椿:訪問者
彼女は見知らぬ相手と
二人きりという境遇に緊張していたが、
木蔭はむしろすっきりした顔をしていた。
「ではそろそろ、
本題に入ってもいいかしら?」
「はい」
「あたしはね、艶子と十数年来の友人なのよ。
艶子が化野に来たばっかりの頃はね、
あんまり艶子のことは好きじゃなかった」
二人きりになったせいか、
木蔭はくだけた口調で話すようになっていた。
それにより彼女の気もいくらかマシになった。
ただ、それ以上に彼女は
緊張している場合では
なくなることがあったのだ。
「来たばっかりの頃はって、女将さん
――いえ、艶子さんは
地元人ではなかったのですか!?」
それは初耳だった。
色んな人に話を訊いて回ったが、
そんなことは一度も耳にしなかったのだ。
身を乗り出して聞き返す彼女に
木蔭はやや怯んでいるようであった。
「え、ええ、まあ。
二十年くらい前だったと思うわよ?
急に現れたと思ったら、邦夫さん
――艶子の亡くなった旦那さんのことね。
邦夫さんのところに居候するようになって、
すっかり居着いていたの。
気が付いたら二人はデキちゃってた感じね。
邦夫さんは真面目で堅実な人だったから、
艶子のこと魔性の女だって思い込んでたのよ」
弾みがついたように木蔭はぺらぺらと語り出した。
どうやら話し好きのようだ。
「え、それってつまり、魔性の女ではなく、
男好きでもないってことですか?」
彼女は真剣そのものであった。
木蔭は面食らったような顔をして、彼女を見つめると、
ぷっと吹き出してしまった。
それにムッとした彼女は
「失礼ですよー」と頬を膨らませる。
「あ、ごめんなさいね。
椿さんを馬鹿にしたわけじゃないのよ。
ただ、みんな艶子のことを誤解してるものだから、
ついね。話の続きをするわ。
あたしも艶子が来たばっかりの頃は
そんな風に思い込んでて、
艶子のことが気に食わなかった。
ここのことも気に入っていないようだったし、
なんだか馬鹿にしてるようにさえ見えたのよ」
木蔭は思い出してムッとしたような顔をしていた。
木蔭は化野が好きなのだろう。
だからこそ余所者である
艶子のことは気に入らなかった。
「それなのにどうして、
木蔭さんは艶子さんと
十数年来の友人になれたのですか?」
率直で不躾ともとれる彼女の質問だったが、
木蔭は気を悪くすることはなかった。
むしろ、回顧して笑みを零していた。
「でも、邦夫さんと一緒になってからの
艶子はここに馴染もうと必死で、
悪い人じゃないんだなって感じたの。
邦夫さんとも仲が良くておしどり夫婦だったし、
控えめなところが好意的に思えた。
邦夫さん一筋だったところもね。
旅館の女将としても精力的に尽くしていてね、
先代はもう亡くなってしまったけど、
後釜としては十分だったわ。
艶子の頑張りを見てたら気になって、
あたしから声を掛けたのよ、お友達になりましょうって。
そしたら艶子、頬をほんのり赤くして、
私なんかでいいんですか?
って。可愛くて庇護欲に駆られたわ」
若かりし頃の女将を語る
木蔭は活き活きして饒舌だった。
語っても語り尽くせないほどの
思い出があるに違いない。
木蔭は女将の死を
受け入れられているのだろうか。
思い出話に耽るだけでこれほどの
興奮を見せてくると
不安になるのも仕方なかった。
「それからどうなったんですか?」
彼女はそれを指摘することもなく、
ただ続きを促した。
まずは相手の気を好くすることが
話を聴く上で必要だと感じたのだ。
「艶子はね、大人しくて優しい人だったの。
でも化野に来てから
友人は一人もいなかったみたい。
あたしが声を掛けたのも相当嬉しかったらしくて、
すぐに懐いてくれたわ。
だから近くにいるのも心地好くて、
気を許すようになった。それこそ、
お互いのことで知らないことはないくらいよ」
女将を語る木蔭は
恋話に花を咲かせる乙女のようであった。
きっと誰かに話したくて、
女将との仲を自慢したかったのだろう。
けれど、その機会はなくずっと
心の中で燻らせていたままだったのだ。
それが今聴いてくれる相手に出逢えて
浮き足だっていると見える。
「艶子さんのこと、好きだったんですね」
彼女は木蔭に笑みかけた。
出逢った頃の二人を想像して
微笑ましくなったのだ。
「ええ、もちろんよ。
若女将として頑張りすぎたせいか
暫くは子宝にも恵まれなかった。
周囲は艶子のせいだとか
好き勝手に色々言ってたけど、
艶子はそれに屈することなく、
女将として良き妻として尽くしてた。
それなのに謙虚だから、可愛くて仕方なかった。
邦夫さんが踏み込めない女同士の事情に
巻き込まれたときは
あたしが助けてあげようって」
「木蔭さんは
艶子さんのナイトみたいですね」
何気なく口にした言葉だったが、
女性に対して騎士というのは不釣り合いな言葉だ。
気を損ねてしまうかもしれない。
「あの」と彼女が前言を撤回しようとするが、
木蔭は闊達に笑い飛ばした。
「あたしが艶子のナイトねぇ……
いいね、悪くないよその響き」
木蔭がくつくつと笑い続けるのを見て
彼女はそっと胸を撫で下ろす。
どうやら気を悪くしてはいないようだ。
「それじゃあ、艶子さんが男好きだっていう
噂はデマだった訳ですね。
それにしても、誰でしょうね
そんな酷い嘘を吹聴したのは」
木蔭の笑いが止む。
それを不自然に思い、
木蔭の顔を見遣ると曇天のように翳っていた。
そこでふとある人物との
やりとりが頭を掠めたのだ。
雨水というどうしようもない男が言っていた。
自分と女将は肉体関係にあったと。
青ざめていく彼女を見ていられなかったのか、
木蔭は噤んだ口をようやく開いた。
「そう、今椿さんが気付いたように、
全くの嘘ってわけじゃあないんだよ。
艶子は……何人かの男と肉体関係を持ってた。
でもそれは決して、艶子が望んだことじゃない。
それだけは、どうか信じてほしい」
木蔭は目を瞑り彼女を手を強く握った。
乾いた手からひしひしと切実さが伝わってくる。
言外の所作が彼女の心をぎゅっと掴んだ。
「はい、信じます。
木蔭さんがこんなにも必死になって
守ろうとするその気持ちごと信じます。
そのうえでお訊きしたいのですが
……それはいつ頃からでしたか?」
彼女が言い終えると、
木蔭は握る力を強め「ありがとう」と呟いた。
その頬には一筋の涙が伝っているように見える。
見つめられていたことに気付いた
木蔭ははっとして開口した。
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