★26★ 三人のすれ違い。
一週間前の結婚記念日の約束通りルネと一緒に教会を訪ねて来たのだが、珍しいことにクリストフ神父は教会にも孤児院の方にもいなかった。いつも神父にぶら下がっている子供達に居場所を訊ねても一様に『知らない』と言い、シスター達も同様の反応を示した。
それだけならばまだ良かったものの、誰もが前回見た死顔よりも少し悲愴感が漂うようになっていれば、嫌でも何かしらの変化に気付く。協力を得られないとなれば、後はルネの居場所を訊ねて彼女と合流するかと思案していたところで、最後のあてに選んだ畑でその後ろ姿を見つけることができた。
仕事の手を止めさせるのも忍びないので声をかけずに近付くと、相手がこちらの気配に気付いたのか振り返る。その人好きのする穏やかな微笑みの向こう側にうっすらと浮かんだ死顔に、一瞬近付こうとした足が止まった。
そんなこちらの動揺に気付かずに、クリストフ神父は額の汗を首からさげた布で拭いながら、ゆったりとした足取りでこちらに近付いてくる。
「やあ、来ていたのか。いらっしゃい。今日は割と常識的な薬の量みたいだね」
「つい二十分ほど前の馬車で到着したところだ。薬はそうそういつも大量に仕込むわけじゃない。今回は本職の方が忙しくてあまり仕込む時間がなかっただけだ」
「成程、それでは不安を感じていないわけではないようだね。畑の手入れも一段落ついたところだから、部屋で煙草でも嗜みながら情報交換でもどうかな?」
深みのある穏やかな声音は常と変わらず、薄い水色の瞳は私の手許にある鞄を映して、やや面白がるような口調もそのままにからかわれた。
けれどその横顔にあるのは悲憤に歪んだ死顔で、以前までの満ち足りた終わりを感じさせるものではない。
「それで構わない。今日は彼女にルネのことで礼を言いに来たのだが……やけに子供達の声が少ないな。何かあったのか?」
「あったというか、これから“ある”が正しいかな。シスター·マリオンが少し離れた土地にある修道院に移りたいと言い出してね」
「ああ……それで。しかし急な話だな。その口ぶりだとまだここにいるのか?」
「はは、君はあまり驚かないね。まだここにいるよ。教会にやってくる人はこの話をすると、みんな大抵驚くのに」
「私はルネと違ってあまり彼女と接点を持っていないからな。ルネはきっと他の人間のように残念がるだろう」
薄情だと思われようがそれが事実だ。ルネさえ傍にいてくれるのであれば、その他は何もいらない。仕事以外で唯一手許に残るのも、残すのも、彼女をおいて他になかった。
こちらのそんな反応は想定内だったのだろう。彼は表面上はいつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべる。
「ここの子ども達は彼女に懐いている子も多い。ここが静かに感じるとしたら子達の元気がないからだと思う。あの子達なりに別れが辛くなりすぎないように距離をとっているんだろうね」
関連性があるのかは不明だが、死顔が変わっていなければ無関係だと感じられる言葉も、背景を知ると受け取り方も違ってくる。ただまだシスター·マリオンの一件とは別に、彼の死顔を変える出来事がないとも限らないと思案していると、背後から自分の名を呼ぶ声がして振り返った。
視線の先には仲良く手を繋いでこちらにやってくるシスター·マリオンとルネ。二人の姿を見たクリストフ神父は「姉妹のようだね」と笑い、私も無言で頷き返す。
「トリス、みつけた。しんぷさまも」
「おやおや、見つかってしまったね。こんにちは、ルネさん」
「こんにちは、しんぷさま。マリオンからおはなしがあるのですって。ね?」
挨拶もそこそこに切り上げて性急に話の矛先を変えるルネの背後には、妙に緊張した面持ちのシスター·マリオンが立っている。彼女のことも気になるが、それよりも気になるのはルネの平坦な声音だ。
機嫌が悪いわけではなさそうなので、ひとまず隣にやってきたルネの手をとって様子を窺うことにした。
「うん? 何かな、マリオン」
「あ、ええ……と、あの、ここを発つ前に、今勉強を見てあげている子供達の学習内容について、ご相談が……」
「ああー、そうだそうだ。その話は確かにまだだったね。うっかりしていたよ。教えてくれてありがとう。けれど今から少しトリスタンと話があるから、夜に回してもらっても構わないかい?」
「は、はい、勿論です」
目の前で繰り広げられる教育者同士のやり取りに、何故か、隣に立つルネからは淡く怒りの気配を感じた。しかしまだ怒りを露にする気はないのか、我慢するようにギュッと唇を引き結んでいる。
握っている手を軽く引くと、ルネは私の顔を見上げてそっと唇を動かした。
《だいすきよ、トリス》
そう声には出さず瑠璃色の瞳と唇の動きだけで伝えてきたルネは、ほんの一瞬指の力を緩めた瞬間に私の手を離してその場から走り去る。変化に気付いていながら捕まえ損ねたことに驚いたものの、シスター·マリオンの反応ほどではなかった。
ルネの走り去った方角に向けられた紅玉の瞳は傷付いた側なのか、傷付けた側なのか判別できない。
「おや、待たせて退屈させてしまったようだね。すぐに着替えてくるから、トリスタンはわたしの部屋で先に待っていて下さい。マリオンはルネさんを頼みますね」
この場でただ一人暢気なクリストフ神父はそう言い残すと、こちらの返事を待たずに収穫した作物の入った籠を手に孤児院の方へと去った。残ったのはルネの存在を除けばあまり接点のない私とシスター·マリオンだけで。
処刑人と二人だけになってしまったことに対する怯えなのか、単にルネと喧嘩でもした気まずさからなのか、身を固くしてこちらを窺ってくる彼女に軽く会釈をしてから、今日ここを訪れることにした当初の予定通り礼を述べることにする。
「先日の結婚記念日は、貴女のおかげでとても良い思い出に残る日になった。妻共々感謝している。ありがとう」
それにおずおずと頷いたことを確認してから、ルネの走り去った方を気にする彼女を前に口を開いた。
「今さっきのルネの様子も、ここ最近のクリストフ神父とのことも、何があったのかすべての状況を知っている人物は貴女しかいないわけだが……。もしも良ければこの状況を説明してもらっても構わないだろうか?」
この問いかけにもやはり、彼女は所在なさげに小さく頷いたのだった。
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