きみのひとみは恋してた〜言葉遊びから告白へ〜

セカイ

きみのひとみは恋してた〜言葉遊びから告白へ〜

「ひとみ先輩、そろそろ練習しましょうよ」

「えー、もうちょっと休憩してようよ〜」


 吹奏楽部、夏のコンクールに向けた練習中のこと。

 がらんとした教室で机を隅に寄せ、二つの椅子と譜面台を並べて隣り合って座る俺たち。

 やる気ゼロな一個上の女子、ひとみ先輩は右隣でぐでんと項垂れた。


 今は夏真っ盛り。夏休みに入ってしばらく一般生徒が使わない教室で、俺たちはパート練習をしている。

 三年生の先輩にとっては、高校最後のコンクールに向けて今は猛練習しなきゃいけない時期だっていうのに。

 ひとみ先輩はさっきから、一向に練習する姿勢を見せない。


「さっきの合奏練習で先生に注意されたところ、まだ上手く合わせられてないじゃないですか。サボってたらバレますよ」

「大丈夫大丈夫。君野くん上手だから、ちょちょっとやっとけば、後は良い感じに合わせてくれるでしょ?」


 譜面をツンツンしながら指摘しても、ひとみ先輩は呑気に笑うだけ。

 ついには、辛うじて膝に乗せていたユーフォニアムを床に置いてしまった。

 練習をする気があまりにもなさすぎる。


 ちなみにユーフォニアムとは、中低音を担当する金管楽器だ。

 柔らかで暖かな音色が特徴の楽器で、マーチなどではよくうっとりするような旋律を担う。

 全く違うのだけれど、チューバのミニチュア版だと思って貰えばまぁ大体イメージしてもらえるはずだ。


「そんな適当なこと言って……できなかったら、怒られるのはパートリーダーのひとみ先輩ですよ」

「へーきへーき。私は可愛い後輩を信頼しているからね」


 そう言って、ひとみ先輩は椅子の上で膝を抱えてニカッと笑った。

 そう屈託のない笑顔を向けられると、なんとも反論する気が削がれてしまう。

 なんでって、可愛いからだ。


 そこらのアイドルなんかよりも愛くるしい、均整の取れた綺麗な顔は、どのパーツも完璧なバランスだ。

 特に目がぱっちりクリッとしていて、綺麗な瞳がカラコンを入れてるみたいに常にキラキラしてる。

 いつも髪をお団子にしているから、すらっとした白い首が色っぽいし、華奢な体格に少し大きめなジャージを着ているところも女の子らしさを際立たせている。

 端的に美少女なんだ。部内では間違いなく一番可愛いし、きっと校内でだってトップレベルだと思う。


 そんな先輩と、もう一年半も二人きりのパート生活を送っているわけで。

 必然的に二人だけの時間は長くなるし、この人はこうやって練習をしないでお喋りばかりしてくるし。

 そんな環境下で好きになるなという方が無理な話だ。


 好きな女子と二人きりで、可愛い顔で可愛く笑いかけられてしまったら、何かを言い返すなんてことができるわけがないんだ。


「もうちょっとお喋りしよ? あとちょっと休んだら、ちゃんと練習するからさ」

「……じゃあ、あと少しだけですよ」


 溜息をついてやれやれ仕方ない、という風を装って俺もユーフォニアムを置く。

 俺は今まで、ひとみ先輩と何度かこういうやりとりをしてきたけれど、一度も彼女の意見を払ったことがない。

 先輩の言いつけだから、というのはもちろん建前で。まぁ結局俺も、ひとみ先輩と楽しくお喋りしたいんだ。


「もう少しでコンクール。それが終わったら引退かぁ」

「そうですよ。だから本当はサボってる場合じゃないんです」

「君野くんは意地悪だなぁ。ちゃんと後でするってば〜」


 思わず再び指摘をしてしまった俺に、ひとみ先輩は口を尖らせて抗議の眼差しを向けてきた。

 不満そうにしながらも、その声色はユーフォニアムのように柔らかで心地いい。


「今私は、さみしいなぁって感慨に耽ってるの。水を差さないでよね」

「それは失礼しました」

「君とこうやってゆっくりお喋りできるのも後ちょっとだと思うと、なーんかねー」

「え?」


 膝を抱えた腕に頭を預けて、ひとみ先輩は薄めた目をこちらに向けて言う。

 それはもしかして、俺といられなくなるのがさみしいって意味ですか?なんて妄想が頭の中を駆け抜けた。

 キョトンとする俺を見て、先輩はカラッと笑った。


「そうだ君野くん。私はずっと君に聞きたいことがあったんだよ。この機会に聞いてもいい? こんな時間も後少しだしさ」

「……? はい、なんでしょう」


 今度はどこか悪戯っぽく笑うひとみ先輩。

 今更何か質問されるようなことがあっただろうかと首を傾げると、先輩は俺のことをまじまじと見つめてきた。

 なんだ、可愛いな。


「いや、大したことじゃないんだよ。別に何ってわけでもないし、気にしているわけでもないし、まぁむしろ嬉しくもあるんだけど。でもずっとどうしてだろうとは思っててね。でもなんか聞くに聞けなくて、今日になっちゃったわけですよ」

「なんですか、歯切れ悪いですね。先輩らしくない。というか、お喋りなひとみ先輩に言いにくいことなんてあるんですか?」

「そう、それだよ!」


 なんだかごにょごにょと口籠る姿にツッコむと、ひとみ先輩はその細い指をビシッとこちらに向けてきた。

 クリッとした目がキリリと締まって、柔らかくも鋭く俺を貫く。

 決して威圧感はないのだけれど、むしろ愛らしいのだけれど、でも場を制する勢いがあった。


「君野くんってさ、いっちばん最初から、私のこと名前で呼ぶよね」


 そしてひとみ先輩はそのポーズのまま、なんだかよくわからないことを言った。


「別に私はいいんだけどね? でも初対面の時から、まだあんまり仲良くないうちから、君は私のことを『ひとみ先輩』って、そう呼ぶじゃない? 他の子のことはそうでもないのに、なんでかなぁって……」


 最後は少し尻すぼみになって、やがてひとみ先輩は突き出していた手を下ろした。

 同時に顔を更に膝元に埋めて、物陰から覗き込むようなチラチラとした視線を向けてくる。


 それを一身に受けている俺は、一瞬何を言われているのかわからなかった。

 いつもきゃっきゃと朗らかにくっちゃべってくるひとみ先輩が、今はなんだか奥ゆかしい。

 その視覚的暴力とギャップに戸惑いながらも必死に頭を回転させて、ようやく言わんとしていることを理解した。


 これは正さなければならない。とんでもない思い違いをされている。

 いや、既に許容されているから良いのかもしれなけれど、しかし事実を伝える必要がある。

 だってきっと、色々と物凄く誤解されているだろうから。


 確かに俺はひとみ先輩が好きだけれど、それをアピールしたことはないんだから。するつもりだってなかったんだから。


「ち、違うんですよひとみ先輩。俺、別にそういうつもりじゃ……」

「違わないでしょー! 今だって『ひとみ先輩』って言った! どうして、私だけ名前呼びなの?」

「いや、だからそういうつもりじゃなくて……」


 怒っているわけではないんだろうけれど、少しムキになって頬を膨れさせるひとみ先輩。

 勢いに任せて顔を上げ、言い訳はさせないぞと言わんばかりに食らい付いてくる。

 俺はなんて言うべきか一瞬悩んでから、はっきりとただ事実を口にすることにした。


「俺、先輩のことも他の女子と同じように、下の名前じゃなくて苗字で呼んでるつもりですよ。でもその、先輩の名前が……」

「…………あ」


 言っていて気まずくなってきて、俺も言葉が尻すぼみになってしまう。

 けれどひとみ先輩に事実を理解してもらうには十分なようだった。

 ポカンと、小さなお口が脱力して開く。


「だって先輩のフルネーム、『人見ひとみ 仁美ひとみ』さんじゃないですか」

「左様でございましたね……」


 妙な言葉遣いになった人見ひとみ先輩は、そのまま顔を膝に抱きこんでしまった。

 けれど耳まで真っ赤なのは、残念ながら丸わかりだった。




 ★




「この際だから言いますけど、先輩の名前ってかなり遊び心に溢れてますよね」


 はやとちりの勘違いに悶えていた人見先輩が落ち着いた頃合いを見計らって、俺はずっと思っていたことを口にした。

 人の名前を面白半分で指摘するのは良くないと思ってずっと控えていたけれど、でも気になってしまうお名前だ。


 ようやく顔を持ち上げて、未だ熱が残る顔を手でパタパタと仰いでいる人見先輩は、俺の言葉に唇をすぼめた。


「もう、人の名前を面白がらないでよ」

「すみません。でも先輩が自爆した今くらいしか言う時なかったんで」

「ずっと言わなくていいの!」


 そう言いつつも、先輩自身も自分の名前には思うところがあるようで、そこまで嫌な素振りは見せない。

 まぁ誰が見たって、人見ひとみ家に生まれた娘に仁美ひとみと名づけるのは、意図があると思うだろう。

 でもあんまり言うのは可哀想かなと思っていると、先輩の方から話題を続けてきた。

 何故かちょっとドヤ顔で。


「でもね、これはわざとじゃないんだよ。完全に完璧に偶然の産物なんだよ」

「えーそんなバカな」

「ホントホント。だってうちの両親、再婚したからね。新しいお父さんの苗字が、人見だったの」

「え……」


 ぽろっと明かされた事実に、俺はなんて返して良いのかわからなかった。

 親の離婚とか再婚とか、俺には経験がないけれど、結構繊細な話題だということはわかる。

 俺は知らず知らずのうちに、人見先輩の嫌な部分に触れてしまっていたんだ。


 一気に罪悪感に見舞われた俺に、人見先輩は慌てて手を振った。

 どうやら俺は、かなり『マズイ』という顔をしてしまっていたようだ。


「気にしないで気にしないで! 別に重い話とかじゃないから。もう前のことだし」

「本当ですか? 俺失礼なこと言ったんじゃ……」

「全然そんなことないから。私は単に、生まれた時は違う名前だったんだよってことを言いたかっただけだし。君野くんは優しいなぁ。大丈夫だって」


 人見先輩はそう言って、ニコニコ朗らかに笑って俺の肩をぽんぽんと叩いた。

 さっきまで自分の失態に悶絶していた人とは思えない、明るく柔らかな笑顔だ。

 あんまり気にしていると逆に気を使わせてしまうし、俺はすみませんと一度謝って普通の会話に戻った。


「────つまり、先輩の名付けは人見姓由来じゃないと。じゃあちなみに、前の苗字は何なんですか?」

「結構普通だよ。水戸みと。私、産まれた時は水戸みと 仁美ひとみだったの」

水戸みと……」


 ふふんと鼻高らかに言う人見先輩。

 これで名前で面白がれないだろうと、そう言いたげな可愛らしいドヤ顔だ。

 でも、俺は気づいてしまった。


 水戸 仁美。みとひとみ。


「上から読んでも、下から読んでも?」

「みとひとみ……うそだぁ!?」


 回文である。


 結局人見先輩の親御さんは、お母さんかお父さんかは知らないけれど、子供の名付けに多少の遊びを持っていたんだろう。

 いやまぁ、完全な偶然、たまたまという可能性だって十二分にあるけれど。


 人見先輩は指を一本ずつ折りながら自分の名前を何度も確認して、うはーと変な声を上げた。

 どうやら全く気づいていなかったらしい。


 細い眉を八の字に寄せて、唇をモニュモニュとさせて俺をジトッと見つめてくる人見先輩。

 どことなく責めるような視線だけれど、俺のせいじゃないのに。


「待って! リベンジさせて! このままじゃいられないよ」

「いや、別に勝負とかじゃないんですけどね」

「だってこのまま、私の名前がおもしろネームだと思われたら嫌だもん!」


 俺は何も言っていないのに、人見先輩は急に張り合いを見せてきた。

 勢いよく立ち上がって仁王立ちすると、腰に手をあててムッと俺を見下ろしてくる。


 そもそもが可愛い系女子の人見先輩がそんなポーズをとっても、ただ可愛いだけでやっぱり威圧感はない。

 でもそんなことを言ったらまたむくれてしまいそうだから、俺は黙ってその姿を堪能することにした。

 それを竦んだと解釈したのか、人見先輩はふふんと鼻を鳴らした。


「私には、もう一つ名前があったんだよ。さすがの君でも、これはどうしたって面白くはならないよ」


 そう言いながら、心の中で何度も復唱して確認しているのか、少し視線を上に向ける先輩。


「親が離婚してから、しばらくはお母さんと二人だったからね。だから私には、実のお父さんの苗字と、今のお父さんの苗字、それからお母さんの旧姓の頃の苗字があるんだよ」

「なるほど。それで、そのお名前は?」

尻田しりだ! 珍しい名前ではあるけど、でも面白くはできないでしょ」


 そう言って得意げに胸を張る人見先輩。

 面白くないことに自信を持つというのも何か変だけれど、確かに今までに比べると特に何かになりそうもない。

 お母さんの旧姓との組み合わせだけは、意図的にどうこうできるものでもないしな。


 でも、何故かドヤ顔な人見先輩を、もう一回恥ずかしがらせたい。もじもじさせたい。

 別に勝負ではないはずだけれど、このままこれでおしまいでは、確かに負けた気分になる。

 俺は必死で、『尻田しりだ 仁美ひとみ』を脳内で連呼した。


「ほれほれ、負けを認めて良いんだよ君野くん。私の名前をおもしろネームと笑ったのを謝るのだ」

「いや笑ってはないですし、そう言ったのは自分でしょう……」


 人見先輩はニシシと笑って、挑発的に俺の顔を覗き込んでくる。

 俺を揶揄うのに必死で結構顔が近くなっていて、こっちはそれにもドギマギだ。

 でもこのドヤ顔先輩に反撃したくて、必死で視界から意識を背ける。


 そして、思いついた。


「……人見先輩。その時のお名前で、俺に英語で自己紹介してもらってもいいですか?」

「え? どうして?」

「まぁ、いいからいいから」


 唐突なお願いに首を傾げる人見先輩。

 俺の意図には気づいていないようで、キョトンとしている。

 その無邪気な様子にニヤニヤしてしまいそうになりながら、俺は何でもない風を装って促した。


「まぁいいけど……マイネームイズ、ヒトミ・シリダ────」


 たどたどしい発音で人見先輩はそう言って、そして急激に顔を真っ赤にした。

 自分で声に出して、ようやく俺の言わんとしていることに気づいたらしい。


「人の名前で遊ぶなぁーーーー!」


 ヒトミ・シリダ。人見知りだ。




 ★




「もう、君野くんがそんな失礼なやつだったなんて、私は知らなかったよ」


 俺のことをひとしきりポカポカと叩いた後、人見先輩は膨れっ面でそう言った。

 自分の席にちょこんと座って、こちらに背を向けてしまう。


「すいませんでしたって。でもそもそもは、先輩のおっちょこちょいから始まった話ですよ?」

「それはもう言わないで!」


 わぁー!と声をあげて耳を塞いでしまう人見先輩。

 会話のスタートの時点で、先輩の失敗は始まっているのだから、そう簡単に形勢は変えられない。


 そもそも苗字が何度か変わったとはいえ、そんな勘違いをするのかって話だ。

 それなりに時間は経っているみたいだし、流石に慣れているだろう。

 まぁうちの吹奏楽部の女子同士は、みんな下の名前で呼び合うのがデフォルトだから、というのもあるかもしれないけれど。

 でも、それにしたってなぁ。


 もしかして、何か特別な意識があったからこそ、そんな突飛な勘違いをしていたのでは?

 なんて、ありもしない期待のような妄想が浮かんで、すぐに自分で否定する。

 人見先輩は俺ととっても仲良くしてくれるけれど、浮ついた空気になったことなんて一度もないんだから。

 でも俺は、こうして二人で楽しくお喋りができるだけでとっても満足なんだ。


「ちぇ。じゃあ何もかも、私の勘違いなのかぁ」


 ささやかな妄想に耽っていると、人見先輩はそうポツリとこぼした。

 小さな背中を丸めた姿には、どこか哀愁が感じられる。とてもしょんぼりしたご様子だ。


「私はてっきり、君野くんは私のこと────」


 そう続けて、人見先輩はびくんと一人で飛び上がった。

 そして慌てて俺の方に振り返ると、あからさまに動揺した様子で口をパクパクとさせる。


 そんな小動物のような可愛らしい右往左往を、俺はちゃんと堪能することができなかった。

 だって、今この人、なんて言った?


「れ、練習しよう! そう、そうだよ、練習しなきゃ! もうかなり休憩したもんね、うん!」


 そう言って人見先輩は、誤魔化しようのないくらいに大慌てで座り直し、がばりとユーフォニアムを持ち上げた。

 自分の口走った言葉を無かったことにしようとして、でもその動揺が何よりその言葉を強調させてしまう。

 彼女が慌てれば慌てるほど、あれが聞き間違いではないという証明になってしまう。


 つまりそれは、そういうことなのか?

 人見先輩は、俺が先輩に特別な気持ちがあるから下の名前で呼んできているんだと、そう思っていて。

 そして先輩はさっき、俺にそう呼ばれることを嬉しいと言っていて。

 人見先輩の引退が迫った今、俺といられなくなるのが寂しいなんてこと言った後、その事実確認をしてきて。


 ということは人見先輩は、もしかして……。


「あ、あの……人見先輩」


 妄想だと思っていたものに現実味が訪れて、身体中が妙な興奮にざわめく。

 これは俺の都合のいい解釈なのか? それこそ勘違いなのか?

 何が正しいことなのかわからなくて、頭が熱く意識はポワポワする。


 俺が声をかけても人見先輩は返事をせず、ユーフォニアムを構えてしまった。

 楽器を抱くようにして演奏するユーフォニアムは、小柄な人見先輩が構えればその姿をすっぽりと隠してしまう。

 特に音が出るベルの部分をこちらに向けてくるから、阻まれて顔が全く窺えない。


 もうこの話はおしまいと、人見先輩は楽器を鳴らし始めてしまう。

 けれど俺としてはそんなことできるはずがない。

 今確かめなければ一生後悔すると、本能が告げている。

 今言わずして、果たして俺はいつ男を見せるのか、と。


 だって、普段は天使の羽のように柔らかな音色の人見先輩のユーフォニアムが、今はへろっへろなのだから。

 動揺と焦りが、完全に音に出てしまっているのだから。


「勘違いなんかじゃ、ありませんよ……」

「────!」


 勇気を振り絞って言葉を続けると、人見先輩のユーフォニアムがブフォッと奇怪な音を吐き出した。

 ちょっと下品とも言える音に先輩は恥ずかしそうに肩をすくめて、おずおずとマウスピースから口を離す。

 けれど楽器は離さず、むしろより抱きしめて俺から隠れようとする。


「確かに呼び方のこととか、それは先輩の勘違いですけど。でも、なんていうか、俺が先輩のことどう思ってるのかってことは、勘違いじゃないって、思います……」


 言っていてだんだん不安になってきて、最後はまた言葉が萎んでしまう。

 こう言ってみたはいいものの、人見先輩は何もはっきりとは言っていない。

 俺のはやとちりで、とんでもないことを言っているんじゃないかって、そんな不安に駆られてしまった。


 もしこれがそうならば、残り少ない人見先輩との日々は瓦解する。

 後少しだったっていうのに、最後は気まずいままに終わってしまう。


 それは嫌だと、気持ちが引き腰になった。

 続ける言葉を出せないでいると、代わりに人見先輩が口を開いた。


「……わかんないよ。何が、どれが、勘違いじゃないの?」


 細く、震えた声。

 先輩も今、緊張している。


「ほら私、全然気づかない子だから、さ。君野くんが教えくてれないと、はっきり言ってくれないと、わかんない」


 ユーフォニアムを抱きしめながら、人見先輩の指はもじもじと交差している。

 静かな教室に響く細かい息遣い。小さく震えるその肩。丸める華奢な背中。

 その全てを掻き消してしまいそうな、俺のうるさい鼓動。


 わけがわからなくなりながらも、でも、言わなきゃいけない言葉だけはもうわかっていた。


「お、俺が……先輩のこと、好きってことが、です。多分、最初から」


 高校で初めて吹奏楽を始めた。

 周りは経験者ばかりで、しかも女子ばかりで、アウェイ感は極限だったけど。

 なんでやってみようかと思ったかといえば、どうしてユーフォニアムにしようと思ったかといえば。

 きっと体験入部の時、人見先輩に手ほどきを受けたからなんだ。


「………………」


 しばらく、人見先輩は何も言わなかった。

 やっぱり違ったのか、俺は間違ったのかと、まるで生きた心地がしない。

 今すぐこの場から逃げ出してしまいたかった。


 いっそ殺してくれと思い始めた時、人見先輩はゆっくりと口を開いた。


「えっと、あのね。これはあくまで……あくまで、もしもの話なんだけど……」


 そう言う先輩は、抱えていたユーフォニアムを膝の上に横倒しにした。

 けれど、俯いているからその表情を窺うことはできない。


「もし、万が一、何かの拍子で…………私たちが結婚したとしたら────」


 俯く人見先輩の表情はやっぱり見えない。

 けれど、その下で銀色に光り輝くユーフォニアムには、真っ赤に茹だった彼女の顔が映っている。


「私は、『きみのひとみ』になっちゃうんだよね」




【了】

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