を感じた。
その懐かしさを思い出すと、紫薇はその動物を抱きしめていた。温かい、確かな温もりが肌を通して伝わった。どうして死んだ筈のあの動物が蘇って、再び生を受けられたのか。そんなことを忘れても、紫薇はただこの瞬間に酔い痴れたかった。
「……………」
クレシェントはそんな紫薇と代わって強烈な不信感が胸に渦巻いていた。死んだ筈の動物が蘇ることなどあるのだろうかと自問する。しかし今の紫薇の姿を見て、口火を切ることは出来なかった。疑いの気持ちはあるものの、紫薇に危害を加えない所を見て、クレシェントは傍にあった鉄筋に腰かけた。落ち着いた紫薇の姿をもう少し眺めていたいからでもあった。
しばらくして紫薇は抱きしめるのを止め、その動物を手元から放した。
「紫薇、その子が前に話していた子なのね?」
それを見計らってクレシェントが紫薇に近付いた。
「ああ、名前のない…名なしの権兵衛だ」
「あの…聞いてはいけないかもしれないけど…」
「わかってる。確かにこいつは死んだ、庭先に墓だって立てた。こんな姿をした動物、他に探したっていやしないさ」
紫薇は自分に言い聞かせるようにいった。
「クレシェント、野暮なことでも聞いてくれ。死んだ奴は生き返らないってな」
「うん、でも…」
そういうと紫薇はクレシェントを横目で見た。
「良いんじゃない?このままでも…」
「え?」
紫薇は予想と違った言葉に戸惑った。
「だって、あんな嬉しそうにしてたら何も言えないよ…。奇妙なことだけど、これ以上は何も言いたくない」
「そうか…」
一瞬、紫薇は呆気に取られてしまったが、何度か頷くと自分でも何かを呑み込んだようだった。
「あり、がとな…クレシェント…」
ぶっきらぼうなお礼だったが、クレシェントは何よりも嬉しかった。自分の名前を初めて呼んでくれたことも、またひとしおその嬉しさを後押ししていた。
「ねえ、お腹空かない?」
「もう夜だもんな、確かに腹は減った」
「うん、もうお腹ぺこぺこ。どこかで食べて帰らない?」
「外食なんて滅多にしないんだが…。まあ、今日は気分が良いからそうしてやるか。まだ今月の金は余裕があるからな」
「うん」
「ああ、でもペットを入れられるようなレストランなんてあるか?権兵衛を置いて行く訳にもいかないしな」
「じゃあ、この辺りを歩いて探してみようよ。って…もしかして権兵衛ってこの子の名前?」
クレシェントは前足を持ち上げ、金玉が付いているかどうか確かめた。毛の少ない胸からお腹の辺りには四つの乳首が並んでいた。
「女の子なのに…随分と奇妙な名前なのね」
「他に名前の候補がない。何かあるか?」
「えーと、プランジェ…だと駄目ね。紫薇が良いならそれで良いと思うけど、貴女はそれで構わないの?えーと、権兵衛」
そういうと権兵衛は声を上げて返事をした。
「気に入ったみたいだな」
紫薇は得意げにいった。
「(飼い主にセンスがないと可哀そうね…)痛っ!」
不審な心境を感じ取ったのか、権兵衛はクレシェントの指に噛み付いた。
「気を付けろよ?見た目よりも狂暴だからな」
「そうなのね(飼い主に似て生意気ねえ)」
また噛まれる前にクレシェントは権兵衛を降ろした。
「大きさもそれほどじゃないから、服の中に隠して置くか」
紫薇は権兵衛を寄せて服の中に入れた。権兵衛は三十センチくらいの大きさなので、服の中に入れてもさほど目立たなかった。
クレシェントと紫薇は廃ビルから一番近い商店街に出ていた。レストランを探している間にクレシェントの腹の音は止まず、紫薇は仕方なしに沢山の食べ物を与えた。肉屋を通るときには揚げたてのコロッケを、魚屋では焼きたてのがんもを、小さなお菓子屋では昔懐かしいカルメ焼きと大判焼き、八百屋では切り付けたフルーツを食べた。紫薇は最初のコロッケでお腹の半分が膨れたが、クレシェントにとっては繋ぎにしかならなかったようだった。
「この世界に来て良かったのは、食べ物が美味しいことね。見たことのない食べ物ばかりで手が止まらないもの」
チョコバナナのクレープをかじりながら満足そうにいった。
「犬というよりまるで豚だな…」
「どういう意味?」
「いや、特になにも。ただ、随分と食が太いなと」
「ちゃんと理由もあるのよ。怪我を直したときはその分、何か食べないと体が回らなくなるから…。決して大食いって訳じゃないからね」
恥ずかしそうにクレシェントは否定したが、紫薇は信じなかった。
「これだけ食えばもう夕飯なんていらないんじゃないのか?」
紫薇がそういうとクレシェントはそっぽを向いていた。
「おい、聞いてるのか?」
それでもクレシェントは顔を向けなかった。紫薇は余計なことを言ってしまったかなとひやりとしたが、クレシェントの意識が何かに奪われていることを知った。クレシェントの目線の先、書店と民家の間に挟まった小さな雑貨屋があった。その店からゆったりとした音がこぼれている。
クレシェントはその音に吸い込まれるようにしてその雑貨屋に歩いていった。店の手前には白い布で覆われたテーブルが一つ置いてあり、そこにはオルゴールや銀時計、天使の置物など、沢山のインテリアであふれていた。その中でクレシェントの
意識を奪っていたのはオルゴールだった。手の平サイズの木箱の中に銀色のオルゴールが入っている。クレシェントはそれを取り出して遊んでいた。
「お前には似つかわしくない代物だな」
「これは何?さっき綺麗な音が流れていたけど」
「ただのオルゴールだ、機械じかけの楽器だよ。そうか、お前の世界には音楽がないものな。こうしてネジを回してやると…」
紫薇は丁寧にネジを回して手前に置いた。するときりきりと鉄製のバレルが回りだし、ピンをはねてそのオルゴールに込められた音楽が鳴り響いた。
喧騒に混じりながら一曲。それはまるで隠れ家でひっそりと行われたライブのようだった。指揮者はいない、演奏者は一人だけ。一人の老人が名前のわからない楽器を持って、二人だけの為に演奏している。いつしか喧騒は止み、その音だけが二人の耳に囁いた。
見知らぬ国から Robert Alexander Schumann
「シューマンか…かび臭い曲だな」
ふと紫薇はもう一人の観客に目を向けた。クレシェントは目を閉じて、その旋律に洗い流されるかのように目尻から大粒の涙を流していた。頬は紅潮し、口元は半開きになりながらしきりに耳を傾け、感涙を受けていた。
紫薇は視線を前に戻すと少しの間放って置いた。もしこの世界とは違った場所があって、その世界に音楽というものを聞いたことがない人間が、その音色を耳にしたらどんな感情が湧き上がるのだろうと思った。それはきっと、恍惚と歓喜に近い刺激がその人間を襲い、またたく間に虜にしてしまうだろう。
「なんて…」
演奏が終わり、その老人が頭を下げると喧騒が再び辺りを包み込んだ。
「…なんて表現したら良いの?こんなの…」
「毒されたな、この世界の美意識に」
「音を…音を決められたリズムで奏でるだけで、こんなにも心が揺さぶられるなんて…胸が痛いほど響いてる…」
「それほどの衝撃なんだろうな、初めての人間には。俺にとっては取り分け驚くもんじゃないが、そんな反応を見れるなら愉快になれるね」
クレシェントは指で涙を飛ばしたが、その衝撃はまだ収まらなかった。それどころかもっとその刺激が欲しいとまで心底思ってしまっていた。
徐に紫薇はそのオルゴールを逆さまにして値札を見た、高額だった。
「(高いな…)俺にとってはただのがらくただが、お前にとっては感涙するほどの価値があるらしい。が、ほいほい買えるような代物じゃないんでね。また魔法にかかる前に引き上げよう」
木箱の蓋を閉めて、紫薇は足早にその場から離れた。愛おしそうに見詰めるクレシェントの手を引っ張り、紫薇はもう手遅れかもしれないと呟いた。
それからクレシェントの目は心ここにあらずといった体で何度も視線を雑貨屋に向けていた。商店街に漂う食べ物のにおいにも反応が薄かった。もう音楽の魔法はクレシェントの心をわし掴みにしていたのだ。余りの変貌に紫薇は自分の調子まで狂ったような気がして、もどかしさに苛まされていた。
「ん?」
不意に紫薇の目に止まったものがあった。古めかしい木製のコテージ。その扉の真上には英字で<バッカス>と看板が掲げられていた。紫薇は始めその名前から酒場だと思ったが、入り口の傍に樽のテーブルが置いてあって、その上には黒板に書かれたメニューがあった。パスタや定食の写真と一緒に細かい料理の説明が白いチョークで書かれていた。黒板には紙が貼られていて、自家製のカレーがお勧めと示してあった。
「(スパイスでも口に入れれば、魔法もふっ飛ぶか?)」
紫薇は考えてみれば外食など殆どしたことがなかった。人が集まる場所に近付こうと思わなかったのだ。無意識のうちに冷たい汗がこめかみを伝った。紫薇はクレシェントの顔を一瞥した。バッカスよりも歩いてきた道のりをそわそわと気にしている。
紫薇はガラス張りの扉を覗いた。入店している客はいないようだった。カウンター越しに色黒の男が煙草をふかしているのが見えた。
「おい、晩飯はここにしよう」
「え?あ、うん…でも、良いの?」
動揺している紫薇を見てクレシェントはその理由を悟った。
「そう思うならさっさと食って帰るぞ」
鼻息を一つして、紫薇はバッカスの扉を開けた。扉の上についた鐘が鳴り響く。中に入ると香辛料のにおいが鼻をつついた。店の作りは昔ながらの喫茶店を居抜いて改装したようで、煉瓦の壁に赤い椅子が並べられていた。テーブルだけは新調したのか、黒い色が真新しく光っていた。床は絨毯の代わりに暗い色の木目のフローリングが敷かれ、踵を打つ音が高かった。
「らっしゃい、好きな席に座りな」
ぶっきらぼうな声を飛ばしたのは入り口を覗いたときに見えた男だった。愛想がないのか、案内も代わりに咥えていた煙草を灰皿で潰すると手を洗い始めた。
男の恰好は額に紫色のターバンを巻いて、褐色の肌によく映える白いひげを蓄えていた。紺色のデニムジャケットの上から黒いエプロンを下げている姿からして、紫薇はこの男が店主なのだろうと思った。
紫薇には愛想がない方が好ましかった。必要以上に話しかけられる必要もないし、気を使わなくても良いからだ。紫薇は安心しながら奥にあった四人席のテーブルの手前に座った。これも店主の顔を見ないようにする紫薇の小さな策だった。
「…紫薇、良いの?ちょっと愛想ないよね」
クレシェントは声を控えめにしていった。
「いや、そっちの方が助かるよ」
愛想がないお陰で、紫薇は思っていたよりも外食を簡単に済ませられそうだと内心喜んでいた。
「いつまでも間抜け面されてたら堪ったモンじゃないからな。音楽のことはもう忘れろ」
「ご免なさい」
クレシェントは小さく笑って困った顔をした。
店主は水道を締めると手を拭いて、細長いグラスに氷を入れた。一つだけ氷の上に小さな花びらを置いて、水を注ぐとグラスを持って紫薇たちに近付いた。花びらの浮いたグラスをクレシェントの手前に置くと、ふとその店主の動きが止まった。
店主の視線はクレシェントを捉えたまま動かなかった。
「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。注文が決まったら呼んでくれ」
クレシェントが不思議そうにすると、店主はそそくさと紫薇の前にグラスを置いて離れていった。
「何を頼もうかな」
紫薇はテーブルの傍にあったメニューを手に取って開いた。料理の名前と一緒に写真が貼ってあって、一番最初のページにはカレーがあった。これならクレシェントでもわかるだろうと紫薇はメニューを手渡した。
「お前と同じもので良い。ただトマトと書いてあるものは止めろ」
「トマトだと…スパゲッティは駄目ね、真っ赤で美味しそうなのに。好き嫌いしちゃ駄目よ?」
「うるさい」
紫薇はトマトの土くさい味が嫌いだった。
「うーん、絵があってもわからないわね。このお勧めにしようかな」
「そういや日本語は読めるんだな、別世界から来た癖に」
「そう言われてみれば…そうね。何でだろう」
「今さらだがこうやって喋っているのもな。まあ、良いや。カレーだろ?さっさと頼めよ」
「頼んでくれないのね」
「金は出すだろ、早くしろ」
「横柄…でも文句は言いません」
クレシェントは肩を竦めると、店主に向かってカレーを下さいと声を張った。すると店主はあいよ、と手を振った。
「そういえばカレーってなに?」
「食えばわかる」
可愛くないのとクレシェントはため息混じりにいった。
料理が運ばれるまで二十分ほどかかった。その間、紫薇は服の中に隠した権兵衛を撫でて、クレシェントはメニューを眺めていた。
「おまちどう」
店主が奥のキッチンから平たい皿を運んでくると、スパイスの香ばしいにおいが辺りに漂った。灰色の皿には黄色く染まったターメリックライスが盛られ、その周りを濃い茶色のルーが囲んでいる。ちょうどご飯とルーの間にグリルされた茄子、人参、れんこん、かぼちゃ、オクラが飾られ、野菜の表面には線上に焦げ目がつけられていた。ルーの上には生クリームがかけてあって、ご飯の上には細かく切ったパクチーが散りばめてあった。
「わあ、美味しそう!」
声を上げて喜ぶクレシェントを傍目に紫薇はメニューを取って値段を確かめた。豪華な盛り付けに反してカレーの値段は九百円と紫薇の想像よりもずっと安く、ほっとしながらもその値段に驚いた。
「美味しい!」
口いっぱいにカレーを頬張ると、クレシェントはまた声を上げた。
その声を聞いて店主はしたり顔でまた煙草をふかし始めた。愛想はないが、料理人としての喜びは人並み以上に持っていたようだった。
続けて紫薇もカレーを掬って食べた。すると口の中に牛肉のうまみがじわりと広がり、香辛料の刺激が次々と舌を心地よく叩いていった。
「…美味いな」
味の深さは見かけでは判断が出来なかった。紫薇は初めの一口に続いて、また一口、また一口と頬張る動きを止められなかった。途中、服の中に隠れていた権兵衛が恨めしそうに鳴いた。
「本当に美味しいわね。ちょっと辛いけど、癖になりそう」
「初めて入った店だが、当たりだったな」
クレシェントはあっという間にカレーを平らげた。紫薇が半分を食べ終わる前に平らげてしまったので、残りを分けてやると嬉しそうに頬張った。
それから客は誰もやって来なかった。お店の前を通り過ぎる人の影は見れたものの、まるでそこに鏡でもあるかのように通行人は無関心だった。
「まいど」
愛想のない対応は会計のときまで続いた。おつりを紫薇に手渡さず、レジの前に置かれた会計盆に並べられた。紫薇は最初から最後までなんて都合のいい店なんだろうと、心の中で感謝までしていた。
紫薇は財布の中に小銭を入れ、外で待っているクレシェントを扉越しに見た。そして紫薇はやっぱりと落胆した。クレシェントは物寂しそうな顔つきで、じっと雑貨屋の方角を向いていた。紫薇はどうやったら、ああまで夢中になれるのだろうと自問していた。いや、本当に落胆していたのは、そんなことが出来ない自分に対しての諦めだったのかもしれないと、紫薇は思った。
いつの間にか紫薇は眉間にしわを寄せたまま、乱雑に扉を開けて外に出た。
「ご馳走様、惜しかったね」
「…そうだな」
「…どうかした?」
あからさまに不機嫌になっていた紫薇を見て、クレシェントはすっとぼけるつもりはないにしろ、間の抜けた顔をしてしまっていた。そんなクレシェントの顔を見ると、紫薇はまた一層にへそを曲げてしまった。
「帰るぞ」
「う、うん…」
それから二人は言葉を交わすことなく、家路を辿っていた。さめざめとした空気の下、公園の歩道を歩いている。道には二人以外に人気がなかった。一定の間隔で並んだ街灯だけが控えめに主張して、辺りに響くのは足音だけだった。
「ねえ、どうして急に黙り込んだの?」
静寂が広がるせいでクレシェントの声が普段よりも大きく聞こえた。
「私、何か紫薇にしたかな?」
沈黙を破らない紫薇の前に先回りしていった。
「…聞いてる?」
「聞こえてるよ…」
行先を塞がれて紫薇はそっけなく応えた。
「じゃあ、どうして?」
クレシェントはまっすぐに紫薇の顔を見詰めた。そのプラチナブロンドの双眸には一点の曇りもない。クレシェントの方が背が高いせいで、紫薇は少し見上げてしまっていた。
紫薇はその素顔を見て、思わず口元を緩ませた。クレシェントの汚れのない瞳はどんな角度から見ても変わらないのだろう。そう思うと不機嫌な自分が次第に馬鹿らしくなってしまったのだ。
「お前は…本当に嫌な奴だよ」
「え?」
「お前、ここからなら一人で戻れるな?野暮用が出来た、先に帰ってろ」
そういって紫薇はクレシェントが次の言葉をかける前に背中を向け、走っていった。
「紫薇…」
一人その場に取り残されたクレシェントは、紫薇の姿が見えなくなるまで動けなかった。何故、自分を見て紫薇が嘲笑するような笑みを浮かべたか、クレシェントにはわからずにいた。ただ今の紫薇を見て一つだけわかったことは、大人染みた仮面の下に自分のわがままを主張する子供の素顔だった。クレシェントは紫薇の笑みを通してその本性を垣間見たような気がした。
しばらくしてからクレシェントは一人、歩道を歩き始めた。街灯に照らされた自分の影が先に進む。空気が冷えているせいで、一人だとヒールを叩く音が余計に響く。紫薇の家までの道のりは何となしにわかっていたが、クレシェントの歩幅はだんだんと小さくなっていった。
目先の影がゆらりと揺れる。足並みが止まった頃、クレシェントは眉間にしわを寄せて目を閉じていた。その代わりに影には真っ赤な双眸が浮かび上がっている。影の形はいつの間にか獣のような風貌に変わり、クレシェントのつま先からきびすまでを赤い液が広がった。
「人殺し!」
クレシェントの脳裏にかつて浴びせられた罵声が過ぎった。思わず頭を振って閃いた記憶をふり払おうとしたが、反応してしまった感情までを拭うことは出来なかった。忘れていた訳ではなかった。ただ、思い出さないようにしていたのだ。受け止め切れない現実から、逃れるための抵抗として。
悲痛な顔をしたまま、クレシェントはこのまま闇の中に消えてしまおうか、そう思っていたときだった。ふと妙な気配を感じ取った。今まで視線を下げていたせいで気付かなかったが、いつの間にかクレシェントの目の前には白いドアが歩道の前にぽつりと浮かんでいた。
「まさか…」
クレシェントはそのドアに見覚えがあった。ナーガからミルク色の海岸に渡ったときに使ったドアと非常に似ていたのだ。ただ違うのは、ドアの表面には妖精の翅の代わりに真っ白な女の顔が張り付いていた。
やにわにドアに張り付いた女が悲鳴を上げて黒い涙を流した。すると片開きのドアがゆっくりと開かれ、ドアの向こうから一人の男が新天地に降り立った。鮮やかなロサの髪が栗色の肌によく映える。細いとび色の瞳は細く締まって眼光鋭い。黒いブラウスとコルセットパンツの上には金属の板が張り付いていて、履いていたロングブーツにも棘のような装飾が施してあった。
「ランドリア・プラファンドール…」
クレシェントの望まない記憶がまた一つ闇夜に閃いた。
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