☆5☆ 彼女の理想。

 閉めきったカーテンの隙間から細く入る陽の光に、空気中を舞う埃がキラキラと輝く薄明るい部屋のベッドに一人座り込む女性の姿。


 ワンピース状の下着姿で膝を抱える彼女の身体には、目を逸らしたくなるような傷跡が無数にある。けれどその幾つかには貼り薬や清潔な包帯が巻かれ、手当ての最中であることを物語っていた。


 カーテンだけでは遮りきれない窓の外の明るさは、ヴェールのように部屋の中を包んで淡く浮かび上がらせる。


 この状況だけだとまるで病院の一室のようだが、実際のところは少し……いや、だいぶ違っていた。


 それというのも室内の調度品は半分ほど白い埃避けの布を被されてはいるが、布が取り払われた書き物机や一人がけのソファー、精緻な彫刻を施された年代物の鏡台などから、ここがそれなりに身分がある女性の部屋なのだと分かる。


 けれど何故か部屋の片隅には、古ぼけた旅行用のトランクが物取りにあったような姿で転がっていた。中からは女性用の下着や安物の擦りきれた服が溢れ出し、この部屋の貴婦人の想像図からは程遠い有り様だ。


 しかしベッドに腰かけている彼女は身動ぎ一つせずに、外からこの部屋に入ってくるドアとは別の、室内にあるドアをじっと見つめている。カーテンから漏れる白い光が段々と黄色を含み始め、やがて橙色になり始めた頃、ようやくそのドアノブが回った。


 そこから現れた人影に弾かれるように立ち上がった彼女が駆け寄り、両手を広げて「ちゃんと、おとをたてないでまってたわ」と抱きついた。抱きつかれた相手はびくともせずに彼女の抱擁を受け止めつつも、明らかにそんな彼女の行動に戸惑っている様子である。

 

 けれど彼女は気付かないのか、逃げられないのをいいことにさらに抱きしめる細腕に力を込めた。鼻先をあの軟膏を入れていた容器と同じ匂いがくすぐり、幸せな気分にうっとりとする。


「ルネ……あまり力を入れて抱きつくと、また貼り薬が接がれるだろう。それに朝着ていた服はどうした? 着心地が気に入らなかったのなら、母の着ていたものを勝手に見繕えと言ったはずだ」


 見上げる先にある切れ長な深緑の瞳を眇め、鉄錆色の髪を掻く青年の口から呆れた風だとはいえ自分の名前が出たことに、ルネはそれだけでもう舞い上がる心地がした。付け加えるなら、それが“君”と呼ばれたことに返事をしないという方法でもぎ取ったものだとしても、である。


 肩口に巻かれた包帯のずれを直すように引っ張られ、くすぐったさに身を捩りながら逃げるルネを前にしても、青年が彼女の父親のように鞭を振り上げたりすることはない。


 右手の甲に刻まれた雷に貫かれる大斧の焼印は、ゴツゴツとした彼の手にとても似合っているけれど、その掌が優しいこともルネは知っている。


「ちがうの。きれいだから、よごしたくなくて」


「服は汚れても洗える。風邪をひいて身体を壊したら替えがきかないだろう。それに綺麗に残していたところでどのみち誰も着ないのだから、汚れても構わない。分かったら早く着替えなさい」


「じゃあ、あなたがえらんで。それならきるわ」


 ルネが歌うようにそう言うと、青年は表情の乏しい顔のパーツの中でも唯一少しだけ感情が読み取れる眉を寄せ、溜息混じりに「分かった」と答える。やんわりと押し退けられたルネはそれ以上まとわりつくことはせずに、衣装棚から服を選ぶ青年の背中を眺めることにした。


 実際のところこんなやり取りをするのはもう五日目だ。


『使用人達がやって来て君を見つければ、当然君のことを説明する必要が出てくるが、ダンピエール家の当主と一緒だったなどと噂を立てられると、後々君にとってよくない』


 最初の日にそう言われて使用人達がやってくる前にこの部屋に案内され、


『あの書類は提出されない限りは無効だ。私は貴女と結婚をする気はない』


 ――と感情を読めない表情で告げられ、


『ただ……その傷を見せられては家に帰すのも気になる。居候を認めるのは傷が癒えて身の振り方が決まるまでの間だ。日中はこの部屋から出ないでくれ。物音もなるべく立てないように』


 ――との注意を受け、それをきっちりとルネが守っているからこそ、彼女はまだここに居座ることが許されていたのだ。結婚は出来ないと言われようが、彼の傍にいられるのなら、ルネにとってはそれで良かった。


 何より父親から彼の傍にいるための最後の方法は聞かされている。まだ実践しないでも置いてもらえるというのなら、最終手段は温存しておくべきだろう……と、彼女が考えられているかは定かではないのだが。


 一着ずつ服を確認していく彼の手つきは、ルネの傷の手当てをする時と同じく丁寧で優しい。やがて深い青に白い襟のついた動きやすそうな形の服を選んだ青年が、ルネに向かって「これを」と差し出してくれる。


 早速ルネが着替えようとすると、すでに下着姿である彼女に青年はそれでも目の前で着替えることを窘めて、隣の部屋へと一度姿を消した。せっかく開いたドアが再び閉ざされたことに慌てて着替え、ノックする。


 きちんと着替えが出来ていることを確かめると、今度こそ二人で部屋を出て初日に朝食を分けてもらった食堂に行って夕食をとり、日が完全に落ちれば日中歩き回れないルネのために夜の庭園に出て、一緒に散歩をしてくれた。


 星が瞬く空に、心地いい夜風。隣にはずっとずっと会いたかった人がいる。手を伸ばせば躊躇いつつも繋いでくれるし、こちらから話かければ短い相槌も打ってくれた。


 彼女の世界は今この瞬間が完璧で、朝にはまた欠けてしまう。


 それでもルネは足りないながらにこれ以上を求めれば、青年が困ることは薄々と感じていた。だから今夜も微笑んで、困らせないように囀るのだ。


「ねえ、ありがとう。だいすきよ」


 そう背の高い彼を見上げて伝えることしか出来ないことを、彼女が不幸だと嘆くことはない。ただ願わくばこの幸せな時間がもうあと少し続けば良いと、それだけ望んで彼女は微笑む。

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