水神様(2)
「おい、いきなり何するんだ。
危ないじゃないか」
彼が引き離そうとするも、
椿は必死にしがみついてくる。
そのとき不意に隼人が口を開いた。
「りんおねえちゃん、
ヤキモチ?」
場が凍り付く。
彼は勢いよく振り返り、
椿の両腕を掴み上げた。
「嫌っ……」と抵抗した
椿の頬はやけに赤くて、
膨れっ面をしていた。
「椿……もしかして、
俺が隼人を呼び捨てにしてることに
妬いてんのか?」
「なっ! そんなんじゃ……」
ぼっと炎上するように
椿の顔は真っ赤になる。
いつも明るくて五月蝿いくらいの
椿が妙に大人しい。
それが楽しくて、
彼はこれみよがしに顔を近付ける。
両腕を掴まれている椿は
手で顔を隠すこともできず、
顔を逸らしたり、俯いたりした。
「可愛いとこもあるんだな」
「とこもあるって何ですか!」
椿がいつもの
五月蠅さを取り戻し、
彼は密かに安堵する。
やはり椿は
こうでなくては対処に困るのだ。
二人のやりとりを見ている
隼人の方がよほど静かで
大人のようである。
「りんおねえちゃんは
すいにいちゃんのことが好きなんだね」
子どもの何気ない一言は
時に大人を黙らせる。
椿は赤面したままの面を俯かせた。
それに釣られて、
彼も掴んでいた椿の両腕から手を離す。
ようやく解放された椿は
平常を装い、
隼人の方へ身体を向け直した。
「どうしてそう思うのかな?」
柔和を装っているが、
内心では慌てふためいていることだろう。
大人の事情など知らぬ
隼人は率直に思ったことを口にする。
「ぼくが
すいにいちゃんと話してるとき、
りんおねえちゃんが
ずっとこっち見てたのきづいてたんだ。
それからね、すいにいちゃんに
かまってもらってるときは
りんおねえちゃん、
うれしそうだったから。
二人はぼくと会うよりも
前からなかよしで、
自分よりなかよくされるのが
嫌だったんじゃないのかなあって思ったんだ。
違ってた?」
子どもはそうそう曲解したりしない。
曲解して勝手にやきもきするのは
大人の方なのだ。
隼人は下心や恋心ではなく、
もっと純粋な気持ちの向きを見ていた。
「ううん、違わないよ。
私の方がずっと前から
水さんといるのになって。
ちょっとヤキモチ妬いちゃった」
子どもはすごい。
いや、子どもではなく、
隼人自身がすごいのだろう。
透き通るくらいの素直さと
真っ直ぐさが人の心を捉えるのだ。
透き通るような心を持つ
隼人の方がよっぽど水に近い。
彼はそのことに気付き、
胸を痛めた。
どうして自分は
水になれないのだろう。
「そうか。
なら気が向いたときにでも
名前で呼んでやるよ」
「ありがとうございます」
名前を呼ぶと約束しただけで
椿は感謝の言葉を口にした。
頬まで赤らめて、
何がそんなに嬉しいのだろう。
名前を呼ぶくらいで大袈裟だ。
そう思いはするものの、
彼も名前に
囚われている一人だった。
椿の機嫌も直り、
ほどなくして
水神様の棲家に辿り着く。
「ここだよ。
ここでいつも水神様と話をするんだ」
行き着いたのは
森の秘境のような場所だった。
草木や花が互いを
邪魔することなく共存していた。
どこからともなく
小川のささらぐ音が聞こえてくる。
木々に囲まれ直射日光が
遮られているせいか、涼が感じられた。
しかし、木々の隙間から
木漏れ日が差し込み、
最低限の明かりはある。
隠れ家にはぴったりの場所だ。
「ところで、
水神様はどこにいるんだ?
姿が見当たらないが……」
「もしかしたら
知らない人がいるからきんちょうしてるのかも。
ちょっと呼んでみるね。
おーい、泉ー!」
たちまち木々や草花が
隼人の声に呼応するように光り出す。
目が眩み、瞬きする間に人が現れた。
その人は百七十後半もある
彼よりもさらに高い背丈をしていた。
髪は藍白、
風で靡くような長髪だ。
秘色と桔梗色をした着物を
身に纏う姿は
儚げで幻想的だった。
稀に見る美貌の持ち主だ。
どこかで見たことが
あるような気がした。
しかし、これほどの美しい人を
自分のような女好きが
忘れる訳ない。
気のせいだと思い直すことにした。
「隼人、この人が水神様なのか?
それとさっき、泉って……」
隼人の返答よりも先に
「私が見えるんですね……」
そんな呟きが聞こえた。
彼が不思議に思っていると、
それを誤魔化すように
その人は新たな言葉を放つ。
「隼人、
この方たちはどなたですか?」
隼人は両者から一遍に
質問を投げかけられ困惑していた。
どうしようどうしようと慌てた後、
そうだと
思い立ったように声を上げる。
「泉、この人たちは
すいにいちゃんと
りんおねえちゃんだよ。
昨日ぼくが泣いてるところに
声をかけてくれて、
今日も声をかけてくれたんだ」
改まって、いい人のように
紹介されると彼も照れ臭かった。
「でね、すいにいちゃんと
りんおねえちゃん。
この人が水神様だよ。
あと、泉っていうのは
ぼくが付けた名前なんだ。
二人だけの名前だから、
二人は使わないでね!」
一度に紹介を済ませた隼人は
すっきりしたようだった。
二人だけの特別な名前なんて、
響きだけで甘酸っぱい。
幼い頃に置き忘れた懐かしい感じがした。
彼と椿と水神様はお互いの顔を見合い、
静かに会釈する。
緊張していたせいか、
その様子は宛ら水呑み鳥のようだ。
「柊水です。
隼人から話を聞いて、
ここまで案内してもらいました。
水神様にお会いしたくて、
隼人に頼んだんです。
突然お邪魔してすみません」
その静寂を断ち切ったのは
彼の発言だった。
彼が真摯な姿勢を見せると、
水神様の口角が僅かに上がる。
眉も下がり、
穏やかな表情に変わっていた。
「いいえ、構いませんよ。
隼人の話を信じて、
わざわざ足を運んでくださったなら
有り難いことです。
私のような者に
会いに来てくれる人など、
今は隼人しかいませんから」
切なげに目を伏せる
水神様を彼は見つめた。
「お綺麗ですね」
彼の視線に気付いた水神様は
遠慮がちに微笑みを返してくれる。
彼の言葉を世辞だとでも
思ったのかもしれない。
水神様は彼の甘い台詞を躱すと、
隼人の方に目を向けた。
「隼人はもうお帰りなさい」
「えーどうして?」
水神様からの突然の追い出しに
隼人は駄々をこねる。
理由もなしに追い出されるなんて、
大人は受け入れられても
隼人には到底できないはずだ。
「私はこのお二人に
私の存在についての
説明をしなければなりません。
それから難しくてややこしい話も
することになるでしょう。
隼人がいても退屈になるだけですよ。
それより、宿題はしましたか?
今のうちにさっさと済ませて、
昼下がりからまた遊びましょう。ね?」
子どもを宥めるような口調は
慣れたものだった。
隼人との関係はそれなりに
前からあったのだろう。
「うん、宿題まだ終わってないや。
じゃあ約束だよ!」
隼人は立てた小指を差し出す。
「はい、もちろん」
水神様は隼人の小指に
自分の小指を翳した。
隼人の「これで約束だね」
という声が聞こえたので
これが指切り代わりなのだろう。
「泉、すいにいちゃん、
りんおねえちゃんまたね!」
隼人は手をぶんぶん振って
別れを告げると、
来た道を勢いよく駆けていった。
水神様も手を振っていたが、
隼人の姿が見えなくなると
途端に表情が光が消えた。
妙に物々しい顔付きになる。
その様は彼にそこはかとない
闇を感じ取らせた。
子どもには言えないような
仄暗い何かだ。
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