ここだけの話
彼は椿に耳打ちし、
隼人の耳を塞ぐよう促した。
突然耳を塞がれた隼人はじたばたと暴れたが、
「おねえちゃんと向こうで遊んでようね」
と言うとすっかり大人しくなったのだ。
椿は上手く隼人を
水神様から引き離してくれた。
これで隼人の耳に話が入る可能性は
ぐんと下がっただろう。
今し方まで隼人の説得を試みていた
水神様は突然隼人から
引き離されたことに不満のようだった。
「何のおつもりですか?」
水神様の目は敵を見るようであった。
冷たく鋭い眼光が彼に突き刺さる。
「隼人には聞かせられない話をしたくて」
水神様の目の色がまた変わる。
針のような目から哀愁を
帯びたものに移り変わっていた。
ほぉっと吐き出された溜息は
やけに艶めかしさを漂わせる。
「……お聴きしましょう。
どうぞ、お話しになってください」
覚悟を決めた水神様の表情に彼は息を呑む。
これが掠りもしていなかったらと
考えると恐ろしいが、
彼にはそうとしか思えなかった。
水を繰る神様を自分の水で呑み込むのだ。
「女将は御神水の秘密を知っていました」
「なぜそう断言できるのですか?」
水神様の食いつきがいい。
知っているということになってはいけない
理由でもあるのだろうか。
「俺たちは女将が亡くなる前夜、
女将から忠告されたんです。
この村は危険だから出て行った方がいいと。
女将はその翌日に亡くなりました。
そして、さきほどの椿拉致監禁を鑑みると、
そう断言せざるを得ませんよね?」
「それが何か?
私には関係のないことです」
水神様はあくまで素知らぬ振りを通すようだ。
さて、自分は無関係であると
いつまで言い張っていられるか。
「もしも、女将が御神水のことを知り得たのが
偶然じゃなかったとしたら、
この件の意味は大きく変わりますよね?」
「偶然でなければ何なのです?
柊様の仰りたいことがよく分かりませんが」
水神様は素知らぬ顔で彼の煽りを躱した。
これぐらいは彼にも想定内だ。
彼も水神様の態度を
真似るように平然を装い続ける。
「女将はあらゆる人たちから
男好きだの阿婆擦れだのと罵られていますが、
本当にそうでしょうか?」
「……何を、仰りたいのです?」
水神様の眉間が僅かに動きを見せた。
表情も作り物の笑みに変わっている。
それが一見してすぐ判るくらいには
下手なものだった。
「俺はそうでないと考えています。
複数の男性と肉体関係にあったとしても、
心では亡き夫の邦夫さんを
想っていたのではないでしょうか。
水神様がさきほど仰った、
『男女が仲睦まじいこと自体は
悪いことではないのです。
そこに一途な想いさえあれば、
それは誠に美しき花なのですから』
これは女将を揶揄し、
擁護した言葉なのではありませんか?
彼女の身がどれだけ穢れようとも
心だけは清らかなままに、
そんな願いを込めて」
水神様は嘲りを浮かべる。
おそらくそれは彼に向けられたものだった。
「柊様も面白いご冗談を仰りますね。
私の発言に別な意味などありませんよ。
あれはお二人の仲睦まじい様を
からかっただけです。
もし、冗談でないなら、
柊様は想像力豊かですね。
ロマンチストなのでしょうか?」
嘲笑と共に並べられる言葉も
馬鹿にするというよりは拒絶に感じられる。
彼は水神様の強固な鉄壁に
屈することはなかった。
「そうなのかもしれませんね。
ですが、そんなことは些末事です。
女将が隼人を大事に思っていたなら、
死亡推定時刻に出歩いていたことも
納得できるんですよ」
「どういうことです?」
「おそらく女将は御神水の秘密を
握っていることをネタに村長たちを脅して、
大金を得ようとしていたんだと思います」
彼は至極真面目な面をしていたが、
水神様の方が嗤ってしまっていた。
「そんなことをしたところで、
すぐに命の危機に晒されるでしょう。
それに村にはいられなくなりますよね?」
「ええ、その通りです。
だからこそ彼女はその金で
この村を出ようとしていたんです。
愚かですよね。
そんな無謀な計画が成功する訳ないのに
――それでも女将は隼人を
この薄汚れたところから
救い出してやりたかったんです。
そんな子を思う母親の決意を
貴方は踏みにじったんですよ!」
彼は語気を荒げた。
罪を犯してなお、かまととぶる水神様に
彼は憤りを覚えていたのだ。
「私が何をしたと?
殺したとでも仰るのですか?」
「そんなことは言いませんよ。
ときに、息子である隼人のことを
大事に思っていたなら、
女将は甚だ不器用な方ですよね」
彼は湯水のごとく湧き上がる思いを抑え、
水神様を煽っていく。
「それを私に聴かせてどうなさりたいのです」
「あぁ、言い方が回りくどかったですね。
隼人から私的な話も聴いていた貴方なら、
女将もとい城崎艶子が隼人の
母親であることもご存知でしたよね?」
妖しい笑みの下に隠れた本心は
水神様への憎しみだった。
「知っていたからといって、何になるのです」
「認めていただけましたね。
貴方は女将が隼人のことを
大事に思っていることも知っていて、
どうにかしてやりたいと
思っていたのではありませんか?
だからこそ、彼女を選んだ」
「一体何に選んだというのです」
「この腐った集落を
終わらせるための密告者に、ですよ」
「何を仰るのかと思えば、そんな戯れ言を」
「そこで御神水の秘密を女将に教えたんでしょう。
しかし貴方の思い描くように事は進まず、
結果として女将は骸になり、
貴方の手で水に変えられてしまった……違いますか?」
水神様はみるみるうちに顔を真っ赤に染め上げる。
それでもギリギリと歯軋りをして、
懸命に怒りを堪えているようだ。
「それが……何だと言うのです」
怒りを嚙み殺したせいか、
水神様の声は消え入りそうだった。
しかしいちいちそんなことに
怯んでいる時間はない。
もうとっくに正午は過ぎて
日は昇りきっている。
早く、逃げ帰らなければ。
「間接的とは言え、貴方は隼人から
――子どもから母親を奪ったんですよ!
それがどれだけ残虐で
卑劣な行為かお分かりですか。
直接手を下さないにしても、
貴方は女将を殺した犯人の
片棒を担いだんですよ!?
それなのに、どうして
平然としていられるんですか?
どうして、
隼人に顔向けできるんですか……!」
彼は胸に余る怒りを言葉に乗せた。
それが傷付ける言葉だと
分かりながらも口にしたのだ。
水神様は逆鱗に触れた竜のごとく、
怒りを露わにした。
「だったら、どうしろと言うのですか!?」
温厚篤実である水神様も
ついに堪忍袋の緒を切らしたようだ。
いや、切れたのはそれだけではない。
涙腺も決壊したらしい。
涙で綺麗な顔がぐしゃぐしゃに歪んでいる。
「水神様は自分の罪にきちんと向き合うべきです。
子どもから母親を奪った罰として贖いとして、
隼人の傍でずっと守り続けてください」
「でも私はここを出る訳には……」
それでも頑として言うことを聞き入れない
水神様に彼は切り札を投じる。
「それができないなら、
母親の命を奪った元凶が
貴方であることを隼人に告げます。
心優しい水神様に
そんなことはできませんよね?」
脅しであることも
汚いやり口であることも彼は承知の上だ。
水神様は顔色を翳らせて、脆い笑みを零した。
「……柊様は見かけによらず、酷い方ですのね」
水神様の敗北兼降伏宣言と皮肉を前に
彼はいつも通りの笑顔を取り戻す。
「女性からはよく言われました」
からっとした笑みを見た水神様は
また「悪い人」と呟いていた。
彼はそれに対し、
「洞察力が鋭いですね」と返した。
こちらの話も終結し、
椿と隼人のいる方へ
近付いていくと様子が変わっていた。
「嫌だ!」
「隼人くん、お願いだから話を聴いて」
頗る既視感がする。
水神様と顔を見合わせて苦笑した。
ようやく水神様の説得は済んだというのに
まだ事が進まないとは実に骨が折れる。
ふぅーと困り顔で
溜息を吐く椿と目が合った。
椿は彼が水神様と肩を並べ、
自分の方を見ていることで状況を察したようだ。
顔付きが打って変わり、
泣いた子どもを
宥めるような温かい表情を見せる。
「実は私もさ、小学生になるくらいに
お母さんが死んじゃったんだ」
「え……」
突然の告白に隼人は困惑の色を浮かべた。
隼人が食いついているのを
確認しながら、椿は話を続ける。
「それでね、高校生のとき
新しいお母さんができるまで
お父さん一人に育ててもらっていたんだけど、
やっぱりすごく苦労してたみたいなんだ。
再婚したときは反抗もしたけど、
後になって無理してたんだなって知ったよ」
「うん」
再婚なんて単語は聞き慣れないだろうに、
それでも隼人は真剣に椿の話を聴いていた。
「だからね、隼人くんのお母さんも
女手一つで隼人くんを育てたのは
すごく大変なことだったんだと思う。
隼人くんがね、今こうして
生きていられるのはお母さんが大事に
守って育て上げてくれたからなんだよ」
「うん……」
そこで椿はリュックから
手の平サイズの何かを取り出した。
隼人はそれを見て「あっ」と声を漏らす。
「どうぞ。拾ったの。これは隼人くんが
持ってるべきだと思うから」
「うん、ありがとう。りんおねえちゃん」
隼人は椿から手渡された簪をぎゅっと握り締め、
椿の顔を見上げていた。
椿は最後の一押しに
こんな台詞を隼人に贈る。
「お母さんが守ってくれた命、大事にしようよ」
隼人は椿の目を見つめ返し、
はっきり「うん」と頷く。
その後すぐに椿はこちらを見遣った。
今ですよ、とでも促すように。
彼は水神様に目を向け、二人に歩み寄る。
「隼人、水神様が一緒に来てくれるってさ」
「泉本当!?」
今にも飛びつきそうな隼人を前に、
水神様は控えめに「はい」と答えた。
そのとき、霊泉の水が
乾き始めていたことに誰も気付いていなかった。
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