二話
虫の報せ
翌朝、
彼が目を覚ましたのは
午前九時を回った頃だった。
日はすっかり昇り、
遮光性のない障子窓からは
眩いまでの
日差しが入り込んでいる。
何をしなくても
自然に目覚めそうな
この状況下で
起きなかったのは、
昨晩の徘徊のせいだろう。
疲労に満ちた
彼を起こしたのは
何を隠そう椿であった。
彼と違って、
日付が変わるより
随分前に眠った椿は
六時頃には目覚めていたのだ。
疲れているのだろうと
初めは様子も見ていた
椿だったが、
あまりにも起きない彼に
痺れを切らしたらしい。
「水さんー、
おーきーてください!
もう九時ですよ!」
初めは可愛らしく、
耳元で声を掛けるだけであった。
「すぅー……んんぅ」
「寝過ぎは身体に毒ですから、
早く起きてくださいっ!」
とうとう椿は
彼の身体に掛かっていた
布団を引き剥いだ。
「んっ!? 何だ?」
布団を剥かれ、
さすがに
寝ていられなくなった
水は身体を起こした。
「おそようございます、
水さん。
もう九時を回っていますよ」
目覚めから
椿の皮肉が炸裂する。
起きてすぐに誰かが
隣にいることが
嬉しく感じられ、
彼の怒りは
沸いてこなかった。
「おはよう椿。
朝からそんなに騒いで
どうしたんだ?」
そのせいか、
彼は妙に機嫌が良かった。
それに反するように
椿は機嫌が悪い。
「水さんがいつまで経っても
起きないからですよ……」
元気がないようだ。
よく見ると、
思いなしか顔色も優れない。
「本当にどうしたんだ、椿。
元気ないじゃないか」
椿は怠そうに彼を見て、
視線を床に落とした。
「……かが空きました」
「腹が空いたのか?」
「そうですよ」
とうとう椿は目の前で
へたり込んでしまった。
朝食は
一日の活力だとも言われる。
現に目の前の椿は
それを体現していた。
「わざわざ俺のことを
待ってくれていたのか。
椿、君って奴は……」
椿の思いがけない
優しさに触れ、
彼は感銘を受ける……。
「喜んでいられるところ
申し訳ありませんが、
別に水さんを
お待ちしていた
訳ではありませんよ」
――はずだった。
椿はきりりと
引き締まった表情をしている。
冗談に乗っかって
くれないのが寂しくて、
彼は肩を落としていた。
「じゃあ、どうして
朝食を済ませていないんだ?」
椿の妙に項垂れた顔を見て、
なんだか厭な予感がした。
「女将さんが
見つからないらしいのです。
そのせいで
今朝の献立も分からなくて、
四苦八苦しているそうです。
もうじき
出来上がるそうなのですが」
「えっ、一体どういう――」
彼が口を開きかけたと共に、
「遅くなりまして
申し訳ございません。
朝食の用意ができましたので、
菊の間までお越しください」
という
仲居の大声が重なった。
「それじゃあ行きましょうか」
「あ、ああ」
次第に押し迫る胸騒ぎがした。
腹ごしらえを済ませた
二人は部屋に戻り、
身支度を整えていた。
「なあ椿、
女将が急に
いなくなったって
不自然だと思わないか?」
「どうしてですか?」
「そりゃあ、客もいるのに
急に業務を放り出して、
連絡もなし。
それに、
昨日の台詞の翌日だし、
気になるだろ」
椿ははぁーっと溜息を吐き、
仕方ないという
顔をして見せる。
「つまり水さんは、
女将さん探しを
したいって訳ですね。
分かりました、
一緒に探しましょう。
止めても無駄のようですから」
それから二人は
本格的に女将探しを開始した。
一階へ下りた。
てんてこ舞いになっている
仲居や従業員たちに
「よければ
女将探しをしましょうか」
と提案すると、
「是非お願いします」
と食いついてきた。
女将の居場所を
探し出すため、
彼等に女将のいそうな
場所を尋ねてみた。
すると大体同じ答えが
返ってきたのだ。
それならなぜそこへ
探しに行かないのかと尋ねると、
皆口を噤んでしまった。
こうしていても埒が明かない。
もういいですよ、
と彼等を解放した。
皆ほっとしたように
自分の持ち場へ
と戻っていった。
明らかに何か
隠している素振りだが、
今はそれを
追及するときではない。
女将を見つけることが最優先だ。
二人は旅館を出て、
奥にあるという
離れを目指した。
「皆さん様子が変でしたね」
開口一番に椿はそう言った。
隣にいる彼に
目を向けることもなく
前を見ている。
純粋に感じたことなのだろう。
「そうだな。
何か隠していることが
あるような気がするよ。
それに、
厭な感じがするんだよ。
この離れからは」
彼はそっと離れを見上げた。
和の趣が感じられる造りは
旅館とそう変わらない。
こぢんまりとした
一階建ての家だ。
離れと呼ぶのに
丁度いい大きさをしている。
一人か二人で暮らすのが
せいぜいだろう。
しかし、
彼が言いたいのは
そういうことではなかった。
離れを取り巻く空気が、
いやむしろ、
離れから漂う空気が
淀んでいるのだ。
それこそ、おぞましさで
溢れているといっても
過言ではないくらいだ。
「でも、ここに
女将さんがいるかも
しれないのですよね?」
椿も
この雰囲気に圧倒されて、
若干後込んでいるようだ。
「ああ。
気乗りはしないが入ろうか」
「はい」
彼が椿の前を歩き、
彼は離れの入り口を見つけた。
一応他人の建物ではあるので、
ノックをして確認を取る。
しかし応答はない。
「艶子さん、
いらっしゃいませんか?」
「女将さーん、
いらっしゃいませんか?」
彼や椿が声を
張り上げてみれども、
応答はない。
「これは突入するしかないか。
お邪魔します!」
事後承諾で戸を開け、
玄関に入る。
玄関の戸の鍵が開いたままに
なっているのも不自然だ。
彼は靴を脱ぎ、
奥へと突き進んでいく。
釣られて椿もその後を追った。
居間、
浴室と確認してみるが、
女将の姿はない。
最後に寝室に辿り着き、
戸を開けて彼は息を呑んだ。
乱れた衣類、
開きっぱなしの口。
艶やかな浴衣に
付着した血飛沫。
女将は
あられもない姿にされていた。
「こんな……酷い」
まるで強姦にでも
遭ったかのような姿だ。
片胸をはだけさせ、
太腿も脚の付け根寸前まで
捲れ上がっている。
脚の付け根部分からは
出血の痕跡があった。
彼は悲しい女性の姿を前に、
目眩がしそうになった。
なんとかそれを堪えて、
女将の耳元で膝を折った。
口元に耳を近付け、
呼吸を確認するが
呼吸音はない。
目視で胸の上下を確認するも、
それも動かなかった。
さらに手首に指を当て、
脈を取ってみる。
しかしそれも
虚しく終わった。
天井を仰ぎ、深い息をした。
声や悲しみを吐き出す
代わりのような行為だった。
彼は女将に黙祷を捧げる。
それに倣うようにして
椿も黙祷を捧げた。
「椿」
「はい、
準備できています」
「じゃあ先に
撮っておいてくれ」
「承知しました」
二人は何度かこういう事件に
出くわしたことがある。
そのため、
最初の現場を撮影しておくと
後々役立つと知ったのだ。
部屋中隈無く撮り終え、
彼の出番がやって来る。
「椿、手袋」
「はい、どうぞ」
ニトリル性の
手袋を両手にはめ、
彼は死体の鑑識を始めた。
彼には法医学関係者の
知り合いがいる。
その人物から現場鑑識の
いろはを教わったため、
ある程度の識別は可能なのだ。
「頭部の表皮層剥奪が
起こっている。
少量の出血も
しているようだ。
おそらく、
鈍器による擦過傷だな」
一口に言うと、
鈍器で殴られたのが
原因でひどい擦り傷が
あるということだ。
「それから――」
そのとき周囲から
騒がしい声が聞こえてきた。
これ以上
この場にいては危険だろう。
慌てていた彼は
大事な痕跡を見逃した。
二人は現場を後にして、
この集落の巡査を呼びに行った。
そこで本部へ
連絡してもらったのだが、
周囲が大雨に
見舞われているらしい。
そのせいで土砂災害が発生し、
化野に向かうことが
できないという。
数日はそのままらしい。
それまでは
巡査に一任されることになり、
二人は女将の遺体現場へ
巡査を案内する。
「――という成り行きで
ここに来て、
女将さんの遺体を
発見したんです」
巡査に
事情聴取されているうちに、
いつの間にか
村長までやって来ていた。
この事件をどう扱うか、
この場所をどう管理するかで
巡査が呼んだらしい。
事情聴取中に現れた村長は
二人の顔を見るなり
血相を変えた。
恐ろしいものでも
見るような目だった。
何だろうかと彼が思っていると、
村長の冷ややかに
見下す目と目が合った。
「こいつ、
こいつらが女将を殺したんや!」
その場にいた全員が一斉に
村長へ視線を向けた。
「なっ……!」
彼は呆気にとられた。
昨日の取材時とは大違いで、
手の平を返したような態度だ。
これには巡査も
反論せざるを得なかった。
「証拠もなしに
犯人呼ばわりすると、
名誉毀損になりかねませんよ。
それだけの証拠が
おありなんでしょうね?
それこそ、
犯罪現場を目撃したとか」
心強い味方がいたと
彼はそっと胸を撫で下ろす。
「目撃はしておらんが、
こいつらは第一発見者やろ?
なんでも
第一発見者が怪しいという」
村長は杖をついていない方の
手で彼の方を指差した。
今度は周囲の視線が
彼に突き刺さる。
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