椿:回想(2)


 およそ二年前、

 まだ彼女が高校生であったときのこと。


 その頃にはもう既に母親は他界しており、

 別な母親ができたばかりだった。

 義母は意地の悪い人でもなく、

 良妻賢母という言葉が似合う人だが、

 この頃はまだそれを受け入れられなかったのだ。


 母親を亡くしたのは小学生に上がる頃だったが、

 それでも彼女にとっては

 忘れられない思い出だった。



 彼女は相当なマザコンであったのだ。

 そのうえ、思春期真っ盛りの十七歳のときに

 父親が再婚したことも相俟って、

 義母のことも好く思えなかった。



 その日は丁度彼女の誕生日だった。

 特別なお祝いを用意しているからと

 父親に赴きのある料亭へ連れて行かれた。

 なぜか小綺麗な着物まで着せられて。

 元名家の生まれであると言えど、

 普段は一般家庭と同じ暮らしをしているため、

 彼女にも珍しかった。


 ただ補足をすると、

 彼女は箱入り娘であることに変わりはない。



「わぁ、綺麗」



 丁寧に整えられた庭園が眺望できる。

 植えられた柿の木や敷き詰められた

 紅葉が秋を彩っていた。

 また案内されたそこは

 個室で畳が敷かれてあった。


 食事を済ませるというよりも

 会談でも行うような雰囲気が漂う。

 隣も襖で繋がっているようだ。


 彼女が物珍しさにはしゃいでいると、

 父親が「静かになさい」と窘める。

 すっかり肩を落としてしょんぼりしていた

 彼女の視界に見知らぬ男が飛び込んできた。



 男は三十歳ほどに見える。


 シックな黒スーツから覗く

 カッターシャツは質が良さそうだ。

 切り揃えられた茶髪は清潔で、

 端正な顔立ちをしていた。

 一回りも下な

 彼女から見ても男は格好良く見える。



「今晩は」



 柔和な笑みに釣られて彼女も

「今晩は……」と控えめに会釈した。

 父親は待ってましたと

 言わんばかりに声を張り上げる。



「凛、こちらは藤堂グループの

 社長子息の藤堂邦彦さんだ。

 失礼のないようにな」



 それだけ言い残すと、

 父親は二人を残してとっとと

 部屋を去ってしまった。


 見知らぬ男と二人きりにされ、

 緊張が解けない彼女はおろおろと狼狽えた。

 慣れない場に慣れない服は肩が凝る。


「え、えっと……」と困惑する彼女に、

 男もとい邦彦は優しく笑いかけた。



「とりあえず、お互いの話でもしませんか?

 もうすぐ食事も運ばれてくると思うので」


「は、はい」



 肩の力が抜けない彼女に

 邦彦は特別な言葉を掛ける。



「それと、お誕生日おめでとうございます」



 彼は懐から品の良さそうな

 小箱を取り出して、彼女に差し出した。



「ご存知、だったんですか。

 ありがとうございます」



 申し訳なさと遠慮を覚えながらも

 彼女はその小箱を受け取る。

 開けてほしいと促され、

 開けてみると中身はネックレスだった。

 邦彦は自ら進んで彼女にネックレスを着ける。


 パーソナルスペースに

 踏み込んだせいか料理のお陰か、

 その後二人は会話が弾むようになった。


 デザートにまで行き着いた頃、

 酒を口にしていた邦彦の様子が変わっていた。

 柔和な顔付きが一変し、

 据わった目で彼女を見つめている。

 それに気付いた彼女は口を開いた。



「あの……どうかなさいましたか?」


「凛ちゃん、可愛いよねえ。

 本当に彼氏とかいないの?」


「は、はいそうですけど」



 一気に下卑た邦彦に警戒心を抱いた。



「じゃあさー、俺が凛ちゃんの

 彼氏になってあげる、っよ――」



 その刹那、腰に腕を回され

 強引に引き寄せられた。

 邦彦はもう一つの腕で襖を開けると

 二つ並べられている布団に彼女を押し倒す。



「きゃっ!?」



 邦彦は即座に彼女の両腕を掴み、

 強引に首筋へ顔を埋める。

 首筋にキスを落とされ「んっ」と

 艶めかしい声を漏らしてしまう。


 しかし心の中は

 焦燥と恐怖で埋め尽くされていた。

 その間も空いた方の手で着物の帯を緩め、

 邦彦は彼女の衣服をはだけさせていく。



「可愛い声出すね……燃えてきたよ」



 狼の眼を前に、彼女の背筋がぞっと凍えた。

 本能的に危険を察知したのだ。



「ど、どうして

 こんなことをなさるのですか!?」



 邦彦はにやりと怪しい笑みを見せる。



「これは見合いなんだよ。

 そういうことするために決まってるでしょ?

 この部屋は夜の営みをするために

 設けられた場所なんだから。

 凛ちゃんだって、嫌がってるふりしてるけど、

 本当は嫌じゃないでしょ。

 分かってるから。

 大丈夫、優しくしてあげるから……」 



 邦彦の顔が彼女の胸元に近付き、

 手は太腿の方に伸びる。

 舌と手が彼女の素肌に触れた瞬間、

 彼女の身体中に寒気が走った。



「いやぁああああああ!!!」



 彼女は無我夢中で邦彦を拒む。

 その思いは脚力の源となり、邦彦の顎に命中した。

 中途にはだけて身動きの取れにくい着物のまま、

 彼女は駆け出す。


 背後から「このクソあまあああ!!」

 という怒声が聞こえたが、

 怖くて後ろは振り返られなかった。

 廊下を駆け抜け、出口へ向かおうとするが、

 邦彦が先回りしていた。


 逃げ場を失った彼女は足袋だけの

 ほぼ素足で庭へ下りる。

 勝手口は見つかるが、

 鍵がついていて開けられない。



「凛ちゃーん、

 恥ずかしがってないで出ておいでよー」



 周囲を誤魔化すように、邦彦は甘い声で彼女を誘う。

 その声はすぐ傍まで来ている。

 彼女は意を決して壁をよじ登り、

 脱出することに成功する。

 しかし、脱出したことがバレるのは時間の問題だ。

 徒歩では到底逃げ切れない。


 そのとき、丁度そこを通りがかった彼がいた。

 藁にも縋る思いで彼女は声を掛ける。



「助けてください!」


「は?」



 彼は妙なことを言い出す彼女に唖然としていた。

 しかし、はだけた着物に足袋という

 ただ事ではない様子から事態を察し、

 近くのファミリーレストランに移動させたのだ。


 訳を話すと彼は親に連絡を取るよう勧めてきた。

 しかし、おそらくこの見合いを設けたのは

 父親である故、父親には連絡し辛い。


 それを告げると彼は母親はどうかと訊いてきた。



 正直なところ、

 義母はあまり信用していないが

 今はそうも言っておられず、

 義母の日和に電話する。


 数十分と経たないうちに義母はやって来て、

 彼女を見るなり抱擁した。

 さらに彼から事情を聴いた義母は

 彼女を自分の実家に送り届けた後、

 彼に頼み二人で料亭へと乗り込んだという。


 その後は彼と義母の

 コンビネーションで邦彦を論破し、

 見合いも破綻させた。

 彼女のためを思って

 裁判沙汰にはしなかったらしい。



 翌日、日和は父親の忠臣を

 もの凄い剣幕で叱責したようだ。



「まだうら若き乙女に

 時代錯誤な見合いをさせて、あまつさえ、

 強姦するような男と二人きりにするなんて、

 貴方は娘に強姦の

 トラウマを植え付ける気ですか!?」とのこと。



 それを義理の祖父母から聴いた彼女は

 いたく心を打たれたそうだ。


 その一件で彼女は義母の日和を見直し、

 以前より遥かに親しくなった。

 今では実母と同じくらい、

 いやそれ以上に敬愛している。



 さらにこの話には続きがあり、

 災難に巻き込まれた彼は

 父親の忠臣のところへ直談判しに行ったらしい。


 そこで、もう二度とこんなことはしないよう

 忠告したそうだ。

 部外者からそんなことを言われる筋合いはないと

 答えた忠臣に彼はこう言った。



「人様に迷惑をかけておいて何が部外者ですか。

 それに、娘さんのあんな怯えた顔を

 見せられちゃ口を挟みたくもなりますよ」



 これには忠臣も返す言葉がなかった。

 さらに彼は念押しに、

 次こんなことがあったら椿さんのゴシップを

 紙面に載せると脅したらしい。


 両者から叱責を受け、

 父親は彼女に

 お見合いをさせることはなくなった。



 この一件で多大な恩を受けた彼女は

 すっかり彼に惚れ込み、弟子入りを決意した。

 もちろん惚れたといっても、彼の人柄にだ。



 初めは取り合ってくれなかったものの、

 粘り強い彼女に根負けし、

 彼は何かと面倒を見てくれるようになった。


 進路決定のときには立ち会ってくれて、

 父親を説得までしてくれたのだ。


 その際、

「大学になんか行かせたら、

 それこそハイエナの餌食ですよ。

 娘さんが染められてもいいんですか?」

 と脅したのが効果的だったようである。



 つまり、今の彼女が在るのは彼のお陰なのだ。

 彼との出逢いが彼女を

 生かしていると言っても過言ではない。

 あるがままの彼女を支えるのは彼で、 

 孤独に怯える彼を支えるのもまた彼女で、

 廻っている。


 血の関係はなくとも、

 見えない絆で結ばれているのだ。

 それこそ、掬えない水のように……。


 回想も終わり、彼女はやっと目を覚ました。

 目を開けると、

 村長の頭が自分の胸に埋まっていた。



「いやぁあああああああ!!」



 かなり甲高い悲鳴を上げ、

 彼女は頭突きと膝蹴りを食らわせた。

 村長は地面に倒れ込み蹲っている。

 はだけた服の隙間から胸が垣間見えていて、

 生温い舌とべたついた唾液の感触が残っていた。

 吐き気と目眩がする。


「う、ぅぅ」と村長の呻き声がして、

 彼女はなんとか立ち上がった。

 このままではもっと酷い目に遭わされる。

 両手両足を縛られている中、

 彼女は兎跳びでその場から逃げ出した。



 背後から村長の怒声が聞こえる。

 石井に命じているのだ。

 どうせすぐに捕まってしまうだろう。

 分かってはいても、逃げずにはいられなかった。



 怖い、振り返るのが怖い。捕まるのが怖い。

 後ろからの足音が怖い。


 こんな状況、前と同じで

 脳裏にあのときの彼の姿がよぎった。



「水さん、助けて……!」



 その願いも虚しく、

 後ろ手に縛られている手に手が触れた。

 悪寒が走る。

 次の刹那には、羽交い締めに遭った。

 今度こそ、犯されるのも時間の問題だろう。

 彼女の心の中に絶望が宿った。



「やっぱり、私一人じゃ無理ですよ」



 吐き出した嘆きは虚しく、

 静かな洞窟に木霊した。


 その先では彼女の悲鳴さえ

 掻き消す滝の音が轟いている。

 轟音の前では小川のささらぐのも

 掻き消されてしまうように。


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