ひとりぼっち(3)
「椿!」
力強い彼の叫びは
椿を振り返らせた。
「水さん……?」
不意を突かれて
きょとんとした顔をしている。
固まったままの椿目がけて、
彼は歩き出した。
椿の目の前に立ち、
彼女に言い放つ。
「君を放っておくと
碌な事にならない。
俺も付いていてやるから、
さっさと済ませるんだぞ」
椿の間抜けであった顔が
みるみるうちに
笑顔に変わっていく。
「はい!
ありがとうございます」
椿は安心しきった
満面の笑みを
こちらに向ける。
そのあどけなさは
彼の毒気や肩の力を
抜いてくれるものだ。
彼は椿を背中越しに
見守りながら、
俯く子どもに
近付いていった。
休憩場の前に立つと、
その子どもが
小学生くらいの
少年であることが分かった。
椿は少年の前に屈み込んだ。
「隣、いいかな?」
少年は顔も上げずに、
首を小さく縦に振った。
「ありがとう」
断りのような言葉を入れ、
椿は少年の隣に腰掛ける。
椿は少年が
顔を上げるのをじっと待つ。
彼はそれを見守りながら
もどかしくてたまらなかった。
夕餉の時刻は
刻一刻と迫りつつある。
それなのに、時の流れを
感じさせないような
この静寂が歯痒いのだ。
「……おねえちゃんは、
だぁれ?」
椿はすかさず
隣を見やっていた。
依然として少年は
俯いたままであったが、
耳は赤く肩が
小刻みに揺れていた。
緊張しているのに頑張って
声を絞り出したのだろう。
ようやく進みそうだと、
彼は安堵の息を漏らした。
「私は椿凛だよ。君は?」
椿の態度はまるで
初対面とは
思わせないものだ。
変に子ども扱い
したりしていない。
それが功を奏したのか、
少年は顔を上げて
椿の顔を一瞥した。
「ぼく、隼人」
「隼人くんって言うんだ、
良い名前だね」
「うん」
会話はぎこちないものの、
キャッチボールはできていた。
それに、
さきほどまで震えていた
肩の揺れも治まっている。
頬が和らぎ、
緊張も解れたようだ。
それを見計らったように、
椿はようやく本題を投じる。
「隼人くんは
どうしてこんなところに
一人でいたの?」
「お母さんがね、
ぼくのことを
じゃまものあつかいしたんだ」
少年もとい隼人は、
再び足下に視線を落とした。
椿は隼人の方に身体を向けて、
親身に話を聴いている。
「それは辛かったね……
お母さんは
隼人くんに何て言ったの?」
「あのね、
『この部屋には
勝手に入ってきちゃダメだって、
あれほど言ったでしょう!
さっさと出て行きなさい!』
って。
そのとき顔を
ぶたれちゃったんだ。
ほら、ここ……」
隼人は椿の方に身体を向けて、
自分の左頬を指差した。
薄明かりで分かりにくいが、
うっすら赤く
なっているように見える。
おそらく
腫れてしまったのだろう。
子どもに興味のない彼でさえ、
同情の念を抱いた。
椿はその赤く腫れた
頬を目にして、血相を変える。
その形相を目にした
隼人は固く目を瞑る。
何かされるのだと
思ったのだろう。
自分が隼人を
怖がらせていることに気付き、
椿は
「怖がらせてごめんね」
と声を掛けた。
その声は
怒りを帯びていなかった。
椿は怯える隼人に
手を伸ばし、
頬にそっと触れる。
「すごく痛かったよね」
しなやかな指先で
なぞるように頬を撫でる。
ようやく隼人は
椿が怒っていないのだと
気付き、目を開けた。
「うん。でもね、
もうここはいたくないんだ。
それよりもむねがくるしくて、
じんじんする。
そうしたら、
家に帰りたくなくなってたんだ」
隼人は目に涙を浮かべた。
今下を向けば
確実に涙を零してしまう。
下手な言葉を掛けても、
苦しみに
拍車をかけるだけだろう。
彼に手出しはできない。
「隼人くんはさ、
お母さんのこと好き?」
椿は敢えて
話題を転換したようだ。
突然の問い掛けに、
隼人は「ん?」と
首を傾ける。
急に何だろうと
思ったのだろう。
「うん……
こわいときもあるけど、
おかあさんだいすきだよ」
椿を見つめ返す
その目に偽りはなかった。
やはり、
子にとって母親とは
絶対的な存在なのだろう。
「そっか。
それなら、お家に帰ろう?
きっと
お母さんも心配してるよ」
途端に、
隼人の顔色が曇りだした。
「まだかえりたくない。
きっと、おかあさんは
ぼくのことがきらいなんだ。
だから今日だって
ぶたれたんだよ」
母親の暴力は
隼人の心を壊しかけていた。
純粋な白が濁った黒に
侵されていくようだ。
純朴な隼人に椿が
救いの手を差し伸べる。
頬を撫でていた手を移動させ、
隼人の頭に手を乗せた。
「そんなことないよ。
お母さんきっと、
隼人くんをぶっちゃって
後悔してると思う。
その後で隼人くんが
いなくなっちゃったら、
お母さんは
不安でいっぱいになるよ」
「でも……」
隼人は不安げな顔を見せる。
暴力を振るわれたせいで、
その記憶が
フラッシュバック
されてしまうのだろう。
頷くのを渋る隼人に
椿は彼の頭を撫でてやる。
「うん。ぶたれたのは痛くて、
すごく怖かったと思う。
でもね、お母さんを
許してあげてほしいの。
お母さんも
間違えちゃうことはあるよ。
その度に、
お母さんを許さないでいたら、
隼人くんの方が
苦しくなっちゃう。
大好きなお母さんを
嫌いになるのって、
すごく辛いことだと思うから」
隼人は真剣に
椿の話に耳を傾けていた。
子どもは
理論的な言葉では騙されない。
感情に訴えかける
素直な言葉でないと、
子どもは納得してくれないのだ。
それだけに
子どもをあやすのは
椿が適任であり、
水は不適任である。
「うん」
続きを催促するような目で
隼人は椿を見つめる。
椿の言葉は隼人の
道標となりつつあるのだろう。
「だからね、
隼人くんは隼人くんのために
お母さんを許してあげよう。
それで帰ったら、
心配かけて
ごめんなさいって言うの。
そうしたらきっとお母さんは、
隼人くんをぶったことも
ちゃんと謝ってくれるはずだよ」
隼人を宥める椿の顔付きは
普段よりも大人っぽく見えた。
子ども相手だから
年齢差で
そう見えるだけかもしれない。
「また、怒られないかな……?」
否定的だった隼人が
少しだけ前を向いている。
一歩踏み出そうと
している台詞だ。
椿の言葉は
隼人の心に響いている。
「そりゃあ、こんな時間まで
帰ってこなかったことに
ついては叱られると思うよ。
でも、叱るっていうのは
愛情があるからなんだよ。
きっと美味しいご飯作って、
待ってくれてるはずだから。
心配しないで、
お家に帰ろう?」
「うん。ぼく、家に帰るよ。
おかあさんとなかなおりして、
おかあさんのごはんを
いっしょに食べたい」
隼人は
真っ直ぐ前を向いていた。
背筋もピンと張っている。
もう心配はいらないだろう。
「おい椿、そろそろ戻るぞ。
夕餉の時間になる」
椿ははっとしたような
顔をして腰を上げた。
「それから、
隼人って言うんだっけか。
子どもは
甘えられるうちに甘えとけ。
ずっと辛いのを
我慢したまま育つと
身体に良くないからな。
じゃあな」
彼は椿の手を取り、
隼人に背を向けた。
「あ、隼人くんバイバイ」
「うん、
りんおねえちゃんバイバイ。
おじさんもバイバイ」
それはとても快活な声だった。
振り返って
隼人の姿を確認してみると、
彼は目一杯
手を振り続けている。
そのあどけなさは
確かに小学生のものだった。
歩き進めていくうちに、
後ろを振り返らなくなった。
隼人も自分の
家に帰ったことだろう。
きっと母親と
仲直りできるはずだ。
しかし、椿に励まされ、
元気になった隼人とは
裏腹に彼は傷心に浸っていた。
「うぅ……俺まだ、
おじさんとか
言われる歳じゃないのに」
もちろん、
夕餉の時間に
遅れたことは言うまでもない。
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