第八打席 果てしなき闇の彼方に
その日は、梅雨の最後の抵抗かと言う程の大雨だった。
黒風はいつも通り帰りのホームルームを終えると、両肩に大きな荷物を背負い第二体育館へ向かう。
その中で――いつも通りでない事があったが。この時の彼は気にも留めていなかった。
そして、その光景を見た。
「よう、遅かったじゃねぇか黒風」
そう言った男は、まるでボクシング部員の様にヘッドギアとグローブを身に着け、リング上で笑みを浮かべていた。
その隣には、ジッと足元を睨む様に見つめていた餅山。
1歩、2歩、リングに近付きその男が前日来たあの男だと黒風は気付いた。
「……何してんですか? 」
肩から、荷物が重い音を響かせて床に落ちる。
ロープを挟み、2人は視線をぶつからせた。
「黒風、勝負をしようぜ」
先に口を開いたのは朝陽の方だった。
「――勝負だァ? 餅山さん。こりゃ一体どういう事です?
他の部員は? 」
「全員、今日は休んでもらってるよ。
というか、ボクシング部含め、第二体育館の部活動は今日はない。
だから、安心しろ。
これから起こる事は、ここに居る3人だけしか知りようがない」
そう言った後、なんと彼はシューズをマットに小気味よく鳴らしてシャドーを始める。
「……おい。
まさか、おっさん。
勝負って。
俺と……ボクシングで……か? 」
黒風の言葉を悔しそうに嚙み締めたのは餅山だった。
すっすっとジャブを2発ほど放ち、朝陽は振り返った。
「そうだ。
そして、俺が勝ったら。
黒風。お前は、野球部がもらう」
黒風の切れ長の目が、見る見る充血していきその小柄な体に詰まった太い双肩がブルブル震えた。
「ふざけ……やがって……
てめぇ、こっちが生徒だからって調子のってんのか?
それとも、俺の力をなめてんのか? 」
朝陽は、空気の揺れを感じる。
その上で、その狂気的な瞳に真直ぐに答える。
「どちらでもない。
これが、最も手っ取り早く、俺がお前に教えてやれると思ったまでの事だ」
そして、この状況がその覚悟の証である。
「餅山さん。
いいんすか。
俺、本気で打ちますよ? 」
餅山は無言のままだ。
そして、ゆっくりとリングから降りた。
「……上等だよ」
小さく呟くと、上着を投げ捨てて落とした鞄からマジックテープの簡素なグローブを取り出した。
「防具や、服はぁ? 」
朝陽の声は、これから殴り合いをするにしては余りにも不釣り合いな軽いトーンだった。
「必要ねぇよ」
そして、タンクトップと学生服のスラックス。足は靴下を投げ捨て裸足になると、リングに入った。
「大丈夫か? お前こそ俺を嘗めてないか? 」
笑みを浮かべて朝陽がそう軽口を叩いた時だった。
空気を切り裂く音と共に黒風の拳が放たれる。
一瞬、何歩も離れている筈のそれに、朝陽の身体は避けようと反応した。
――おいおい、冗談じゃねぇぞ。
思惑通りの展開でありながらも。
朝陽の背中に鳥肌がたちはじめ、程よくアップした汗がひやりと首筋を伝う。
「……1R3分だ。
もし、決着がつかなかった時は……黒風、お前の負けでいいな? 」
そう言った餅山の方も向かずに黒風は頷く。
そして、ゴングが鳴らされた。
それと同時に、朝陽は猛ダッシュで黒風に向かう。
虚を突かれたのは、黒風だった。1Rのみと決められた時に彼の頭には3分間必死で逃げようとするのだろうという考えが脳裏をよぎっていた。
だから、最初の一撃はまともに受ける。
この瞬間に、その覚悟を出来るのがボクシングの訓練を積んだ者である。
もっと素人の様に振りかぶってくるかと思ったが、朝陽の右拳は、顎下に構えられた場所から腰のひねりを使った最小の動作からとんできた。
「ぐっ」
しかし、その悲鳴は拳を放った朝陽から漏れた。
ボクサーという人種は殴られた際にどういった体勢であっても、反射的に反撃を行う。
顔を殴られながら、黒風のボディブローが朝陽の左わき腹に当たっていた。
思わず後退するが、それに合わせて黒風が距離を詰める。
「ちぃ」
朝陽は、思わずそう吐き捨てると腹を両手で隠すように防御した。
――必然。顔がガラ空きとなる。
ヘッドギアに守られているとはいえ、そこまで無防備となると狙われればダウンは必至。むしろ決着も充分あり得るだろう。
それは、その場に居た全員がそう理解していた。
だからこそ、当事者の黒風がそこを目掛けて弓を引く。
が。
「黒風……‼ 」
その様子を見て餅山がロープを力いっぱいに握る。
「ぐっ……」
次の瞬間。
それを見た朝陽が思いっきり体重を乗せた右ストレートを黒風の眼前に止めた。
黒風は。
硬直していたのだ。
身を固めたその直前に。わざと朝陽は彼に苦しそうな自分の表情を見せた。
恐怖で歪む表情を見せた。
「解ったろ? 黒風。
お前の身体能力と、ボクシングに捧げた時間はとても秀逸なものだ。それは誰しもが持てるものでもない。
だがな?
人を殴れないボクサーは勝つ事が出来ない。
それどころか。
自分を護る事も出来ない。
リングに立っている審判は、中立だ。
お前の味方じゃないんだぞ」
それを聞く黒風の顔面に夥しい汗が滲む。
ゆっくりと彼の目前から拳を降ろすと朝陽はグローブを外した。
「……お前は、優しい男だな。黒風。
だが餅山も、お前を恨んだりしていない。こっからは2人で話せ。
……待っているぞ。黒風」
朝陽が立ち去った後。
そこはいつもよりやけに広く感じた。
そして、2人も無言だったからか。
屋根を打つ雨音が耳鳴りの様に煩わしい。
「すまんな。黒風。
――お前、本当はボクシング、したくなかったんだろ? 」
黒風は消え入りそうな声で「そんな事はありません」と言ったつもりだった。
「中学の俺とお前の最後のスパーの時だよな。
俺がお前のパンチが凄くて避け損ねてさ……
しかも、年上だからってヘッドギアも着けずお前のグローブも低オンスに変えさせて。
完全に俺のミスだってのに。
お前はそれで怪我をして中学最後の大会を逃した俺へ責任を感じて。
そして……人も殴れなくなって……」
餅山はリングに上がって立ち尽くす黒風に向かい合い。
涙を浮かべた瞳のまま。
頭をリングに付けた。
「すまん。本当に、すまない黒風。
お前を苦しめて。
本当にすまない――そして、その事に気付いていながらあの先生が言うまで俺はそれを見て見ぬふりをしていた。
苦しんでいるお前が、お前自身の力で克服すると、勝手に決めつけていた。
お前の気持ちを――優しさを……」
黒風は乱暴に餅山の肩を掴んで立たせる。そして、目線を合わせる。
「餅山主将。俺は大丈夫です。
俺は、あんたに教えてもらったボクシングが大好きです。
あのおっさんの言う事なんかより俺を信じて下さい。
小学校の時、餅山さんがクラスの奴にいじめられてた俺にボクシングを教えてくれた時から。
餅山さん、俺を褒めてくれた。
初めてだったんです。他人に褒めてもらうの。
だから、俺――がんばります。
がんばって、またボクシングを……出来るように……」
言葉が詰まる黒風のその右手を掴むと、餅山は自分の頬に当てた。
「今……今、俺を殴れ。黒風」
黒風の短い黒髪がザワっと逆立つ。
「あの先生の言葉を聞いたろ?
リングの上で殴れないボクサーはな?
やられちまうんだ。
それが、どんなにすげーパンチを持ってる奴でも。そうなんだ。
そして、それがどんなに危険な事か。
それは、お前自身が一番知ってるんだよ。
だから。
今のお前の言葉が本当なら。
今、俺をあの時みたいにぶっ飛ばしてくれ。
そうすれば、信じる。
俺は、お前を。信じる」
カッと窓から雷光が瞬き。
後に、轟音と同時に雨音が一層大きくなった。
しかし、向かい合った両者はその視線を微動だにせず。
雨音がまるで空間を裂いてしまいそうで。
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