終焉の妖精

貧乏万斎

第一章

序話 とち狂った格好の貴女

 まっすぐ横に伸びた二本の平行線。そこに梯子のように並べられた垂直の線をなぞる。線の間には薄暗く色が染められていて、金色や銀色の文字がなぞられていた。その中に一つ、銀色のラベルに包まれた指二本分の厚さの本を見付けると、人差し指を引っかけて傾けた。爪に溜まった埃を取りながら赤茶けた表紙に目を通す。「科学の目に映った電気椅子」著書セレスティン・アーネスエヴァリット。翻訳、一之瀬 雪太郎と、銀色のラベルに目立たない大きさで翻訳者の名前があった。また、その本が作者の自伝であることも書かれていた。

 一通り粗筋を目で流すとその中に目を引いた内容を絵導紫薇かいどうしびは見付けた。じっくりと眺められる様に背中を本棚に凭れかけ、その文節を丁寧に目で読み上げた。

 『刑死者に花束は贈れない。しかし種の保存から見れば罰とは極めて排他的で、またそれ以外の人間を継続させる意味では独占的なものだ。だからこそ罪人に必要なのはポケットから金塊を取り出そうとしたり、頭に頭巾を被せて階段を昇らせる事ではない。体の奥底にある遺伝子の中に刻まれている記憶と感情、そしてその罪を両手で抱きながら生きる事ではないだろうか』

 その文を読んだ後に紫薇は綺麗事だと思った。実際に罪の被害を受ければとてもそんなことは思い付かないだろうと心の中で悪態を吐いた。しかし同時に、紫薇はその言葉がとても羨ましい、そう思わずにはいられなかった。

 ふと不意に誰かの声が耳を突いた。

 「でさあ、あんまりにもしつこいから母ちゃんにうるせえって怒鳴ったら、今度は父ちゃんがうるせえって」

 「親子そっくりじゃん」

 二人の男子生徒が紫薇の傍を通り過ぎようとすると、紫薇は本を元に戻して彼等を一瞥すると背中を向けてその場を去っていった。急な出来事に二人はきょとんと顔を見合わせ、窓越しに紫薇の通り過ぎる姿を悟られない様に見送った。

 「誰?あいつ…」

 「確か絵導って言って、あんまり良い噂を聞いた事がない奴だよ」

 「何か嫌な目付きだな。もしかして不良?」

 「かもね、あんまり学校にも顔を出してないみたいだし、一人で好きな事でもやってんじゃないかな。そういや、お母さんがいないって誰かが言ってたっけ…」

 「友達いなそうだな、あいつ…。お前、友達になってやれよ」

 「やだよ…」

 「だよな」

 そういって二人は笑いを交わした。


 夕焼けに染まった校舎を背中に紫薇は一人歩いていた。紫薔の目線はいつも遠くを見ていた。前髪から細く、つり上がった目が見え隠れする。そんな目の形をしているせいで紫薔の周りには人が近付かなかった。

 ふと紫薔のつま先に丸いものがぶつかった。紫薔が視線を下してアスファルトを見ると、そこには野球のボールが転がっていた。色がくすんでしまっているのと、解けかけた紐を見るに年季が入っていた。

 「ああ、ごめんごめん!さんきゅーな!」

 顔を泥で汚した男子生徒が紫薇の前にやって来ると、紫薇は何も言わずにボールを軽い力で投げ渡し、足早にその場から離れた。

 「…ヤな奴」

 その言葉を聞き流しながら紫薇は足を動かし続けた。その途中、何度か紫薇は 自問した。やはりあそこで何か一言でも言って置けば信頼関係を少しは築けただろうか、とか、でもいざ口にしようとして失敗したら気味悪がられるかもしれないと、何度も頭の中で後悔と苦悶が行き来していた。

 紫薇のコミュニケーション能力が欠けてしまっている理由は、酷く荒んだ家庭環境にあった。紫薇は幼い頃に母親を亡くし、自営業で多忙だった父親が子育てに専念できないことから、祖父母のもとに預けられた。

 だがそこでの生活は愛情を受けるどころか虐待の毎日だった。その理由は紫薇の父親の奇行と蔑まされた駆け落ちにあった。財閥だった絵導家の長男である紫薇の父親には許嫁がいたが、その誓いを捨てて家を飛び出した経緯があった。どこの馬の骨とも知らない女と、縁を切った放蕩息子の間に産まれた子供など、真っ当に育てるつもりはなかったのだ。紫薇が祖父母のもとにいる間、紫薇の父親は顔を見に来ることも、便りを出すこともしなかった。

 祖父母のもとでの生活が終わったのは、紫薇が乳児から十歳になった頃だった。正確にはとある事件をきっかけに祖父母が紫薇を父親のもとに送り返したのだ。絶えず繰り返される虐待の中、紫薇が隠し持っていたカッターの刃を祖母に向けたのだった。幸い祖母の怪我は浅く済んだが、絵導家は紫薇を手に余る忌み子として押し戻した。

 凡そ十年振りに紫薇は父親と会ったが、お互いに歩み寄ろうとはしなかった。紫薇は父親に懐こうともしなかったし、紫薇の父親も傍に置こうとは思わなかったのだ。紫薇の父親は自分が住んでいた住居を明け渡し、家政婦を雇って母親代わりとして紫薇の面倒を見させた。ただ、どの家政婦も虐待の傷跡だらけの紫薇を見て気味悪がり、紫薇は碌な愛情を受けることが出来なかった。結果、紫薇は他人に対して近付こうとも思わなくなってしまった。


 見慣れた道筋を紫薇は好きに歩いていった。紫薇は散歩に出かけることを積極的に行なっていた。友達のいない紫薇にとって散歩することは、気を紛らわせる唯一の方法だった。学校の正門から出て二十分ほど歩けば駅に出る。その駅に出る道を途中で左に曲がると寂れた商店街があった。そこを足早に抜けて十分ほどすると小高い丘に出る。そこを右に曲がって歩き始めると段々と住宅街から離れてだだっ広い原っぱになった。その場所はつい最近、紫薇が見付けたお気に入りの場所で、開発を放棄されたビルがひっそりと佇んでいた。ビルといっても中途半端に建設されていて、二階が突き抜けになった小さい鉄骨の城の様だった。

 ビル全体にかけられた緑色のシートを捲り、紫薇はその中へ入っていった。中は資材がほっぽり出され、鉄パイプやら折れ曲がった鉄筋がそこら中に落ちていた。紫薇はその中のコンクリートが剥き出しの階段を上り、二階へ上がった。吹き抜けになったそこからの景色は見事なもので草原が夕焼けを照らして宛ら赤い大地を描いているかの様だった。紫薇が気に入った理由はそれだった。鉄筋が三つ並んだ上に白い枕が置かれていた。紫薇が家から持ってきたものだった。紫薇はもっぱらその場所で昼寝をしていた。いつもこの時間帯に目を閉じて、次に目を開けると今度は夜空の星の光がその原っぱ一面に輝いて何とも言えない景色になり、紫薇の目を楽しませた。

 今日もその景色を堪能する為に紫薇はごろりと横になり、徐々に徐々に目を閉じていった。子守唄を聞いた事のない紫薇にとって吹き抜ける風の音と太陽の温もりは母の声と温もりの様で、数分も経たない内に紫薇を眠りに落としていった。眠りに落ちる前、いつも紫薇はじわりと孤独を感じる。性根はとても寂しがりやだった。



 ミルク色に照った海岸があった。静かに音を立てる小波は真っ白で、その上には木製の橋が延々と水平線に続いている。橋の上にはきらきらと銀色に光っている髪の毛をした女が一人、暗い顔をして立っていた。まるでこれから先の人生に迷ってしまったかの様にじっと世界の果てを眺めている。

 そうして酷い顔のまま爪先を前に向けようとした時だった。彼女の後ろに深い青みがかかった髪の女が現れ、不適な笑みを浮かべながら口を動かした。銀髪の女は驚いた顔をして振り向くと、眉間にしわを寄せながら相手に答えた。

 二人が会話を進めると銀髪の女は段々と悲しそうに、青い髪の女は段々と口を尖らせていった。すると青い髪の女の右腕が膨れ上がり、二の腕から指先までの大きさは本人の体を越えた。銀髪の女はその姿を見てとりわけ騒ぎ立てず、ただ目に憂いを浮かべながら青い髪の女を眺めていた。その目付きが青い髪の女の不興を買ったのか、じりじりと銀髪の女に距離を詰めていった。

 その時だった。白い海原を掻き分けて水中から眩い光を照らし出すものが顔を出した。純白の、塵の塊の様なそれは丸く潰れた体に二本のひれがあった。その姿は亀のようにも鯨のようにも見えた。白い亀鯨は尾を激しく振ると、海面から勢いをつけて飛び上がった。

 その光景を二人の女は呆気に取られながら眺めてしまい、大きな口を開けた白い亀鯨が自分たちを呑み込むまで動けなかった。白い亀鯨は二人を腹の中にしまうと、再びミルク色の水面に潜っていった。その際、波紋が辺り一面に広がると、ぶるりと世界そのものが脈動した。



 紫薇は目を閉じながら、その場所では聞きなれない音を聞いた。波の音だった。朦朧とした意識はその音を聞いて次第に覚醒していき、紫薇の目が開かれるとそこには異様な光景が飛び込んだ。ミルク色の空が一面に広がっている。

 「空が…波打ってる…」

 真っ白な空はまるで海面のようにゆらゆらと蠢いていた。その光景を眺めながら、紫薇はただ目を見開いて唖然とするばかりだった。

 ふと白い水面の中心が盛り上がった。水を掻き分けて白い亀鯨の頭が顔をのぞかせると、背中を立てて甲高いサイレンのような声を上げた。紫薇がその声を聞いた途端、胸の奥がじわりと燃えた。その甲高い声を、紫薇は遥か以前に聞いたことがあった。求愛にも渇仰にも似たその声を。


 虹色の翅が、紫薇の脳裏を過ぎった。


 一瞬、紫薇の意識はどこかに持っていかれそうになった。その姿を白い亀鯨が見ると、大きな体がミルク色の海面から抜け出し、地面に向けて真っ逆さまに落ちていった。紫薇がもとに戻ったのは白い亀鯨が目の前に降ってきたときだった。

 「うっ…!」

 思わず紫薇は目を閉じた。乱れた水の音が耳を打ち付ける。紫薇は水に濡れたような錯覚に苛まれ、思わず息を止めてしまった。しかし実際には濡れていないことを感じると、水の残響を聞いたまま目を開いた。そこには白い水飛沫の中に二人の女が向かい合って立っていた。

 一人は目尻をピジョンブラッドの化粧に染めた、深い青眼をした女だった。年は二十二、三だろうか。髪の色は更に深いインダゴ、口元には薄っすらとアランチョーネの口紅を走らせている。毛髪の全てを黒いシュシュで一つに纏め、淡いベージュの下地にトップレスの様な服を着ていた。腰周りには幾つもの白い羽根が重なった様なパニエを履き、左手には二の腕まで伸びた手袋を嵌めていた。

 もう一人は瞳も髪の毛もプラチナブロンドの女だった。年は二十六、七くらい。胸まで伸びた髪の毛は半分くらいからくしゃっととしていた。目元にやや暗いアイシャドウを付け、頬にはオレンジブラウンの粉を塗していた。色白の肌の上にローズピンクの口紅が目立つ。服装は黒で統一されていた。ジャケットの下にはブラウスを着て、すらりと伸びたロングスカートの先にはブーティを履いていた。

 紫薇は声も出せないまま突っ立って二人を眺めてしまっていた。いつの間にか景色は元に戻っていた。夜の静寂が今では疎ましかった。

 「今の…何だったのかしらね?」

 初めに口を開いたのは青い髪の女だった。

 「見たこともない場所だけど…あなたは何か知ってる?クレシェント」

 その受けに答える前に銀色の髪の女は紫薇と視線が合った。鼠色とは訳が違う、微かな光も逃さないそのアージェントは、外の光を浴びて深々と照っていた。銀色の髪の女は視線を紫薇から外すと、低い声で話した。

 「それがわかった所で何だって言うの?貴女とのやり取りはもう懲り懲り…これ以上、付き纏われても迷惑よ」

 「つれないのね、あんな場所まで追いかけてあげたって言うのに…。ここがどこかわからないけど、続きを始めましょうか」

 そういって青い髪の女が右手を体から離すと、細い腕が瞬く間に膨れ上がっていった。肌の色は漆を塗ったように無機質な光沢を持ち、細い指は握った拳ほどの大きさまで膨らんで棘のようになった。自分の体の倍はあろうかその右腕を軽々と持ち上げると、手の平を広げて棘となった指先を突き立てた。

 一方、銀髪の女は目の前で起きた光景など見慣れているかのような態度だった。その代わり眉間にしわを寄せ、据えた目先で剣幕の表情を向ける。

 「何なんだ…一体…」小さく息を吞みながら呟いた。

 紫薔は日常とかけ離れた二人の顔つきに圧倒されて冷や汗まみれだった。まるで自分の存在がだんだんと縮こまり、巨人を前にしている様で足がもたついていた。意思に反して踵が下がる。そして気付かないうち、傍に転がっていた鉄パイプを蹴ってしまった。

 「!」

 金属音の叩く音が響き渡る。いけない、と紫薇は思いつつも二人から目を逸らせなかった。そしてすぐに後悔した。音に反応して二人の視線が向けられ、抜身の刀のような殺気が紫薔を突き刺した。

 青い髪の女は小さな獲物を見付けた様に笑みを浮かべると、紫薇に向かって駆け出した。既に目は狂気に満ちていて、紫薇の命を刈り取る事しか考えていなかった。石火の様な彼女のスピードに紫薇が対応できる筈もなく、ただ目を引ん剥いたままその光景を眺めることしか出来なかった。

 紫薇の視界が真っ黒になった。その途端、銀色の光が闇を照らした。光の正体は柔らかな銀色の髪の毛だった。いつの間にか銀髪の女が紫薔の目先に立っている。振りかざされた青い髪の女の巨大な右腕の一振りを身を呈して庇っていたのだ。

 「ぐっ…!」

 大きな棘の指が銀髪の女の体に深く突き刺さっている。陥没した肉の隙間からじわりと血が溢れると、強い鉄のにおいが辺りに撒かれた。銀髪の女の顔は苦悶に歪み、必死に体に食い込んだ棘を引き抜こうとしている。青い髪の女はくつくつと笑いながらその姿を眺めていた。

 「そういう所は相変わらずね…。見捨てて置けば私に一太刀でも入れられたでしょうに。馬鹿ねえ、あなたって…」

 「あがっ…」

 窪んだ肉が軋みを上げる。青い髪の女は握り締める右手に力を入れた。銀髪の女は悲鳴を一つ上げると、抵抗していた両手をぶらりと下げて頭を垂れた。糸の切れた操り人形のように全身の精気が抜け、そのまま巨大な右腕に体を持ち上げられた。青い髪の女はその操り人形を遊びに飽きた子供のようにぞんざいに振り回すと、ビルから放り投げた。血の軌跡を後に描きながら、銀髪の女は宙を舞って落ちていった。

 鈍い音が紫薔の耳奥を叩く。物を落としたときの音とは明らかに違う、肉が地面に叩き付けられた音だった。紫薔は叫び声も忘れてその音を反芻してしまっていた。青い髪が夜空を背になびく。鈍い恍惚の笑みを浮かべた女が紫薔を見下ろしていた。紫薔はその景色が自分の最後なのだろうと観念した。

 だが突如として景色が移り変わった。青い髪の女は目を見開いて、自分の目先を疑った。赤い帯が自分の胸元から伸びて、空に向かって突き立っている。青い髪の女は目を見開いたまま、出来るだけ瞳を後ろにやった。そこには地面に落とされた銀髪の女がいて、人差し指と中指を合わせた爪の間から赤い帯が伸びていた。その先端は自分の胸の辺りを貫いている。

 「(心臓に…掠めた…!)」

 青い髪の女は巨大な右腕を使って赤い帯を握り締め、粉々に砕いてみせると顎を落としてつま先からよろけた。細い穴から血が溢れ出る。左手で傷を抑えていても、歪んだ顔は元に戻らなかった。

 「…やってくれるじゃない、クレシェント…。この借りは、後で必ず返してあげるわ…!」

 そういってその場から床を蹴って飛び跳ねた。跳躍した高さは十メートルほどで、夜のネオンに飛び込むとその姿を消した。

 嘘の様な静寂が流れた後、紫薇の足がやっと動いたのはそれから少し経った後の事だった。冷たいそよ風が紫薇の頬を打つと、はっとして二階の淵に走った。原っぱの真ん中、紫薇が顔を覗かせると、そこにあの銀髪の女は倒れていた。

 紫薔はしばらく二階から動けなかった。銀髪の女は青い髪の女と同様に自分に対して殺気を向けていたせいで、いつまた襲われるか気が気ではなかったからだ。しかしふと自分を庇ってくれたことを思い出すと、足早に階段を下りていった。

 指先を震わせながら銀髪の女が横たわっている場所まで近付いた。風に吹かれて銀色の髪の毛が頬に取り付いている。そこで初めて銀髪の女の顔が青白く冷めていることに紫薔は気付いた。同時に銀髪の女が持っていたある種の神秘性を感じた。

 目と鼻の黄金比はぴたりと的確な位置に置かれ、フェイスラインや鼻の形、骨格から腕の太さまで、どれを取っても完璧な、まるで人でありながらも人の不完全性の美を否定したかの様な体をしていた。紫薇はそれに一握の好奇心と、深い嫌悪感を知った。ショーウィンドウのマネキン。その言葉がぴったりな女だと紫薇は思った。ただマネキンと違ったのはちゃんと生を受けて、血が通っているという事だった。その証拠に首の辺りが血でべっとりと汚れて、てらてらと照っていた。

 「だ、大丈夫か…」

 紫薇が銀髪の女を揺り動かした途端、ぎらりと二つの鈍色の瞳が光った。そして瞳の真ん中が紫薇を捉えると、銀髪の女の手が伸びて紫薇の首ねっこを掴んだ。

 「がっ…!」

 みるみる内に紫薇の顔はうっ血して頬が赤く染まり、両足のつま先が宙を浮いた。紫薇の意識に反して目先が上を向く。紫薇はこめかみの奥が破裂しそうな痛みを襲われていた。

 「え…?」

 紫薇のうめき声の中を呟きが過ぎた。

 銀髪の女は自分が首を絞めている相手に気付くと、慌てて指先の力を抜いて腕を手元に寄せた。

 振り解かれた紫薇は地面に転がりながら何度もせきをした。左目からじわりと涙を浮かべ、口元から垂れたよだれを拭いながら銀髪の女に近付いたことを後悔した。同時に恩を仇で返されたような気持ちになり、怒りがふつふつと沸いて来るのだった。

 「助けてやろうと思ったのに…随分と酷い手打ちだな、糞ったれ…!」

 紫薇は心の底から吐き出した憎悪をぶつけたつもりだったが、その激しさはぷつりと消えた。紫薇が顔を上げたその先には、どうしようもないほど悪びれた顔がそこにあったからだ。端正な顔立ちを崩すほど眉間にしわを寄せ、下唇を噛んだその姿を見て、紫薇はいつの間にかどうでもよくなっていた。

 「ご免なさい、貴方が…ジブラルかと思って…」

 右手を抑えながら銀髪の女はそういった。

 「俺を庇ったと思ったら、今度は殺そうとする…。滅茶苦茶な奴だな…」

 紫薇は肩を震わせながら立ち上がる。紫薇の首の辺りにはくっきりと彼女の手の痕が残っていた。

 「ご免なさい…」

 そういうと銀髪の女は視線を下げて黙った。

 「………………」

 紫薇もそれ以上 何か口火を切ることはなく、黙ってしまった。火照った頬を静かな風が冷ましていく。そうしていると、紫薇は人差し指に懐かしい痛みを思い出していた。親指で人差し指をさすると、遠い日の残響が自ずと浮かんだ。


 その昔、紫薇は一匹の動物を助けた事があった。紫薇は小さい頃からどんな動物にも嫌われてしまうという珍しい体質を持っていた。懐き易い飼い犬はおろか、近付いた動物は紫薇に恐れを抱いたかの様に一目散に逃げていった。無理に触ろうとすると噛み付いてくるものもいた。紫薇はいつしか人だけでなく、動物も避ける様になってしまった。そんな紫薇に、一匹だけ懐いた動物がいた。

 真っ白い毛皮を持った、猫のような細い体に狐のような太いしっぽ、顔は犬に近いが頭には鹿のような小さい角を持っていた。二人の出会いは最悪だった。紫薇がいつものように散歩をして、今日はいつもより遠い所に行ってみようと、知らない場所まで足を伸ばし、その帰りはすっかり遅くなってしまって、空は真っ暗になっていた。まだ幼い紫薇にとって暗闇は恐怖の対象で、泣きべそをかきながら家路を目指した。そこに縄張り争いか、数匹の野良猫が呻き声を上げながら喧嘩をしていた。紫薇はその声から逃げる様にその場から離れようとしたが、ふと喧嘩していた猫たちの方を見ると、どうやら縄張り争いではなく一匹の動物を虐めているようだった。その動物は白い毛皮に覆われていたが、体中血で真っ赤に汚れて必死に丸まりながら、猫たちの猛攻を我慢している。その光景を見て紫薇は生まれて始めて誰かを助けたい、そう思った。

 足を震わせながらゆっくりとその場所へ近付いていった。案の定、猫たちは紫薇の気配を感じ取ると、蜘蛛の子を散らしたように逃げていった。やがて最後の一匹が紫薇に威嚇を一つすると、悔しそうに尻尾を巻いていった。紫薇はほっとしながら動物に近付いて、その柔らかそうな白い毛を触ろうとした。

 「痛い!」

 途端、その動物は紫薇の指を思い切り噛み付いた。犬歯の先端が皮膚の深くにまで突き刺さっている。紫薇はやっぱりと絶望してから殺意を抱いた。自分の事を敵だと思っているのなら、いっそ殺してやろうと紫薇は傍にあった石ころに手を伸ばした。殺気に気が付いたのか、噛み締める強さが増した。手から血が流れ出す。その血を洗い流すかの様にいつしか雨が降り始めていた。

 紫薇は石を握り締め、こめかみに狙いを定めた。自然と喉が鳴る。思い切り殴ればこの右手の痛みも収まるだろうと、紫薇は意を決してその動物の目を見た。円らな真っ黒い瞳。その目には恐怖しか映っていなかった。そしてその表面には恐怖を具現化した紫薇の剣幕が映っていた。すると紫薇は、急に自分のしようとしている事がとても悲しい事のような気がして、気付けば手を下ろしていた。噛み締める牙は依然、その力を弱めない。

 「ごめんね…」

 小さい声で紫薇はそう呟いた。その言葉が静かに辺りに響くと、その動物は牙を指から離し、代わりに傷を癒すかのように傷を舐めた。そして初めて紫薇は、自分以外の温もりを知った。


 出会いは最悪だった。今の紫薇と、銀髪の女のように。


 「…悪かったな」

 紫薇はいつしかあの時の光景を重ねてしまっていた。

 「え?」

 銀髪の女は不思議そうな顔をした。

 「いや、前にもこんな事があったんだ…」

 紫薇は少しだけ口元を緩めると、銀髪の女に背中を向けて歩き出した。

 「付いて来い。怪我の手当て、してやるよ」

 「でも私は…」

 「嫌なら別に良い。勝手にどこかで野たれ死ね」

 「………………」

 銀髪の女はその言葉に衝撃を覚えたが、辺りを見回すと困った顔をしながら紫薇の後について行った。

 歩き出してから十分ほどした頃だった。ふと紫薇の後ろから鈍い音がした。紫薇が音の方向に振り向いてみると、銀髪の女が膝を崩してそのまま横に倒れていた。

 「お、おい…!」

 紫薇は銀髪の女の体をゆすってみたが、浅い呼吸を繰り返すだけで反応がなかった。頬からは血の気が引いてしまっている。

 「クソっ…どうする…」

 紫薇は携帯を持っていなかった。付近に病院の看板はない。紫薇は狼狽しながらも一つ覚悟を決めた。銀髪の女の腕を引っ張り、胸を首の後ろに乗せた。そのまま太ももを抱えて腰を上げようとしたが、普段から運動もしていない紫薇の筋力では簡単に持ち上がらなかった。

 「くっ…そ…」

 大粒の汗を額につけながら、何とか体を持ち上げて右足を前に出した。

 「間に合わなくても…化けて出て来るなよ?こっちも必死にやってんだ…!」

 少しずつだが紫薇は前に進むことが出来た。時間にして五分も経っていないにも関わらず、既に紫薇の体は汗でぐっしょりと濡れていた。途切れ途切れに聞こえる銀髪の女の呼吸音を耳元で確かめながら足を動かす。

 「ご免…なさい…」

 「お前のせいですこぶる機嫌が悪いんだ。わかったら黙ってろ…」

 紫薇には余裕がなかった。腕が痺れて今にも手を放してしまいたくなる気持ちを必死に抑え、紫薇は前に進んでいった。

 家に辿り着くまでどれだけ時間がかかったか紫薇にはわからなかった。膝を笑わせながら、悲鳴交じりに息を吐いている。紫薇は家のドアにもたれかけるようにして鍵を開けた。玄関で靴を脱ぐ余裕もなく、そのまま廊下を歩いてリビングに出た辺りから紫薇の限界が達した。銀髪の女を背負ったまま、膝を崩して前に倒れ込んだ。紫薇は胸の辺りに鈍い痛みを感じたが、それでも瞼は勝手に閉じられていった。意識が落ちる寸前、柔らかな刺激が鼻を突いた。それが銀髪の女の髪の毛で、香水のにおいだとわかったのは次に目を覚ましてからだった。


 雨が止まない。紫薇は夢の中で記憶の続きを眺めていた。しとしと降る雨に打たれながら、幼い紫薇は棒立ちしていた。傘も差さずにじっと目の前に横たわっているものを見つめている。それは口を半開きにしたまま固まっていた。視線はどこか遠くを見ていて、その瞳に紫薇の姿を鈍く映した。雨の残響がいつまでも止まない。紫薇は自分の幼い姿をただじっと見詰めていた。


 目頭に痺れるような痛みがすると、紫薇は静かに目を開けて覚醒した。

 「嫌な夢を見ちまった…」

 紫薇は体を起こして濡れた目を袖で拭った。そしてほんの数秒してから唐突に昨日のことを思い出した。

 「あの女は…!?」

 背中に乗っていた銀髪の女がいなかった。紫薇は彼女が死んでいないことを安堵すると、鼻で息を吐いた。

 「出て行ったのか…。部屋で死なれるよりはマシか…」

 紫薇が半渇きの制服から着替えようと、立ち上がったときだった。背中の方から誰かの気配を紫薇は感じ取った。

 「お前…」

 そこには銀髪の女が立っていた。まだ紫薇を警戒しているのか、表情を崩さすただじっと紫薇を見つめている。

 「いたのか…てっきりどこかに行ったと思ってたが…」

 「まだ貴方にお礼を言っていなかったから…助けてくれてありがとう」

 銀髪の女は顔の様子を変えずにそういった。

 「怪我は…大丈夫なのか?」

 「ええ、あれ位なら安静にしていれば塞がるから…」

 紫薇は銀髪の女がいったことを信じられなかったが、昨日見た血の気のない頬がうっすらと桃色になっているのを見て信じざるを得なかった。

 「安静にしていれば、ね…。確かにその面を見れば大丈夫そうだな。にわかに信じられないが、どうも普通じゃないらしい。昨日 見たあの青い髪の女もそうだった。お前ら、人間じゃなさそうだな」

 そういうと銀髪の女は気まずそうに視線を下げた。

 「黙るなよ、余計に勘ぐりそうだ」

 それでも沈黙を止めない銀髪の女に紫薇は困ってしまった。それは会話が続かないこともあって、紫薇は必死に繋ぎを考えた。

 「お前、名前は?」

 やっと考え抜いた言葉が名前だった。それまで答えなかったらどうしようと紫薇は思っていたが、銀髪の女は意外そうな顔をした。

 「私は…クレシェント、クレシェント・テテノワール。貴方は?」

 「紫薇だ」

 名前を教え合った後は再び沈黙が始まった。紫薇は聞きたいことは山のようにあったが、それを言葉に乗せて発することが中々できずにいた。そんなとき、クレシェントから口火を切った。

 「…どうして、助けてくれたの?」

 紫薇はその問いを聞いて鼻で笑うと、クレシェントは怪訝な顔をした。

 「お前が…あいつに似てたからかな」

 「あいつ?」

 「昔、助けてやった動物に似てたんだ。お前と同じで、最悪の出会い方だったよ…。指に噛みついてきて食い千切られそうになった。お前には首を絞めて殺されそうになったから、遥かにマシだったがね」

 そういうとクレシェントは気まずそうに上目遣いで紫薇を見た。

 「だからかな、お前を放って置けないと思ったのは」

 「…初めに私が貴方を助けたからじゃないのね」

 「ああ、それもあるかもな」

 「可笑しな人ね、それに酷い人だわ…」

 そういってクレシェントは小さく笑った。その姿はマネキンが笑ったようで紫薇は少しだけ身震いした。

 「とち狂った格好のお前に言われたくないがな」

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