椿:真相
気を引き締め落ち着いた彼女は、
もう一度御神水について
調べてみようとワコの滝の方へ赴いていた。
「初心に返って、まずはここからですよね」
両手の握り拳を胸の前で作り、彼女は奮起する。
白いブラウスに胸元で結ばれたネクタイ風の
黒いリボンが胸囲を強調していた。
下にはスラックスのような
九分丈のデニンスを着用している。
散策には丁度いい。
ワコの滝は今日も変わらず
轟音を打ち鳴らしていた。
人の世が乱れていようとも自然は凜々しく在り続ける。
人の世のことなど些末事といったように
どっしり構えているのだ。
水は生命の源。
命の始まり。
そんな意味の名前を持つ彼。
女将が彼の母親であるなら、
少なくとも女将は四十後半でなければ辻褄が合わない。
しかし生前の女将はどこからどう見ても
四十歳にすら見えなかった。
となれば、御神水の噂は事実で間違いないだろう。
あの皺一つ見当たらない張りのある肌や
肉体はそんじょそこらの健康食品などでは
補正できないものだった。
「でも調べるといっても、
若返りを証拠づけることができるのは
人そのものですし……
何を確かめて良いのやら」
調査早々挫けてしまいそうになった。
闇雲に探しても仕様がないが、
ここには秘密が隠されているという
証拠もない確信があったのだ。
目視で何か手掛かりを探すこと数十分、
彼女は途方に暮れていた。
「ぁああ、もう。何も見つからないなんて!」
それはそうだと分かりながらも地べたに座り込んだ。
やはり旅館で計画を立ててから
行動した方が良かっただろうか。
そういうのは性に合わないが、
何をするかだけでも明確に決めておけば良かったと
後悔の念が襲ってきた。
一人でがむしゃらに行動すると碌なことがない。
三角座りでうぅーっと項垂れていた
彼女に声を掛ける人物が現れた。
「りんおねえちゃん?」
彼女は膝に埋めていた顔をぱっと上げる。
勢いのよさに隼人は「うわぁあ!」と仰け反った。
顔を覗き込んでいたようだ。
肩には水筒の紐が掛かっていて、
手にはタオルが携えられていた。
さらに斜め掛け鞄ときた。
熱中症や脱水症には気を付けるよう
躾けられたのだろう。
飾り気のないTシャツと
半ズボンはいかにも少年らしさを引き出していた。
無言で観察していると、
心配そうな眼がこちらをじっと見つめてくる。
「あぁ驚かせちゃってごめんね。
どうしたの隼人くん?」
「どうしたの、じゃないよ。
りんおねえちゃんこそ、
こんなところでしゃがみこんでどうしたの?
お腹でも痛いの?」
隼人は心配で仕方ないようで
彼女の背中をそっと擦り始めた。
その感触はくすぐったくて温かかった。
隼人の思いやりが温かくて
彼女はふっと笑みを零す。
「ううん、大丈夫だよ。
ただちょっと疲れちゃっただけだから。
でも、隼人くんが撫でてくれたから
もう平気だよ、ありがとう」
大丈夫な証拠を見せるように
彼女はすくっと立ち上がった。
「りんおねえちゃんが
元気になってくれてよかった!」
にぱっと輝かしい笑顔を見せる隼人。
この無邪気な笑顔が
いつまでも消えないでいてほしい。
ふと、その背景に
女将の顔が浮かんで見えた。
そうだ、女将は隼人の母親なのだ。
そして彼の母親もまた女将で……。
つまり二人は異父兄弟ということになる。
彼はこのことを知っているのだろうか。
知らないとしても、
彼女にとっても隼人は大事な存在となった。
彼の弟だからではあるが、
そうでなくとも守りたいという
庇護欲には駆られただろう。
「ところで、隼人くんは何をしてたの?」
「今から水神様のところへ行くんだ!
今日もいっぱいお話ししたり、水遊びをするの」
隼人は両腕をいっぱいに広げてみせる。
楽しみで仕方ないのだろう。
「へーえ水遊びか。いいね、楽しそう」
水を繰る水神様とする
水遊びだなんてちょっと蠱惑的だ。
それに歳を重ねるつれ、
そういうことはしていけないという暗黙知がある。
十九にもなると、野外で
水遊びというのは憚られるものだ。
プールや海など然る場所ならともかく。
すると隼人はうーんと唸り、そうだ!
と声を上げる。
「ねえねえ、りんおねえちゃん。
それならりんおねえちゃんも
一緒に水遊びしようよ!」
「へ?」
子どものあどけない
提案に彼女は間抜けな面を晒した。
「いつも泉……じゃなかった、
水神様と二人で遊んでるから
すぐ終わっちゃうんだけど、
りんおねえちゃんもいたら
もっと楽しいと思うんだ。
二人だけよりもいっぱいの方が絶対楽しいよ!」
隼人は自分の提案に
大層はしゃいでいるようだった。
いつも二人ということはやはり
母親にはあまり遊んでもらえないのだろう。
母親がずっとついていてやるような年でもないが、
それなりに構ってほしい年頃のはずだ。
母親から愛情をもらえない分、
淋しがり屋な風に思える。
「うーんでも、
私はやらなくちゃいけないことが
まだ残ってるから――」
行けないかな。
そう言い掛けた彼女であったが、
隼人の顔を見た途端に言えなくなってしまった。
捨てられた仔犬のような
円らな瞳でじっと見つめてくるのだ。
しかも眉は下がり、
口はへの字形に結ばれていた。
「どうしても、ダメ……?」
そのうえ潤んだ瞳で上目遣いときた。
これは彼女の良心が痛んでしまうのも訳なかった。
ここで断れば、子どもの期待を裏切ることになる。
そんな強迫観念に襲われた。
それに、幼い頃に愛情を注がれなかったり、
愛情を感じられなかった子どもは歪んで育つという。
それはまるで彼を体現するような言葉だ。
もし隼人が弟であると知ったら彼も、
隼人には健やかに育ってほしいと願うだろう。
もちろん今は御神水や
女将殺しの調査を進めるべきだ。
それでも、無垢な隼人の誘いを
断っていい理由にはならない。
まだ綺麗なままの隼人に
大人の事情を押し付ける訳にはいかないのだ。
「ううん、ダメじゃないよ。
やり残したことがあるからまだ行けないけど、
それが終わったらすぐ行くから待ってて。
それでもいい?」
前屈みになり、隼人の目をしっかりと捉える。
すると隼人は首を大きく縦に振った。
じゃあいい子で待っててね、
と彼女が頭を撫でると
隼人ははにかみながら微笑んだ。
その笑顔は甘ったるくて
頬を抓りたくなるほどだった。
「じゃあね、りんおねえちゃん。
早く終わらせて、お昼までには来てね。
待ってるから!」
隼人は声を大にした。右手もぶんぶんと振る。
数歩歩く度に彼女を振り返っては、
おねだりするような目で見つめてきた。
「大丈夫だから、先に楽しんできて」とあやすと、
隼人は元気よく駆けていった。
子どもは元気が一番だ。
さあ、隼人に約束したからには
用事をさっさと済ませなければならない。
踵を返した彼女はワコの滝に違和感を覚えた。
「なんだろう、ここ何か変な気が……」
滝の水が流れ落ちる
横から妙な風に煽られたのだ。
滝から発生するような湿った空気ではなく、
もっと通り抜けるようなものだった。
目を瞑り耳を澄ませてみると、微かに風の音もする。
どこからか風が発生しているようだが、
一見したところそれらしきものは見当たらなかった。
水辺でくるくると辺りを見回しているうちに、
彼女は足を滑らせてしまう。
「いたたたたぁ」
しかも冷たい。
水遊びをする前に濡れてしまった。
尻餅をつき、
手を置いたところに何か小物が落ちていた。
水浸しになっているが、それはどうやら簪のようだ。
念のためジッパー付きの袋に入れて、
リュックに仕舞い込む。
立ち上がると、全身水浸しになっていた。
これでは調査をしているのやら何をしているのやら。
隼人にからかわれそうだ。
自嘲気味な笑いを浮かべつつ、
体勢を戻そうとすると滝の裏側が
空洞になっているのに気付いた。
いや、空洞というよりも洞窟だろうか。
「これって……」
村長と石井に案内されたときには
こんな場所があるなんて知らされなかった。
これは謎解きの鍵になるかもしれない。
彼女は懐からニトリル性の手袋を取り出すと手に嵌め、
スマホを懐中電灯代わりに洞窟を突き進み始めた。
「わぁ、中はこんな風になってるんだ。
意外と綺麗にされてる……?」
入り口もさることながら、
内部もきちんと整備されているようだった。
足下には足跡も残っており、
壁際に配置されている照明器具も
手入れが行き届いている。
定期的に誰かが使用しているのだろう。
ずかずかと無遠慮に歩き進めていく彼女だったが、
あるものが視界に飛び込んできた途端
立ち止まってしまった。
「ひっ! 何、これ……」
スマホの明かりで地面を照らすと、
黒い飛沫のようなものが地面を汚していた。
手袋越しに指でなぞったら、
それは乾いていて付着することはなかった。
鼻を近付けると、錆びた鉄のような匂いがした。
しゃがみ込んだまま地面に
顔を近付け間近でそれを観察する。
よく見ると、それは赤黒くて
地面にこびりついているようだった。
「多分、血だ」
そうと気付くと恐怖心も治まるようで
彼女の顔は真顔に戻っていた。
多分ここなら何か手掛かりが見つかるはず。
血飛沫が残っているなら、
証拠になる別の何かも……そう思い、
彼女は血眼になって手掛かりを探す。
手袋を嵌めた手で必死に
地べたを這わせているうちに
指の先が棘のようなものに触れた。
「痛っ」
何に当たったのかと目を凝らすが、
ガラスの破片らしきものすら見当たらない。
これは何かあると、彼女は
指先を掠めた付近の土を掘り起こしていく。
初めは何も見つからないまでも
いくつか掘り起こすうちに
彼女は何か掘り当ててしまった。
「これって……錐かしら?」
柄の部分は檜でできており、
根元の部分には焼き印がされているようだ。
これで容疑者を絞り込むことができるだろう。
もちろん切っ先には赤黒い付着物があった。
証拠品としては十分だろう。
彼女はそれを写真に収めたうえで
不鮮明なジップロックに入れ、鞄に仕舞い込んだ。
これだけでは彼女に犯人を特定することは適わないが、
それは今不在の彼に任せるとしよう。
彼女は自分の役目は果たしたと肩の力を抜いた。
一仕事終えたことだし、
さっさと隼人のところへ向かおう。
そう思い立ち、踵を返した足下に
コツンと何かが靴に当たる感触がした。
拾い上げてみると錆び掛かった
ロケットのペンダントだった。
血も付着している様子はない。
誰の物だろうかと首を傾げていると、
彼女の耳に信じられないものが飛び込んできた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます