★27★ 悪魔の小瓶。

 シスター·マリオンは、ぽつり、ぽつりと、たぶんルネに対してしたのと同じ内容であろう説明を始めた。正直そのどれもが自分は何を聞かされているのだろうといった内容であったのは否めない。


 けれど本人は真剣に悩んでいるし、ルネも同じ気持ちだったからこそさっきのように怒ったのだ。シスター·マリオンはルネの励ましを無駄にしてしまったことを悔やんでいたが、あの状況で言い出せというのが土台無理な話だろう。


 ルネは人の機微に敏くて疎い。そこが彼女の良さではあるのだが、あれは万人に受け入れられるものではないと、世間から大きくずれた私にでも分かる。


 いつの間にか話が終わっていたらしく、居心地悪そうにこちらを窺っていたことに気付いたので、薬を入れている鞄の中から茶色の細長い小瓶を取り出して彼女の方に差し出した。


「あの……これは?」


「妻がいつも世話になっていたから餞別だ。本来なら絶対人にやったりしない危険薬物だが、貴女なら誤った使い方はしないだろう」


「き、危険薬物ですか? その、麻薬や毒物の類いは必要ありませんわ。お気持ちだけで」


 驚いた様子で小瓶と私を見比べた彼女は、至極全うな一般人の反応を見せた。だがこちらとしては、彼女の不毛な想いを後押しするような優しさも、未練を残して去る悲しみもどうでもいい。


 このままだと不幸な死顔になった彼女は、おそらくまだ四十前後でどこか離れた土地で死ぬ。その時にこちらに連絡が届くかどうかは知らないが、要するに私はそうなった時にルネが泣くのを見たくなかった。完全なる自己保身である。


「毒物と言えば毒物だが、よほど常習したりしない限りは大丈夫だ。常習するともれなく廃人になるが」


「そんな危険なものを教会に持ち込まないで下さい。子供達が間違えて拾って飲んだりしたらどうするのです? ご自宅にしまっておいて下さいませ」


「屋敷には金目の物はないが薬物類がな……。本来は受注生産するのだが、よく注文が入るものは原液のストック分を多めに作る。普段のものは希釈したものだから、まぁ、屋敷を空ける時に持ち出さないと盗まれた時に大事になる」


 実際に昔は何度か屋敷に盗みが入った。盗みに入られてしばらくすると、どこかの貴族家で不審死が起きたりもした。


 しかも持ち出したことが公になると、もれなく盗みに入った屋敷の人間に直接罰せられるのだから何とも間抜けな話だが、今はそんなことは記憶の隅に追いやる。


「特にこの毒物は堅物な聖職者に一番効く。堕落は貴女方の職業では最も罪深いと言うからな」


 その言葉に今まで押し返そうとしていたシスターの手が止まった。まじまじと小瓶を見つめる頬に朱が射していく。


「私も一番最初にルネが押しかけて来てからしばらくは、貴女が恐れている内容と同じことを毎日彼女に言った。助けられたと感じている人間の好意は刷り込み現象で、愛ではないと。ただ……あれは恐ろしく話を聞かない上に諦めが悪くて。毎日ああも好意を囀られると、死神でも絆される」


 始めはどこかに放してやろうと思っていた。自由に飛ぶことを知らない傷を負った小鳥が、気まぐれに助けた死神に懐いただけなのだからと。神父にとってのこのシスターも、私とルネと同じような出逢い方だったに違いない。


 だとしたらそこに彼女の思う感情はなかったとしても、一緒に過ごした年月はまったく意味をなさないものではなかったはずだ。


 少なくとも何も感じていなければ、彼女の気持ちに気付いていなければ……彼は彼女がここを去ろうとしても止めるのではないかと、短い付き合いながらも何故かそう思った。


「向こうが話を聞こうとせずに遮られて心が折れそうになったら――……使うも使わないも自由だ。使って相手をそのまま放置して去っても良い。どうせ自力で立ち上がることも難しい状態になる。酷く苦しむには違いないが、一度服用した程度では後遺症のないものだ」


 初夜にルネが使ったものからさらに改良を加えてあるので、今となってはどれほど効果が上がっているのか……実はまだ確かめていない。


 自分で服用しても効果がないというのもあるが、以前より注文の頻度がかなり上がっているので質に問題はないはずだ。まぁ、単に愚かな貴族連中が常習しすぎて中毒になっているという可能性には蓋をする。


「もしも覚悟を決めて使う・・・・・・・・なら希釈する方法を教えるついでに、これも渡しておく。使った翌日は少し体調を崩すかもしれないが“間違い”の痕跡は流れてしまう。相手側は三、四日はベッドから出てこられる状況ではないだろうから、追われる心配もない」


 別にそそのかすつもりはないが、仮に盛るのと同じ量を服用してしまったり、この一件で不幸な目に遭うのも忍びなかった。結局のところ、私はルネだけでなく彼女に不幸になって欲しくはないらしい。


 いつの間にこんなぬるいことを考えるようになったのかと、自分で自分に呆れた。


「――……ありがとう、ございます」


「ルネが貴女の世話になった。貴女は彼女にとって良き師だ。私はそのルネの世話になっている。礼は不要だシスター·マリオン」


「ですがこのことが神父様に知られては、いいえ、私が去ればきっとすぐに知られます。そんなことになってしまったら……ここに、来訪しにくくなるでしょう?」


「どのみち貴女がいないここはルネにとって退屈な場所になるだろうから、今までのように頻繁に訪れることはない。それよりも妻が迷惑をかけたようですまない。彼女に悪気はないのだが、少し踏み込みすぎるところがある」


「いいえ。そこが、あの子の良いところですから」


「――そう言ってもらえるとありがたい」


 二人でぎこちなく微笑みを交わした後、私はルネを探して泣き出しそうな彼女に心配しないでも良いと伝え、何食わぬ顔でクリストフ神父の自室で煙草を燻らせながら情報交換をした。


 夕方に教会を去る間際に駆け寄って来たシスター·マリオンがルネを抱きしめ、小声で「今夜頑張るわ」と決意を固めた表情を見て、ルネも満面の笑みを浮かべて抱きしめ返していた。


 神父にはいつかの私のような気分を味合わせるかもしれないが、そこは死顔が変わる程度に後悔しているくせに向き合わなかった我が身を呪って欲しい。次にこの場所を訪れる時に彼女の姿がここにあるのか、いないのか。


 それは定かではないものの、悔いの残る結果にならなければ良いと。死神の一族らしくもなく祈った。

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