第九打席 何故ベストが尽くせないのか
昨日の大雨が、嘘の様に表情を変えた朝。
「おはよー」
「おっす」
生徒達にも明るい笑顔が見られる気持ちのいい朝だ。
「よっ」
だが、彼はその朝陽の一言でそんな気持ちを吹き飛ばされる事になる。
「……何が、よっ。ですか。明らかに私を待ち伏せていましたよね?
2度とこないで下さいと言ったはずですが」
氷狼は、朝陽の方を見ない様に廊下をすれ違う。
「きてねーぞ。美術室には」
そのすぐ背後をついて行きながら彼はケラケラと笑う。
「昨夜、餅山から聞きましたよ。
随分、ひどい引き抜きをされてるんですね
生徒を自分の身勝手に巻き込んで……本当に教育者なんですか? 」
振り返らず教室に向かいながら氷狼は言った。
「教育者じゃねぇよ? 知ってるだろ?
大学中退だから、俺に教員免許はねぇ。ここでも用務員として雇われてるからな」
このふざけた返しは自分を感情的にさせる為だな。と氷狼は読みとる。
事実、その通りであった。
朝陽にはその思惑があったらしい。
ここで、普通の高校生なら感情を高めるだろうと。
いや、少しその予測は違える。
「私も、殴って入部させる気ですか? 」
立ち止まり、顔だけ振り返って氷狼は冷たい視線を浴びせる。
朝陽の表情は一瞬驚いた様に開口した後、苦笑いに続く。
「人聞きっ悪いなぁ……
殴られたのは、俺の方だけだよ……
氷狼。お前前の時から思ったけど、ちょっとひねくれすぎ。やっぱ投手より野手だわ性格は」
氷狼は「ふー」と鼻で溜息を吐くと、視線を天井に向けた。
「それによ」
続く言葉があったのかと、今一度その視線が重なる。
「お前とは、ボクシングの勝負じゃ心の底からのお前が納得出来んだろ? 」
その言葉が何を意味するのか。本当に
「氷狼。放課後グラウンドに来い」
「無駄です。行きませんよ」即答した後、教室の扉を開く。
「何時間でも、何日でも待つぞー」
その言葉を叩き落とす様に扉は閉められた。
「るいるい、じゃねー」
「うん、じゃねー」
挨拶だけなのにとても楽しそうなその言葉を受けて、塁は三階の渡り廊下へ向かう。
そして日課となっているそのお気に入りの場所から一望できるグラウンドを眺めるのだ。
「随分、遠くからだな。
こっからで満足できるか? 」
全然気づかなかった。背後に誰かいた様だ。そいつはその隣に立つと、自分と同じように手すりに肘を付いて同じ方向を眺める。
塁は仏頂面でその男の顔を見た。
「よっ天笠」
そして、プイっと正面に向き直る。
「参ったな。当時から女子とは付き合いが無かったとは言え、現状でも女子高生にそう突き放されると、傷つきそうだ」
に、しては喜んでいる様にも見える。
「アタシに何の用ですか?
おにいが言ってましたよ。センセ野球部のカントクさんなんですね。
あんな野球部で甲子園行くとか、言ったんでしょ? 」
「ウケるぅ? 」
朝陽の言葉に「ウケない」と言って、心底気味の悪いイキモノを見る目をぶつけられた。
それが効いたのか、少しだけ2人は黙ったままグラウンドを眺めた。
「天笠、野球部の奴らを見てくれないか? 」
ふいに出た様な言葉だが、最初からこれが目的だ。塁も薄々気付いていた。
「センセ、知ってますか?
オンナは、野球が上手くても甲子園に出してもらえないんですよ」
雨上がりの風は心地良く、そして以前よりも優しく2人の間に流れた。まるで塁を慰める様にも思える程に。
「あ、それってひょっとしてマネにしてこき使おうと企んでます?
やですよ? アタシ、忙しいんだから
おにいと、学校でも顔合わせるとかもやだし。青山先輩も野比先輩も臭いし」
笑うかと思ったが、朝陽は真剣な表情でそれを聞いていた。
「じゃ、アタシ帰ろうかな。
おにい、しっかりしごいたげてください」
離れようとするその手首を朝陽は掴んだ。
「大声出しますよ? 」
すぐにその手は離れる。
そして、少し困った様に朝陽は髪を掻く。
「いやな?
確かに、あわよくばマネの雑用も手伝ってはほしい。
でもな
でもな、天笠。
一番は、お前にもあいつらに野球を教えるのを俺は期待している。
俺は、今回コーチングは初めてだ。
意見の出所をなるべく多く持ちたい
それも、出来れば頭で野球を行うタイプの人間に」
塁の整った眉がへの字に変わる。
「たぶん……
皆、オンナなんかに野球を教えてもらいたくない……ですよ。
センセだって、ちゃっかりマネの仕事させるつもりだし」
朝陽は大きく首を横に振った。
「じゃあ、それは全部俺がやる‼
それに‼ 」
大きな声に驚き「なんで、そこまで……」と固まる塁を見て、朝陽は自分を落ち着ける様に呼吸を深く吸った。
「女子部員の出場は公式戦では不可能だが。
非公式の試合で制約はない。
まだ、お前は野球が出来るんだよ」
塁はギュッと唇を噛む。
「もし
もしそうだとしても……何にも繋がんない」
「じゃあ、何でお前は何の部活にも入ってないんだ? ソフト部から勧誘もあったろう?
繋がるさ。
お前のプレー見たよ。
あんなに楽しそうに野球する女の子、お前以外に1人しか知らない」
明らかに塁は戸惑う表情を見せる。だけどまだ彼女の中で完全にこの目の前の野球部顧問を信じれなかった。
「そのもう1人の女の子は……どうなったんです? 」
「えっ」朝陽は息を呑んだ。
「ほら……言葉が止まった。
結局オンナに野球は出来なかったんでしょ?
あんなに言ってて。本当は無理だって解ってるんだ」
朝陽は、目を丸くして塁を見た。
「天笠……兄貴から俺のことは聞いてないのか? 」
朝陽の言葉に、澄ました表情で返す。
「だから、このガッコで甲子園行くとか言うおかしなヒトでしょ? 」
「うん……」と、朝陽は口を手で押さえ少し考えた。
そこで、ようやっと不可解な反応だと塁は気付いた。
「……何か? 」
朝陽は「うん」ともう一度塁と視線を合わせる。
「なあ、天笠。
その女の子がさ。
今、海外で女子のプロ野球選手になった。て言ったらどう思う? 」
「バカじゃないの」と、反射的に言いそうになったがその真剣な眼差しに一旦は止めた。
「バッカじゃないの? そんなの日本人じゃ前町投手しかいないじゃん」
だが、結局は口から出てしまった。
2人の会話が止まった。
本当に沈黙だけがそこに滞在していた。
朝陽は考えを巡らして、ポケットからスマホを取り出し素早く操作する。
塁は、その空気に違和感を覚え動きが止まり、彼の行動に疑問符が浮かぶだけだ。
「あのな。天笠。
正にな? 俺が今言ったその女の子は。
お前が言った前町凪の事なんだよ。
そんでな?
その前町凪ってオバさんはな?
俺の実の姉だ」
塁は、引き攣った笑いを浮かべて「笑えないよ」とその話を冗談として切り捨てようとした。
そうなるだろうな。と朝陽は予想していた。
だから、スマホの画面をゆっくりと塁の前に出す。
そこに写っていたのは、その目の前の男性と女性が仲悪そうに実家だろうか? 家の前で立っている写真だった。
その女性の顏こそ。
「は? へ? は? はぁあああああああ~~~⁉ 」
塁の驚きの叫びは、隣の校舎の吹奏楽部の部室にまで響いたらしい。
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