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私は実直な蜘蛛であった!それは比喩ではなく、それは昨日までの何よりも鮮明な記憶だった。白い天井を思い出しながら目を開いて、白い天井を見ながらそう思った。天井はいつでも思うより薄暗い。手の甲を上にして腕を伸ばすと、五本の指が視界を圧迫した。そのままぼうっとながめていると次第に輪郭がぼやけてきて、生命線が天井のシミのようになった。そのシミもまた、私を動かさなかった。
しかしさて、前提として私はやはり、人間だったことも同様に確かである。ここから記述しなければ、この文章は読者にとって意味を為さない。私はいつでも既に、いつからかは人間だった。
小さな頃は田舎町で静かで控えめな人間として育てられた。暗い田舎町だった。唯一頼れそうな月明かりさえも、歩いていれば時に強大な木々で隠されてしまったが、これは私の元来の性格には合っていた。友人は少なかったがいくらかはいて、しかし愛すべき人というのは―これは今も同じだが―見つけられなかった。食い扶持を稼ぐために苦手としていた都会に出てきてからも、ずっと人間だった。仕事は、ついさっきやめた。コンビニエンスストアの商品開発の関係だったが、辞めるのは容易だった。制度上のあれやこれやは必要なく、内面でそう認めるだけで済んだ。今に電話が鳴るだろう。
コンビニエンスストアといえば、初期にはその機能は文化的な人間にとっての利便性として捉えられていただろうが、現在ではその役割を超え、あるいは減退し、ある人間たちにとっては動物的な一線を支えるような非-文化的なラインまで及んでいる。これは回り続ける最終電車の様であり、多くの人間にとって、動物と化するか、あるいは死ぬかの瀬戸際を管理するものだった。
このことによって、コンビニエンスストアの商品マーケティングというのは私に、そして時代に、合っていた。
これがなぜか、さらに詳しく私の仕事の話をする前に、ひとつおぼろげな昔の話をする。
小学生の頃の夏、言ったように私は田舎の子供であったから碌な遊びはなく、だらだらと日々に焦がされているのがたまらなくなる度に、プールに行くのが定番だった。小さなスライダーと、少々立派な流れるプールのある施設だった。小さなスライダーは地味な割に並んで待っている必要があったから、私たちは決まってずうっとプールに流されに行っていた。
その日も、私たちは自由であった。そして悪いことに、盲目的に子供らしかった。その市民プールは数十分に一度休憩時間があり、全員がプールから上がらなければならなかったのだが、しかし私たちのうちの誰かが、休憩時間の開始に合わせて潜水をして、最後まで姿を隠せたものが勝ちだという遊びをしよう、と言ったのだ。皆それに乗った。
それほど良く覚えてはいないがしかし、私たちはただの小学生であり、それほど息が続くはずもなく、勝ち負けもつかぬほどに皆すぐに監視員に引き上げられたのは確かだ。
忘れられないのは、私たちを高い梯子のついた椅子の下まで連れていって行われた監視員の説教である。その監視員の身体は見事に太陽が小さく見えるようで、小学生をおびえさせるには十分だった。しかし、おびえている我々に降りかかる声にあるのは怒りではなかった。おそらく呆れでもない。君たちを叱るのは当然であるから集めたけれども、もう面倒だから反省をしてくれ、というような雑な内容だった。その態度には、そんな立場にあるはずもない私が怒りを覚えた気すらする。
しかしこのように書くと監視員が怠惰であったかのように思えるが、そして私たちも皆そのように思い、説教は長く続くまいと少々安心したが、実際はそうではなかった。説教をしている監視員の表情は真剣そのもので、まるで演説をするかのような立ち振る舞いで、説教はずうっと続いた。私たちはその監視員の言動に一貫性が見出せず、それを不気味がり、興奮にも似た不快感で心は散らされた蟻たちのように戸惑った。
その後は解放され、監視員のことをすっかり忘れたかのように泳ぐのを再開したし、数年間はしばしばそこに行っていた。しかしあの時、監視員の叱責を受けてから水に浮かんでいる時に私たちのうちの誰かが一度でも、「監視員がこちらのことを見てはいまいか」とでも尋ねたならば、すぐさま帰って二度と行くことはしなかったのではないか。しかもあの時、私たちは皆、そのことを思っていたのではないか。
今思えば市民プールというのもいかにも管理の下にあるような名前だが、あれは私たちが社会で監視し管理されていることを身に覚えた、あるいはそれに不快感や、そして恐怖を覚えた、最初の経験であったように思う。
私の仕事は、実は、この市民プールの監視員と同じようなものだ。監視員は人々を自由に泳がせて、手元と目元を隠しながら、持っているシートの個別要素管理欄にチェックを入れる。私は、自由に生活する人々を監視して、適切に彼らの望むものを作り上げる。
あの仕事を始めてから、あの監視員の態度が理解できるようになった。現代において人々はある程度においてまで自由であり、守られるべきは規律ではなく管理形態そのものの方なのだ。現実には違うが、私がどれだけ熱心な仕事人間であったとしても、開発している商品を買わない人物像を想像していちいち怒りを覚えることはきっとしない。同じように、つまるところ、あの監視員は、どんな男や女や、それ以外の人間が泳いでいたとして、彼らの不衛生な手が不規則で巨大な波を発生せしめたとして、それが管理されたプールの中であるならば、それは良いのだ。監視員にとって、発見された違反行為は、発見されている時点で管理体制の下にあるからして、全く問題はない。
そしてこの考え方は現代を生きる私たち皆に当てはまる。君たちは自由だ、皆に違いがあるから皆が良いのだ、等と言って誘っておきながら、最初からゲームの規則は決まっていて、それに則らないつもりならば既に席はない。そしてそろって田舎の子供たちである私たちは、寂しくなって椅子に座ってしまった。暑さに耐えかねて、監視員が恐ろしくても、決してそのことに言及しないように、いや、そのことを忘れてしまうためにも、プールに入ることを選んだのだ。
しかし、では、このゲームの規則を誰が決めるか。それは私であり、また他の誰かである。私はコンビニのマーケティング部門の社員として、社会の中にいる人物をモニタリングし、彼らが私の決めたルールに乗ってくれるか確認し、その上で商品のターゲットとなるかを決める。そういう意味で、私は一つのゲームを支配しているわけである。これは非常に名誉であり、優越感のある仕事であり、私はこれを愛していた。先に言ったように私はそれでも仕事に関して怠惰であったが、それでも良いのだ。なぜなら、この会社にもこの会社の人的資源管理というものがあるのであって、その中の怠惰ならばそれでいいと私は認められている。人を管理しておきながら人に管理されない方法などなく、このような相互関係で社会は成り立っているのだ。ある土地の天気予報に興味を持ち続ける方法は、そこに住む以外にない。だから私たちは皆、愛すべき同じ町の住人ということになる。
このように現代社会は怠惰で自由な相互管理社会であって、私はそれを愛していた。
諸君もそうだろう。毎日のように商品を勧めてくる不気味なメールにすら、諸君はきっと愛を以て接しているに違いない!
しかしさて話は一転するが、そのように人間だった私は、まさに今目覚めるすぐ前までは、確かに蜘蛛として生きていた。しつこく言うが、比喩ではない。
赤黒く、鋭い針の足が八本あり、腹は少しだけ膨れていて、顔は古びたピアノの鍵盤のようであった。産まれてからは孤独で、子もなく、あちらこちらに巣を張り巡らせる蜘蛛だった。
私は蜘蛛として、小さな蝿が巣にかかったことを察知し、ぎょろりと八つの目でそちらを向いたことをしかと覚えている。なんとも良さそうな、美味そうな蝿だった。あまりに美味そうだったから、私はなりふり構わず顔から飛びついた。そして舌が蝿に触れんとするまさにその時に、いわゆる起床をしたわけである。
しかしあれは夢ではない。これは断言せねばならない。これを夢と片付けるなら、昨日も先も何だって夢だ。今の私が私であるためには、私が蜘蛛であった事を認めねばいけないだろう。さもなければ、私は貨物を積んでいない大型トラックのように滑稽な人間だ。
そもそも、自分が現在的に何であるかということは、現在的にしか決定されないだろう、と私は考えた。そして、過去という概念が現在という視点からしか確認できないようにできてあるから―そうでなければ、私たちが度々荒野の岐路に立たされている悪夢を見ることもないだろう―当然とも言えるけれども、自分が過去に何であったかということも、全て現在の自分によってしか理解されない。したがって、過去に自分が何であったかということは、現在的に決定されるということになる。そこには通時的な妥当性や有用性など全く問題にならない。自分が自分でどれだけそれを確信できるかという、現在的な問題だけが残るのである。実際、私は酷い二日酔いのある朝にはしっかりと自分の分の勘定を支払ったか確信が持てず、結局改めて多めに負担することを申し出るようなことが多かった。
このような例示をすると現在の私に覚えが足りないのではないかと思われるようだが、しかしそのようなことはない。この蜘蛛はあまりにもはっきりと、がさごそ現在的に迫り来て私を責め立てるのであって、断言するが、これを否定することなど、私には出来るはずがない!私は確かに実直な蜘蛛であった!
だがしかしさて話は戻る。私は確かに蜘蛛だったが、そんなことは些細だとすら言えてしまうのが管理し管理される人間の性質である。比較すれば曖昧ながらも、昨日までの人間としての記憶はある。そして今日は平日であって、ならば蜘蛛であっても人間であっても、ひとまずは仕事に行かねばならない。今日辞めるとしても、辞めるために管理されねばならないのだ!
そう思ったところで気がついたが、先まで蜘蛛だったせいで、体の動かし方が分からない。蜘蛛になってから知ったが、人間の体は非常に具合が良くない。手足が妙に長いくせに数が少なく、さらに均一でないせいで上手く立つことができない。腰はぐねぐねと動くだけで役に立たない。冬の朝の乾いた布のすれる音が不快だ。しかしどうにも寝床から動けそうもない。指など無闇に動かしてみるものの、感覚が掴めず長い時間が経った。
私がなんとか体勢をまっすぐ保とうとする頃に、電話が鳴った。
「おい、A氏かい。どうした。」
部屋にずけずけと響いてくるような低い声の男は同僚だった。私とはどうにも反りが合わなかったが、彼は面倒見の良い性格で、また顔の造形も良かったので皆彼を好いていたし、彼もみんなを好いていた。
「どうしたって?」
「どうしたって?仕事だよ。定刻を過ぎてる。」
「ああすまない。寝坊してしまった。すまない。すまないね。悪かった。」
私は姿勢を保つことに集中している割に、うまく嘘をついた。
「馬鹿め。今、すぐ来い。お前というやつはこの仕事を甘く見ているんだ。お前のその冷笑主義(シニシズム)的な態度は、この仕事だから許されているけれども、しかしかといって、同僚がそれをどう思っているか考えるのも、お前の仕事のうちじゃあないのか。だいたい、まさか消費者とか市場とか、それ自体が実在しているとでも思っているんじゃないだろうな。いや、このことはいい。だから、今、すぐ早く来い。この時勢、お前がどこにいるかなんてすぐに分かるんだからね。いいね。」
彼は勝手に暴言を吐いてから、一方的に通話を切った。私の蜘蛛としての事情を話してやろうかと思った。そして、私がどれだけこの仕事を愛しているか説明してやろうかとも考えた。しかし周囲への話のネタにされるに違いないと思われたのでやめた。
さて、仕事に行かねばならない。しかし眠い。初めて蜘蛛をやっていたんだから仕様が無いのか。いや、この身体には関係ないのか。そんなことを思っていたら、強く地面にたたき付けられた。どうやら立っていられなかったらしい。私はすっかり蜘蛛に慣れてしまったようだ。私は気を失って眠った。
噛む蜘蛛 あq @etoooooe
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