★24★ 結婚記念日。
九月の下旬頃から私とルネはお互いにソワソワしていた。おそらく同じ目標に向けての準備に頭を悩ませているからだろう。私がルネへの贈り物を考えるように、彼女も何か考えてくれているようだった。
去年の結婚記念日は、自身がここへ押しかけてきた日を彼女が憶えていなかったので、先回りして驚かせることができたのだが……。ルネはそのことが余程悔しかったのか、翌日には暦の結婚記念日に大きく花の絵を描き込んであった。
最近教会に薬を届けて私と神父が話す間、彼女がシスター·マリオンに熱心に料理を習っていると子供達が教えてくれたから、今年の記念日には新メニューが食卓に並ぶ可能性が高いだろう。
その証拠に料理の腕を磨いたルネは、一週間前からこの日の夕食を何にしようかと悩んでいた。隠しきれていないところが彼女らしくて微笑ましい。なのでこちらも今日まで厨房を覗いたりせずに過ごしてきたのだ。
幸いにも今日は本職としての仕事はなく、結婚記念日として申し分のない日程だった。ルネが腕によりをかけてくれた夕食を並んで食べ、片付けを終えた食後のひととき。
食後のお茶を飲みながら何気なさを装って「これを」と彼女に差し出したのは、茶色い柄も何もない素っ気ない包みだ。それを「なにかしら?」と小首を傾げて受け取ったルネに視線で開けるように促すと、彼女は素直に包みを開いた。
――見守る視線の先で、瑠璃色の双眸が僅かに見開かれる。
「わぁ……これ、かわいい。このほんも、きれいね」
ふわりと淡く微笑むその表情に、この贈り物で正解だったのだと安堵の溜息をついた。結婚記念日に彼女お手製の夕食をとり終えて手渡したのは、錫製の蔦植物を模した華奢な栞だ。
贈り物に悩んでいた時に街で偶然目にしたのだが、最近少し文字の多い本を読めるようになったルネにちょうど良いと思って購入した。ついでにルネが……というか、一般的な
「うれしい、だいじに、するわ」
目を細めて本当に嬉しそうにそう言ってくれる彼女の額に思わず口付けると、ルネは「わたし、たくさん、もらいすぎね」とまた笑い、ソファーに隣り合わせで座っていた姿勢から私の膝上に座り直した彼女が、額、鼻先、両頬へと柔らかな口付けをくれる。
けれどそう言う彼女の指先には無数の傷があり、新しいものからはまだうっすらと血が滲む。今夜の夕飯がトマトシチューであっただけに、やや赤い物質がトマトだけであったのか気になるところではある。しかしルネが作れる料理は現状毎回味付けの違うシチューだけなので、細かいことは気にしないことにした。
――と、膝の上でポンと両手を叩いたルネが「わたしからもあるの」と言って、おもむろに懐から薄い包みを取り出す。私が差し出したものと同じような素っ気ない包みだが、端に小さな羽飾りが施されている。
「わたしからは、これ。あのね、うまくできなかったけど、マリオンがおしえてくれたの。おまもりになるからって」
どうやら教会でルネが教わっていたのは料理だけではなかったようだ。期待に満ちた目でこちらが包みを開けるのを待つ彼女の姿に促され、包みが破れないよう丁寧に開くと、中から一枚生成りのハンカチが現れた。
しかしそれはただのハンカチではない。小さな毛玉がいくつもくっついたように見えるそれは、よくよく見ると彼女が大切にしている花園の色合いと似ているし、不格好に盛り上がった刺繍は花のように見えなくもない。
いや、実際のところ前衛的な絵画と見紛う
「……凄いな。良くできてる」
「ううん、へたくそなの。でも、トリスのことをいっぱいかんがえて、いっぱい“すき”をこめたから。マリオンが、ごふ? になるわって、おしえてくれたの」
私の褒め言葉に首を横に振ったルネは、それでも“いっぱいかんがえて”の部分で拳を握りしめ、続く“すき”の部分で頬に口付けを落とす。膝の上で忙しく表情を変える妻を見ていると、それだけで自分の空洞な部分が温かく満たされていく。
その傷だらけの指先の理由がこの刺繍と今晩の食事なのかと思うと、堪らない多幸感で目が眩む。
「ごふ……ああ、護符か。確かにとても効きそうだ」
「ほんとう?」
「ルネに嘘はつかない。それにこの端にある深緑色の糸を使ったこれは、私の名前だろう? 綴りが難しいのに頑張ってくれたんだな」
「
「ルネの特別な“好き”が
答えてから微妙に独占欲が強い物言いになってしまったと気付き、それを誤魔化すためと、純粋な喜びの表現方法として頬に添えられたルネの右手をとり、ボロボロの指先に口付ける。
するとルネは嬉しそうに「あら、それもそうね。トリスにしかよめなくて、あたりまえだわ」と肯定してくれた。素直で綺麗な彼女からの惜しげない愛情に、日々暗く澱んだ部分が洗い流される。
殺すことしか出来ない。
殺してやることしか、出来ない。
だから淡々と日々殺し、奪い続ける。
そう望まれた生を使いきるその日まで。
それでいいと諦めて生きてきた年月を、いとも容易く塗り替えていくルネの存在は救いであるはずなのに――……最後の呪いのようにも感じた。
「明日からは仕事が立て続けに入っているが、一週間後なら予定が空く。その日は一緒にクリストフ神父やシスター、それに子供達に礼を言いに行こう。私ではルネに刺繍を教えてやることはできないからな」
「ふふ、ししゅうも、できてないわ。マリオンはもっともっと、じょうずなの。みんなだって、わたしより、ずっとじょうずよ」
「そうか。だが私はルネの刺繍以外は必要ない。他に必要ないのだから、ルネの刺繍が一番上手だ」
「うそでも、うれしいわ」
うっとりと蕩けるように微笑むルネの姿に、心の中で黒い靄が蠢く気配を感じ、それを誤魔化すように微笑み返す。本当に優しい男ならば、こんな身の程知らずな望みは抱かない。
彼女と私の子供が欲しい。義父からの呪いの手紙がなくとも、日に日にその思いは強くなる。
もしも仮に身籠り、無事に出産できたとしても、子供の将来を聞かされれば気を患って死ぬかもしれないと分かっているのに。彼女と出逢い、
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