説得失敗
聴衆の目から免れ、
人気のない道を歩くうちに
担がれていた椿は
もがもがと暴れるようになった。
いい加減下ろせとでも言いたいのだろう。
「下ろしてやりたいのは山々だが、
まだ安全と決まった訳じゃないからな。
それに、怖い目にも遭ったんだから
ちょっとは甘えとけ。
だから、水神様のところに
着くまで大人しくしてろ」
少々強引ではあったが、彼なりの思いやりだ。
それに触れた椿は急に大人しくなった。
この体勢では可哀想だが、
拘束されたままである故どうしようもないのだ。
ほどなくして水神様の棲家を
目前としたところで彼は立ち止まり、
ゆっくりと椿を地面に下ろした。
懐からナイフを取り出して
椿の両手両足の縄を切り落とす。
口に巻き付けられている布を外すと、
椿はたがの外れた子どものように
勢いよく抱き着いてきた。
「水さんっ! 助けに来てくれて、
ありがとうございます。
水さんが来てくれなかったら私、私……!」
椿は彼の背中に両腕を回し、ぎゅっとしがみつく。
彼の胸は椿の流した涙でしっとりと湿り始める。
その仕草はそこに在ること、
一人ではないことを再確認するようだった。
普段いくら気丈に装う椿とは言え、
男二人に拉致監禁されたら心細くて
仕方なかったのだろう。
「おい椿、ちょっとくっつきすぎだ……!」
一方で彼は、
椿のはだけた姿に未だ動揺していた。
いつも色気がないと言ってからかうものの、
濡れた髪に露わになった円らな膨らみ、
震えた声でしがみつく様は
彼の思い描く女性の姿だったのだ。
気丈である椿がこんなに嫋やかになれば
余計に動揺せずにはいられない。
「ん……嫌です。
私を放っていった罰ですよ」
「うっ」
それを言われると言葉も返せない。
罪悪感で身を固くする彼に、
椿は一層抱き締める力を強くした。
「私、心細かったのですからね。
水さんにとって私は
足手纏いでしかないのかなって。
だから、水さんが迎えに来てくれたときは
すごく嬉しかったのです。
私は、貴方に
必要されているってそう思えますから」
椿が胸元で微笑んだのを感じた。
湿った液体ではなく、
淡く漏れる温い吐息が彼の心を包み込む。
そんなの……。
「当たり前だろ、
君は――凛は俺の助手なんだから。
早々辞めさせてはやらないし、
勝手にいなくなるのも許さないからな。
君は俺のだ」
椿はばっと顔を上げ、
彼の顔を上目遣いに見上げてきた。
「水さん……!」
キラキラした眼差しが
眩しいくらいに照り付けてくる。
胸に埋められていた顔が彼の頬にひっつけられ、
彼はまた椿を叱責する。
「こらっ椿ー!」
「凛って呼んでくれましたね!
名前で。嬉しいです、水さん!!」
椿は襲われかけたことなど忘れたように
キャーキャーとはしゃいでいる。
自分以外の人間が椿を泣かせているだなんて
たまったものではないが、これはこれで困るのだ。
主に距離感や密着度で。
「椿、これ以上密着するっていうなら――」
「あ、すいにいちゃんだ!
りんおねえちゃんもいるけど……
いちゃいちゃしてるのかな?」
「こら隼人。静かにしなくては
気付かれるではありませんか」
右側に首を捻ると、丁度こちらを見ていた
水神様とばっちり目が合ってしまう。
彼は顔が逆上せ上がるのを感じた。
お互い何も口にできず、気まずい空気が漂う。
「椿、いい加減に離れてくれないか。
隼人と、水神様も見てるから」
無理矢理引き剥がされた椿は
隼人と水神様の申し訳なさそうな顔を見て、
即時赤面した。
「い、いえ、これはその……」
なんとか弁明しようとするも
椿は彼から手を離さない。
「よろしいではありませんか。
男女が仲睦まじいこと自体は
悪いことではないのです。
そこに一途な想いさえあれば、
それは誠に美しき花なのですから」
水神様は数瞬前とは打って変わり、
満面の笑みを浮かべていた。
妙に婉曲的な表現であるのが
余計に彼の羞恥心を刺激した。
「いえ、だからそういう関係ではなくてですね
……椿がかくかくしかじかでして――」
おろおろと慌てふためく彼を見た
水神様はクスリと笑う。
その仕草にきょとんとしていると、
水神様が
「冗談ですよ。
ここで立ち話もなんですから、
こちらへおいでください」
と手招いてくれた。
水神様の棲家に足を踏み入れると
前と変わらず緑が広がっていた。
ここはまだ人に侵されていない神聖な場所なのだ。
「水神様さっきの話ですが、
実は椿が村長に拉致された後
襲われかけていたんですよ――」
彼はそこではっとしたように椿の方へ向き直した。
勢いのよさと剣幕に椿は後退りする。
「す、水さん、どうしたのですか……?」
笑ってみせる椿だが、やや頬が引き攣っていた。
至近距離で見つめられたら
そうなるのも仕方ないのだろうか。
彼は気に留める様子もない。
「椿、本当に何もされてないのか!?」
両肩をがしっと掴み、椿を揺らして問い糾す彼。
椿は一刹那、目を逸らしてしまった。
「何も、されてません」
「嘘吐くな。
それならどうして目を合わせないんだ?」
彼はごくごく真剣で嘘を吐く椿に詰め寄った。
見上げてきた椿の目は
彼の力強い眼差しに吸い込まれていく。
椿に嘘を吐く気力など残されていないだろう。
「む、胸を揉まれまし、た……」
彼の目がぎらつく。
殺意が降って湧くようだ。
何やら禍々しいオーラが全身から漲っている。
「よし…………潰すか」
「水さん、目が本気っぽいのでやめてください。
怖いです。それに今はそれよりも
することがあるのではありませんか?」
椿に諭された彼はなんとか怒りを押し留められ、
話題を戻すことにした。
「すみません、暴走してしまって。
おそらく村長は口封じがてら、
椿を辱めようとしていたんだと思います。
事実を告げるにはそのことも如実に
語らなくてはならなくなりますからね――」
水神様の表情に怒りが差した。
「女性を辱めるなど言語道断です」
「同意見です。それに水神様もご存知の通り、
椿が攫われたのは隼人を庇ったからです。
このままでは隼人の身が
危険に晒されてしまいます。
だから隼人を、
この村から脱出させるべきだと思います」
水神様は渋面を浮かべた。
「それはそうなのですが……」
水神様は妙に言葉を濁してくる。
そんなことをしている場合ではないというのに。
「どうしてダメなんですか?
隼人の命が懸かってるんですよ!」
「その本人がですね、
ここを出るのを拒んでいるのですよ。
柊様が出て行ってから、私は隼人の話を聴き、
説得を試みたのですが、
どうにも私では力不足のようでして……」
隼人に顔を向けると訊くまでもなく
「ぼく、嫌だよ」と反抗した。
「我が儘ばかりではいけませんよ、隼人。
化野を出るのです」
水神様の言うことならなんでも
聞きそうな印象だったが、
隼人は頑として聞き入れようとしない。
「嫌だ! 泉とここで一緒に暮らすの」
それはあまりにも
非現実的で夢物語のようでさえあった。
「それはできません。
今日にも追っ手が迫っています。
ここに滞在することは即ち、死を表します。
まだ幼き命の
灯火を消させる訳にはいきません」
水神様は子どもには
少々分かりづらい言葉遣いをしていた。
感情が高ぶると
そういう口調になる気質なのだろうか。
「じゃあ、泉も一緒に来てよ」
それは幼くして母を亡くした
隼人の切なる願いであった。
隼人を大事に思う水神様なら
絶対に断らないだろうと彼はそう思い込んでいた。
「それはなりません」
しかし、無情にも
水神様はきっぱりと切り捨てた。
恋文を引き千切るかのごとくだ。
「どうして!?」
「私はこの地に仕える水神であります。
故に、ここから
離れることは叶わないのです」
「なら嫌だ、ぼくはここから出て行かないよ!
泉もいなかったらぼくは独りぼっちだもん
……そんなの、
生きてたって仕方ないじゃん」
隼人は小さな肩を振るわせて
泣きそうにしていた。しかし、
「なんてことを口にするのですか。
あなたの命はあなたが勝手に
途絶えさせていいものではないのですよ。
あなたの母親がお腹を痛めてここまで
育ててくれた恩を仇で返す気です、か……っ」
泣いたのは水神様の方だった。
「どうして泉が泣くの」
「それは、
隼人が大事だからですよ……っ」
端から見ていると、
青春ドラマのワンシーンを
見ているような気持ちになった。
「水さん」
「ああ。
こっちはこっちの話をしような」
椿の肩を抱き寄せて、
彼は二人から少し距離を置いた。
「水さん、
耳に挟んでいてほしいことがあるんです」
「なんだ?」
「女将さんの友人である木蔭さんにお会いして、
話を聴きました。
女将は男好きではないと教えてくれました」
「本当か!?」
彼の中で母親像が一つ守られたような気がした。
過去の悲しみを払拭できる訳ではないけれど、
救われたようなそんな気がしたのに。
「でも、複数の男性と
肉体関係を持っていたのは本当らしいです」
その言葉で彼はまた地獄に叩き落とされた。
甘い夢の一つくらい見させてくれよ、
と彼は心の中で嘆く。
「そうか」
けして顔には出さないように。
「ただ、それは脅されていたからのようです。
今はこれ以上言えませんが、
女将さんはそこまで
悪い人ではなかったのだと思います」
生前、女将を嫌っていた椿が
そういうだけで心が融けていく。
痛むところを包み込んでくれるような
優しさが彼の心を纏う。
「ありがとうな、椿。じゃあ俺からも――」
彼は水神様から聴いたことを
ある程度割愛して、椿に説明した。
「なるほど、水神様は元は妖怪であったと。
そのうえで村人に
恩義があるとそういうことですね。
そして、村長は
それを悪用しているのでしょう?」
「まあ、そんなところだ」
時は一刻を争う。村長は今頃、
村人たちに全てを話していることだろう。
秘密を知ったうえで村人はどちらに味方するか
……そんなもの瞭然だ。
どれだけ歪んでいようとも、間違っていようとも、
それが自分に利益をもたらすものなら
――それも、自分の生死に関わるとすれば
“あちら側”を選ぶことは目に見えている。
だからこそ、今のうちに隼人を説得したうえで
脱出を試みなければならないのだ。
彼はちらりと二人の方へ目を遣った。
「いや!」
「隼人お願いですから……!」
依然として交渉は
上手くいっていない様子だ。
彼の頭の中にはある仮説が組み上がっていた。
それが上手くいくかは分からない。
でも試す価値はあるはずだ。
生きるも死ぬもここで決まるかもしれない。
水に呑まれることと水に溺れること、どちらが過ちだろうか。
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