#4:接敵

 玄関にある姿見の前で、わたしは自分の格好を確認していた。

 赤と黒の大きい市松模様の着物に、海老茶色の袴。あまり汚れの目立たないものを選んだけれど、大丈夫だろうか。

 くるりと回ってみる。首にかけたカメラが揺れる。

 うん、大丈夫そうだ。

 靴箱の上に置いておいた袋を手に取る。綺麗にラッピングされた袋。中には様々な型のチョコチップクッキーが入っている。それを持ってきた巾着袋の中にしまう。

「じゃあ長峰ちゃん、帰るね」

 家の奥に向かって呼び掛ける。返事は帰ってこない。

 …………よし。

 ブーツを履いて、外に出た。一昨日の吹雪が嘘のようにからっと晴れていて、日差しがぽかぽかと暖かいくらいだった。

 玄関を出て、少し迂回する。長峰医院の入口の前に出る。医院は閉院の札を扉にかけていて、中も静まり返っている。扉には張り紙がしてあって、ここ数日の臨時閉鎖を詫びる文章が書かれていた。

 かつん、かつんと。

 ブーツの足音を響かせて、医院を後にした。

 すぐ近くのタクシー乗り場へ向かう。そこには、一昨日と同じように青いタクシーが止まっている。

 タクシーに近づくと、ドアが開く。するっと、中へ入る。

「久山田まで」

「はい」

 ドアが閉まり、車が動き出す。なめらかな滑り出し。個人タクシーだけあって、そこそこいいハイブリッド車を使っているようだ。

 ちらりと、運転手を見る。運転手はそれなりに年季の入った中年男性だ。日差し除けのサングラスと、この一年ですっかりわたしたちの生活には欠かせないものになった不織布のマスクで人相は分からない。

 タクシーは一般的なものがそうであるように、運転席と後部座席がアクリル板で仕切られてはいない。普通、後部座席の客が運転手に暴力を振るえないようアクリル板で仕切るものだけど、このタクシーはそうなっていない。それはなんだか不自然なように思えたけれど、まあいいやと思った。

「いやあ、それにしても、嫌になっちゃいますね」

 わたしは運転手に話しかける。

「新型感染症が流行ってから、もう一年になるんですから。でもワクチンもできたし、もう大丈夫ですね」

 言って、わざとらしく腕をさすった。

「お客さん」

 運転手が白い手袋をはめた手でハンドルを握り直す。

「ワクチンを?」

「ええ。さっき、長峰医院で。尾道だとあそこしかワクチンを扱ってませんから、行くのが大変で」

「そうでしょうね」

 車はスムーズに道を進んでいく。雪も溶け切って、路面状況も万全だ。

「お客さんは…………」

 運転手が話を続ける。

「ワクチンを打つのは、怖くなかったんですか?」

「怖い?」

「ええ。なにせ得体の知れないワクチンでしょう。平時と違って、緊急に作られたものだ。どんな副作用があるか分かったものじゃない」

「ああ、そんなことですか」

 わたしはひらひらと手を振った。

「ワクチンは安全ですよ。世界中の医者が寄ってたかって調べて確かめたんですから。それにこの21世紀にワクチンを疑うなんて馬鹿らしい。人類の英知を疑っていたらキリがないでしょう」

「そう、ですね」

 運転手はそれで黙った。

 車は、先へ進んでいく。

「ワクチンと言えば、最近変な事件も多いですね。ワクチン接種者を狙った殺人事件だとか」

「それはまた妙ですね」

「ええ。犯人はどんな動機でワクチン接種者を狙うんでしょうねえ。ウイルスが中国のバイオ兵器なら、ワクチンも同じく中国の陰謀だと思って、ワクチン接種者がもっとひどいウイルスを投与されていてばら撒くと思い込んでいて殺したとか? いやあ、分かんないです」

「そんな陰謀論めいたことを……」

「でもあながちあり得なくないでしょう? ここ最近、世界は陰謀論だらけです。大統領選挙が不正だと思い込んだ連中が国会議事堂を襲撃するのに比べたら、ワクチンの陰謀論にハマった犯人が殺人を犯すのは個人的という意味では、アメリカの例よりは現実的では? 向こうは何万人単位でイカレポンチがいないと話になりませんけど、こっちはとち狂ったやつがひとりで済む」

「…………………………」

「まあ、反ワクチンなんて馬鹿のすることにまんまと乗っかるようなやつが、六人も殺してまんまと逃げおおせるほど殺人鬼として理知的ってのも妙ですけど。裏で誰かが糸を引いているとか……それこそ陰謀論っぽいですか」

「誰が裏で糸を引いていると?」

「さあ…………。ジェスター・モリアーティ、探偵撲滅団Ω、ナインボール、青空教唆クラブ……。裏で犯罪の糸を引いていると噂される存在はそれこそ陰謀論も含めれば山とありますから」

 だが。

 この事件に関しては、誰が後ろで蠢いていようと関係ない。

「でもですね、わたしは思うんです。警察は馬鹿なので犯人が全然分からないようですが、ワクチンキラーの動機はともかく正体についてなら容易に分かるって」

「……………………」

 運転手は、こっちをちらりとも見ない。

「なぜワクチンキラーは、ワクチン接種者を狙い撃ちにできたのか。その答えは簡単です。

 ワクチンキラーの正体を見極める上で重要なのは、どうして犯人がワクチン接種者を狙えたのかという点だ。いわば方法論ハウダニットの領域。そこさえ判明すれば、動機論ホワイダニットは重要じゃない。

「聞くんです。あなたはワクチンを打ちましたかって。そうすれば相手がワクチン接種者かどうか分かります。それで目的の人間なら殺せばいいし、そうでないなら見逃せばいい」

「しかし、それでは」

 運転手が聞き返す。

「目立ちすぎるのでは? そんなことをして回っている人間がいれば、嫌でも警察に情報が入るでしょう」

「ええ。ですから、さりげなく。世間話として聞いても不自然ではない時とタイミングを選んで聞いたんです。例えば…………」

 そう、例えば。

「……………………」

「長峰医院の傍にはタクシー乗り場があります。そこでタクシーに乗った人に、犯人は聞くんです。『ワクチンを打ちましたか』と。タクシー内の世間話をわざわざ警察に届ける人はいませんし、車内という個室での会話なら他の人にも漏れないから目立たない。そして病院を出てすぐの人間、このご時世に選ぶ話題としては適当なので違和感もないと」

「つまり、犯人はだったと?」

「そういうことになりますね」

 タクシーの利点は、何も世間話のふりをしてワクチン接種者をあぶりだせることだけじゃない。

「運転手さんは知らないかもしれませんが、警察の捜査によると被害者の死体が発見された周囲では、不審な車の目撃情報がないとか。もし犯人が被害者を発見現場に連れていくのなら、車はほとんど必須のはずなのに。ですが、タクシーならこの答えも明確。目的のワクチン接種者だと判明したら、犯人の運転手は被害者を乗せたまま現場まで走ればいい。タクシーなら普段見慣れないところに停まっていても、まあそんなもんかと誰も気には留めない」

 近所の人間がタクシーを使ったんだろうくらいに思う。少なくともから、警察にも報告が上がらない。

「………………ん?」

 そこまで話して、ふと外を見る。

「あれ、運転手さん。道が違いますよ」

「……………………」

 わたしを乗せたタクシーは、ぐんぐんと知らない山道を進んでいく。

 そして。

 適当な路肩を見つけると、そこに停車した。

「お客さん」

「……………………」

「お客さんは、そこまで分かっていてなんで私が犯人だと思わなかったんですか?」

「…………ああ」

 運転手は、サングラスとマスクを外す。もっと凶悪な面をしているものだと思っていたけど、案外、どこにでもいる普通のおじさんという顔つきだった。

 まあ、わたしもそれなりの数殺人犯を見ていたけど、凶悪さが顔に出ているタイプなんてそうそう見なかったな。

「いえ、最初から分かってましたよ。長峰医院で客待ちをする青い個人タクシー。その運転手が犯人なんじゃないかと。確証はなかったので、自白してもらうことにしました」

「ほう、じゃあ私はまんまと釣られたわけだ」

 こっちを見ながら、運転手は真顔で答える。

「お客さんは何者だい」

「一昨日、乗っけてもらったんですけどね」

 マスクを外す。

「ほら、NG探偵事務所まで」

「……あのときの。なるほど。あそこには名探偵の猫目石瓦礫の外に、もうひとり女の子がいるとは聞いていたが、お客さんがそうか……。大人の女性だと思っていたから油断したな」

「ふふん」

 ほら。やっぱり着物を着ると大人っぽく見えるのだ、わたしは。

「しかし、まさかここまで特定されるとはね。それとも、タクシー運転手までは分かっていても、私だとは分からなかったのかな?」

「いえ、大筋であなたが犯人だろうと睨んでいましたよ」

 巾着袋の中を探りながら、わたしは答える。

「タクシー運転手だろうと犯人を仮定して、すると問題なのはどのタクシー運転手なのか、というところでした。しかしどこかの会社に所属する運転手ではないだろうなとはなんとなく想像がついた。タクシーはメーターが回るしガソリンも消費する。しかし被害者の金品は手を付けられた跡がない。つまり被害者を運んだ分の料金とガソリンを犯人はごまかしている。わたしはタクシー会社の経営には詳しくないですが、会社に属するタクシーよりは、個人タクシーの方がその辺はごまかしが効くだろうと思ったんですよ」

「ふむ……」

 このあたりは、たぶん師匠も気づいている。手前で降りたとはいえ、わたしはこのタクシーで一度事務所に戻っているわけだし。そうでなくても最近は個人タクシーも珍しくないから、犯人が個人タクシーの運転手だと師匠はすぐに推理したんだろう。

 長峰医院でワクチンを接種した人間が殺されたという、ただそれだけの情報で。わたしはこうして体を張らないと分からないけど、師匠は初歩的な情報だけで推理してしまう。

 やっぱりすごいな、師匠は。

「じゃあ、わざとらしくワクチンの話題を出したのも……」

「ええ。運転手さんにわざと狙われるためです。ちなみにわたしは十四歳なのでワクチンは打てませんし、そもそも長峰医院は臨時閉鎖していました」

「臨時閉鎖……。そうか。それは知らなかった」

 まあ、タクシー乗り場からだと長峰医院の張り紙は見えないからな。

「さて、罪を認めて自首してくれれば、それで話は終わるんですが……」

「それは、無理な相談だな」

「ですよねー」

 巾着袋から取り出したスマホを見る。圏外だ。いくら山の中でも、そうそう圏外になるはずがない。死体発見現場も、大学の傍など圏外になるはずのない場所が多かった。それなのに被害者はタクシーに乗せられて運ばれる間、警察に連絡しかなかった。

 おそらく、タクシーにジャミング装置が仕掛けられている。コンサートホールなどで使われる、強制的にスマホの着信を防ぐための装置。そんなものをどうして個人タクシーが持っているかは知らないが……。

 ドアの鍵を操作する。レバーをガチャガチャと動かしても、手ごたえがない。こっちからだ開錠できないようになっている。手抜かりなく改造済みか。

 閉じ込められた。

「あらら」

「君は、動機については分からないと言っていたね」

 運転手がジャケットの懐を探る。

「ええ。ぜひ聞きたいですね」

「答えは簡単だ。賢しらにしている連中が右往左往する様は、面白いからだ」

「……………………」

 それは…………。

「ワクチンを不安に思うのは馬鹿のすることだと? 人が当然抱える不安を馬鹿にして、それで連中は自分が賢いと思い込んでいる。それが逆に馬鹿らしいと私は思うんだよ」

「別にワクチン接種者は、ワクチンを不安に思う人を馬鹿にしているわけではないと思いますけど」

「そうかい? わたしが殺した連中は例外なく、聞きただすと自信満々にワクチンを打ったと言ったよ。そして私がワクチンに対する不安を口にすると、みんな同じような反応を返した。ワクチンに不安を覚えるのは馬鹿のすることだと」

「……………………」

「だがワクチンに不安を覚えて何が悪い? 考えてみてくれ。世界ではウイルスの検査を拡充させて罹患者を早期に隔離する方針を取った。その結果、感染を封じ込めるのに成功している。しかし日本では、そういう方針を打ち出すべき医療関係者が、こぞって検査を抑制したじゃないか。検査をすると陽性者が増えるという意味不明の論理展開でね」

「それは……」

 そういうこともあったな。検査はあくまで感染者を判明させるものであって、検査をしようがしまいが感染者は感染者として現に存在する。だが、どういうわけか検査をすると感染者が増えるということを、医療関係者は言い募った。

 そこには早期的な対策で成功したアジア諸国への、差別的やっかみがあったのだろうと、師匠は言っていた。

「そうやって初期の対策を骨抜きにしておいて、今更ワクチンができたから接種しましょうと連中に言われて、それをはいそうですかと受け入れる方がどうかしている。そういう間違ったことをした連中が、そのことに対する反省もないまま、突然足並みを揃えたようにワクチンワクチンと連呼する。これはもう、不安を通り越して恐怖ですらある」

「それは怖いでしょうね」

 なにせ信用できない連中が、まるで口裏合わせをしたかのように「ワクチンを打ちましょう」「ワクチンは安全です」と言い出したのだ。警戒して当然だ。

「不安を覚えるのは当然だ。恐怖を覚えるのも自然だ。それなのに、中にはワクチンの安全性を連呼して、不安を覚えるものを馬鹿にして、それで自分は賢くなったつもりのやつがいる。私はそういうやつを殺すのが、たまらなく楽しいのだ」

「なるほど」

 理解は、しなくていい。

 ただ記憶すればいい。

 殺人の動機など、はなから余人には理解できない。人は太陽が黄色かったという理由でも、殺人を犯せるのだから。

 大事なのは理解できるかどうかではなく、当人は少なくともどう思い、どう感じて殺人を犯しているのか。その一点だ。

「それで? どうやってワクチンを打って賢しらになっている連中を殺したんですか? ただ普通に殺すだけでは、つまらないでしょう?」

「これを、使う」

 運転手は、会計用のトレーの上に小さい小瓶をふたつ、置いた。

 中には一錠の、薬が入っている。

 そうか。

 そういうことね。

「君のワクチン云々の話は、あくまで私を釣るための餌だった。だが私の正体を知ってもなお、臆さない君もまた、自分は賢いと思っているという意味では私の殺害対象だ」

 運転手が言葉を続ける。

「ゲームをしよう。このふたつの錠剤のうち、ひとつだけがヒ素だ」

「……………………」

「これを互いに選び、飲む。君がヒ素を飲んで死んだらわたしの勝ちだ」

「あなたがヒ素を選んで飲んだら、あとは運転席から鍵を操作して好きに出られると」

「そういうことだ。君に選択権を与えよう。私は残った方でいい」

「……………………ふむ」

 二者択一のゲーム。

 被害者の体内から、飲みやすいよう加工されたタブレット状のヒ素が発見された理由は、このゲームか。

「しかしよく、これまでの被害者はこんなゲームを受けましたね。わたしだったら暴れてでも無理に脱出しようとしますけど」

「連中は自分を賢いと思っていたからね。面白いくらいするっとこのゲームを受け入れたよ。私も正直驚いている。最初はこんな方法で殺せるのか、半信半疑だったからな」

「でしょうね」

 うぬぼれとは、恐ろしいものだ。

 さて。

 わたしは、どちらを選ぶ?

 小瓶を観察する。見た目には同じものだ。しかし、何か差異がある、と考えるのがこの場合普通なのだろう。だって、六人だ。目の前の男は、このゲームに六回勝利している。何かタネがないといけない。

 どうやって、あいつは被害者にヒ素を選ばせ――――。

「………………ああ」

 そこまで考えて、気づく。

 違うな。

 わたしは、懐から。

 ナイフを取り出した。

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