★6★ なし崩しの同居人。

 初日はまるで虜囚に対しての物言いだと思ったのに、彼女が輝くような笑みを浮かべて何度も頷いたのは誤算だった。


 犬猫も飼ったことがないような私が期限つきとはいえ、妻になりたいと押しかけてきた“人間”を匿う羽目になるとは……悪夢のようだ。


 ゆらゆらと燭台の火が揺らめく食堂のテーブルを挟んで、眉間に皺を刻んだ彼女がカチャカチャと音を立てながらカトラリーと格闘している。普通に当てはめれば非常に不愉快極まる食事風景なのだろうが、ずっと一人で作業としての食事しかしてこなかった身としては面白い。


 なし崩し的に始まったこの奇妙な同居生活も、今日ですでに十日目。


 二人分の食事の確保のために急遽食欲旺盛になった体を装う私に、長年雇っている食事係が『ようやく人並みに召し上がるようになられましたね』と言った以外は、特に何の問題もない。


 あとは彼女の服や下着類を洗うために洗濯婦の手順を盗み見し、深夜の洗濯場で彼女にその方法を教えて自分で洗わせ、洗い終わったものは屋敷内の日当たりが良い部屋を選んで数日干しっぱなしにした。


 彼女は約束通り日中は物音一つ立てずにじっと部屋のベッドに座り込み、カーテンの隙間から日が射す外の景色を眺めている。仕事中に部屋を繋ぐドアを開けられたこともなかった。


 彼女が送りつけられてきた翌日にはギレム家を訪ねたものの、当然のように当主は留守だと門前払いを受けたのには閉口したが……。けれどまだ王城に出向くのは先伸ばしにしたい。向こうが一方的に決めた事柄をこちらが受けるかどうかの判断は、最終的にこちらに委ねられている。


 ただしその場合は断る理由を述べるのと同時に、新しい婚約者候補イケニエを探す必要性があるのだから、実質的に八方塞がりな状況に変わりはないだろう。


 問題を先送りにしたところでどうしようもないことは分かっているが、それとは別に他にこの十日で何となく彼女の分かることと、分からないこと、出来ることと、出来ないことが分かってきた。


 読み書きはつたないがギリギリ出来る。ただし一般的な令嬢の好むような詩を諳じたりすることは出来ない。会話でも難しい単語や内容は、理解する前に放棄してしまう。長い時間の思考が駄目なのだろう。


 会話で理解出来る単語は“否定”を司るものが多く“肯定”の単語が極端に少ない。これは恐らく彼女が日常的に受けた言葉の種類によるものだろうと推測された。


 次に数字は数えられるが計算は両手と両足の指の本数を越えると出来ない。楽器の類いは触ったこともないと言い、刺繍や歌、ダンスも同様に駄目だった。他にも何事においても応用することが苦手なようだ。


 何故こんなことを調べたかといえば、暗に日中彼女が暇をもて余すだろうから、何か一人で楽しめる趣味はないのかと尋ねたのが発端だった。


 しかし最早お手上げかと思ったとき、彼女は私の方を見て『よるのさんぽは、すきよ』と答えた。その言葉を聞いた二日目からは、夜に二人で庭園の散歩をしたり、日中は歩き回れない屋敷の中を案内したりしている。


 ベッドの上に座り窓から外の景色を見つめる彼女の後ろ姿に、何となく彼女が置かれてきた世界が、自分の世界と交わる気がした。いつの間にかぼんやりとしていた意識の中に「このおさかな、おいしいわ」と言う彼女の声が混じり、現実に引き戻される。

 

 目の前ではグチャグチャになってしまった魚料理の成れの果てを頬張り、こちらをじっと見つめる彼女の姿がある。私の反応が薄かったせいで聞こえなかったと思ったのか、彼女はもう一度魚を頬張って飲み込んでから口を開く。


「このおさかな、おいしいわ」


「そうか」


「でも、これはきらい」


「人参は栄養価が高い。食べなさい」


「ううぅ……」


 皿の端に丁寧に寄せてあった人参を指差せば、彼女は渋々といった様子でそれを口に入れた。涙目になりながら二噛みほどで飲み込む姿に、思わず席から腰を浮かせ、美味しいと言った魚を一切れその皿に移してやってしまう。


 すると一瞬目を丸くした彼女が「ありがとう」と、またあの蕩けるような微笑みを見せた。この十日間というもの、大したことのない出来事にも彼女はそれは幸せそうに笑う。今夜も彼女の死顔は見えない。


 明るい時間の散歩が出来れば、暗い部屋のベッドから外の世界を盗み見る時よりも幸せそうなこんな顔をもっとするのだろうか――?


 しかし不意に浮かんだそんな疑問は、幼い頃に一度だけ父に連れていって欲しいとねだった建国記念の祭りに、自分達の一族は絶対に行けないのだと教わった日の思い出と共に沈んだ。


 むしろ出られない祭りは建国記念だけではなく祭事とつく行事全般なのだが、それでも自分達の一族が担う仕事の内容と扱いの差に心が虚ろになった。右手の甲に刻まれた雷に貫かれる大斧は、否応なく生まれ落ちた瞬間から自分の世界なのだ。


 次の処刑日は四日後に迫っている。実質彼女の初めての留守番日ではあるが、当日は指示を守れているかどうか様子を見に行くだけでいいため、屋敷を空ける時間はそう長くない。


 ――それよりも私の心配はもっと別のところにあった。


 このところの生活が嫌ではないという事実を、どこかで認めようとしている自分が恐ろしいのだ。もしもぬるま湯に浸かったような今の生活に慣れ、この先一度でも腑抜けてしまえば、仕事に余計な感傷を持ち込むようになるかもしれない。そうなる前にこんな関係は壊してしまった方が彼女にとっても良いだろう。


 当日は処刑台のある広場は賑わっているだろうし、見られるとしてもかなり後ろの方だ。遠目でならそこまで残酷な場面は分からないだろう。


「ルネ、四日後の留守番の話を覚えているか?」


「おぼえてるわ」


「その留守番の話なんだが……一度私の仕事を見てから、ここにいるかどうかを考えてみるのはどうだ?」


「おひるに、いっしょにでかけるの?」


「ああ。途中で少しだけ仕事で傍を離れることもあるが、ほんの少しの間だ。すぐにルネのところに戻る」


 こちらの言葉を理解しようとカトラリーで魚をつつく手を止めた瑠璃色の双眸が、次の瞬間零れ落ちんばかりに見開かれて「いくわ!」と元気よく挙手した。けれど振り上げたカトラリーからソースがテーブルに滴り落ちると、慌ててそれをナフキンで拭き取る。


「そとでは……ちゃんと“おぎょうぎよく”するわ。ほんとうよ?」


「ルネは、やればちゃんと出来る。疑っていない」


 疑うべきは目の前に座る男の本性だと気付かない彼女にそう頷き返せば、みるみるその表情がまたあの微笑みに彩られていく。この表情が四日後には見られなくなるのだと思うと、ふと胸の内側にある空虚な部分に風が吹き込む気がしたが、それに気付かないふりをして、自分の皿からもう一切れ魚を彼女の皿に移す。


 ゆらゆらと揺らめく燭台の明かりに照らされた彼女の微笑みと、瑠璃色の双眸は眩しすぎて、私の冷たい心の内をほんの僅かにチリリと焼いた。

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