柊:腐敗(2)
死体の確認を終えた彼は
女将に布を被せ、土をかけ直した。
死体は土に還るということを
体現しているようだった。
犯人は村長か石井のどちらか、
或いはそのどちらもだろう。
そうでなければ
死体を埋める意味がない。
絶対に犯人を暴き出して、
その罪を贖わせなければ。
彼は女将を殺した犯人を
見つけ出すことばかりに
気を取られていた。
その後、重たい足取りで
彼は旅館へ帰着する。
目の前の死ばかりに心を奪われて、
大事なものを見落としていた。
衝撃的な事実は彼の平常心を
狂わせるには十分だったのだ。
何者かは女将に手を伸ばしていた。
彼が部屋に戻ったのは
丁度丑三つ時のことだった。
彼は母親への執着と悲哀を抱えて、
今日も浅い眠りに就く。
朝が来る。
日が昇り、
人間の目覚めるときがやってくる。
それでも死人は目を覚まさない。
眠りの浅かった彼は、
先に寝入っていた
椿よりも早く目覚めた。
彼は昨晩いや、
眠る前の出来事が
頭から離れないでいた。
母親は化野で身を潜め、
確かに生きていたのだ。
しかしそれも一昨日までのこと。
母親はもう亡き人である。
とは言えど、彼は夜中の
出来事に疑心を抱いていた。
どうして突然、
元の年齢の姿に戻ったのだろうか。
御神水の能力にしても、
それは魔法が解けるようで現実味がない。
もしかしたらあれは
夢だったのではないかと
淡い期待を抱いては失意に呑まれた。
彼は隣ですやすやと眠る椿に目を向ける。
椿はまだ未成年で性別は女性だ。
彼にとっての母親と
椿にとっての母親では
存在位置が違うのだろう。
この痛みを理解することは叶わない。
いくら一年以上傍にいたからと言って、
全てを分かち合える訳ではないのだ。
ましてや、母親に勝てる訳がなかった。
母親の骸を見たせいか、
彼は人肌が恋しくてたまらなかった。
眠っている椿に
触れるのはいけないと思うが、
頬を撫でるくらいなら構わないだろう。
触れた椿の頬は
しっかりと熱を持っていて、
生を確認できた。
それだけのことが、
生きているということが感銘的で、
彼は頬を擦り続ける。
「ぅーん……にゃんでふか?」
椿が寝返りとともに返事をした。
彼は焦りで身を仰け反らせるが、
椿の目は半開きでいる。
どうやら寝ぼけているようだ。
「なんでもないよ。
だから、気にしないで目を閉じて」
彼は子どもを
寝かしつけるように囁くと、
椿はにっこりと微笑んで
また深い眠りに落ちた。
椿はあと一年もと経たないうちに
大人になるというのに、
変にすれたところはなく、
至って素直だ。
その天真爛漫さには
困らせられることもあるが、
彼はいつも椿の優しさに救われている。
一人でないからこそ、
ここまで深入りすることができて、
強がりも言えたのだ。
――などと彼が真剣に
思考を巡らせている中でさえ、
椿は呑気に眠っている。
そんなところが憎らしくて可愛くて、
悪戯心に頬を抓ってみた。
すると椿は「うぅーん」と顔を歪め、
彼の手は振り払われてしまう。
「間抜けな顔」
彼は思わず笑みを零していた。
いつまでも
この間抜けな顔でいさせたい。
笑ったり、泣いたり、怒ったり、
焦ったり、
あるがままの椿を見ていたいのだ。
馬鹿で間抜けでいい。
椿が傍にいたから、
彼は昔よりマシな人間に
なれたのかもしれなかった。
だから、
椿は危険な目に遭わせたくない。
未だに起きない椿の頭を
くしゃくしゃと撫でると
彼は身支度を整えて、部屋を後にした。
彼が向かう先は夜中にいた洞窟だ。
もう一度死を確かめたかったのだ。
真夜中のまやかしではないと
頭に叩き込むために。
周囲を警戒しすぎるのも朝になると、
不審者になってしまう。
彼は朝の散歩を装い
朗らかに道を闊歩する。
ある程度の警戒心は
隠し持ちつつ歩き進め、
無事洞窟まで辿り着くことができた。
夜中は用意しそびれた手袋を手に嵌め、
彼は女将の遺体が
埋まっているところを探す。
手で掘った土をかけたために
煩雑に土が
凸凹しているところがあるはずだ。
しかし、
それらしきものは見当たらない。
おかしい、そんなはずはないのに。
見つけられなければ、
彼等の死体遺棄という
犯行がなかったことにされてしまう。
地に傅きながら数分が経ち、
彼はあることに気が付いた。
「ここだけ、土が柔らかい……?」
他は固く乾燥してざらざらしているのに、
そこだけがやけに湿り気を帯びていた。
息を呑み、そこを掘り起こしてみると
下からはぬかるみが現れた。
手袋は粘り気のある泥に塗れる。
嫌な予感がしてそこを掘り進めると、
大きな窪みが残っていた。
やはり女将の遺体が
埋められていた場所に違いない。
しかし、そこにあるのは
ただの“水溜まり”だった。
人一人分の水溜まり。
それが意味するのは、
女将はもうどこにもいないし、
ここに在るということだ。
彼は地べたに膝をついてへたり込む。
一夜のうちに死体が
水に成り代わってしまったのだ。
死んだ証さえ残せないだなんて……
彼はちっぽけな
水溜まりを前に慟哭した。
彼は既に母親を二度失くしていた。
二十二年前に一度目と一昨昨日に二度目。
それだけで十分すぎるくらいの不幸だった。
だのに神はあまりに彼に対し、
残酷な運命を与えた。
今日三度目、母親を失ったのだ。
この世から葬り去られ、
生命の環の中へ投じられた。
有機物すら残さず、
ただの無機物に成り果て……。
「うぁあああああああああああああ
……ぁ、ぁあ」
半時間ほど彼は泣き続けた。
それほどの間声を荒げ続けると、
喉は限界を叫びつつあった。
咽頭が嗄れ、炎症を起こしているような
痛みがある。
試しに出そうとする声さえも
呻き声のように聞こえた。
死体を一夜にして灰にではなく、
水に変えられるのはただ一人。
人と呼ぶのは不適切であるとしても。
あの人以外に考えられない。
女将を知っているのは些か不思議に思えたが、
おそらく隼人の話を頼りに辿ったのであろう。
しかし、女将を水に変えてしまう理由、
動機なんかが見当たらない。
人ではないからだろうか。
人とは異なり、行動に
理由など必要ないのかもしれない。
ただ、隼人を愛でていた眼差しだけは
感情的な何かだと信じたいのだ。
「感情的な何か」そのフレーズは椿を想起させた。
あの椿は天真爛漫で無鉄砲で気丈だ。
誰かのために無茶をするお人好しで、
それに度々振り回されてきた。
それでも大人になりきれない
子どもおじさんよりはマシなのだろう。
「俺が考えたところで、
誰かの気持ちなんて分かりっこないよな」
嘆きにも似た呟きは卑屈でもなく、
清々しいほど本音を吐き出しただけだった。
なんでもかんでも深く考え込む癖のある
彼にとってそれは珍しいことである。
「よしっ、じゃあ行くか。つば――」
隣を見遣る彼。
もちろんそこに椿の姿はない。
自分で放っていこうと決めたのに、
慣れというものは無自覚な
彼の心を呼び起こすものだ。
はぁっと溜息一つ吐き出し、彼は気を取り直す。
今度は何も呟かずに歩き出した。
目指すは水神様の棲家。森の楽園。
踏みしめる足音一つ、
それだけでも虚しく感じられる。
いつも在ることが当たり前で、
ないことなど考えなかった。
それは人間の罪の一つにも数えられそうな贅沢だ。
在り続けることが当たり前なものなど
何一つ在りはしないのに。
「水神様にとっては独りが当たり前だった、か」
在ることが当たり前なら、
その逆を持つ者はどうかと考えてみた。
何も持たない者が大事な何かを得たとき、
どんな心境でいるだろう。
自分ならば、
失うことが怖くて壊れることが怖くて、
ずっと囲んでしまうかもしれない。
絶対に失わぬよう、
消えぬように後生大事に守るはずだ。
もし水神様に
人間じみた心というものがあるなら、
同じ行動を取るかもしれない。
そのとき彼の思考の中で、
欠片同士が重なり合った。
「もしかして」
彼は自分の立てた仮説に確信を持ち、
にやりと笑った。
気付くと、水神様の棲家の
目前に辿り着いていた。
まるで神様が彼を導いているかのようだ。
彼は何の躊躇いもなく
一歩踏み出して、笑いかける。
「水神様、報せと大事なお話があります。
小一時間ほど、
お付き合い願えないでしょうか?」
木の上で退屈そうに腰掛けていた
水神様が彼の元へ降り立つ。
「ええ、構いませんよ。
私も丁度、
柊様とお話ししたかったところです」
水神様は彼がここに来るのを
待ち侘びていたようであった。
水神様は微笑みかけながら首を傾げ、
「ところで」と続ける。
「椿様はいらっしゃらないのですか?」
「はい、椿はまだ眠っておりまして。
それに、水神様と二人きりで
お話がしたかったんですよ」
急な水神様の問い掛けにも
彼は即答した。
「そうでしたか。
では、二人きりのお喋りと致しましょう
……事は急を
要するのでございましょう?」
妖艶な笑みが彼に襲いかかる。
「どうして、それを……?」
思わず仰け反りかける彼に、
水神様は余裕の笑みで応答してみせる。
「椿様を置いてまで私のところへ
いらっしゃったようですからね。
それよりも、
大人の語らいをしましょう?」
自分が相手の雰囲気に呑まれそうだという
感覚を胸に押し込め、
彼は口火を切った。
周囲の木々はひそひそ話をすることもなく
二人の話を静聴していた。
俗世とは切り離されたような空間で、
彼は普段以上に煌めく。
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