椿:訪問者(2)

「えっと、三年前からだったはずよ」



 彼女の頭にはよからぬことが浮かんでいた。

 隼人の父親が亡くなったのは三年前。

 女将が望んだものではないとすると……。



「木蔭さん、艶子さんには

 小学生くらいの息子さんがいますよね?」



 彼女は木蔭を見つめた。


 これは今のうちに確かめておくべきだ。

 女将のことをほぼなんでも知っている

 木蔭になら訊ける。


 木蔭は目を丸くして、ふふっと笑った。



「ええ、そうだけど。

 どうしてそんなこと知ってるのかしら」


「ちょっと話を聴いているうちに

 そうじゃないかと思いまして。

 艶子さんの息子って、隼人くんですよね?」 



 彼女は眉一つ動かさなかった。

 誤魔化しの一挙一動さえ見逃さないように。



「そうよ。隼人くんはいい子で

 邦夫さんがいたときは親子三人で仲が良かったのに、

 邦夫さんが亡くなってからは

 人が変わったように荒れたわ。


 でもね、艶子はそれでも

 誰か他の男に頼るような……

 甘えて、堕ちるような女じゃなかった。

 艶子はそれほど下卑た女じゃなかったの。

 真面目で努力家で気丈、

 だから守ってやりたいって思ったのかもしれない。

 邦夫さん以外に甘えられない艶子だったからこそ、

 あたしが艶子の親友になれれば……ってね」



 やはり、彼の推測は当たっていた。

 木蔭の中で女将は美しいものの

 象徴であったのだろう。

 凛とした花のように、

 枯れる姿を見せることはない。

 それ故に、自分だけが

 弱い部分を知りたくなるのだ。


 男好きがデマにしても、

 女将のそういう部分はある意味、

 “魔性”であったかもしれない。



 誰からも期待され続け、

 女将はどんな心持ちだっただろう。

 羨望や色欲に塗れた眼差しを向けられていた。


 頼れる相手であった

 木蔭でさえもそうだったならば、

 本当の意味で拠り所なんてあったのだろうか。

 彼女は女将が死して今、

 その人間性にようやく共鳴していた。



「木蔭さんの話から察するに、

 艶子さんの夫が亡くなったのは三年前ですね?」



 しかしそれを悟らせないように

 彼女は自然を装った。



「ええ、そうよ。

 邦夫さんが亡くなって

 艶子は悲しみに暮れていたわ。


 初めのうちは死んだように生きてた。

 でも、隼人くんがいるから立ち直って

 一人で旅館を経営するようになってから、

 急に厳しくなったわ。自分にも周囲にも。

 村の男たちも頼るようになったの。

 前は言わなかった愚痴も言うようになった。

 それぐらいの方が人間らしいし、

 頼られてるみたいで嬉しかったけど、

 でもそうじゃなかったのよ」



 木蔭の目から色が消えた。

 信仰していた者でも失った或いは、

 幻滅したとでもいうようだった。



「そうじゃなかったとは、

 どういうことでしょう?」



 こくりと頷く木蔭は

 水呑み鳥くらい無機質的だった。



「艶子はね、立ち直ったんじゃなくて

 立ち直らざるを得なかったのよ。

 あまりにも疲れているようだったから

 艶子に訊いたの。

 それでようやく真実を知ったわ。

 もっと早く訊いてあげていたら良かった。

 そうしたら助けられたかもしれないのに……っ」



 木蔭は目の前でぼたぼたと涙を零す。

 もうどうしようもなくなったのだろう。

 涙腺は崩壊したようにだくだくと

 涙を溢れさせていく。

 顔を覆うも「うっくぅ……」と

 堪えきれず呻き声を漏らしていた。


 突然の出来事に

 彼女は慌てふためいてしまう。



「だ、大丈夫ですか!?

 あの、私余計なことを訊いてしまったようで――」



 彼女が謝罪の言葉を口にしようと

 すると木蔭がそれを遮る。



「違うの、椿さんのせいなんかじゃないわ。

 艶子に話を聴いたときのことを思い出して、

 遣る瀬なくなっちゃったの。

 あたしがもっとしっかりしてたらって。

 話すわね、艶子から聴いた真実」



 彼女は息を呑んだ。

 木蔭は涙を止めて顔を上げた。



「はい」


「艶子は邦夫さんを亡くした後、

 あらゆる男たちから

 言い寄られていたみたいなの。

 邦夫さんの生前から艶子を

 色目で見てた人は何人もいたけど、

 死後はもっと酷かったみたい。

 それこそ押し倒されたり、

 無理矢理されそうになったとも聴いたわ」



 苦々しい表情をしていた。

 親友とも呼べる相手がそんな目に遭っていたら、

 胸が張り裂けそうになる。

 どうしてそこに自分がいなかったのだろうと

 嘆いてしまうだろう。



「木蔭さんもう……」



 それ以上は口にさせていけないような気がした。

 木蔭の精神もそうだが、

 聴く側の心さえ潰えてしまいそうだ。



「旅館を一人で切り盛りするようになってから

 経営が傾いたらしいの。

 今まで邦夫さんとやってきたから

 回らなくなったんだと思うわ。

 そんな艶子の足下を見た男共が

『助けてやるから、好きなようにさせろ』って

 言い寄ってきたらしいの。

 しかも大勢で。

 それを断ったら旅館との取引はしないともね。

 あまつさえ、隼人くんにまで目を付けて

『どうなっても知らないぞ』って脅してきたらしいわ。

 未亡人で先代の後ろ盾もなくなった

 艶子には従うしかなかったって」



 もう顔も上げていられないといった風に

 木蔭は顔を覆った。

 口にするのもおぞましい出来事を

 語ってくれた木蔭はよくやっただろう。


 彼女が想像していた以上に

 真実は惨くおぞましかった。

 脅しを実現させないために承諾したとは言え、

 強姦も同然だ。赦されることではない。


 相手が一人でも辛いだろうに、

 女将は複数人と関係を持たされていたのだ。

 その痛みは計り知れない。

 気持ち悪くて吐き気すら催してしまいそうになる。

 それなのにそれを一切感じさせなかった

 女将は気丈という他ない。



 女将は一体どれだけの重荷を抱えて

 生きてきたのだろうか。

 どうしてここまで追い詰められなければなかった。

 これはあまりにも悲劇的すぎる。


 木蔭の話からすると、

 こんな目に遭う謂われも何もないはずだ。

 因果応報や自業自得ということわざがあるが、

 女将はそのどちらにも当てはまらないように思う。



「それで旅館は回るようになったんですね。

 私、昨日雨水という男性に会いました。

 そのとき、艶子さんと

 肉体関係だって言ってしました。

 合意だって言ってましたけど、

 やはり嘘でしたのね……」



 女将の男好き真相について

 感想を口にすることは憚られた。

 ただ相槌を打つだけのような言葉しか出ない。



「そう、ね。このことを知らなかったときは

 一人でも切り盛りできてすごいとか

 良かったと思ってた。


 でも、何とも言えないわ。

 暮らしは豊かになっても、

 艶子はいつも辛そうだった。


『こんな村出てってやる』って

 口癖みたいに言ってたわ……

 出て行きたくても出て行けなかったんでしょうね。

 隼人くんを守るためには

 自分が犠牲になるしかないって」



 木蔭は儚い目をして上を向いた。

 すんっという音がしたから涙を堪えるためだろう。



「大事な一人息子ですものね……」



 木蔭の琴線に触れぬよう言葉を選んだ。

 しかし木蔭はぱっと彼女の方を見て、

 目を見開いた。



「え、何のこと?」



 木蔭は本気で不思議がっていた。


 胸騒ぎがした。

 ここに来てから偶然が重なった例がある。

 もしかしたらまた一致するかもしれない。

 違ったらそれまでだ。

 それでも彼女には

 合致するように思えてならなかった。



「もしかして、艶子さんには

 他にもお子さんがいらっしゃるのですか?」


「ええ。写真も何度か見せてもらったわ。

 艶子に似て綺麗な顔立ちの子だった」



 曇っていた木蔭の顔色も優れてきた。

 話が切り替わったのが良かったのだろう。


 彼女は高鳴る鼓動を抑えて、

 次なる質問を繰り出す。



「そのお子さんの名前は、ご存知ですか?」



 心臓が暴れ太鼓のように鳴り響く。

 激しくて胸が痛い。


 彼女は早く聴きたい気持ちと

 耳を塞いでしまいたい気持ちで板挟みだった。


 聴いたら引き返せない気がする。

 でも、聴くしかないのだ。



「えっと名前ね。

 画数の少ない字で、珍しい名前だったわ。

 確か……すい」


「え」



 心臓の動きが鈍くなった。



「ああそう、すいだったわ。水って書いてすい。

 本当に変わった名前よね」



 あぁやはり。

 彼女の中で何かが腑に落ちた。

 同時に足掻きたくもなったのだ。



「それ、本当ですか?

 本当に、すいで間違っていませんか!?」



 彼女の剣幕に気圧されながらも

 木蔭は「え、ええ」と肯定した。


 項垂れる彼女を慰めようとした木蔭だったが、

 時計の針が十一時すぎを指していることに気付いた。



「あのあたし、主人の分も

 昼食を作らなくちゃいけないから

 ここで失礼させてもらうわね。

 どうか気を病まないで。

 でも、艶子の死の真相は暴いてほしい。

 何もしないくせに勝手だけど、お願いね」



 それだけ告げると、

 木蔭はさっさと部屋を去ってしまった。

 一人部屋に取り残された彼女は

 呆然と床に座り込んでいた。



「そんな……水さんのずっと会いたがっていた人が、

 お母様が艶子さんだったなんて。

 水さんはこのことを知っていらしたのでしょうか。

 どちらにせよ、もう二度と

 言葉を交わすことは叶わないのですね」



 彼女は堪えきれず涙を流した。

 漏れ出る水を抑えられないように、

 ただ水を垂れ流すだけだ。声も出ない。


 もしも女将に罪があるとするなら、

 彼を捨てたことだろう。

 幼い彼を一人残して行方を眩ましたことは

 彼に大きな傷を残した。

 だとしても、

 その報いが死であっていいはずがなかった。

 それでは罰でしかなく、

 過去の贖いにはならないのだから。


 彼女はそんな途方もないことを考えた。

 そして、今何処にいるかも

 分からない彼の名を呼んだ。



 女将もとい艶子が名付けた

 水に共鳴したのだろうか。

 御神水の地化野で、

 水と名付けられた青年と

 名付け親の母とが再び巡り会った。


 これは水という因縁が

 引き起こした仕合わせかもしれない。



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