第五打席 Lost sense

 名を言われ、ゆっくりと彼は振り返った。

 長い手足と、顔が隠れる程の艶黒の長髪が嫌でも目立つ。


 手に持っていた筆を水入れに立てかけると着ていたエプロンを外して窓際に置かれていた木製の座り心地がとても悪そうな丸椅子を左手で手に取り2人の前に置いた。

 ここで、驚くべきは2つ片手で持った事だ。とても大きな掌。


「どうぞ」


「悪いな」

 それに腰を下ろすと立ったままの氷狼を上目で見て朝陽は口を開いた。


「単刀直入に言う。お前の力が必要だ。

 野球部に入ってくれ」


 小さく「ひぃ」と青山が朝陽の背後で悲鳴を漏らした。


 暫らく氷狼と朝陽の視線がぶつかり合い。やがて。


「ふむ」と小さく言うと氷狼は朝陽の真向かいへ先まで座っていた椅子を寄せ静かに腰掛ける。


「失礼ですが、校内で貴方を拝見した事がないのですが……中途採用の先生方でしょうか? 」

 それを聞いて朝陽は双眸を見開いた。


「あ、ああ。すまんすまん。

 俺の名前は前町と言う。理由が在って今日から野球部の監督に就任ってな。

 それで、今選手をかき集めているって訳だ」

 まるで、悪意のないトーンだ。

 その言葉に氷狼は小さく頷いた。


「なるほど。

 それで私に声を掛けて下さったという事は……

 私の事はご存知なのですね。前町……朝陽さん」


 その発言に朝陽は口角を上げた。

「名前は言わなかったんだけどな。

 俺の事を知っていてくれてたのか」

 氷狼も瞳を閉じて、少し笑う。


「あの奇跡の代打選手、前町選手の息子さんであり。

 日本人米国女子野球の先駆者パイオニアと言われた前町なぎ投手の弟さん。

 ご本人も確か広島地区最大名門鳳凰ほうおう高校から、都内の強豪大学に進学された正に野球一家のエリートと言われる様な方ですから」


「ええ⁉ 監督本当にあの前町選手の息子さんだったんですか⁉ 」

 背後で驚く青山には反応せず、朝陽は前髪を掴んで小さく笑った。


「氷狼克己。見た目と違って意地悪な奴なんだな。エリートは家族で親父と姉貴だけだよ。それも知ってて今言ったな? 」

 それを受けて氷狼も瞳を閉じる。


「貴方にもそのままお返ししますよ。私がもう野球を出来る訳が無い事もご存知なんでしょう? 」


 その言葉には悲しみ。と言うよりも。

 殺気――怒りの感情が底奥深くに存在する。


 そして実は朝陽だけでない。

 青山もその理由を知っている。


 何故なら――。

 青山の世代でこの目の前に居る氷狼を知らない者など居ない。


 4年前。


 氷狼克己の名は、全国の中学野球の選手達に響き渡る。

 2年生でありながら、京都の無名中学校のエースとして公式戦、非公式戦で1年間無失点。打者としても打率8割を超す成績を挙げ、全国制覇を成し遂げ投手野手両方のMVPを獲得。

 その年のアンダー18世界大会に唯一の中学生で参加。

 そこでも、年上の選手達に負けぬ活躍を見せた。


 付いた異名は『誠の10年に1人の選手』


 同世代の野球少年達がその姿に憧れを抱いた


 だが――。その世界大会の帰りの飛行機で悲劇は起きる。


 航空機墜落の大事故。

 ほとんどの乗客が命を落とす中、氷狼は奇跡的に命を拾った。

 文字通り――その、利き腕と引き換えに。


「繋げた腕のリハビリに、絵画はとてもいいんです。

 お目汚しでしょうが、見て下さいよ。現在ではここまで描ける様になったんですよ」


 そう言って、示した絵画はやはり少し歪に見える。


「……なぁ、氷狼。

 その腕……本当にもう野球が出来ないのか? 」

 真面目な表情でそう言う朝陽に氷狼は少しふざけた様に笑った。


「ええ。全く。

 流石に振りかぶって腕が千切れる事は無いでしょうが、球も前には飛ばないでしょうね」


「おい。野球は投球だけじゃないだろ」

 氷狼の言葉を遮る様に朝陽は言った。


「もう一度尋ねるぞ?

 お前は――本当にもう野球をする気がないのか? 」

 そのまま、勢いよく立ち上がり、氷狼の腕を握る。


「痛っ」苦痛の表情を浮かべる氷狼。慌てて青山が止めに入る。

 が――違う。朝陽は暴力に打って出た訳ではない。

 ただ、確認をしたかったのだ。


「やっぱりな。左手だけでなく。千切れちまった右手の掌にも、しこたまあるじゃねぇか……

 その筆なんかじゃ……いやそんじょそこらの奴がやる様な素振りでもこんだけのマメは出来ねぇよ氷狼……」


「え⁉ 」青山の驚きの言葉と同時に、氷狼は乱暴に朝陽の手を払った。


「帰って下さい」

 そして、立ち上がり、絵の方へ向き直ると静かに言い放った。


「明日も来るよ」

 朝陽が振り返りそう言うと「二度とこないで下さい」と言葉が返ってきた。

 それには先程までの冷静な口調とは思えない程、彼の感情がこもっている。


「ひょ、氷狼くん……」


 何かを言おうとして青山は口を閉じ、朝陽に続いて部屋を後にした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る