「お逃げください」
しかし彼は逆上せることなく、
部屋に帰っていた。
それは垣根越しの
「水さん、
逆上せていませんかー?」
という椿の喧しい
呼びかけのお陰だった。
朧げになっていた意識を
覆い尽くすような
椿の声が彼の耳に
飛び込んできたのだ。
「椿、君ねえ……
他の客もいるんだから、
ああいうことは控えなさい。
それから、頭が痛い」
酔いが覚めかけて、
朦朧としていた頭に
椿の甲高い声は
よく響くのだ。
「でも、
『半時間後には出ろよ』って
水さんが仰ったので私、
露天風呂を堪能するのも
そこそこに急いで
出てきたのですよ。
それと、頭が痛いのは
お酒の飲み過ぎです」
椿はこれでもかとまでに
顔を近付け、彼に詰め寄る。
椿の髪は生乾きで、
ふわりと
シャンプーの香りが漂った。
普段にはない女性らしさに
彼は戸惑いを覚え、
「あ、あぁ」と
曖昧な返事をした。
「それなのに水さんは
待っても出てきませんし、
部屋に戻ってみても
いらっしゃられないので
もしやと思い、露天風呂の方に
声掛けしてみたのです。
そうしたら、
本当に声が返ってきて
驚きましたけどね」
「少し考え事を
していたんですよ」
何のことはない
返答した彼だったが、
椿はまだ
不満を抱いているようだ。
「まあ、大事に至らなくて
良かったです。
取材先で
倒れられでもしたら、
迷惑極まりないですからね。
私も
助けに行けませんし……」
心配が曲折して、
嫌味になっているのだろう。
実際椿は今、
彼のために
湯冷ましを作っていた。
酒を飲んだ後や風呂上がりは
体内の水分が減っている。
脱水症にならないためにも
こまめな水分補給が大事だ。
彼は備え付けの菓子を
ボリボリ食しながら
頬杖をつき、
その湯冷めを待っていた。
別段何もしていなかった
雑音のみの部屋に
コンコンという音が響いた。
寝間の置き時計は
九時過ぎを指している。
こんな夜分に誰だろう。
彼は戸に向かって
「どちら様ですか」と声を掛ける。
すると、
「艶子でございます。
こんな夜分にとは
思ったのですが、
大事なお話があるため、
伺わせていただきました。
失礼しても
よろしいでしょうか」
と返答があった。
女将自ら部屋を
尋ねてくるとは
ただ事ではないと察し、
彼は戸を開けた。
「立ち話も何ですので、
とりあえず入ってください」
「ありがとうございます。
失礼させていただきます」
女将は深々とお辞儀した後、
部屋に足を踏み入れた。
何かを警戒するように
さっさと戸を閉めてしまう。
畳の上に正座し、
俯き加減で
深刻そうな顔付きをしている。
「どうかなされたんですか?」
椿が同室である故に、
夜這い目的ではあるまいに。
などとふしだらな
妄想に興じていると、
俯き加減であった
女将がゆっくりと顔を上げた。
「月下旅館の女将を
務めさせていただいている
私が、こんなことを
申し上げるのは
おかしいと思いますが……」
女将は話している途中で
口を噤んだ。
やけに勿体振った物言いだ。
いやむしろ、
言うのを
躊躇っているのかもしれない。
彼は女将の放つ只ならぬ
雰囲気に気圧され、
唾を飲んだ。
緊張が張り詰めたこの空間では
息をすることさえ憚られる。
その空気を壊すように、
女将は深く息を吸い込み、
「あの」と口を開いた。
「貴方お二人には
お話すべきだと思いましたので、
お話しします。
この村は危険です。
どうか明朝にでも
お帰りください」
女将の発言に
二人は顔を見合わせた。
しかし、
確固たる目的のある二人は
それが達成できるまで
帰ることはできない。
事実の真偽を確かめずに
とんぼ返りする
訳にはいかないのだ。
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