柊:過去
少し時を遡って、
椿が木蔭から女将の話を聴かされていた頃。
彼と水神様の話題は水神様の過去話になっていた。
あの直後、彼は水神様に詰め寄り、
「どうして女将を水に変えたんだ!?」と問い糾した。
それに対して水神様は、
「そうすることでしか彼女を守れなかったから」
だと語った。
また加えて、
「おいおい説明するから、
まずは私の話を聴いてほしい」とのことで、
今に至る。
「それでは覚悟はよろしいですか?」
「水神様こそ、いいんですね?
全部記事にしますよ」
「構いません。むしろ、もっと早くに
こうするべきだったのです。
私が不甲斐ないばかりに村の者を堕落させ、
彼女も亡き者にしてしまったのです」
水神様は目を伏せて切なそうな面を見せた。
その様は項垂れるという言葉を体現していた。
罪悪感に押し潰される
水神様はあまりにも儚げであった。
「何も水神様が
そこまで背負うことはないでしょう」
自分の母親がその巻き添えを食らったというのに
彼はえらく殊勝なことを口にした。
いや、自分の母親だからこそかもしれない。
もう二度と逢えないだろうと諦めていた気持ちや
憎んでいる気持ちが少なからずあったのだ。
しかし、水神様はけして自分の罪から
目を背けるようなことは口にしない。
「いいえ、そうなのです。
どれほどの恩があろうと、
人が人の命を操るような所行、
ましてや人を殺めてまで金儲けに走るような
愚行は私が止めるべきだったのです」
やけに神妙な面持ちをしていた。
恩があるという割にはえらく批判的である。
「恩?」
それだけに彼は耳を疑ったのだ。
「そうですね、
その辺りからお話しすると致しましょうか」
「お願いします」
彼が是非ともと促す。
水神様はふぅーっと息を吐き、気を落ち着かせた。
すると穏やかな顔付きになり、
水神様は昔話のような語り口調で始める。
「その昔、私はカワコマという妖怪でした。
滝の名前がワコの滝となっているのは
その名残なのでしょう。
当時の村人は私を
気に入っていらっしゃいましたから」
郷愁に誘われる憂いた表情を見せる水神様。
過去が栄光とすれば、
今はよほど退廃しているのだろう。
「妖怪、だったんですか?」
彼は目をぱちくりさせて水神様の返答を待つ。
「ええ。その事も説明させていただきますので、
話を続けても?」
にっこりとした笑顔は無言の圧力となって
彼にのし掛かってきた。
美形の笑顔には威力がある。
好奇心で無闇矢鱈と
話に水を差すものではない。
「は、はい、もちろんです」
「ありがとうございます、では。
カワコマというのも動物名と同じようなもので、
私個人の名前ではありませんでした。
そして昔は今とは違い、私は村人に認知され、
自分で言うのもおこがましいのですが、
慕われている頃もあったのです。
しかしそれもまた、化野に来た頃からでした。
ここに来る前、私は嫌われ者だったのです」
水神様は遠い目をしていた。
胸元を押さえ、痛みを訴えるかのようであった。
「どうしてですか?」
純粋に疑問を抱き訊いたのだが、
水神様は自嘲的な笑みを零した。
「どうしてって、
私が人骨を水に変えられる化け物だからですよ」
吐き捨てるように刺々しい言葉だった。
「水神様……」
掛ける言葉が見つからず、ただ名前を呼んだ。
すると魔法が解けたように水神様は我に返り、
自己嫌悪に陥ったような顔をした。
「ああ、まだ柊様には
そこまでお話ししておりませんでしたよね。
私が人骨を水に変えられるというのは
カワコマである頃から
持ち合わせていた力なのです。
その頃の私はこことは違う村に在して人と接し、
言葉も交わしておりました。
私は人骨を変える力を
その頃から使用しておりましたが、
決して殺めた人骨を用いている訳ではありませんでした。
私はただ、皆の役に立ちたくて
埋葬に困っていた死体を
水に変えていただけだったのです。
皆も私の力を必要としてくれました。
しかしそれも人間にとっては
大層気持ちの悪いことだったようです。
水生成の真実を知った村人は皆口々に、
『気持ち悪い』『化け物』『悪魔』などと罵りました。
人は死んでもなお、
人の心の中で生き続けるものなのですね。
だからでしょうね、
二度目の命を奪った私を村人は忌み嫌い、
迫害しました」
水神様の口から淡々と語られたそれは
彼の想像を凌駕していた。
ただの一人ではなく、
他者によって迫害された独りなのだ。
選んで離れた一人とは異なる。
人はどの世でも、異なる者を忌み嫌い、
蔑むきらいがある。
それがどれほど愚かで
滑稽なことかは知らずに。
彼を驚かせたのは、
水神様の他人事のような淡泊な物言いだった。
自分のことであるのにあたかも御伽噺でも
語るような口調が冷たく感じられたのだ。
「その村人たちを憎んだりはしていないんですか?
そんなに酷い仕打ちを受けたのに――」
彼が言い終えるのを待つまでもなく
水神様は「仕打ち?」と首を傾げた。
「あぁ、柊様は私を心配してくださったのですね。
ですが、心配はご無用です。
私は人間ではありませんから、
そこまで村人に情があったわけでもありません。
だから感傷的になることはありませんよ」
水神様は気丈に笑った。
これ以上は堂々巡りだろう。
そう悟った彼は次の質問を繰り出すことにした。
「では水神様、その後どうして化野へ
行き着いたのかを教えていただけますか?」
「もちろんです。迫害されたというより、
私に対する信仰心のようなものが薄れ、
いつしか私は“いないもの”として
扱われるようにもなりました。
そのうち、本当に私が見えなくなったようでした。
声を掛けることも、
触れることも適わなくなりましたよ。
その後、化野へやって来ましたが
ここでも同じようなことが繰り返され、
私も限界寸前で村を出ようとしました。
しかしある一人の男が、
『この人は必要だ』と言ってくれたのです。
その頃化野では度々干ばつなどが起こり、
水不足に陥っていました。
そのために真実を知った後も
彼等は私を受け入れてくれたのです。
私にはそれだけで十分でした」
水神様は悲しいのか嬉しいのか分からない涙を流した。
なんだかんだと言いながら、
水神様も十分に涙もろい。
「それがどうしてまた
見えなくなったんですか?」
水神様は涙を止め、思わしくない顔付きになった。
「ですが、それは人間にとって都合の悪いことです。
一部の人間以外はその事実を忘れるよう、
口外しないよう口止めされていました。
そうしてどんどん噂は風化していき、
私が見える者はいなくなったのです。
“見てはいけない。見えなくなりたい”
という気持ちがそれを助長したのでしょう。
そしてその代わりにできたのが
“水神様”という存在です。
生々しく気色の悪い力を持つ妖怪ではなく、
幻想的で神秘的な力を持つ
神を人々は欲したのです。
水を司る神様、
すなわち水神様のお陰で化野は潤っている。
人々の中でそういう思想が根付き、
信仰されるようになり祠まで
造られるようになりました。
ほら、その祠がこちらです」
水神様が指す方には古びて
手入れの行き届いてないちっぽけな祠があった。
「もうすっかりご無沙汰のようですね」
彼は配慮も捨てて言い放った。厚顔も甚だしい。
「そうですね、今では隼人くらいです。
あの子は本当に素直で可愛くて堪りませんね。
私の渇きを癒してくれる
唯一の友になりました」
「水神様それって――」
彼が気に留まったことを尋ねようとするも、
水神様は彼の言葉を遮ってしまう。
「ああ! それよりも御神水について
お伝えしたいことがあるのでした。
聴いてくださいますよね?」
無言の圧力がより露骨になってきている。
断る権利すら持ち合わせていない彼に、
それを指摘することはできないが。
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