柊:腐敗


 その日も二人は月下旅館に泊まり、

 夜を過ごした。


 翌日に備えて

 身体を休めるべきであるのに、

 気がかりがあった彼は

 椿を残してまた一人

 夜の化野へ繰り出していた。 



 聞き込みを行っているうちに

 住所は特定してある。

 彼は村長の住居へと足を向けた。


 彼の予測が正しければ、

 村長は今夜にでも仕掛けるはずだ。


 彼は村長の家が見える茂みに隠れ、

 村長が動き出すのを

 今か今かと待っていた。


 彼がそこへ辿り着いたのは午後十時頃。

 まだ村中の人が寝静まっている

 とも言えない頃合いである。

 そんな時間に動き出すのかは

 怪しいものだが、

 見逃してしまうよりはマシだ。



 見張りを続けること早二時間、

 ようやく村長が動き出した。


 明かりも付けずに玄関から

 忍び込むようにして出てきたのは

 村長と石井であった。

 彼等はきょろきょろと辺りを見回し、

 人がいないのを確認し終えると

 旅館の方角へ歩き出した。


 石井の背中には土木作業でもするような

 二本のシャベルが紐で固定されている。

 そのシャベルの意味は敢えて深く考えず、

 彼はその彼等と

 間合いを取りながら尾行を始めた。



 彼等の行き先は言わずもがな

 旅館の離れであった。


 彼等は音を立てないよう

 離れの戸を開けると、

 わざわざ靴を脱いで中に入っていく。

 彼は気付かれないように

 そっと小窓から中を覗き込んだ。


 彼等は手袋か何かを手に嵌め、

 腐敗しかけた女将の遺体に触れた。

 いや、この暑い中放置されていたら

 “しかけた”ではないのかもしれない。


 彼等は女将にかけられていた布で

 女将の遺体を包み、背負いだした。

 その際に石井が持っていた

 シャベルは村長に受け渡され、

 石井が一人で女将を背負っている。

 生きている女性を担ぐのでさえ、

 それなりの重労働だ。

 ひ弱な男性ならば、

 筋肉痛になってしまうほどだろう。


 死体になると、

 腐敗臭と筋肉という支えがなくなった

 無機物の重みがのし掛かってくる。


 それを一人で抱えている石井は

 相当な力持ちだと言えるだろう。


 村長は石井一人に

 汚れ仕事を押し付けて

 涼しい顔をしている。



 彼等は離れを後にし、

 石井の背中には白い大きな包みがあった。


 やはり一人で死体を抱えるのは

 無理があるのか、

 女将の足は無残にも

 地面に引き摺られていた。

 美しい人であっても死すれば

 醜く堕ちてしまう。

 それがこの世の常なのである。



 彼等は周囲を警戒しつつ、

 彼に気付くことはなかった。


 そうして辿り着いたのは

 ワコの滝裏の洞窟であった。


 村長が石井に何か指図したようで、

 石井は背中の女将を地べたに下ろす。


 彼等は子どもの背丈くらいありそうな

 シャベルを手に取り、

 えっさほいさと穴を掘り始めた。

 おそらくは埋めるためだ。

 女将の死体を鑑識されては困るため、

 死体ごと隠してしまおうというのだろう。


 村長は巡査にも圧力をかけていた。

 こんなことをするのは犯人か、

 被害者に不都合なことを

 握られている場合くらいだ。



 暫くして人を

 埋められるくらいの穴が掘られ、

 女将は布ごと土の中に収められていた。

 彼等は掘り起こした土を上からかけ、

 平らにすると

 シャベルを担ぎ帰っていった。



 彼は暫く茂みの中に身を潜め、

 彼等の足音が聞こえなくなるのを

 見計らっていた。


 ほどなくして辺りには静寂が戻り、

 足を踏み出した。


 彼は女将が埋められた所を

 素手で掘り返していく。

 土が爪に食い込むことも

 厭わず汗水垂らして、布が姿を現す。

 位置的に顔面だろう。

 彼は女将の顔を傷付けぬよう

 丁寧な手付きで布を広げ、

 僅かに声を漏らす。

 遺体に敬意を払い、

 彼はその身体を写真に収めた。



「母さん……」



 彼は警戒心も振り払い、

 大粒の涙を流し始める。


 子ども時代に甘えることを

 し損ねてしまった彼には

 今さら上手い泣き方なんて分からなかった。

 泣き喘いだり、咽び泣いたり、号泣したり、

 感情を剥き出しにすることが難しい。

 とは言えど、

 一度込み上げた涙は枯れることなく、

 取り留めもないほど涙を溢れさせていく。



「どうして、

 言ってくれなかったんだよ……」



 心から会いたいと祈っていた人。

 彼を捨てた人。

 それでも焦がれた相手。


 女将の顔をした城崎艶子は

 彼の母親であった。



 彼は息もしていない骸に手袋もせず、

 そっと頬を撫でる。


 その顔には皺や現れ、

 生前とは比べものにならないほど

 年老いていた。

 顔だけでの推測だが、

 五十代前半といったところだろうか。

 生前との外見年齢差は二十歳ほどある。

 皺一つ見当たらなかった

 生前の女将は艶めかしく、

 それは美しかった。


 しかし彼にとってはこの皺が増え、

 ほうれい線が

 目立つ顔の方が恋しいのだ。


 その面差しは

 幼き頃の母そのものであった。



 冷たくなった今だからこそ

 温もりを感じられるような気がした。



 彼は女将と初めて会ったとき、

 あまりの若さに 

 自分の母親ではないと思った。

 あり得るはずがなかったのだ。

 女将の容姿は、

 彼を捨てた母親とそう変わりなかった。

 だから彼は女将が母親ではないと

 勘違いしてしまったのだ。

 御神水の噂が

 本物であると確信していたなら、

 防げた見落としだったかもしれない。


 彼は永久に母親と仲直りをする

 機会を喪失してしまった。



「俺はただ、母さんに

 会いたかっただけなのに……」



 彼は女将の顔を

 涙で濡らすことも気に留めず、

 愚痴を零した。


 一度も口を利かなかった訳ではない。

 いつだって機会はあったはずなのに、

 女将はそうしなかった。

 忠告するときにでも

 言ってくれたら良かったのに。


 彼はその骸に触れながら

 頭をよぎるものがあった。



 忠告をして、

 化野から遠ざけようとしたのは

 正体が露見するのを避けたかったから。


 正体を隠したい。

 すなわち、

 母親として自分に会いたくない。


 つまり俺は――“要らない子”?



 そのとき、茂みの方から物音がした。

 しかし今の彼には

 そんな些末事は気に留まらなかった。

 今はずっと再会を待ち侘びていた

 母親との再会のときなのだから。

 たとえ、命を落としていようとも、

 彼にとっては大事な母親であった。

 そのため、何者かが

 彼と女将を見つめる視線には

 気付けないでいた。



「なぁ母さん、

 俺には会いたくなかった?

 俺は要らないから、捨てていったの?

 なぁ母さん……」



 母親の面差しはあっても、

 死人に口なしだ。

 分かっているのに

 問わずにはいられなかった。

 そんな自分を彼は滑稽だと感じていた。


 きっと必要とされたことなんて

 なかったのだろう。



 心臓がドクリ、胸の辺りに毒を吐き出す。

 彼を蝕むものは未だなくならない。

 彼を蝕むのは血か、それとも水か……。



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