今はなき、母との思い出
「おかあさん!」
「どうしたの水?」
淑やかな雰囲気を纏う
彼の母親が彼の方に振り向く。
彼はとてとてと駆け寄り、
母親の胸元に飛び込んだ。
「うぅ……
おかあさんんぅ」
彼は母親に強くしがみつく。
温かい胸元に顔を埋めて、
悲しみを
癒そうとしているのだ。
「よしよし、お母さんが
お話聴いてあげるから、
もう泣かないの」
彼は母親の腕の中で
必死に首を振る。
理屈で感情を抑えられるほど、
子どもは
嘘吐きにはなれないのだ。
「うぁぁ」
困った彼の母親は
彼を引き寄せて、
優しい手付きで
頭を撫で始めた。
「水はせっかく
いいお顔をしているのに、
泣いたらもったいない。
それに、泣き虫は
格好良くなれないわよ?」
「そ、それはヤダ」
途端に彼の涙が止んだ。
母親は自分の子どもの
扱い方を知っている。
もちろんそれも
あるかも知れないが、
大事なのは
母親の温もりだろう。
母親の言葉は
子どもにとって
魔法のようなものなのだ。
「落ち着いた?」
彼は母親の胸から顔を離し、
そっと見上げる。
「うん」
さらに母親は彼を引き剥がし、
目の前に座らせた。
「それじゃあ、
何があったか聴かせてくれる?」
彼はこくりと頷き、
すぅっと息を吸い込んだ。
「うん。あのね、
きょうほいくせんで
なまえがへんだって
いじめられたの。
すいなんて、
てきとうにつけたなまえだから、
おまえはおやに
あいされてないんだ、って。
ぼく、
なにもいいかえせなかった
……ねぇおかあさん、
ぼくのなまえは
てきとうにつけたものなの?」
今泣き止んだはずの
彼の瞳は潤んでいる。
真っ直ぐに母親を
見据える目は弱くて鋭い。
「そんなことないわ。
あなたのお名前はね、
お母さんとお父さん二人で
決めた大事なものなのよ。
何も恥じることないわ」
彼の母親は自信満々だった。
しかし、それだけでは
彼の心は満たされない。
「水ってね、
この日本中にあるものなの。
あることは
当たり前みたいに
されているけど、
なくてはならないの。
人にとって
一番必要なのは水で、
水なしには生きられない」
母親は彼の瞳の奥に
語り掛けるように
じっと見据える。
しかし、その物言いでは
幼い彼には
理解が追いつかなかった。
「どういうこと?」
彼は目を丸くして
首を傾げてしまっていた。
幼児に「必要」だなんて
単語を用いては
首を傾げるのも当然だ。
「水のように、
誰をも受け入れられる
存在になりなさい。
水のように、
誰からも
認められる人でいなさい。
全ての人に愛される
必要はないわ。
水のように誰からも認められ、
拒まれないくらいでいい。
水とは
そういうものだから――」
「うん、わかった!
ぼく、みずみたいになるよ」
言葉というよりも
そのニュアンスで
理解したのだろう。
彼は名前に
込められた意味があると知って、
素直に嬉しかったのだ。
「元気になってくれたようで
良かったわ」
ふふ、と母親は
穏やかに笑みを浮かべた。
しかしまた、
彼は首を傾げる。
「あれ?
それなら、
どうしてみずじゃないの?」
「それはね、
あなたがどんな水にでも
なれるようにって意味なのよ。
みずだと、
真水にしかなれないから、
すいなの。
あなたの思う水になってほしい。
いつか、
大事な人を見つけられたら、
たった一人の水になって」
母親は彼の手を握る。
「うーん、よくわからないよ」
彼は眉を寄せて
難しそうな顔をした。
母親が言うのは
倫理的、道徳的なものだ。
そして、
彼の根幹を形成しようとする
言霊でもある。
「今はまだ
分からなくてもいいの。
いつか、大事な人が
見つかったときに沢山悩んで、
決めたらいいわ。
だから今は難しく考えないで、
自分の名前に誇りを持ちなさい。
あなたの名前は
あなたのためだけに
付けられたもので、
あなたとあなたの周囲を
支えてくれるものよ。
今度名前をからかわれたら、
水のお話をしてあげなさい。
そうしたらきっと、
からかわれなくなるわ」
「うん!
おかあさんのはなしで、
ぼく、このなまえが
すきになったよ」
「そっか、良かったわ。
私も好きよ」
母親は彼を引き寄せて、
優しく抱き留めた。
その愛を伝えるように。
それから母親は口癖のように、
「水のようになりなさい」と
言うようになった。
その特徴的な台詞が
彼の心の中に
擦り込まれていくのも
必然だった。
ところがある日、
母親は突然行方を眩ました。
彼が小学校に
入学した頃のことだ。
小学校から帰宅した彼は
家に母親がいないのを
不思議思った。
それから父親が帰ってくる
十時まで何も口にせず
待っていた。
父親が彼に
夕食を摂らせたものの、
彼は寝ずに母親を待ち続けた。
けれど彼の願いも虚しく、
母親は朝日を迎えても
帰ってこなかった。
二日経てど、
一週経てども、
ついには一ヶ月も超えても
彼女は帰らなかったのだ。
幼いながらも
自分は捨てられたのだと
悟っていた。
彼はそうして、
十分な愛情を
感じられずに育った。
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