酒と嫉妬には吞まれるな(2)

「なっ――」


「違うと言うのか?」


「……いえ、違わないです。


 ただでさえ、

 私に冷たく当たるのに

 お母様や女将さんに

 現を抜かしているのが

 寂しかったんです」



 己の嫉妬を認めた椿は

 俯きながら、

 伏し目がちに

 彼を見つめ返した。



「素直に認めるならいいよ。

 君が素直でないと

 調子が狂う」



 そう呟いた彼の目は

 優しげで頬元も緩んでいた。


 冷たく接するのも

 あしらうのも特別故なのだ。



「意地悪の後に

 その顔は狡いですよ。

 怒れなくなります」


「そうか、俺としては

 ラッキーってことだな」



 廊下の足音が耳に触れ、

 二人は戯れを止めた。



 夕食の献立は鮎の塩焼き、

 ぬか漬け、筑前煮、味噌汁、

 葛切りと白飯だった。


 豪勢というほどではないが、

 日本の古き良き

 趣を感じられる。



「すみません、

 日本酒か何かありませんか?」


「はい、ございますよ」


「それじゃあ吟醸を

 冷酒で一合お願いします」


「かしこまりました。

 少々お待ちください」



 女将に訊きたいことがあった

 彼は、酒を飲みながら

 攻めていこうと思ったのだ。


 酒の力に任せて、

 という訳ではない。


 酒に酔った勢いで

 質問する風を装いたいのだ。



「水さんー」



 隣に座っている椿が

 じっとりした目で睨んでいる。


 またよからぬことでも

 企んでいるのでしょう、

 とでも言いたげな目だ。



「大丈夫。

 椿が心配しているような

 ことはしないから。

 そんなに気になるなら、

 ずっと見張っていれば良いよ」



 彼は余裕の笑みを浮かべる。



「そうします」



 椿も負けじといつもの

 態度を貫くつもりらしい。



「でも今は、

 先に夕食をいただこうか」


「そうですね」


「「いただきます」」



 和の趣が感じられる

 和食に舌鼓を打ち、

 女将が酒を持って

 やってくるのを待つ二人。


 それから十分と

 経たないうちに

 女将は戻ってきた。



「失礼します。

 冷酒をお持ち致しました」



 女将の手には、

 徳利とおちょこを乗せた

 盆があった。


 やはり夏には冷酒で

 爽やかに飲みたいものだ。


 女将は目の前で

 冷酒を徳利に注ぐ。



 とくとくと流れる音や

 その透明感はまるで

 水のようである。


 この光景を眺めるのも

 酒の楽しみの一つだろう。



「どうぞ」と差し出され、

 彼はおちょこに口を付ける。


 熱燗ほど酒臭くなく、

 すっきりした香りだ。



 一口目はくいっと呑み、

 喉には清涼感が広がった。



「あぁ美味い」



 おちょこの中を揺蕩う

 酒は澱み一つない。


 本当に水のようで

 一気に飲み干して

 しまいたくなるほどだ。


 

 しかし、

 彼はさほど酒に強くない。


 この一口だけでも

 ほろ酔い気分だ。


 彼はとろんとした目で

 女将を見つめる。



「あの、女将さん」


「何でございましょう?」


「俺あまり酒に強くないので、

 一合も呑みきれない

 と思うんです。

 よろしければ、

 付き合ってくれませんか?」



 女将は

 目をきょとんとさせた。


 沈黙の後、にっこりと

 上品な笑みを浮かべ、


「かしこまりました。

 では、私の分の

 おちょこも持って

 参りますので、

 少々お待ちください」


 と快諾したのだった。



 女将が立ち去った後、

 椿が彼を睨み付けたのは

 言うまでもない。


 ほどなくして戻ってきた

 女将は少し着物を

 着崩していて、

 鎖骨が顔を覗かせている。


 洋服に比べれば

 何てことはない露出だ。


 しかし、普段隠されている

 部分が垣間見えるという

 背徳感が上品な中にも

 艶を感じさせた。



「お待たせしました。


 さあ、晩酌に

 お付き合い致しますわ。


 私、こう見えても

 上戸なんですよ?」



 女将は不敵に笑って見せた。


 妖しい笑みがまた一層

 女将の色気を引き立てるのだ。



 それから二人は

 酒を酌み交わし、

 だんだん饒舌になっていった。


 肩が触れ合いそうな距離で

 親しげに

 語らい合う彼と女将。


 女将は、彼女に

 地元産のサイダーを提供した。


 甘いジュースをもらって

 椿はすぐ上機嫌になる。


 おちょこ二杯分も飲み、

 彼は気分が

 爽快になっていた。


 

 ようやく

 気になっていたことを

 切り出すことにしたのだ。



「女将さんって、

 とてもお綺麗ですよね。

 お名前を

 伺ってもよろしいですか?」



 酔いが回って、

 脈絡のない言葉だったが、

 女将は笑みを崩さずに

 受け答えてくれる。



「城崎艶子と申します」


 とそこで一つ確認を終え、

 彼は怒濤の

 質問を繰り広げる。



「おいくつなんですか?」


「女性の年齢を訊くのは、 

 ナンセンスですよ?

 もちろん秘密です」


「独身ですか?」


「秘密です」


「秘密ばかりですね。

 教えていただけたのは

 名前だけです」


「女は秘密が多いほど、

 魅力を感じさせるもの

 だと言いますから

 ――あら、冷酒も

 切れてしまったようですね。

 お食事が

 お済みになりましたら、

 そのまま

 お部屋にお戻りください。

 それではここで

 失礼させていただきます」



 綺麗に腰を曲げて

 お辞儀をすると、

 女将は菊の間を後にした。 



「水さん、結局は女将さんと

 お喋りしたかった

 だけじゃないのですか?」



 椿はまた不機嫌そうに

 頬を膨らませている。


 しかし彼は

 焦る様子も見せず、

「そんな訳ないだろ」と笑った。



 彼の第一目標は

 到達できたのだ。


 しかし、酔いが回った

 身体では旅館自慢の

 御神水の湯に浸かるのは

 少々危険だ。



 部屋に戻ると、

 布団が二組並べて

 敷かれていた。


 椿は途端に赤面する。


 彼は「はぁー」と

 溜息を吐いた。


 すると布団を引き離し、

 間に机を置き、

 仕切りを作った。


 これで文句ないだろうと

 言わんばかりに椿を見遣る。



 それから何事もなかったように

 備え付けの茶で一服した後、

 二人は浴場へと向かった。


 ここの湯は御神水を引いて、

 それを温めたものらしい。


 高価な御神水を

 贅沢に使った湯は

 地元の人にも

 愛されているらしく、

 風呂だけ入る人もいるという。


 しかも露天風呂なのだ。

 入らない理由が見つからない。



 二人は入り口の暖簾で別れ、

 各で楽しむことにした。


 水はさっさと服を脱ぎ捨て、

 浴室に向かうと客は

 二、三人程度だった。


 自分たちは

 食事を済ませたのが遅かったし

 そのせいだろうと

 彼は深く考えなかった。


 

 酔い覚ましがてら、

 彼はささっと全身を洗うと

 すぐさま露天風呂へと向かった。



 露天風呂には誰一人おらず、

 彼の貸し切り状態だ。

 

 そこからは

 緑豊かな風景が眺望でき、

 それは美しい眺めであった。


 自然の癒しを受け、

 彼は感嘆の音を漏らす。


 その後、

 彼はまた深い溜息を吐いた。



 取材でなければ、

 ここはきっと

 いい旅先なのだろう。


 火のないところに煙は立たない。


 ここ化野は

 秘密を孕んでいる。



 それもきっと、

 パンドラの箱のような

 程度のものを。


 ただ、それだけの秘密を

 解き明かすには

 それなりの覚悟と

 代償が必要になる。


 俺は何か大事なものを

 失うかもしれない。



 湯船に浸かりながら、

 そんなことを考えていた

 彼は逆上せかけていた。



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