椿:一人になって
「水さん、水さんっ!」
嫌な夢を見たのだ。
彼が自分の元からいなくなるものだった。
何も告げずに去って行かれる寂しさを
誰よりも知っている彼が
そんなことをするはずがないのに。
心は不安で覆い尽くされていた。
悪夢から目覚めた彼女は
ぼやけた頭で異変に気付く。
「あれ、水さん……?」
朝、目が覚めたら隣に彼はいなかった。
「水さん、何処ですか?」
布団はもぬけの殻で、
生温い体温と残り香がする。
ほぼ毎日一緒に過ごしていると
それはもう空気みたいなものだ。
臭いでも匂いでもないぐらい
染みついている。
布団から身体を抜き出して部屋内を見回すと、
彼の鞄があった。
良かった、先に帰られた訳
ではないのだと椿は安堵する。
それにより落ち着いてきたのか、
今度は腹を立てだした。
「もうっ。水さんったら、
私を放って一人で出掛けて
仕舞われるなんて……」
壁に掛けられた時計に目を遣った。
二本の針は七時前を指している。
朝食も摂らずに彼は
何処かへ出掛けてしまったのだ。
よほどのことなのだろう。
それほどの大事ならなおのこと、
自分も連れて行ってほしかった。
嫌な考えが脳裏をよぎる。
「やはり私は水さんの足手纏いなのですね
……ただそれでも私は――」
彼を一人にさせることが何より不安だ。
確かに彼女は無鉄砲だが、
それは彼がいると
分かっているからこそ発揮される。
一人では臆病が顔を出してしまう。
自分のためもあるが、彼のためにも
彼女は彼を一人にはさせたくなかった。
彼は女性に目がなく、
あれこれ構わず手を出していた。
それも彼女といるようになってからは大分減り、
口説き程度で済むようになった。
女好きの原因が母親で、
母親のことになると我を失う
彼を見てきた彼女は不安で仕方がないのだ。
もし彼が母親と再会したとき
彼は今までの彼を保てるのだろうか、と。
彼女にとって彼は保護者であり、
目が離せない子どものようであった。
そこはかとない慈しみを抱いている。
恩人でかけがえのない存在だ。
「でもまあ、お帰りになっていないのなら
私は先に朝食を済ませましょうかね」
こんなとき彼女なら、
すぐにでも彼の後を追ってしまいそうなものだ。
しかし、腹が減っては
戦はできぬということを彼女は心得ている。
彼の助手になって日の浅い頃に言われたのだ、
『食べられるときに食べておかないと、
大事なときに力が出せないぞ』と。
それからはいくら気が急いても、
食事だけは摂ろうと肝に銘じた。
それを言った本人が朝食を
食べていないとは実に滑稽な話だ。
「水さん、用が済んだら
きちんと食事を摂ってくださいね。
私を置いて行かれたのですから、
収穫がないと許しませんよ。
私も貴方がいない間に
一人でも調べておきますから」
キラキラと眩しい日の差す窓をそっと撫でた。
何処かに出掛けてしまった彼の無事を祈り、
遠くを眺める。
「水さんのお母様。これ以上、
水さんを苦しめないでください……」
口を吐いて出た言葉は
あまりにも悲哀なものだった。
それを誤魔化すように、
彼女は深呼吸をして心を落ち着かせた。
すっきりとした表情に切り替わる。
彼女は簡単に身だしなみを調えると、
朝食のため菊の間に向かった。
ほかほかの銀シャリに、西京焼き、あさりの味噌汁、
優しい黄色の玉子焼き。
匂いだけでも食欲をくすぐる和の朝食である。
いつもならはしゃいで食べる
ご飯も無言で食べ進めた。
マナーとしてはそれが正しいのだが、
慣れとは恐ろしいものだ。
隣に言葉を交わす相手がいないだけで
こうも食欲に影響を与えるのだから。
ご飯のおかわりはせずに、
彼女はさっさと朝食を済ませた。
その代わりにではないが彼女は仲居に頼み、
おにぎりを用意してもらった。
衛生上の問題で朝食を
残しておくにはいかないらしいのだ。
防腐剤にもなる梅干しを入れた
おにぎりをラップにかけたものを渡してくれた。
その上には保冷剤まで置かれていた。
気配りが心に沁みる。
そうして部屋に戻った彼女であったが、
長々と身支度を整える猶予は与えられなかった。
女将の件で分かったことを整理していた
椿の元に仲居が尋ねてきたのだ。
「椿様、柊様。
少々よろしいでしょうか」
気を抜いていたときのことで
彼女は身体を跳ねさせたが、
平静を装ってみせる。
「はい、なんでしょう?」
椿は下着のホックを
後ろ手で留めながら応答した。
口答で済むと思っていたのだ。
「戸を開けさせていただいても
構いませんか?」
仲居の問い掛けに椿は焦りを覚えた。
まだ下着を着けたばかりで半裸状態だ。
髪もぼさぼさなままで、これはまずい。
中途に着替えている最中なのが余計にだった。
しかし、わざわざ部屋に訪ねてくるというのは
それなりの要件があってのことだろう。
本当は身支度を整えてからにしたいが、
椿は妥協することにした。
「に、二分ほど
待っていただけませんか?」
待たせるくらいなら後にした方が
相手にとっても都合いいのかもしれないが、
あしらうような真似はできなかったのだ。
「かしこまりました。
では、二分経ちましたら
もう一度お声掛けしますね」
仲居は椿の微妙な返答に
声色を変えることもなく、
丁寧な対応をしてくれた。
その対応に胸を撫で下ろしつつ、
椿は着替えを急いだ。
二分が経過し、彼女はなんとか
出掛けの服装に着替え終わっていた。
結局髪を結うことまでは間に合わず、
櫛でとかしただけだ。
下ろしていると段になっている髪型は
少々不自然に見える。
これが気恥ずかしくて
椿はいつも結うのを欠かさないのだ。
「椿様、
戸を開けてもよろしいでしょうか?」
「はい」
では失礼しますと戸を開けて入ってきた
仲居は鷺島であった。
鷺島は部屋に入るとすぐさま戸を閉めた。
萌葱色の着物に鴇色の帯がよく映えている。
その色合いは気品ある鷺島によく似合っていた。
彼女は戸口の方へ寄り、
鷺島の要件に耳を傾ける。
「椿様と柊様にお会いしたいという方が
いらっしゃっています。
お部屋にお呼びしてもよろしいでしょうか?」
はっきりしない物言いに彼女は不自然さを感じた。
しかし、外部から来た人間を名指しで
訪ねてくるとはよんどころない事情があるのだろう。
「どちら様で、どんなご用件でしょうか?」
気になることには気になるのだが、
危険を孕んでいないとも言い切れない。
相手の素性を知るだけでも気が楽になる。
それに要件によっては、今すぐ彼を
連れ戻さないと行けないかも知れない。
「はい、女将の友人だと
名乗る方にございます。
名前は、木蔭都と名乗られていました。
三十代半ばくらいの女性です。
女将のことについて話したいことがあると
うかがっておりますが、いかがなさいますか?」
女性と聞き、彼女は密かに安堵した。
しかし、女性だからと言って安全とは限らない。
偶然か否かは判然としないが、
彼が留守のときに訪ねてくるのは不穏に思う。
でも、彼の足手纏いではなく助手であるならば、
彼がいなくとも役に立たなければならない。
「その人を部屋に呼んでください」
「かしこまりました。少々お待ちください」
鷺島はお辞儀をすると、部屋から出て行った。
椿はその間にいつもの紐を手に取り、結い上げる。
この髪型にすると
気合いが入ると共に落ち着くのだ。
ほどなくして客人は現れた。
後ろに茶を持った鷺島を引き連れて。
「初めまして、木蔭都といいます。
あなたは椿さんですよね?」
木蔭はどちらかというと
さっぱりした印象を受ける女性だった。
焦げ茶色のショートボブヘアに、
服装もTシャツにジーパンというごく普通なものだ。
上品で淑やかな女将とは対で、
木蔭は親しみやすさや近付きやすさを覚えた。
ただ、木蔭の言動に引っかかるものがあった。
「どうして私の名前をご存知なのですか?」
今さらと言えば今さらなのだが、
仲居から伝え聞いたときは
記者として来ている二人組を
指しているのだと思っていた。
質問された当の本人は
不思議そうに彼女を見つめている。
何を不思議に思うことが
あるのだろうという顔だ。
「ああ。艶子のことを訪ね歩いている
二人組の男女がいるという話を耳に入れて、
名前を聞き出したんです。
驚かせてしまってごめんなさい」
「いえ、そういうことならいいのです。
ただ少し気になったものですから」
どこかぎこちないやりとりをする中、
鷺島は飄々とした面持ちで茶を置くと、
ごゆっくりどうぞと仕事へ戻ってしまった。
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