君子、美人(危うき)には近寄らず(2)
「――水さん、水さん!」
「な、何だよ」
惚けていた彼は
すっかり気が抜けていて、
椿の呼びかけにも
気付かなかった。
その様子に椿はますます
呆れと怒りを増幅させる。
「女将さん美人だからって、
見つめすぎですよ。
鼻の下も
伸ばしておられましたよ、
はしたないです」
ぷんすかと
怒りを露わにする椿だったが、
一応彼にも訳があった。
日頃の行いが悪いせいで、
疑われるのは仕方ないが。
「椿。
違わないと言えば
嘘になるけれど、
これにはきちんとした
訳があるんだよ。
椿が思っているほど、
浅はかな理由じゃないから」
椿をあしらおうとする
日頃とは違い、
神妙な声をしていた。
「……どうせ、
男は何々という生き物だから
仕方ないと仰るのでしょう?
そんな言い訳は
聴きたくありません」
しかし、日頃の行いが悪いせいで
椿はすっかりへそを
曲げてしまったようだ。
これには彼も弱り、
切り札を使う。
「母親に、
関係することなんだ……」
それは苦々しく
重たい響きを持っていた。
只事ではない雰囲気を察したのか、
椿は身体を
こちらに向け直してくれた。
「母親って、水さんが小学生の頃に
失踪したという
水さんのお母様ですか?」
「あぁ」
それ以上の言葉は
絞り出せなかった。
しかし、
椿の顔付きが変わった。
「分かりました。
そういうことならお聴きします。
いえ、是非お聴かせください」
椿は彼の正面に座り込み、
彼の顔をじっと見つめる。
その様子を見て、
彼はそっと胸を撫で下ろした。
「ありがとう、椿」
「いいえ、こういう大事なことは
話せるうちに
話しておくべきですから。
それで水さん、
何がおありなのですか?」
自分より十も
年下の娘に諭される彼。
いくらあしらっても
完全に振り払えないのは
椿のこういう気質のせいだろう。
「椿、君は俺が女将に
見蕩れていたと言っただろう?」
「ええ、
実際そうでしたから」
表情筋を全く動かさず、
口先だけで述べていた。
表情豊かな椿とは思えない。
「それは、女将が
母親に似ていたからなんだ。
子どもの頃のことだから、
はっきりとは
思い出せないが……」
もう一度その容貌を
思い出すように
彼は遠くを眺める。
ほぅっと吐き出す溜息は
恋煩いを思わせた。
「どこが似ていたのですか?」
椿の問い掛けは
胸にわだかまる不安を
取り除くように優しかった。
「どことなく、
雰囲気が似ていたんだ。
二十二年も経つせいか、
どんな顔立ちをしていたのかは
判然としない。
ただ、淑やかで
上品な感じが似ているんだよ」
彼は頭の隅に追いやっていた
記憶の糸を手繰り寄せた。
断片的な記憶が合わさり、
出来事は思い出せるのに、
顔だけが思い出せなかった。
苦渋の色を浮かべる彼を見て、
椿もまた顔を歪める。
「……貴方がいつもいつも
口にしていたのは
お母様のことでしたのね」
伏し目がちな
椿の憂いた表情は
幽玄の美しさがあった。
決して触れられないような、
触れたら毀れてしまいそうに
脆い。
「椿……」
声を掛けると、
その花は萎びた姿など
なかったかのように
凛とした姿を見せた。
「何でもありません。
いつもの仕返しですよ、
吃驚しましたか?」
お茶目に舌をぺろっと出す椿。
そこにはいつもと変わらぬ
天真爛漫な乙女な姿が
あるように見える。
しかし彼は気付いた。
彼女の目元だけは
寂しそうなことに。
このままこの話を続けても
良いものだろうか。
それは彼女の顔を歪めることに
繋がらないだろうか。
彼は迷った。
それでも話したいと思った。
「酷いなぁ椿は。
それじゃあ、その詫びに
俺の昔話を聴いてくれるか?」
日頃、椿に対して
散々天邪鬼な態度を取っている
彼にはこれが
精一杯の甘えだった。
椿のように素直にはなれない。
「そうですね。
私は水さんのように
意地悪ではないので、
お詫びに退屈な水さんの
昔話を聴いてあげます」
椿は悪戯っぽく笑ってみせた。
「ありがとう、椿。
それじゃあ、
退屈で寂しい昔話を
語らせてもらうとするよ」
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