★4★ 面影と困惑。
死顔の想像出来ない相手を屋敷に招き入れるのは初めてのことだが、そもそもこの屋敷の食堂で誰かと食事をとること自体が異例なことだ。父が存命であった頃も、物心をついた頃からは別々に食事をとっていた。
だからこうして元から二脚しかない椅子に人が揃うのは久しぶりのことで、成り行きとはいえ、二人で冷めたスープとパンを口にしているのは不思議な気分だ。せめてスープくらい温めてやればよかったかと思ったものの、向かいに座る彼女は気にした様子もなく一心不乱に匙を動かしている。
さっき見せられた婚姻届に書かれていたあの家名が本当なのだとしたら、やや品がない食事の仕方だとは思うが、それでも味気ない食事に文句を言うでもなく旨そうに頬張る姿は、こちらの食欲も刺激する気がした。
しばらくお互いに無言でスープとパンを口に運ぶ。彼女は食事に集中し、私はスープに浸したパンを咀嚼しながら残りの書類へと目を通す。途中でスープボウルの底に当たる匙の音が聞こえなくなったと思って顔を上げれば、彼女も私の食べ方にならうことにしたのか、固いパンをちぎってスープに浸して食べていた。
毎朝その食べ方をしている人間の感じることではないと思うが、いささか令嬢がする行動としては行儀が悪い。
だがこちらの視線を感じたのか、顔を上げた彼女が「あなたのたべかたのほうが、おいしいわ」と笑顔を向けられては、何となく注意しようという気も削がれてしまった。
しかしそんな朝食の時間がいつまでも続くわけもなく、早々に空になった食器をテーブルの端に寄せ、彼女が父親に持たされたという婚姻届を二人で読めるように開く。するとこちらが会話を切り出す前に「どうしたら、ずっとここにいてもいいの?」と彼女が尋ねてきた。
瑠璃色の瞳をした彼女の言葉は死顔は未だに思い浮かぶ気配もない。かといって怯えも嘲りもないその深い瞳に映る自分の姿は、どこか現実味がなかった。
「そうだな……例えば君から受け取ったこの書類通り【妻】になるなら、たぶん世間一般では一緒に暮らす」
実際にはこれだけではまだただの紙切れなので公的な手続きがいるが、処刑人の結婚には大々的な式を挙げることはない。祝事から最も縁遠い一族なので、こういった場合でもひっそりと籍を入れるだけで済む。
どのみち喜びのある結婚生活ではないのだからそんなものなのだろう。ただ今回のように本人の意思を無視した暴挙が許されるはずもない。そこで修道院に身柄を匿ってもらうのはどうかと口を開きかけた次の瞬間――。
「つま?」
「ああ……それなら、奥さんなら分かるか?」
「分かるわ! それじゃあわたし、おくさんになる」
「待て。簡単に結論を出すんじゃない。君は騙されてここに来ただけだ」
「それは……わたしがうそつきってこと?」
「違う。君は騙されている方だ。ここを訪ねるようには言われただろうが、人殺しの妻になれとは言われていなかっただろう?」
微妙な会話のずれはありつつも、こちらの問いかけに素直に頷く彼女の姿に頭痛を感じる。
恐らく父の喪が明けたばかりのダンピエール家に彼女を押しつけ、王家には一向に決まる気配のない処刑人の一族に娘を差し出したことで、ギレム家へと便宜をはからせるつもりなのだろう。
「どういう経緯かは知らないが、君は騙されて人殺しの妻にされるところだったんだ。分かったら嫌になっただろう?」
「あなたのいうことは、むずかしいわ。でも、あなたからは、わたしのすきなにおいがするから、いやじゃない」
「――それは今食べた食事の匂いだろう」
「それもだけど、あなたから、これとおなじにおいがするの。だからわたし、おくさんになる」
そう言いながら少し足りない彼女が懐から大切そうに取り出した物を見て、私は驚きに目を見張る。それは随分前に人にやってしまった物だった。当時のことを正確には思い出せないが、彼女の掌に載せられたそれは確かにかつて私が愛用していた軟膏入れだ。
「これをどこで手に入れた?」
「わすれたけど、ずっとまえに、おとこのこがくれたの。いたくないのに、いたいだろうって。だけどわたし、いたいがなにか、わからないのよ」
微妙にこちらの理解が及ばないことを言いながら微笑んだ彼女は、軟膏入れを持っている方の袖を引き上げる。するとそこには古い傷跡と、まだ比較的新しい傷跡がいくつも残り、本来の白く美しい肌を痛々しく彩っていた。
これだけの傷があるのに痛みがないと言い張るからには無痛症の疑いがある。足りない上に無痛症とは……この世に神などあったものではない。本人は痛くないと言っているが、彼女をこのまま生家に返してしまえば、また傷跡が増える日々に逆戻りするだろう。
やはりここは少し彼女に金を持たせて、修道院か教会に身柄を預けるべきかと思案していたら、いつの間にか彼女がテーブルに膝をついて身を乗り出し、真正面から私の顔を見つめていた。
テーブルの上に上がるなど流石に行儀が悪すぎる。そう嗜めようと思うのに、身体は金縛りにあったように動かない。身動ぎ出来ない私の前で軟膏入れの蓋を開け、中身のなくなったその容器に鼻先を近付けて匂いを嗅ぎ、継いで私へと顔を近付けて犬のように鼻をひくつかせる。
「やっぱり、これをくれたの、あなただった」
「――――っ!」
「またねって、いったわ」
あどけない表情で蕩けるようにふわりと「あえてうれしい」と笑うその表情に、一瞬目を奪われる。そしてこの表情を向けられたのは二度目だと、頭の隅でいつかの不思議な少女の記憶がほどけた。
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