脱出劇(2)

「愚か者め。そう易々と

 逃がしてやるとでも思ったか。おい」



 何も答えずにいると、

 三人はあっと言う間に身柄を拘束されてしまう。

 今暴れたところで勝ち目がないのは

 分かっているからこそ、

 彼は敢えて大人しくしていた。

 水神様は隼人の傍でじっと見守っている。

 水神様も然るべきときを待っているのだろう。



 連れて行かれた先は霊泉であった。

 水にでも沈め、溺死させてまた水にでも

 変えようというのかと思いきや、

 そうではないようだ。


 村長に命令された若者が彼と椿の拘束を解いた。



「これは何のつもりですか、村長」



 彼は自分よりも背の低い村長を見下ろしながら、

 胸に焦燥を抱いていた。

 御神水の秘密を握っている彼らを

 ただで帰す訳がないのだ。


 村長は彼のそんな胸中を見抜いてか、ふっと不敵に笑う。

 正体不明の魔物を前に彼は足が竦んだ。



「まあまあ、そう萎縮しなさんな。

 何、取って食おうってわけじゃない。

 儂もいい大人だ、取引をしようじゃないか」



 村長は陽気に笑い、

 周囲も追随するようにこくこくと頷いた。

 それは圧力のようにも思える。



「ここまできて取引って……

 碌なものではないでしょう。

 さきほど椿を犯そうとしていた人が

 よくそんなことを言えますね」



 彼は当てつけるように村長の方を見遣り、

 鼻で笑った。すると、余裕そうに

 振る舞っていた村長がまた騒ぎ出す。



「五月蝿いわ!

 お前、自分たちの立場を分かっているのか?

 周囲を囲まれているんだ。

 下手なことはできないはずだが?」



 馬鹿な大人の悪巧みほど碌なものはない。

 これこそ職権乱用だろう。

 そのうえ、

 自分の罪には目を向けてすらいなかった。



「そうですね。ではお訊きします。

 その取引とは何でしょう?」



 彼は村長の横暴さに腹を立てることもなく、

 普通に聞き返した。

 村長はそれだけでも満足らしい。



「水神様と隼人をここに置いていくなら、

 お前らが化野から出て行くのは見逃してやろう」



 涼しい顔をして戯れ言を抜かす老父だ。

 どうせそれを呑んだところで碌なことにはならない。



「何をふざけたことを――」



 憤る彼の前に水神様が立ちはだかった。

 彼を押しのけて、

 三人を庇うようにして両手を広げてみせる。



「ダメだよ泉……」



 不安そうな隼人の声。

 水神様は後ろを振り返って、

 大丈夫だよとでも言いたそうな優しい顔をした。

 しかし、その優しさが誰かに届くことはなかった。


「今だ!」村長の声が響き渡り、

 周囲の人たちの手がすり抜けていく。



「水神様!」



 そのとき水神様の姿が透けて見えた。

 儚げに笑う水神様の間から魔の手が差し込む。

 水神様が伸ばした手が

 誰かに触れられることはなく、

 気付いたときには隼人が

 一人の男に抱き抱えられていた。


 あぁそうか、

 自分たち以外には水神様の姿が見えない。

 見えなくて、触れることすらもできないのだ。



「いやっ、やめて!」



 見知らぬ男に捕まった隼人は

 腕の中でじたばたと暴れ回る。



「隼人……!

 隼人をどうするつもりですか!?」



 手を伸ばしても届かない隼人のために

 彼はみっともなく叫んだ。

 悪足掻きでしかない、

 無駄吠えでしかないと分かっているけれど、

 そうでもしなければ

 隼人がどうにかなってしまいそうで。


 血相を変えて狼狽える彼を見た村長はニヤリと笑う。

 感情的になった方が負けなことは

 分かっていたはずなのに。



「どうもせんよ。

 ただ、御神水の秘密を知っているからには

 ずっとこの化野で暮らして、死ぬのもここだ。

 危害を加えないよう譲歩してやったんだ、

 命が保証されるだけ有り難いだろ?」

 


 厚かましいにも程がある。

 所詮それは加害者側の言い分でしかない。

 そんな傲慢が許されていいはずがないのだ。

 しかし、現状はどう考えても自分たちが不利で

 隼人を助け出すことさえ容易ではない。

 力なき者は悪に屈するしかないのだろうか。

 声すらも出せず、立ち尽くす彼の前に

 立つ水神様が口を開いた。



「隼人を離しなさい。

 さもなくば、どうなっても知りませんよ」



 この場にいる誰よりも凜々しく

 透き通った声をしていると思わされた。

 そこに女性的な淑やかさはなく、

 むしろ姫を守る騎士のような強かさを持ち合わせている。


 水神様の発言のお陰か周囲は静まり返った。

 水神様の声は届いたのだろうか。



「はっ」



 どこからともなく嘲笑が聞こえた。

 いや、発信元なんて本当は分かり切っている。

 村長だ。



「おやおや、水神様よ。

 あなたが儂らに

 口出しできるような立場でしたか?

 化野には薄気味悪い、

 それも妖怪だったあなたを受け入れたという

 多大な恩義があるんですよ?

 そんな儂らに向かって、

 命令とは随分偉くなったもんだな」



 語尾が冷たく突き刺さる。

 水神様は今まで耐えてきたものを壊してまで

 隼人を守ろうとしているのだ。

 自分も何かしなくては、

 彼の思いは衝動となり隼人に手を伸ばしていた。



「隼人を……返せっ!」



 しかし、願いも虚しく彼の手は振り払われ、

 再び男共に拘束されてしまう。



「水さん!」



 椿が泣きそうな顔でこっちを見ている。


 やめろよ椿、そんな不安そうな顔するなよ。


 声に出せない思いだけが胸の中で溢れていく。

 隼人は大事な――だから守りたいのに、

 自分があまりにも不甲斐ない。



「それでもです。恩義には奉公で報いました。

 それに、恩義があるのは

 あなた方のご先祖様であり、

 あなた方ではありません。

 あの方とあなた方のように下卑た人間と

 同列に扱わないでください。

 あの方に恩を返すというなら、

 馬鹿な子孫を罰するのが私の役目ですから

 ――さあ、隼人と柊様を今すぐ解放なさい。

 三人にこれ以上の危害を加えるなら、

 ただでは済ませませんよ」



 水神様は静かに憤っていた。

 辛辣な言葉選びが何よりそれを物語っている。

 おそらく激発する寸前だろう。


 しかし鈍い村長は

 微塵も気付いていないようだ。



「三人は儂らの手中にいるんだぞ?

 できるものならしてみろ、返り討ちにしてやる。

 おい、ちょっと痛め付けてやれ」



 村長は高笑いする。

 自分が劣勢になるなど微塵も思ってもいないようだ。

 村長に命令された男は隼人の首を掴み、

 窒息させようとしている。

 指がギリギリと食い込み、

 今にも幼き命が蝕まれてしまいそうだ。



「はや、と……」



 彼の目からは一筋の涙が

 頬を伝って流れ落ちていく。



「仕方ありませんね。では、実力行使に出ます」



 そんな台詞が聞こえたと思う間に、

 目の前の男が崩れ落ちてきた。



「が、はっ……」



 喉元を押さえ、必死に悶えている。

 彼を拘束していた男も同様に地面に這い蹲り、

 激痛に悶えているようだった。

 村長が命を下す余地も与えず、

 水神様は新たな人物に手を下す。

 それは女将と肉体関係にあったと思われる

 雨水やそれ以外の男八名ほどであった。


 優勢に変わりつつある中、

 解放されたはずの隼人はいつの間にか

 村長の腕の中に収められていた。



「どうだ、これで手は出せまい……!」



 どこまでゲスな男なのだ。

 彼は堪えきれず手を伸ばそうとするが、

 それは水神様に封じられてしまう。



「なんと醜い。あなた――いえ、

 お前のような穢れに堕ちた者が

 隼人に仇成すなど許しません!」



 水神様が手を振り下ろすと共に、

 村長の腕から隼人がすとんと地面に着地する。

 村長の顔がだんだん土気色に近付いていく。

 それは手足も同様であった。

 おそらく、

 体中の水分を奪われているのだろう。



「あともう少しだったのに……

 こいつさえ始末してしまえば!」



 被害を受けていない住民数名が

 寄って集って隼人に刃を向けた。



「隼人くんっ、逃げて!」



 周囲を人で囲まれているのに逃げ場などない。

 本能的にそのことを察した隼人は足が竦んでいる。

 それを見かねた椿が隼人を覆うように飛び出した。

 このままでは隼人の代わりに

 椿が死んでしまいかねない。



「つばきぃ!」



 彼が飛び出す頃には椿が隼人を覆っていた。

 彼はさらにそのうえから庇うようにして

 二人を抱き留めたのだ。


 瞬く間に刃は彼の肌に突き刺さり、

 赤い血潮が滴り落ちた。

 足から力が抜け、地面に崩れ落ちていく。



「水さんどうして庇ったりなんか……

 私のこと、無鉄砲だって言うくせに」



 彼の顔面に椿の温い滴が降り注いだ。

 こんな守り方は格好悪い。

 それにこれでは守り切れていないのだから。


 ふと空を仰ぐとなぜだか水神様と目が合い、

 水神様がすっと俯いた。


 途端に男たちの藻掻く声が聞こえなくなる。



「私にとって、

 人を骸にすることなど容易いこと。

 生者だろうと、一瞬にして骨にできます。

 これ以上醜態を晒し、彼らに害を成そうと言うなら

 村中を陥没させます。それとも、

 水分を絞り上げて痛みを与えながら、

 殺すことも可能ですが。

 さきほどの男たちのようになりたくなければ、

 そこを退きなさい。

 さもなくば、この手で村ごと葬り去ります」



 ようやく水神様の手から解放された男共は

 腰を抜かしていた。

 後退り、水神様の力におののいたらしく

 這い蹲ったままで逃げ出した。


 それに追随するように周囲の者も去って行き、

 二分と経たぬ間にもぬけの殻だ。

 言うまでもなく、

 村長も早々に退散していた。



「さすが、ですね……」



 唖然とした顔で感嘆の音を漏らす

 彼に水神様はふっと微笑んだ。



「いえいえ、私は大したことはしておりません。

 川の水を用いてそれを

 卑しい男たちの肺に流し込んだり、

 村長は体内の水分を絞り上げたまでですよ。

 それも脅し程度のものですし」



 あの程度では済まされないと顔が物語っていた。

 彼は新たな畏怖を感じる。



「すいにいちゃん、大丈夫……?

 血、いっぱい出てるよ」



 隼人が彼の服の裾を掴んできた。

 その目は服に染み出した血に向いている。



「これくらいなんともないよ。隼人は心配すんな。

 それより先を急ごう、明るいうちに帰った方がいい。

 水神様、先頭を頼みます」


「はい、かしこまりました」



 強がってみせる彼だったが、

 傷口からは絶えず血が溢れ出している。

 本当は血が流れるあまり、頭がふらふらしていた。

 しかしそれを表に出しては隼人を不安にさせてしまう。

 彼はやっとの思いで意識を保っていた。


 隣を歩く椿がじっとこちらを見つめている。

 何か言いたげなのに何も言わない。



「なんだ椿、そんなに見つめてきて。

 俺に惚れ直したのか?」



 ふふんと自慢げに笑って彼は

 痛んでいる自分を隠そうとした。けれど。



「はい。私はあのとき、

 水さんと出逢ったときに

 貴方の人柄に惚れていますから。

 それにさきほど私と隼人を守ってくれて

 ありがとうございました。

 でも、無理はなさらないでくださいね。


 傷口が、痛むのでしょう?」



 冗談に本気で返答されると

 どうしていいか分からなかった。

 椿は彼の傷口に手を伸ばし、その付近をそっと撫でた。

 彼は苦痛に顔を歪める。



「はは……椿にはなんでもお見通しだな。

 すまん椿、肩を貸してくれないか。

 出血がひどくて頭がふらつくんだ。

 せめて、電車に乗るまでは誤魔化させてくれ」



 これ以上幼い隼人に心配かけたくない。

 彼のことをお見通しな椿は

 しょうがないですねとでも言いたげに微笑む。



「分かりましたよ。電車に乗ったら、

 手当てしますから覚悟してくださいね」


「ああ」



 彼は椿に半身を預け、

 ゆっくりと隼人と水神様の後をついていった。



 土砂災害に見舞っていた出口は

 水神様が持ちうる全ての力を駆使し、

 動植物の力も借りることで

 土砂を元に戻してしまった。


 そうなればこっちのもので、

 十分となく歩くと無人の駅に辿り着く。

 それから一時間ほど待ち続け、

 四人はやってきた電車に飛び乗った。



 これで万事解決だと彼は思い込んでいた。

 乗り合わせた電車は驚くほど静かで落ち着きがあり、

 今までの出来事が嘘のように思えた。


 しかし、それを事実だと物語る

 存在が目の前にいる。

 水神様は愛おしそうに隼人を眺める。



 窓から差し込む日で藍白の髪が薄く透けていた。



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