第三打席 ヘッドハンティング

「すいません、前町さん。生徒からグラウンドの水道の調子が悪いと報告がありましたので修理をお願いします」

 女性の教員が明るい声でそう言うと、少し離れた所で作業をしていた朝陽は腰を起こした。

「はいぃ、解りましたぁ」とても、野球部の生徒達の前では聞かせれない情けない声だ。

 朝陽は、野球部の監督として活動する為に、この青之道商業高校あおのみちしょうぎょうこうこうに『用務員』として雇われる事になった。

 生徒達が授業を受けている間はこうやって作業に勤しみ、それが部活動時の時給にプラスされる。

 それが5年間引き籠りとなっていた朝陽の身体にはかなり過酷だった。10代の頃の野球の練習に明け暮れていた時の体力が残っていなければとてもじゃないが続かない。


「ぷはぁ」大きく息を吐くと湿気の中にまだ涼しさを残した五月の空を見上げた。


 さぁ――。

 朝陽は胸を叩くと気合を入れた。今日が朝陽にとって記念すべき監督としての初日。



「よし、じゃあ青山。一緒に来てくれ

 残りの皆はランニングとノック。野比。しっかりと2人を見てやってくれ」

 そして、その第一声に部員達は更に驚く。


 しかし、そんな部員をよそに「ほら、青山行くぞ」と振り返りもせず先々行ってしまう。慌てて青山がその後を追う。


「なんじゃあ、あの監督わぁ……」

 野比がそう言うと、里中も両手を揺らして首を傾げた。

「で、でもっ! 」

 雨笠が女子の様に甲高い声を挙げる。

「ほ、本当に公式大会に……で、出れたら……」

 そしてその大きな瞳がキラキラと光った。それを見て2人は同時に溜息を吐いた。



「か、監督。一体僕だけ連れてどこに行くんですか? 」

 朝陽の足どりは思ったより軽く、青山は必死でついて行く。

「いや、お前が居た方が話も通しやすいだろう」

 ろくな説明もない為、青山の疑問は解決しない。

 ずばり、具体的な目的を知りたいのだ。


「スカウトだよ。ヘッドハンティング。まぁ、生徒名簿やスポーツテスト成績である程度の目星は付けてるが」


「へ、ヘッドハンティング……ですか?? 」

 マヌケな声で聞き返す青山に初めて朝陽は振り向いた。


「ああ。青山。まさか部活にも属してない者や未経験者からメンバーを補充するとおもったのか? 」

 青山はう~んと眉間にしわを寄せた。


「でも、別のスポーツをしていたとして、野球に順応できるものでしょうか? 」

 フッと朝陽は笑った。


「ごもっとも。その適正を見極めるのが俺の仕事だと思っているよ。

 とりあえず、1番最初は本命の運動部から赴くぞ」

 そう言うと、また歩幅を早めてしまう。

「ち、因みに、何部なんですか? 」




「ボクシング」




 ――最も野球と近い身体能力を用いる競技は何か?

 基本的な部分が近いクリケットなどを除けば、その多くは全く違うルールのモノが多い。

 例えば米国では季節によって、野球と共にアメフトやバスケットをこなしている選手が居るのは珍しい事ではない。

 日本の高校でも掛け持ちを行う選手が居ない訳ではない。しかし、身体が出来上がっていない学生にそれはあまりに負担がかかる。

 現実に日本プロスポーツ界には掛け持ちの選手は存在していない。

 だが――。

 競技を転向したのちにプロに進んだ学生は。

 少なくなく確かに存在する。

 その中で野球との転向で互いに成功する可能性が高い競技がある。


 ボクシングである。


 その要因は飽く迄推察ではあるが。

 手首と足腰の鍛錬の必要性。

 持久性の強化。

 動体視力の強化。

 そして静と動が共存する試合。

 対戦相手との駆け引き。

 といった共通点の多さではないかと思われる。


「まさか、最近ハンバーガーのあの店とコラボした漫画情報じゃないですよね? 」


 青山の言葉には答えずにボクシング部が活動している第二体育館に入るとリングが置かれている二階へと足を進めた。


「そして、俺が目を付けたのは奴だ」


 朝陽が指さした先には。

 夥しい汗を流しながら軽やかに縄跳びを行う少年。

 髪は坊主に近い短髪。にして眉毛をいじっているのかやけに細く目つきが随分と厳しい。そして5月にしては焼け過ぎなくらい肌が黒い。故かノースリーブから覗く腕の筋肉がやけにいかつく見える。


「く、黒風くろかぜくんですか」

 朝陽はにやりと口角を上げた。

「そう黒風播奈ばんな。足腰の強さは勿論ながら奴の負けん気の強さが気に入った。

 ああゆう奴はどの様な状況でもチームを活気づける。

 さ、青山。話を付けに行くぞ」


「……え? 」

 青山がその発言に疑問を返した時には既に朝陽は堂々とその場に入って行ってしまった。慌てて青山は後を追う。


「おい、黒風」


 キュッキュと小気味よく響いていたシューズの擦れる音がその朝陽の声と同時に一気に止んだ。そして注がれる視線。

「は? 」

 名前を呼ばれたその少年はまだ幼い表情が帯びている。それもその筈つい3ヶ月前までは中学生だったのだから。


「お前、ボクシング止めて野球しろ」

 真直ぐに黒風だけを見据えて朝陽は言い放った。

 その発言には黒風と言うよりもボクシング部の部員達の方がざわついた。


「何言ってんだ? おめぇ誰だ? 」

 黒風の眉間に皺が寄り、朝陽に近付く。

 その異様な空気に2人の生徒が間に入った。

 1人は青山で、もう1人はボクシング部の主将の餅山もちやまだ。


「おい、黒風ちょっと落ち着け。

 青山。おい、誰だ? その人。いきなり過ぎてこっちも何が何やらだ」

 ぼうす頭を撫でながら餅山は青山に向かって顔こそ笑っているが目は強く尋ねた。


「餅山。お前もそう思うだろ?

 黒風はボクシングに向いていない。俺に預けろ。こいつのフィジカルが無駄なく活かせるのはボクシングじゃない。野球だ」

 突然面識のない男性にそう言われ、餅山は眉をゆっくりと顰めた。


「すまん。餅山。この人は野球部の監督なんだ」

 青山が慌てた口調で朝陽の前に立つ。


「監督? そうか、よかったな。でもお前のとこは部じゃなくて確か愛好会だろ? あ? なんだ? 前みたいに助っ人で黒風を貸してほしいって意味か? 」

 餅山の言葉に即座に朝陽が反応する。

「いや、野球部はれっきとした部だ。

 そして、黒風は助っ人ではない。部員として移籍してもらう。こいつは俺のチームに絶対に必要なんでな」

 余りにも交渉として直線的過ぎる。青山はもう為すすべなくそれを見守るしかないと覚悟を決める。


「あんたさぁ。さっきから随分自分勝手すぎやしませんか? それと……何で俺を知ってたんです? 」

 餅山にそう訊かれ、朝陽はさも当然の様に答えた。

「お前だけじゃない。ボクシング部全員の試合と記録は見せてもらったよ。

 その中に黒風。こいつが居た。

 もう一度言うぞ。餅山。

 お前も気付いているだろう? 黒風はボクシングより野球をするべきだ」


 餅山は奥歯を噛みしめる。

「だとしても、決めるのは黒風本人だ。

 あんたみたいな大人がどうこう言って無理強いしても全く意味がない」


「いや、意味は有る。

 黒風の努力と才能が報われる」

 それは、今までで一番強く朝陽の口から放たれた。餅山の目が静かに見開かれる。


「まあいい。

 黒風。よく考えておいてくれ。明日また来る」

 それだけ言うと、青山を置いて朝陽はそそくさと退室してしまう。


「……何なんだよ……」

 黒風の呟く声がそこに残った。

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