過去の解明(2)
「それ以外で、いや、水神様しか知らない
城崎艶子のことを教えてくれませんか?」
水神様はほっとしたような
微笑みを彼に向けた。
「ここからは私が見てきた
撫子についてお話ししますね。
夫を亡くした撫子は
それはそれは自責の念に駆られ、
自身を責めていました。
そして、後悔の念に
苛まれるようにもなったようです。
その頃から自室に籠もる度、
撫子は日記に後悔の念を綴るようになりました。
たった一人に宛てた言の葉は
相手に贈られることもなく、
紙の束の中で眠っています。
私は何度かその内容を垣間見たことがあります。
その相手とは別れた夫の息子もとい、柊水。
あなたのことです」
水神様がこちらを見据える。
彼の目から見た水神様は彼以外の
誰も映じていないように見えた。
真剣そのものであることに間違いはない。
それでも……。
「嘘だ」
「嘘などではありません」
弱々しく吐き出した抵抗すらも
水神様は呑み込んでしまう。
母親も自分を嫌っていてほしかった。
要らないから捨てられた子であってほしかった。
そうでなければ、酷い母親でなければ、
自分は母親を責めることすらできないではないか。
同情の余地があるだなんて知りたくもなかった。
会いたくて、知りたくて
たまらなかったはずなのにどうしようもない
拒絶で心が埋め尽くされていく。
「だったら教えてくださいよ、
母さんが俺のことをどう思っていたかを……」
言葉にすればするほど虚しいものだった。
他人が誰かの気持ちを全て伝えることなど
不可能だと分かっているのに。
たとえ文字で読み取ったところで、同じことだ。
それを予期していたかのように
水神様は懐から白い封筒を取り出してみせた。
「それはなんですか?」
堪えきれずに椿が水神様に尋ねた。
余計なことをするなという忠告のようであり、
予防線のようでもあった。
「文ですよ、
柊様に宛てられたものです。どうぞ」
何の警戒心もなく差し出されたそれは
所々が黒く滲んで見えた。
表には柊水様へとの宛名が記されている。
ひっくり返すと、城崎艶子よりという文字が。
今さらながら痛感する氏名の重み、
彼女はもう自分の母親ではないのだ。
目頭に熱がどっと押し寄せてくる。
間抜けな顔を晒したくなくて彼は足下に視線を落とした。
「水さん、無理に読むことはありませんよ。
さきほど水さんが仰った通りです。
全ては過ぎたことなのですから」
左手に重ねられた手の平は手汗をかいていた。
椿は彼の一挙一動に気をかけているのだろう。
そのための汗なのだとそう思った。
椿の心遣いはとても有り難かった。
だからこそ、自分は今勇気を
振り絞るべきなのだと彼は思い直した。
「いや、読ませてもらうよ。でも、ありがとうな椿」
頷くように椿の手は彼の手を離し、
自分の元へと帰っていく。
その様を見届けた彼は再び
手元の手紙に視線を落とす。
指先で宛名をなぞうと、その紙の触り心地に気付いた。
滑らかで指が踊るように心地好い。
手に取った途端に書き手の思いが
流れ込んでくるようだった。
この手紙にどれだけの思いが込められているかなんて
それだけで分かった気になってしまう。
引き込まれるように封を切った。
前略
さて、今日はあなたに再会して、
私は文を起こす決意をしたのです。
二十二年ぶりにあなたにお会いできて、
胸に迫る思いを感じました。
私はこの二十二年間あなたを思う度、
密かに焦がれ泣いておりました。
今さらこんな手紙を書くだなんて
どうかしていると思われても仕方ありません。
なんとでも罵ってください。
実際に私はあなたを置いて家を飛び出したくせに、
自分はのうのうと新たな家庭を
築いてしまったのですから。
阿婆擦れな母親でごめんなさい。
もしかしたらあなたのお父さんから
話は聞いているかもしれませんが、
私は彼の浮気が原因で家を飛び出してしまいました。
本当は彼が迎えに来てくれるのを待っていたのです。
しかしこれは家に帰らなかったことの
言い訳に過ぎません。
帰ろうと思えばいつでも
帰ることができたのかもしれませんね。
しかし私はどうしても帰る気にはなれず、
彼の迎えを待つうちにやむを得ない事情で
帰ることができなくなりました。
ごめんなさい。
許してもらうための謝罪ではないことを
ここに記しておきます。
あなたに伝えなければならないことが幾つかあります。
一つ目はこの村の「御神水」に
おぞましい秘密が隠されていることです。
御神水には若返りの効能があります。
それは私を見れば一目瞭然だと思いますが。
そして、その御神水の生成には死体が関わっています。
人骨を元に御神水は生成されています。
首謀者は村長の三雲で、
部下の石井も御神水に関与していました。
このことをどうか口外してください。
私にはできないことなのです。お願いします。
二つ目は……もうお気付きでしょうが、
あなたには異父兄弟がいます。
隼人という名前で、
とても素直で人懐っこく淋しがり屋です。
すごく可愛いので、一度会ったら気に入ると思います。
三つ目は懺悔と後悔です。
あなたに会ってすぐに母親だと
名乗らなかったことを許してください。
私には今さら母親面をして、
合わせる顔がなかったのです。
母親もなしにあなたが
立派に育ってくれていたこと、心から嬉しく思います。
立派すぎて顔をみたときは
誰かと思ってしまったほどです。
成長したあなたの姿を見ていると、
年を取っていない自分が情けなく思いました。
あなたはこんなにも成長しているのに、
自分は何も変われていないと
揶揄されているようです。
四つ目は、あなたに再会できた喜びです。
こんなことを言われても
ちっとも嬉しくないでしょうね。
三年前に夫を亡くして以来、
私はあなたのことを思い出すようになりました。
忘れていた訳ではありません。
夫と隼人がいたために
心の奥にそっと仕舞っておいたのです。
夫がいなくなり、
不幸のどん底に陥って不安に駆られた私は、
あなたに会いたいと再び思いを馳せるようになりました。
私は化野という籠に
閉じ込められた鳥籠の鳥のようです。
足下を見られて弱みを握られている私は逃げられません。
あなたに会いたくても逃げ出しようもない
私の元へあなたが訪ねてきてくれたときは、
天にも昇るような心持ちでした。
あなたから晩酌に誘ってくれたときは
平常を装っておりましたが、夢のような心地でした。
母親と名乗れなくとも、あなたとひとときの
晩酌ができただけで幸せです。
最後の五つ目は、
けしてあなたを嫌いだった訳ではないということです。
こんな形になったうえに、今さらだとは思いますが、
誤解があるようなら訂正しておきます。
私はあなたが大好きです。
月並みな言葉ですが、愛しています。
生きていてくれるだけでも嬉しいのです。
今日この日まで生きていてくれてありがとう。
きっと私があなたに母親だと
直接名乗れる日は二度と来ません。
だからこそ、ここに記させていただきました。
卑怯で臆病な母親でごめんなさい。
それから、私があなたを置いて出て行く前に
よく言い聞かせていた言葉をこの頃よく思い出します。
「水のようになりなさい」
――そう言い残して去ったからこそ、
あなたはこの言葉をよく覚えているでしょう。
こんなことを言う資格などとうに失くしましたが、
私は今でもそう思っています。
末筆ながら、
お身体をお厭くださいますよう申し上げます。 草々
城崎 艶子
柊 水 様
追伸
あなたの思うような水にはなれましたか。
大事な人がいるなら、
その人だけのたった一人の水になってください。
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