☆25☆ 彼女の先生。

 結婚記念日から数えて約束通りきっちり一週間後。ルネはトリスタンと共に教会を訪ねて来ていた。


 トリスタンが出迎えに現れなかった神父を探しにいくと言うので、いつも遊ぶ子供達にシスター·マリオンの居場所を訊ねて、早速刺繍のお礼を言いに行こうと思っていたのだが――。


 教会の横に隣接した小さな赤い屋根の孤児院。そこの裏手にある物干し場に探し人の姿はあった。結いそこねた赤い髪がチラチラと秋風に遊び、紅葉した葉が風に飛ぶようにも見える。黒と白を基調とした服に散る赤が美しい。


 どこか心ここにあらずといった様子の背中に、小さく「マリオン」と声をかけると、彼女の肩がはねた。ゆっくりと振り返った彼女はルネの姿をみとめ、手にしていたシーツを籠の中に戻してふわりと微笑んだ。


 シスターにしては艶やかすぎる顔立ちの彼女が微笑むと、ここが教会の敷地内であることを一瞬忘れてしまう。実際に彼女を見て不埒なことを思う輩も多い。そんな彼女の顔も覚えていない母親は、王都の大きな娼館で働く売れっ子であった。


 二十七歳という年齢は世間一般では嫁き遅れと言われるが、彼女の華やかな見目の前にそんなことを言う愚か者はいない。実際に、彼女を妻にと望む者は二十七歳の現在に至るまで多かった。


「あら……いらっしゃい、ルネ。神父様に用事かしら?」


 女性にしてはやや低い声は、穏やかで耳に心地好く、紅玉を思わせる瞳には暖炉の火のような温かみがある。


「ううん。しんぷさまにようじがあるのは、トリスだから。でも、あとでマリオンにもようがあるから、こっちにもくるわ」


「そうなのね。けれど貴女の旦那様が私に用事だなんて珍しいわね?」


「マリオンに、おれいをいいたいって」


「お礼? 私達が彼に薬を持ってきてくれるお礼を言うのは分かるけれど……」


「わたしに、ししゅうと、りょうりを、おしえてくれたおれい。このあいだ、ありがとう。トリス、よろこんでくれたの」


 ルネがそこまで説明したことでようやく分かったのか、マリオンはそれまでどこか憂いを帯びていた笑みを消し、本来の彼女らしいきっぱりとした笑みを見せた。彼女のきつめの顔立ちから親しい人間にだけ向けられる、目尻が少しだけ下がるこの笑い方が、ルネは好きだ。


 けれど、直後に彼女の口から信じられない発言が飛び出した。


「二人が会いに来てくれたのが、私がここからいなくなる前で良かったわ」


「え?」


「もうすぐ他の教会に……いえ、修道院に移ろうと思っているのよ。手紙で報せようにも住所を知らなかったから、その前に貴女に会えて嬉しいわ。もうすぐ干し終わるの。それまでちょっとだけそこで待っていて頂戴」


 彼女は何でもないことのようにそう言って、籠に戻していたシーツに再び手を伸ばす。質が良いとは言えないくたびれたシーツに風をはらませ、伸び上がる彼女の背中を見つめたまま、ルネは足りない頭を懸命に働かせる。


 そこでルネは思い出す。そういえば居場所を教えてくれた子供達は、いつものように笑って教えてくれなかったと。神父の傍でよく見かける子供達が、神父の傍から離れていたことも。


 いつもはマリオンの傍にいる子供達が、他のシスター達に面倒を見てもらっていたことも。全部、少しずつ違っていた。全部、少しずつずれていた。


 シーツが風に泳ぐ。生き物のように揺らめくそれを、手際よくピンチでロープに繋ぎ止めていくマリオンの表情は見えない。ロープが風に泳ぐシーツの重みにたわみ、もがくシーツの端を最後のピンチが捕まえた。


 普通の人間が次に会話を再開する時の話題の糸口を思い付くには、充分な時間があった。話題にする内容を精査する時間もあった。けれど足りないルネにはそんな“普通”が分からない。


 だから、ようやくこちらを振り向いてくれたマリオンに対して、ルネは至極当然のように言った。


「どうして? だってマリオンは、しんぷさまがすきなのに」


 子供のようでありながら、それよりもさらに無垢で残酷に、ルネは凍り付くマリオンに重ねて言った。


「いなくなるなんて、おかしいわ。わたしが、トリスをすきなのとおなじくらい、マリオンは、しんぷさまがすきなのに」


 この教会に隣接する孤児院の子供達は、大人の身勝手に付き合わされたおかげで、随分早く大人の考え方を手に入れる。言っては駄目なことも、踏み込んではいけない線引きも、息をするのと同じくらい簡単に覚えるものだ。


 それなのに凍り付くマリオンの視線の先に立つルネは、そんな簡単なことも分からないほど子供だった。一瞬呼吸も忘れて立ち尽くしていたマリオンは、それでも歳上として、シスターとして、微笑みを浮かべながら「だからよ」と答えた。


 彼女の唇から紡がれた“だからよ”の声音は優しかったものの、そこには強い拒絶の色が込められている……と【普通】なら分かる。しかし普通ではないルネにはやはり分からず、怯むことなく「そんなの、いやよ」ときっぱりと答えた。


 “駄目”ではなく“嫌”と答えたルネに、マリオンはこのままではこの強情な教え子が納得しないと理解して、理由を簡単に教えることにした。


 一つに、想いを伝えることが迷惑になること。

 二つに、相手には自身が抱いているような好意はないこと。

 三つに、何度断っても他の男性の元へと嫁がせようとしてくること。

 四つに、もうどれも我慢ができそうにないから出ていくのだということ。


 以上のことを説明しながら、すでに血を流すように痛む心にさらに自分で追い打ちをかける現状に、ついに彼女は涙を溢した。そうしてその残酷な告白劇を強要したルネは、一つ大きく頷く。


 けれどやっと分かってくれたのかと疲労困憊ながら彼女が安心したのも束の間。


「ぜんぶ、いってみないと、だめよ。いわないと、わからないもの」


 ――と。子供より子供らしく至極尤もな発言を真顔で返したルネに「きて」と手を取られ、その細腕のどこにそんな力があるというのか、半ば引きずられる形でマリオンは連行されたのだった。

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